最近差別されるようになってきた。年をとると差別されるだろう。昨日の高台寺の馬鹿女はわざわざ駆け寄ってきて私が踊りを見ようとするのを邪魔した。京都の奴は全員頭がおかしい。必ず意地悪される。アサーティブに生きよう。差別される理由なんか無い。相手にしないことだ。hも相手にしないことだ。キチガイなんだから相手にする必要はないだろう。 堺は犯罪者の巣だ。来てしばらくして犯罪の被害に何度か遭った。こんな町出たい。アサーティブに賭けよう。私は悩むことは無くなった。悩みは自ら生み出すものだ。hみたいなキチガイは相手にしなければ済むことだ。京都の奴とか頭のおかしな奴ら。アサーティブは弱者の最後の手段だ。みだりに使うことは無いが要所では使おう。怒ることはない。怒らせることもない。暴力は禁じられている。嫌うこともない。嫌うかどうかはアサーティブとは関係ない。アサーティブであれば嫌うことはないだろう。人を嫌うことはアサーティブではない。それは差別や偏見と区別がつかないからだ。私が女を嫌う理由は差別しているのではなく過去にひどい経験をしたからだ。左遷されたからだ。それで十分一生嫌う理由になるだろう。 今日はヨットに乗ってきた。西宮のハーバーから出航した。m氏のイベントだ。途中酔いそうになったが何とか持ちこたえた。いろんなことを考えた。m氏にまた苛められた。相性が悪い。行かなければ良いのに。でもそれを上回る何かがある。自分が女性であって女性と競合するのだと思った。でも酔わないコツは人間関係のストレスをやり過ごす方法と同じだ。それは安らかな気持ちになるよう自分に言い聞かせることだ。ヨットマンに構えているとか力が入っているといわれた。でも今は何をやってもうまく行く気がする。今日も何とか最後まで無事に行けた。以前だったら絶対だめだった。ヨットで酔いそうになったとき安らかな気持ちになるよう言い聞かせた。そうすると快楽のレベルは下がる。でも落ち着いて脳が暴走を止めて正常に近づく。それは開かれつつ閉じていく。ストレスをコントロールする知恵だ。明らかに女性と同じ性だと感じる。これは偶然的なものだ。でもそれをどうするかは自分の理性で何とかなる。最初行った時は緊張ですごく辛かった。うつがぶり返しそうになった。社会人として生きていくことは簡単ではないのだ。簡単に生きている人間などいないのに。自分だけ簡単に生きて行こうなんて虫が良すぎる。人間に対してものすごい拒否反応が自分にあることがわかった。攻撃的な感じ。敵意と言っても良い。それを抑えようとすると自閉的になる。でもそれは明らかに現実と合わない感情だ。歪んだ思考と言っても良い。人が敵意など持っていなのに悪意に取って自分が嫌われていると感じる。そうすると自分の中に敵意が生じる。女に対して生じる敵意のメカニズムはそうだ。自分の中の敵意を他人に特に女に投影してしまう。それが今日雨雲のように心にあるのが感じられた。 私の今のテンションの低さはうつ病と言って良いレベルだが、それは攻撃性を内包している。中学の時から変わっていない。人が恐い。でも今大きな転機を迎えようとしている。今までクリアーできなかった壁をクリアーできる気がする。そんな壁なんかはじめからないのだ。簡単に一跨ぎできそうだ。安らかな気持ちの背後にあるのは他人は決して自分を傷つけないという信頼だ。今何をやってもうまく行く気がする。実際かなりうまく行った。自分が動き出している気がした。安らかな気持ちになると人を拒絶する気持ちがすっと消える。抵抗が消える。当たり前のことができるような気がする。戸塚ヨットスクールを思い出す。厳しいやり方が今は合っているのかも知れない。無理やりシュノーケリングをやってみたり、飛行機に乗ったり、ヨットに乗ったり、自分に少し厳しくしてみた。人の中にいることは大変なストレスだ。それでもやってみる。今だったらそこから自分を変えるきっかけを掴める気がするからだ。今まで確かに自分を変えずにやってきたけど(やれてなかったけど)私のうつは大変な攻撃性のようだ。この間のアッシュの飲み会ではそれがはっきりと裏目に出た。でも今日は少し改善した。帰りの電車で悪い人はいないんだというカウンセラーの言葉が信じられる気がした。それを信じることは大変な勇気がいる。