私は女とうまく行かない。頑張ってうまく行かせようとしてもだめだ。大変シリアスな対立となる。母、姉いずれも私の中に女性への嫌悪を残した。暴力もふるった。姉は小さい私に言葉の暴力をふるった。大きくなって私は暴力で復讐した。不毛である。女、あるいは女みたいなやつとうまくいかない。誰とでも仲良くしなくていいんだけどね。女とうまくいかなくてもしかたがない。うまくいかないにはいかない理由がある。無理をすることはない。小さい頃プラモデルを触っていると姉が話しかけてきた。羨ましかったのだろう。こたえているうちに何かひどいことを言ったので私は激しく泣いた。ひどいやつだと思う。羨ましいからいじめたのだ。その夜私は自転車で家出をした。家族が嫌いになる第一歩であった。何かが女と合わなくて刺激する。女は私を攻撃する。東京で喫茶店に入ったら売春婦の集団みたいなのが居ていきなり私を罵り始めた。理由などない。何かが刺激したのだが私に責任などない。今日、街を歩いていて女は弱いものだと思った。実に弱い。体力が弱い。体が小さいことは大変なハンデだろう。弱くして生きていくということは大変だろう。若い頃は美しさというパワーを持っているが年をとると実に哀れだ。それでこんなのは敵でもなんでもないと思った。こんなに弱いのだから。何かしてきたら叩いてやればいい。職場のキチガイも私の何かが刺激するから攻撃しているだけだ。反撃すれば良いんじゃないか。合法的に。簡単なことだ。相手は弱い女だ。文校の女も私に攻撃を仕掛けてきた。私が精神不安定になり、攻撃的になっているのに反応したのだ。必ず女とはシリアスな対立となる。ひとつはどこまでも道徳的となって誇り高く相手にしない。決して目を見ない。第二に近づかない。近づかせない。第三に攻撃してきて危険を感じたら決して攻撃されるほど弱くないことを知らせる。女なんか弱いということを思い知らせる。攻撃するのも嫌な場合は第三者に助けを求めても同じことだ。この三つを徹底して身を守ろう。仲良くするという選択肢もあるが残念ながら私はもうすっかり女が嫌いになってしまったので仲良くしても楽しくないしメリットがない。 女から身を守らなければならないというのは悲しいことだし、不都合だ。この世の半分は女だし、快楽の半分以上は女から来る。結婚も子供もだめ、セックスもだめというのは人生生きてても楽しくない。でも私はパーソナリティーの社会化に失敗したんだな。そんな人間はいっぱいいるよ。敗残者の群れの中に。でも女より大きな快楽もあることはある。それにそんな俺に合った快楽もあることはある。社会から一般には容認されていないが。 女の中でも女傑タイプが一番合わないかな。母や姉がそのタイプだ。男を支配するタイプ。私はどうしても支配されたくない。まあ、誰だってそうか。父は気が弱いから酒に逃げていた。兄は尻に敷かれながらうまくやっている。尻に敷かれてやっていくというのは多くの男がやっていることらしい。珍しくない。しかし私は女なので反発してしまう。このタイプは実際に権力を握ってしまう場合が往々にしてある。私は権力に執着するようでどうでもいいから負けてしまう。霧島でも女の事務員とけんかになった。戦う時は戦った方が良いだろう。往々にしてというより放っておくと自然に窮地に追い込まれる。最初に権力で鎧ってしまうという方法もある。しかしこれは男とも対立してますますまずい。権力者が嫌いというのはまずいらしい。嫌いというのは道徳に反するらしい。少なくとも嫌いという態度を見せるのは相手をバカにする行為だ。それで最近は田舎暮らしとか言っている。田舎には田舎の権力やしがらみがある。ずっと田舎に居たからわかっている。 道徳が一番良いみたいだ。私が道徳をないがしろにするならず者だと思うので攻撃してくる。小さい頃やんちゃな子と付き合ってしまったのでそういう癖がついた。道徳的になると社会に受け入れられてプラスのストロークが流れ込んでくる。そうすると元気になって更に良いことをする。好循環が生まれる。好き嫌いを行動の基準にしない。道徳的であること。私は今仕事をサボタージュしている。理由はババアがいるからだ。そいつと同じ仕事はしたくねえ。そもそもやる気がしない。そいつが居るだけで気分が悪い。気分が萎えてくる。それでもいなくならない。好き嫌いなんかどうでもいい。道徳は適正な距離を保ってくれる。愛情や好悪は人を結びつけたり、放したりするが、道徳はそれを調整してくれる。好き嫌いなんかどうでも良くてなぜなら全ての人を好きになることはできないし、全ての人に好かれることは不可能だし、人を変えることは不可能だからだ。