希望の日記

2005年06月19日(日)

 昨日はよく飲んだ。いつ寝たか覚えていない。いい人生じゃなかったな。人をねたんだりして良くない。性格を変えることはできないし、そんな必要はない。宅間がどんな性格していようと気にならない。行動を変えて欲しいだけだ。俺も行動は変えられる。文学やる人間は性格悪い。間違いない。絵をやる人間が性格悪いのと同じことだ。U君は性格が良すぎる気がする。文学には向かないかもしれない。でも本人が選んだ人生だ。私はできたら友達になりたい。彼も孤独に書きつづけるより応援者がいたほうがいいだろう。
 肩の力を抜こう。凝っては思案にあたわず。私の人生自体がそうなっている。本を買うのも読まないと分かっているのに買う。おかしいから止めろ。依存症だ。買い物依存症の小説を読んだが、凄まじい。
 人中が薬という。今がそういう状態だ。だいぶ彼らとなじむことができた。仲間ができて嬉しい。でもべたべたしたいとは思わない。嫌いな人間まで受け入れる必要はないがでもそういう人間とうまく付き合うのが人間というものじゃないか。でもkとhは障害者なので憐れんでやらなければならないしかかわりあってはならない。
 私がどういう性格をしていようといいのだ。私は性格いいし。優しいし。人間好きだし。U君と話していると穏やかになる。自分は異常な人間と思っていたのでそうじゃないと言ってくれるので嬉しい。共依存かもしれないがいいんじゃないか。友達とはそういうものだ。性格はいいから礼儀や道徳や常識を覚えろ。覚えろと言うよりもうわかっている。思い出すだけだ。道徳オタクなのだ。足し算ではなく引き算でいこう。俺の中に大事なものがいっぱい埋まっているのだ。それを掘り出せ。私は弱い部分もあるが大体正常だ。礼儀を守る人間は礼儀正しいとみなされる。多分ものすごくシンプル。それができなくなっていた。オニババ化していた。人非人と化していた。
 嫌なことを考える必要があるだろうか。楽しいことだけ考えて生きていこう。それが薬だ。再決断なんて必要ないかもというより良くないかも。自分を苦しめるのが大好きな私は飛びつきそうになるが。自分を大事にするならば止めといたほうが良い。
 楽しいことだけ追求しよう。楽しいと言っても酒とか薬とか自分を傷つけるものではなく、ほっとするもの、優しい気持ちになれるものがいいな。山河紫女史の「箱の中の子守唄」にはしびれた。女もほっとできる優しい存在だ。それをオニババ化してしまうからだめだ。でも中野さんはどんなに追いこんでもオニババ化しないね。いい子だ。若いせいもあるかな。性格だな。いまどき珍しい。いまどきの若い子は若くしてオニババ化している。援助交際したり、人前で化粧したり。でも大人が悪い。男が悪い。バブルに踊ってオニババ化してしまった。あれを目の前で見せられれば悪くなるだろう。私は女に意地悪すぎる。女が嫌いなのだ。y女史も男が嫌いみたいだ。可愛いものだけどね。男に頼らずに生きたいと思って教師になったんじゃないかな。あと子供が好きだし。
 最近ボケが進行している。リスパは強烈なんで気をつけよう。デパスの比ではない。アルコールも良くない。私はアルコールは気をつけているがそれでも普通より飲んでしまう。昨日もいつ寝たか覚えていない。飲みすぎはよくない。トイレの便座カバーを下げたままおしっこをしてしまった。まずい。一人でボケ老人になったら悲惨だ。人に頼るのは悪いことではない。カウンセリングを受けてそれを知った。人は一人では生きていけない。物質的にも精神的にも。頼る気持ちを恥ずかしいと思ってはいけない。堂々と助けを求めよう。北原に助けを求めてからうまくいくようになった。礼儀だな。感謝の気持ちが大事だ。
