希望の日記

2005年06月06日(月)

 耳鳴りのせいか早く目が覚める。楽しいことをやろう。それが気分の改善につながる。仕事もゲームと考え楽しんでやれば良いんじゃないかな。フォーカシングも危険な側面があるのだろうか。催眠術ぽいし危険かも。でも即効性があることがあるしegのように危険という噂は聞かない。
 自己犠牲はいけない。道徳と自己犠牲は違う。私はいつも勘違いする。課長は私に激しい敵意を持っている。攻撃的な人格というものはなぜ敵意を持つのかといわれてもわからない。病気なのだというしかない。病気の人と付き合っていたらこっちまで病気になる。関わり合いにならないことだ。こんな激しい人格変容を遂げても私の中の優しさ、純真さは変わらない。一片のひょう心玉壷にありといった中国の詩人の気持ちがわかる。
 楽しいことは一つもなかった。楽しいことをやろうよ。私の優しさ、純真さはkとかhにはわからない。課長にもわからない。私は優しくて良い人だと思うのにそれではだめらしい。私が父親を見て思うことと同じかな。弱いとか優柔不断とか何考えているのかわからないとか。一緒に下宿を探しにいったとき本当に気分が悪くなった。嫌いな人間と一緒に行動してはいけない。というか嫌なことを自分に強いてはいけないのだ。どんな理由があっても。
 礼儀とか道徳とか大事だよね。道徳によってものすごい勢いで世界が開かれていく予感がする。私は極めて道徳的な人間なのだ。道徳や礼儀は人と仲良くするためのものではなく人と快適な距離を保ち自分の安全を守るためのものである。私の道徳レベルは長期的に低下し続けてきた。精神的に弱いのだと思う。理由を詮索しても仕方がない。中学時代から遅刻を繰り返し教師に反抗し左傾した。そのとき自分が道徳レベルが低下していると気づけば良かったが、自分は絶対に正しいと思い込んでいるから気づかなかった。虚仮の一念というのか。もっと柔軟に考えないといけない。軽く生きたい。ヘビーなものはもう十分経験し尽くした。味も薄味、運動は適度に、人付き合いもほどほどに礼儀を守って。人生後半はそういう方針で長生きしよう。
 M君が言っていた、私が気を発しているという意味がかなりクリアーにわかった。egで高まった心的エネルギーが統制されないまま暴走していたのだ。それが外に向かうと攻撃となり、自分に向かうと不安や怒り、統合失調症となる。心的エネルギーの高い人間はいくらでもいる。でもそういう人間はそれをコントロールする方法を持っている。体育会系の奴は攻撃的で心的エネルギーが高い。しかしそれを訓練でコントロールできる。序列やしごきのような形で発散または構造化する。私は中途半端だ。体育会系のアホさやきつさが大嫌いだ。私の野放しのエネルギーは権力者には大変カンにさわるものらしい。それはそうだろう。私は道徳や礼儀でその問題を解決できると信じる。エネルギーをそれによって構造化し安定させることができると信じている。それは体育会系の考えに近いだろう。何も考えなくて良いから一番楽で安全だ。心的エネルギーを抑えつけたり損なおうとするのはおろかな行為だ。不可能だし、抑えるとどこかで噴出する。精神的に病んでしまう。道徳や礼儀で安全に処理することができると確信した。すでに相当低下している。私の道徳レベルは。これを少しでも高めていくことが回復への近道だ。
 人の好き嫌いはどうしようもない。全ての人を好きになったり、好かれたりすることは絶対に不可能だ。でも道徳や礼儀さえ守れば安全に付き合うことができる。おばさんや意地悪爺とでも大丈夫だ。人間関係など存在しないに等しい。
 私は本当は道徳や礼儀より真心の方が好きだ。純真で優しい仏心が本当の美しい気持ちだと思っている。でも世の中で生きていこうと思ったらそれだけでは無理だ。第一真心ばっかり出していたらせっかくの真心も磨り減ったり薄汚れてしまうんじゃないかな。燃えつき症候群という奴か。だから自分を守るために道徳は必要なんだ。大事な真心を守るためにこそ道徳が必要なんだ。