嫌いな人間を好きなふりをしたことがあるが結局うまくいかなかった。好き嫌いに基準を置くと自分が傷つくだけだ。道徳だけに従おうと心に誓えば全く安全な人間に変貌する。すると人が付き合ってくれてプラスのストロークが流れ込む。それが俺を楽にしてくれるだろう。どんなに嫌いでもいい。hやkのことをどれだけ嫌いでもいいから道徳にだけ従おう。小中と気の狂ったやつとばかり付き合ったためにだめ人間になってしまった。あまりに嫌悪や怒りが強いと理性的に道徳的に振舞うのが難しくなり怒りに身を任せやすくなる。それは100%自分に不利益になる。理性と道徳に従おう。道徳とは本来人間の外にあるものだろう。だからかなり不自然だ。暴力的な面もある。人の動作や思考まで縛ってしまうからだ。しかし縛られない人間が本当に自由だろうか。宅間は生きる自由さえ奪われてしまった。道徳こそが自由と喜びを与えてくれる。 物書きは現実の中で居場所をなくし、狂気に住みかを求めた人の群れだ。ならず者の世界だ。そんな恐ろしい世界に足を踏み入れてしまった。これは小中と気の狂ったやつとばかり付き合っていたことの延長だろうか。そのわずかな居場所でも私はとても居心地の悪い思いをしている。道徳的に振舞うことでかろうじて自分を守っている。もっと自由じゃないのかと思うが、やっぱり道徳や権力の支配する世界だ。egでもババアにたてついたらいじめられた。感情を支配することは難しい。 道徳だ、女だ、権力だ、言ってないで楽しいことを追求したらどうだろう。そうすれば忘れる。文校だって楽しいから行くんじゃないのか。何でそこで不愉快な思いをしなきゃいけないんだ。楽しみを追求するには道徳が何より必要だ。礼儀作法、行儀作法といってもいい。園芸をやるにはたくさんの知識、常識が要る。そうだ、人間社会で生きていくにも大変な量の知識が要るのだ。それが覚えられないと山奥で一人暮しするしかなくなる。それもいいけどね。その知識の集合を道徳といったり、礼儀作法といったり、昔は修身と言っていた。人と付き合うということはその常識を勉強することだ。西行や芭蕉も一人で生きてたわけじゃない。俗世間の常識に従って生きていた。自由に生きていたなどと考えるのはナイーブ過ぎる。文学もルールと常識の塊だ。 人間の中身を根本的に変える必要などあるのか。そもそも可能なのか。むしろ変えていけないと思う。道徳とか礼儀作法を覚えればいいだけの話だと考えている。egとか自己啓発セミナーは人間を変えようとして結果不都合なことが起こる場合がある。人格変容はいいが、人格崩壊は困る。礼儀を覚えればいい。私は自分は変わらなきゃいけないほど悪性が強いとは思っていない。中学のとき虐待された時もまるで人非人のように言われた。「人間失格」といわれた。言葉による虐待だ。それは最近もやられた。それは単に言うことをきかないから腹を立てているだけなのだ。だから腹いせに暴力をふるっているだけだ。私は変わる必要などなかったし今もない。ただ常識を覚えればいいだけだろう。それがどうして人格改造などという非人間的な行為に結びつくのか。人を変えることなどできはしない。北風と太陽だ。遅刻なんて単にお行儀が悪いだけの話だろう。万引や暴力と全然違うじゃないか。それとも私の行為に反社会的なにおいを感じたのか。私はぐれる代わりに左傾した。しかし同時に統合失調症的自閉への道を歩み出した。 自分が変えられると勘違いする人間は他人も変えられると誤解する。そして無駄な努力で労力を浪費する。態度は簡単に変えられる。私は中学のときいじめられて態度を変えればいいのに世の中を変えるべきだと思って左傾した。また自分を変えようともがいた。元祖尾崎豊だった。自分も他人も変えられないというのが正解だ。egで自分を変えようとする人間は深刻なダメージを受ける。人は変えられない。変えようとしてはならない。一切だめ。薬物かマインドコントロールくらいしかない。戦時中の日本だ。あるいは現在の企業や学校だ。世渡りだけ覚えていればいいのに人格改造なんて。恐ろしい行為だ。それが後の統合失調症につながる。一切やめた。人格改造は。世渡り、常識を身につければいいだけの話なのに、バカじゃないのか。 論理療法は人格改造じゃないのか。むしろ人格改造が癖になり、当然失敗の連続で抜け出せなくなった人を救済するためのものだ。変な癖のついたのを毒をもって毒を制するという発想だ。だからあれはあれで必要なのだ。それをマイルド化した認知療法が大はやりだ。女は最初からそんなもの信じていない。哲学とか宗教とか時間の無駄だと思っている。eにからまれたのもそういうところだ。むしろ俺は人格改造の結果の統合失調症地獄から抜け出したい。