ずいずいずっころばし
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2005年05月22日(日) “昔を今になすよしもがな”

「ふたりしずか」の花の風情が時々まぶたに浮かぶ。

そして、能「二人静」の謡いを思い出す。

「しづやしづ 賎(しづ)の苧環(おだまき)くりかへし 昔を今になすよしもがな・・・」

と静御前が別れて暮らす義経を恋 慕いながらも敵の目の前で舞いを舞いながら歌う。

“昔を今になすよしもがな”

あの日に帰れるすべがあるのなら・・・

私は何をするだろうか・・・

野の花に心を寄せ、露がたまを結んだ草のしとねに横たわりながら、心静かに月の光を浴びる時、過ぎ越し方と、恋しい人を想う。

誰かがこんな事を言った。

「月や星、花がやたらにきれいに見える時って、何かすごく悲しいことがあるときだって」

そうかもしれないと思った。

人は恋をするとき、あるいは悲しみにくれるとき、月を仰ぎ、花にものを想う。

それは恋しさゆえだったり、悲しみだったりが、人に月を仰がせ、花に心を寄せ、自らを投影させるのだろう。

ひなびた当地に来てからどれだけ月を仰いだことか

名もなき花にどれだけ心を寄せたことだろう

書庫から亡き父の「能百番集」を出してきた。

稽古で使い込まれたため、表紙はぼろぼろ、紙は茶色に変色している。

稽古したものには鉛筆で印がつけられていた。

「二人静」をあけてみた。

「ページ」の変わりに「丁」とある。

367丁(367ページ)、

「二人静」世阿弥元清作

最後のくだりの地謡:

「物ごとに憂き世のならひなればと、思ふばかりぞ山桜、雪に吹きなす花の松風・・」

(何かにつけて憂いことの多いのはこの世の習い、だからしかたのないことと思うばかりなのだ、ちょうど山の桜が松風によって花の雪と吹き散らされるように・・)とある。

私も憂き世に咲くあだ花か?

いずれ風に飛ばされ散ってしまうのだろうか?

心静かに花を愛で、泡立つような熱情の焔(ほむら)がほこを治める今、

ざわざわと浮き立つ、あの獣の匂いのする青き春が懐かしい。

夏だというのに小寒い夜更け。

夜の帳(とばり)は感傷にひたるには恰好の緞帳。

朝がくればこの感傷の緞帳は輝ける朝日にかき消されてしまうことだろう。

「日はまた昇る」のだもの・・・


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