真心を嫌う人間もいるんだな。利にさとい人間はそんな得にならないものは嫌う。私は道徳は水臭いと思う。第二にしんどいから嫌だ。人を信用していないのかと不安になる。人は自分を好いてくれるものだとばかり思っていた。真心で生きている限り、遅刻しようが挨拶しまいが大丈夫と思っていた。どんだけ天真爛漫なんだ。nは私を結婚式に呼ばずにkを結婚式に呼んだ。体育会系同士馬が合うのだろう。あれだけ真心を見せたhは決して私に心を許さなかった。私も本当の事を言うとhが大嫌いだ。付き合いたくない。そばにいるだけで嫌だ。脅かされるような気がする。私は自由に生きたい。嫌なことはしてはいけない。嫌いな奴に真心なんか見せてはいけない。自己犠牲とか人柱になりたがってはいけない。最後まで生きようと努力しろ。嫌いな奴と仲良くしたくないなら道徳や礼儀を利用しろ。心の中でどんなに嫌いだろうと道徳さえ守っていれば大丈夫だ。危険なことや恐いことは何もない。真心も礼儀もない状態は危険だ。文学学校で私はそういう状態になっている。だから反発される。会社ではそういう状態だ。これからは道徳と礼儀を賢く使ってうまく生きていこう。そんなことは中学校時代にマスターしておくべき最低限の常識だ。y氏はいじめられたことがないと豪語した。常識が身についているのだ。今からでも遅くない。人と仲良くするのが気が進まないなら全然OKだ。そういう奴こそ道徳が必要だ。俺は飲み会が好きだ。腹を割って真心で仲良くなれると信じていたからだ。親父の背中を見ていたのだ。ところがそれがとんでもない勘違いだと気づいた。hは何回俺とのみに行っても絶対に俺に気を許さなかった。kは飲み会で俺に思いきり意地悪をした。信じられない悪行だ。人間の心がないのだと思った。欲のために真心を悪魔に売り飛ばしたのか。信じられない。北原はチンピラ上がりだが道徳を信じている。だから俺と馬が合うのだ。
 サドやバタイユは真心の文学だ。究極の悪は相手への無限の甘えである。一切の道徳による人と人の障壁を許さず、自己の欲望満足を求める。足立区の女子高生コンクリート詰事件も甘えである。究極の真心を求める甘えが恐ろしい相貌を帯びる。真心は生命すら蕩尽する。経済や道徳に根本的に反する。阿部定の相手の男は性交しながら首を絞めて殺してくれと頼んだらしい。甘えであり、真心とも言えるし、蕩尽とも言える。江戸時代の心中は究極の真心を求め合う男女の気持ちが生み出す現象であった。道徳は真心と対立する。道徳は真心を危険視し、抑圧し、コントロールし、封じこめる。
 でも生きぬこうと思ったらやっぱり一人では生きていけない以上、道徳が優先するのだ。むしろ道徳が真心を守る。道徳が真心を通じさせる。道徳は人を遠ざけるものであるため、互いに人を必要とする人間は真心を通じ合わせようとする。真心とは生存欲求の別名である。だから権力者は警戒する。好き放題されては困るのだ。私の真心は勤務中にホームページを見ることか。明らかに間違っている。道徳レベルが極端に低下している。私は本来口うるさい道徳家である。大学では法律を学んだ。さっぱりわからなかったが。でも水臭いから人には要求しないでおこうと思った。でもそれはおかしい。もっと要求して良いのだ。どんなに疲れていても私は何が道徳的かよくわかる。酒を飲もうが薬を飲もうが変わらない。自分を失うことはない。死ぬまで一瞬たりとも気を許してはいけない。南京事件のようなことがこの世で起こってはならない。アウシュビッツのようなことが、原爆のようなことが。