山田なんかと付き合うといいかもしれない。あいつはほんわかして毒がない。俺を救い出してくれ。eだって毒があるようで女だから私よりむしろ山田に近い。私はそういうのに救い出してもらった方がいいんじゃないのか。彼らは遥かに健全だ。私は病んでいる。自分の鏡地獄の中で襲ってくる妄想の敵と必死で戦っている。もうとっくにダウンしてタオルは投げられているのに戦うことをやめられない。人付き合いって難しいだろうか。常識さえ守れば簡単なのに。真心と常識で楽しいお付き合いができるのに。 ニュートンて統合失調症だったらしい。毛唐なんかデカルトとかカントとか統合失調症ばっかりじゃねえか。統合失調症文明。私は統合失調症じゃなかったのに憧れからまねをしてしまったんだな。よせばいいのに。eのまねをしたほうがいいんじゃないのか。アホが一番いいんだよ。楽だ。楽しよう。無理して賢い人の真似をする必要があるのか。むしろ常識があって人付き合いのうまいアホなやつが一番いい。★子君を見習え。 嫌ったりすることは道徳の誤りだ。好き嫌いが関係ないのが道徳や常識の世界だ。統合失調症は常識外の世界だ。ニュートンは人間嫌いで人付き合いが嫌いだった。金や権力を手にするのはそういうタイプかもしれないが私は無理だろう。興味ないし。eを見習えよ。 私はニュートンみたいに統合失調症で世間知らずで常識がなく異常に攻撃的である。あのバカ女はそれを真似している。何でもまねをするバカ女。無視しよう。何でもまねをして張り合ってくる。私が超攻撃的なのは統合失調症だからだがそれまで真似してくる。キチガイだ。統合失調症は女嫌いだ。ニュートンも独身を通した。嫌いなもんはしょうがない。私は性的な喜びは十分味わったと思う。これ以上やると変態になるからやめたほうがいいくらいだ。でも人間的なつながりは取り戻したい。科学技術や法律、宗教、道徳は統合失調症野郎が営々と築き上げたものだ。女はそんなことどうでもいいと思っている。俺も実は嫌いだ。遅刻をとがめられて怒ったのも反社会的だからというより法律なんかどうでもいいと思っているからだ。それを俺は苦手を克服したいと思うタイプで法律の世界に進んだ。でもごまかせないもので挫折した。大嫌いなのだ。自分の嫌がることをするなといいたい。それが統合失調症の始まりだ。統合失調症の仕事は統合失調症に任せておけ。私はむしろeのまねをしたほうがいいんじゃないのか。 こんなことに気づいたのも文校で揉まれたからだ。eの生き方を見習った方がいい。横山さんもああいうタイプだった。女傑タイプ。甘えたいのかな。それしかないでしょう。理屈っぽいことは私も嫌いだ。ぞっとする。アメリカは統合失調症だけどちょっと違うところもある。アングロサクソンは大陸系統合失調症と違う。統合失調症が陽性だ。外に出さないと信用しない。出しすぎなところもある。オミズというのはおっさんだ。そういうのが好きなのかな。女女していないの。職場では完全に行き詰まっているが、あそこでは行き詰まってもどんどん変化していける。自己変革という意味でなく行儀作法や態度や方針の変更という当たり前のやり方で。自己変容という統合失調症的暴挙ではない。変われって俺に言っていたキチガイがいたが、本当に恐ろしいことだ。残りの人生はeのように生きていきたい。俺はキチガイ失格だ。いい人過ぎてキチガイになりきれなかった。なんちゃってキチガイだ。大学時代俺をいじめたやつなんか正真正銘のキチガイでばったもんのキチガイである私はいじめのターゲットになった。キチガイ脱出。eを見習おう。でもどうしても嫌いなんだよな。安定しない。eだって最初礼儀正しかったのに私が礼儀を拒絶して逆に自分を追いこんでしまったのだ。礼儀が通じる範囲で生きていこう。キチガイの世界はもうごめんだ。eは何も悪いことをしていないのに俺がけんかを売ったことになってしまった。俺は病気なんだ。女嫌いという。職場のキチガイは今まで見た中で最悪のキチガイだ。礼儀を覚えればあっという間に病気は治る。キチガイの道徳レベルの低下した中で生きていくなんて真っ平だ。私は礼儀を覚えて今すぐ楽になるぞ。会社はキチガイだらけだ。キチガイにあらずんば人にあらず。小学校の頃サドマゾなガキがいていつもある子をいじめていた。俺もいじめ仲間に入れられて一緒にいじめをやらされた。その子は俺を恨みひどい仕返しをされた。工作を壊されたり、修学旅行で財布を盗まれたりした。そのときのことを思い出す。eはタイプが似ている。俺の中のあのいじめっ子が蘇ってきたのだ。会社の礼儀は通用しないからあの場ではあの場の礼儀に従うことだ。