 生まれ変わる必要などない。しんどすぎる。行動を変えればいいだけの話だ。私もあの障害者に性格を直せとか生まれ変われなどと不可能なことを要求するつもりはない。行動を変えて欲しいだけだ。私はオニババ化している。オナニー猿と化している。もう考える必要はないし考えなくても大丈夫だ。hも行動を変えるならば一緒に仕事してもいいがあの態度ではだめだ。オニババ化している。私もオニババ化から脱出しよう。ほっとするもの、優しい気持ちになれるものを追求しよう。人間らしい気持ちを取り戻そう。
文校は礼儀作法の勉強だと思っている。習い事は行儀見習、研修の効果がある。花嫁修行でお茶や生け花をやるのは意味があったのだ。スポーツやるのも行儀見習だ。あの厳しさに耐えられればどんなストレスフルな状況にも耐えられる。hやkも自分がそうだからと言って俺に強要するなといいたい。俺はほのぼのしたものが好きなのだ。y女史のようなものが好きなのだ。嫌いだというのが病んでいる。
 n女史はオニババ化しているようでうまいことコントロールしている。だからけんかもできる。e女史とo女史はオニババ化しているので喧嘩しちゃう。コントロールできない。あまり相手にしないことだ。攻撃を誘発することさえしなければ大丈夫だ。挑発してはならない。北原も喧嘩の仲裁で大変だ。できた人物だとつくづく思う。
 楽しいことを追求していこう。十分可能だ。礼儀と行儀と常識を覚えれば何とかうまく行く。大阪の常識は世界の、日本の非常識なところが困るんだが。ローカルルールを覚えるのも大変だ。オニババ化しても楽しく仕事も人付き合いも可能だ。kなんかキチガイオニババなんだけど何でも思い通りにする。思い通りになるまでやる。相手にできない。相手にしなきゃいけないと思わせるところがあいつのトリックなのだ。あんなやつなんか誰にも必要なんかじゃない。家庭でも会社でも街角でもどこにも必要とされていないのだ。
 私は遺伝的にそれほどおかしくはない。多少父親は精神的に弱い面があったが美質も多かった。体も両親とも丈夫だ。田舎でのびのび生きたいものだ。
 私は九州の田舎もんだから都会の人と人の距離の取り方がわからない。京都も大阪も私には合わない。和歌山は合うかもしれない。U君は和歌山出身だ。
楽しいことを追求しよう。それが癒しになるだろう。その次は常識と礼儀だ。楽しいことをやっていればおかしな気持ちには決してならない。ペットや子供を見ると癒される。私は決しておかしくない。でも弱いので追いこんだりしてストレスをかけるとおかしくなることがある。egは劇薬だった。激しい副作用が生じた。うつだったら可愛いけど統合失調症はまずいでしょう。これ以上ストレスをかけたり、焦って自分を追いこんで発病させてはいけない。元も子もない。楽しい気持ちで過ごせば発病はしない。常識と礼儀に従おう。ほんの些細なことで人はキレる。最近の若いやつは特におかしい。誰があんな風にしたのだ。甘やかしすぎたのか。薄気味悪い。とても将来の日本を背負っていけるとは思えない。笑顔が出ない。緊張と恐怖で引きつる。人中が薬と言うがいつになったら薬が効くだろう。ずっと人中にいるじゃないか。楽しいことを追求しよう。仕事だって辛いことばかりじゃなくて楽しいこともある。統合失調症も完治してなかったかもしれないな。薬で症状は治まったが、病は深く静かに進行していたんじゃないのかな。それが社会的不適応を起こし、うつを起こし、怠業を招いているんじゃないかな。リスパでなんとか乗りきろう。余りストレスはかけないことだ。ひっそりと生きていきたい。これはおかしな考えではない。覇気がないと罵られたことがある。高校時代。既に相当おかしかったのだ。
 t先生も相当おかしい。サディスティックなところがある。おかしな小説を2,3書いている。それだけで人格を疑ってはいけないが、作家は多少サディスティックなおかしなところがある。tさんが特別ではない。でも書くことに楽しみと喜びを見出したからやって来れたのではないか。勝手な想像だが。私は統合失調症気味なのであまり大きな仕事はできない。だから偉そうにできないししたいとも思わない。負担を軽くしたいだけだ。