 真心と道徳は一致するものではないか。真心を通じさせたいと思えばどうしても道徳が必要なのだ。道徳は真心の容れ物なのだ。酒を運びたいと思ったらビンが必要だろう。それを面倒がってはいけない。それはただのならず者だ。女を見て触りたいというのは真心だがそのまま触ったら痴漢だ。お話して仲良くなって恋人になって始めて許される。私は柔軟さに欠ける。だから道徳を守ることなど思いもよらない。道徳は柔軟なものだ。真心の形に合わせていかようにもなる。恐れたり敬遠する必要はないのだ。私が結婚を避ける一番大きな理由はそれが約束であり、道徳だからだ。真心は拘束され干からびる。いつもいきいき生きたいのだ。真心は道徳なしに生きられないのだ。人に伝わらないのだ。道徳レベルが低下するにつれて私の生きる場所は狭まっていった。今からでも遅くない。真心が足りないのではない。真心は十分ある。ありすぎて邪魔なほどだ。求めすぎるのだ。赤ん坊は真心が必要だろう。でも大人なんだから真心はほどほどで良いのだ。道徳が欠けているから真心も伝わらず、傷つき、磨耗するのだ。必死で真心を守ろうとますます頑なに道徳を遠ざける。道徳という便利な入れ物を利用しろ。こんなにいじめられてもkやhと仲良くしようとするなんておかしい。真心が道徳なしには通じないということに気づけ。
 真心をそのまま出せば通じると考える人間はほとんど狂人扱いだ。もしくは犯罪者だ。実際私は精神的に病んでいるし、犯罪者っぽく見られることもある。確かに不道徳な考え方をすることがある。でもいまだに自分が道徳的で正しいと信じているのでなおさら厄介だ。道徳は100%通じる。真心はそのままでは100%通じない。道徳レベルは最低ラインまで低下している。精神障害者であり、犯罪者に近い。勤務中にホームページを見るくらい道徳レベルが低下している。それは恐がるだろう。自分が傷つけられると思うだろう。道徳さえ守ると誓うならば人と付き合うことだって可能だ。若者と付き合うことだって可能だ。道徳が必要なんだ。距離が離れているほどますます道徳的である必要がある。いきなり仲良くなんかできない。おばさんだって恐くない。仲良くならないことだって十分可能だ。安全保障の問題だ。
 京都に行って来た。花菖蒲を見た。平安神宮は壮麗な建物だ。庭は大昔に造られた由緒あるものだ。修学旅行の季節なのか中高生ばかりだった。それがまたうるさかった。ちゃんと教育しろといいたくなる。東京もんは本当に京都が好きだ。東京弁も耳障りに感じるようになったから私ももう関西人か。それもいいだろう。谷崎潤一郎みたいでいいじゃないか。四条河原町のフランソワに行ってきた。変わってなかった。奥の禁煙席はなかったような気がする。増築したのだろうか。おっさん、おばさんが昼間から大声で喋り捲っていた。優雅で結構なことだ。やっぱり京都は居心地が悪い。人の視線さえ意地悪げに見える。きれいなものはたくさんあるが、目の毒でもある。住むのは絶対嫌だ。暑いし寒いし、意地悪いし不便だし、どんだけ信号多いんだよ。私があんなことになったのは決して偶然ではない。嫌なことはしちゃいけない。魂が汚れる。道徳レベルが低下する。今日は薬が飲めると思うとほっとする。純朴な私の魂は汚され、ずたずたになった。でも不思議なほどその美しさは損なわれていない。俺は大丈夫だ。そんな気がした。お互い道徳を守って適度な距離を保って過ごしていきましょう。好き嫌いなんか関係ない。道徳と礼儀があれば離れて快適に暮らせる。
 egも良い面と悪い面がある。怪しげな面もある。簡単に人を信じてはいけない。誰とでも仲良くなれるのではない。無理してはいけない。津和の奴らと仲良くできるか。あんな犯罪者みたいな奴ら。絶対止めとけ。田辺とか絶対無理だろう。あんなキチガイ。hとかkとか絶対無理。生理に反する。会社は仲良くするとこではない。egで私の人格は変容した。良い面と悪い面がある。カウンセラーのおばさんが言っていた。物事には両面が必ずあると。良いとこどりはできないと。egで得をしたこともあった。覚醒したような良い気持ちになった。うつが治った。でもいままた苦しんでいる。俺はモルモットじゃないといいたくもなる。自分をいじめてはいけない。
