ずいずいずっころばし
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2005年05月16日(月) |
「センセイの鞄」とジョージ・ギッシング |
小学、中学、高校、大学と使用したそれぞれの教科書を後生大事に本だなに納めている人は一体どれぐらいいるだろうか?
私はといえば、小学校の教科書以外は全て保持している。
時折、それらの教科書を取り出して読むと、中に書き込んだ落書きに往時のクラスメイトや退屈で十年一日の如き授業をしていた女教師の顔などが浮かんでくる。
思い出す教師達の中でも、高校の英語の教師は異端であった。
服装には頓着せず、着たきり雀。
びん底眼鏡をかけ、発音が悪く、風采があがらない中年のおっさんそのもであった。(先生は東京外語大出身。)
隣のクラスの英語教師は学校で一番人気のあった独身、ハンサム、ソフィア出身。
風采のあがらない英語教師にあたったのは身の不運とばかりに我がクラスメイト達は大いに嘆いたのである。
しかし、最近になってなぜか私はこの風采のあがらない中年のおじさん先生のことが思い出されてしかたがない。
まるで番外、川上弘美の「センセイの鞄」の如し。
なぜこの風采のあがらない不人気であった教師を思い出すのかよくよく考えてみると、それはあのジョージ・ギッシングにあった。
授業はほんとんど聞いていなかった私であったが、この教師、ジョージ・ギッシングの話しをしだすと止まらない。
しかもギッシングの話しになると俄然豹変!
ビン底眼鏡の奥にある眼がキラキラ輝いて、ギッシングの洗練された文章がよどみなく流れ、
ギッシングが乗り移ったかのようであった。
そして私達女生徒はいつのまにかこの教師に、いや、ギッシングに、いやそのどちらでもなく、一人の人間が光彩を放って輝き出す瞬間の魅力に惹き込まれて行ったのである。
さて、大都会から辺境なこの田舎に移り住んだ今、ひなびた田園の風景が寂しい私の心を慰めてくれるにつけ、思い出すのがジョージ・ギッシングとあの英語教師。
日記風に田園を叙し、世態を批判しつつも、洗練されたジョージ・ギッシングの「ヘンリー・ライクロフトの私記」の文が五感をふるわせる。
如月に入ったばかりの今日。
春を待ち焦がれる境地しきり。
「ヘンリー・ライクロフトの私記」の中の「Spring]の一節を読みなおしてみる;
Above all on days such as this when the blue eyes of Spring laughed from between rosy clouds when the sunlight shimmered upon my table and made me long long all but to madness for the scent of the flowering earth for the green of hillside larches for the singing of the skylark above the downs.
さながらイギリス版「徒然草」の趣がある。
春夏秋冬と続く随想のテキストを楽しみながら再読したいと思う。
川上弘美の「先生の鞄」ならずも、あの英語教師が提げていた「先生の鞄」にはきっとジョージ・ギッシングの愛読書が入っていたのだろう。
そうそう、そう言えば、あの英語教師の妻は20も年の離れた美しい人だった。
かくも美しい若妻を娶った先生にはきっと私など知りようのない隠れた魅力があったに違いない。
先生はHenry Ryecroft?
はたまたジョージ・ギッシングの生まれ変わりだったのかも・・・・。
さても謎めく先生なり。
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