ずいずいずっころばし
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2005年04月07日(木) |
「レクトウ−ルとリズール」 |
文を書くと言うのは思考、思想、心情などがあらわれてしまうものだ。現れなければ書く意味がないとも言える。こうして備忘録としての日記をしたためるているのはいいけれど、あくまでも自己満足。自己満足の垂れ流しともいえる。 自己満足だけならよいけれど、脳みそのたりなさや、ものの見方の浅薄さが公にさらされて、いまさらながら赤面ものだ。 自己を深く見つめればみつめるほどこんな類のものは書けないはず、。 それなのにこのブログは大流行。 そのお先棒をかついで今日も書く。 誰かに言われそうだ。こんなものを書く時間があるなら本を読め!って。 チボーデは小説の読者を二種類に分けている。一つはレクトウ−ル{普通読者」、他方はリズール「精読者」。前者は「小説と言えばなんでも手当たり次第に読んで「趣味」という言葉のなかに包括される、内的、外的のいかなる要素によっても導かれていない人。」後者は「その人のために小説世界が実在するその人」とあり、「文学というものが仮の娯楽でなく本質的な目的として実在する世界の住人」であると定義している。 三島由紀夫が言うにはそのりズールは「小説の生活者」と言われるべきものであって、本当に小説の世界を実在するものとして生きていくほど小説を深く味わう読者のことであると。 私なんぞは三島が蔑するところのレクトウ−ルであろう。 少しは腰をすえて読書三昧といきたいところである。 レクトウ−ルと言われようがなんだろうがかまうものか。 最近斜に構えた考え方の文物を読むと不快になる。 たまにはまっすぐみろよと言ってみたくなる。
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