傷つくこともあるからだ。でもそれを恐れていてはいけない。飛行機に乗ることも人を信じることだ。機械ではない。ヨットに乗るのも人を信じることだ。人を少し信じることができるようになった。悪い人はいない。そこまでは言い切れないがほとんどいないと信じられるようになった。悪い人はいない。今日話していて少しずつそれが理解できた。私が考えすぎる。もう大丈夫なような気がする。今までできなかったことができる気がする。人は誰も完全ではない。限界がある。それだからといって人を責めることはできない。自分も同じだからだ。 女に敵意を持つメカニズムはさっき書いた通り、自分がまず女に敵意を持つ。過去に嫌な思いをしたから、元々嫌いだから、色々だった。それが相手に感染する。女同士がうまくいくのはそういう訓練をしているからだ。仲良くしようと意識的に努力しているからだ。でも私はその気がさらさらない。嫌いでも仲良くしようという気がない。うつだし、その気力がない。でも安らかな気持ちになったとき、嫌いという気持ちがすっと収まった。なくなったわけではないが、現実とはかけ離れた敵意がコントロール可能なまでにしぼんでいく。だれでも持っているレベルにまで下がっていく。これなら大丈夫だと言えるくらいまで。死ぬ時も安らかに死んでいこうと思った。生きている時もいついかなる時も安らかな気持ちであるべきだ。諦念を持つべきだ。オニババな気持ちになるのは欲求不満が大きい。今日朝初めて会ったときと分かれる時とではとてつもなく違っていた。普通に好きになれそうな気がした。不機嫌というのは攻撃的なことだ。私は長いこと人と離れて暮らしているので人前で平気で不機嫌な顔をしてしまう。女が嫌いという気持ちをはっきりと顔に出してしまう。かなり疲れている。テンション低い理由はうつだろう。でもそれは何かの結果でもある。それはアサーティブや、論理療法で意識して取り除くことが可能だと信じる。今までは可能ではなかったが、これからは可能だ。時が満ちた。あの変なおっさんともうまくやれるのだから誰とでもうまくやれる。テンション低くても何とかうまく人と付き合っていける。それは理屈ではなく体得しないとだめなようだ。今日一日中人といるというストレスフルな状況に耐え抜いて何とか過ごすことができたのは自信になった。もう大丈夫だ。何をやってもうまくやれる自信がついた。 もう大丈夫なような気がする。大丈夫じゃない時は何もできず何をやってもうまくいかなかったのが今は何をやってもうまく行く気がする。安らかな気持ちで人と争う気がしない。自分の利益を守ろうとするからだ。うまくいかないときといくときとでは何もかも違う。うつな状態から自力で抜け出せるだけの力が身についた。安らかな気持ちになった時に心が落ち着き、人を信頼でき、人への敵意が消え、受け入れる気が生じる。今日初めてそういう心理になった。これは実際に人を相手にして体感しないとだめだ。だから辛いこともあるが勇気を出して旅行したり、サークルに参加したりする。ああいう健常者が集まるイベントは安全とは言いがたい。文校もそうだ。安全ではない。でも一番鍛えられ、実際に効果があるのはそういう辛いサークルに出たときだ。実際に自分の誤りがダイレクトに伝わるからだ。これが一番はっきりして分かりやすい。私の理解力は以前とは比較にならないくらい高まっている。悪い人はいない。女だって悪いわけではない。悪いという現実ばなれした歪んだ思考が私の側にあるだけだ。それを相手に投影している。この悪循環を断ち切るべきだ。安らかな気持ちになること。これは生きる準備であり、死ぬ準備だ。魅力とは何かプラスアルファのものだ。人から吸収ばかりする奴は嫌だ。アサーティブとは言えない。アサーティブは無償で何かを付け加えることだ。人から要求するばかりではいけない。人間が生きるとは本来無償だろう。無償の愛を受けて誕生し、育てられたのだ。無償で何かをしてあげることは大事だ。 風をはらんだ帆は文句なく美しかった。人間もこうありたい。船上を駆けずり回るヨットマンも文句なくカッコ良かった。やっぱりこうありたい。川端の小説の文章を味わうような魅力がある。
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