 道徳と真心はセットじゃないといけないんじゃないか。道徳だけだと全く木で鼻をくくったようになる。それでは何のための道徳か何のための真心かということになる。真心は大事にしよう。自分を尊重してくれる人にだけ見せれば良いことだ。世の中はそんな奴ばかりじゃないことは明らかだろう。中学のときおれの遅刻をとがめた教師を激しく憎んだのはそこに真心がなかったからだ。牛や馬を言うことをきかせるような扱いに怒ったのだ。でも大体において私の怒りは筋が外れている。道徳レベルが既に相当ダウンしているのでピント外れだ。文校のあの教師はどうも私が好きじゃないようだ。嫌いな人間に好きになってもらおうとするのは虚しいおろかな試みである。適度に距離を保つことだ。egにはもう出るまい。結果が予想がつかないし危険過ぎるからだ。真心があだになる典型例だ。
 私は人が何を考えているのかわからない。真心が通じない。薄気味悪い。だから道徳しか頼るものはない。道徳レベルが低下しているので少しでも高めよう。それ以外ない。道徳しか頼るものがないのだ。私には道徳しか理解できるものがないのだ。私は本来口うるさい道徳家だ。それしかもう頼るものはないのだ。真心は決して汚れていない。真心は減らない。道徳レベルが低下しているからつけこまれるだけだ。道徳で真心を守れ。
道徳レベルが低下しているとおかしな奴にからまれる。中学時代のキチガイ教師、hやk。キチガイにからまれないためにも道徳レベルを一刻も早くレベルをあげなければ。好き嫌いを行動の動機にしてはいけない。嫌いな教師に怒られたら反抗する。好きな教師なら言うことをきく。一見正しいようだが不利益を受けるのは自分だ。嫌いな奴は必ずいる。いちいち行動を変えるな。かならず損をする。hやkが大嫌いでも一向に構わない。好きになる必要などないし、仲良くなる必要などない。あのキチガイ教師やhやkは人と仲良くしようなどとはかけらも思っていない。人と仲良くしようとしない人間と仲良くしようとしても無駄である。仲良きことは美しいだろう。しかしそんなこと何とも思っていない奴らも多いのだ。そんな奴らのために不利益を受けるようなことはいけない。道徳レベルを上げて自分を守ろう。これを私のスローガンにしよう。人を好きになる義務などないことに気づいた。教師のような真心が必要な職業でさえ真心など信じていない。俺が臭いからと電車の中で暴力をふるったり、失礼なことをする奴ら。どこに真心などあるのか。そんな奴らと仲良くできるか。もう道徳しか信じることはできない。それしか頼るものはない。それしか理解できるものが俺にはない。道徳しか理解できない。それしか頼るものはない。
 良心と言い換えても良い。良心を取り戻そう。良心に反することばかりやる悪い癖がついてしまった。一時私は非行に走っていた。大学時代精神病院から出て変な女と付き合っていた。ものすごく荒んだ気持ちだった。女を大事にする気持ちなどかけらもなかった。病気をしてからものすごく生活が荒れた。ものすごい怒りが湧いて抑えることができなかった。ひどい仕打ちを受けたからだ。どうしても許せなかった。それから非行に走った。人に言えないことをいっぱいした。とてもまともな人間のやることじゃないことをいっぱいした。それは全部俺の中に残っているだろう。それが良心の劣化、道徳レベルの低下というものだ。誰に指摘されても悪いことは悪い。遅刻するのはキチガイに指摘されようとまともな奴に指摘されようと同じだ。文句は言えないのだ。キチガイに指摘されたくなかったら隙を見せないことだ。良心を取り戻そう。良心は義務を果たすことだ。道徳を守ることだ。勤勉、節約に努め、感謝される良い行いを積み重ねることだ。少しでも良心のレベルを高めることだ。
 私はまともな人間社会から長く疎外されていたため、世の中にルールやマナーや道徳や礼儀があることすら忘れている。忘れているんだから気づきようがない。でも私は道徳が嫌いではない。理解もよくできる。人よりうるさいくらいだ。口うるさい道徳家なのだ。道徳と礼儀を守り良心のみに従って生きていこう。いじめる奴はほっとけ。相手にしなくても十分生きていける。


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