eは合評が苦痛だという。私もその気持ちがわかる。理屈っぽいには私も嫌いだ。その気持ちに素直に従ったらいいのだ。 道徳は俺が身につけた妥協の産物だ。外側にあるのではなく中にあって外界とうまくやっていくための知恵と常識の集積、それが礼儀であり、道徳だ。eや山田は俺に大切なことを教えてくれる可能性がある。大事にしたほうがいいんじゃないのか。男は権力を目指さないとまともじゃないと思われる。でも俺は女だ。不本意な人生を歩んできた。やりたくないことを自らに強いてきて無理がたたって統合失調症になった。ずっとたたられている。あのegで私により添っている気がするといってくれた女の子。私よりずっと偉大だ。頼ったらいいんじゃないのか。助けなしに生きていくには疲れすぎている。ローンを背負うということは統合失調症的行為だ。俺はそれで再発してしまった。統合失調症的行為は統合失調症に任せておけ。近づくな。何で移住とか田舎暮らしにこだわるのか。統合失調症が治る可能性があるからだ。無理な荷物を放り出して楽になるからだ。毒素を一切排出できるからだ。毒素は毒素と認識すると免疫が働き出す。毒素と認識しなければ働かない。会社の統合失調症の皆さんはマインドコントロールがお済みなので毒を毒と認識していない。それでも会社のやくざどもは信じていない面もある。会社にひどい目に遭っているからだ。女は楽でいいな。女と付き合うだけで癒されるんじゃないかな。セックスだけは嫌だけど。それでもいいかな。 宇治に行って来た。三室戸寺のアジサイを見た。瑞々しく美しかった。天上のようなブルーがきれいだった。花だけを見に来た善良な人々の顔を見るのは癒される。平等院の門だけ見て(時間が迫っていたので)みやげ物を売る通りを歩いてお茶を買い抹茶アイスを食べた。宇治川の景色が素晴らしかった。宇治橋も良かった。それから京阪で京橋に戻り梅田に出て小説の舞台を捜した。記憶の中の地下鉄のホームはそこではなかった。天王寺だろうと思って戻り、捜してみたら記憶と矛盾しない改札とホームが見つかった。嬉しかった。 女は嫌いだ。人を取って食おうとするオニババみたいな女はたまらない。eは確実にオニババ化している。でもそんなに恐くない。俺もオニババではないか。オニババ仲間だ。女に生まれて女の幸せ(出産、子育て)を経験しない女性はオニババ化する。それは俺も同じじゃないか。女の心を持ち女の幸せはやって来ない。男の幸せはとっくに潰えた。 ババアは本当に食えない。私を餌食にしようとして私がオニババ仲間だと気づくと仲間にしようとし、それもかなわぬといじめにかかる。職場で経験したことを文校で短い間に再体験した。普遍的パターンだ。オニババ同士休戦協定を結ぶのが良い。子供いるのにオニババ化しているのは持って生まれた性格だろう。 誰がこう言った。誰にこんなことをされたなどとわめいて一生を過ごしたいのか。そんなババアが職場にいる。かわいそうなやつだ。誰からも嫌われている。こころなしか母に似ている。私は中学時代から遅刻が原因で葛藤が生じた。病気で実家に帰っているとき更に抜き差しならない深刻な葛藤が生じた。母親の人生まで巻き込んでしまった。オヤジは死んでしまった。母親は不眠になった。実家は全焼した。悪い因果が巡っている気がする。ブッダなら何と言うだろう。憐れんでくれるだろうか。出家を勧めてくれるだろうか。でも済んだことだ。できるだけ楽しいことを考えて暮らそう。道徳、倫理、常識、礼儀作法に忠実に従って生きよう。 楽しいことを考えて暮らそう。短い人生だ。深刻なことを考えるのはもう止めて肩の力を抜いて楽に生きよう。そうすると本来の力が自然に湧いてくる。小説も楽に力を抜いて書いたらずっと良くなった気がする。苦しんで書いたものを読まされるのは苦痛である。Eの書き方を見習おう。書くことは楽しいんだ。仕事も楽しくやろう。自分を追いこむことが良いことみたいに考えているやつがいるが私には無理だ。ホリエモンのようにゲームのように楽しんでやろう。苦しいところはもうとっくに潜り抜けてきたのだから。 統合失調症の皆さんと何とか仲良くしたいと願ってきたが、そんな必要はないと気づいた。中学時代の統合失調症教師、高校時代の理系いじめっ子統合失調症大学時代の法律系統合失調症いじめっ子、銀行時代の体育会系不良系いじめっ子、無数にいて全部挙げられない。統合失調症の誰彼がどう言った、こう言った、こんなことをされたなんてしゃらくせえ。自分の良心と常識だけに従って生きていれば誰も恐くない。
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