 人は優しいのに恐がってはいけない。ブッダも言っていた。人に勝とうとか得をしようとかそういうことばっかり考えているとおかしくなる。謙虚に生きよう。何もできはしないのだ。あのサラリーマンのキチガイども本当に嫌だ。疲れると人の優しさも嫌になってくる。それが発病のきっかけだ。人は優しい。人は人の優しさに触れなければ生きていけない。家族、友達、どうしても必要だ。人を優しくないと嫌ったり、遠ざけたりすると本当にオニババ化する。どうしてもだめなら距離を保っていればいいのだ。人は人の優しさに触れ続けねば気が狂う。私は遺伝とかじゃなく人工的に狂気を作り出したのだ。ただkとhだけはおかしい。完全に頭がおかしい。絶対距離を保った方が良い。人の優しさに触れたいと思うならば礼儀や常識が大事だ。でもどうしても人が恐いことがある。病んでいるのだな。きっと。病を飼いならしつつ、生きていこう。
 統合失調症系の私には常識や礼儀の体系のようなものが必要だ。ニュートンにとっては数学や物理学だった。デカルトにとってはコギトであった。私は今職に就いているのだから仕事にそれを求めるのが一番だ。t先生のように仕事は現場作業が一番で、好きな小説を書くことを優先するのもひとつの立派な生き方だ。仕事のシステムとか仕事の進め方とかは統合失調症的な典礼の体系そのものだからそれに集中すればいい。どうしてもだめなら小説でもいいだろう。その代わり集中してやらないと意味がない。初めて仕事の本を買った。行けそうな気がする。仕事も単純なルールの積み重ねだ。頭がいいんだからきっと理解できるはずだ。決して怒り狂ったりすることが仕事ではない。
しなくてもいいけんかはしない。常識や礼儀や道徳にどんな場合も従う。英語しゃべる人間はどうして皆おかしなやつらばっかりなんだろう。英語しゃべっていると確かにおかしな気分になる。異なる言語が頭の中に入ってくることがストレスになる。また頭の中に異なる言語体系が住みつくわけだからなんとなくおかしなことがいっぱい出てきそうなのはわかる。矛盾や軋轢がどうしても生じるだろう。それで周りから見るとキチガイに見えるという仕組みだ。本人はいたって正気なつもりだから扱いづらい。
 私はキチガイだからということで仕事をサボっているがキチガイでも仕事はできる。それも楽しくできる。明るくできる。それはどんなに疲れていても道徳がなにか何が正しいかわかるからだ。是非善悪の区別はつかなくなったりはしない。むしろわかっているのに故意に逸脱してしまうのだ。それが狂気の源だ。奇矯なところがある。是非善悪の区別がつくのであればそれに従っていればいいのだから仕事はできるのだ。できないと思いこんではいけない。高校時代は私は既に完全に気が狂っていたが、成績は良かった。あれはルールをいかにたくさん効率良く覚えそれを使いこなせるよう訓練するかであるからキチガイでもできるのだ。俺を大学時代にいじめた秀才は完全にキチガイだった。今でも治っていない。治る必要などない。天才とキチガイは紙一重だから治ってしまっては具合が悪いのだ。誰にも迷惑をかけず仕事をきっちりこなしていればキチガイでも何でもいいのだ。だからhやkでもokなのだ。キチガイ歓迎なのだ。ルールさえ守るならば。俺はキチガイだからルールを守らなくて良いと思うから間違うのだキチガイでもルールさえ守れば何も言われないと思うべきなのだ。
 ルールを守れば誰も危害を加えない。だから安心して生活できる。ルールが身に染み込んでいけば自ずから美しくなる。人から愛される。内面の美しさは外から見ても明らかだ。ルールが乱れると心は醜くなり自ずから外に腐臭となって現れ、嫌われるだろう。簡単なことだ。礼儀と常識を守る。世の道徳を守る。人間正直が一番だ。バカ正直に愚直に基本ルールを守る。繰り返し覚える。簡単なことだ。


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