希望の日記

2005年11月20日(日) 今朝

 昨日は良く飲んだ。まだ手足がしびれている。二日酔いだ。自分を愛する。n氏の誘いでt氏o氏と会って話した。作家志望のユニークな趣味人、o氏の話は見た目以上にユニークだった。勉強家で一所懸命に生きている。いろんな学校に行っていろんな資格を取って仕事に役立てている。最近はファッションの仕事をしている。すごい人だ。タレントもやっているという。面白い。結局私はああいう人のほうが似合いじゃないのか。芸術、芸能に興味がある。私は危険な道を歩んでいるのか。そんなことはない。消去法で本来の道に戻っただけだ。自分を愛するの道はこれで正しい。私は相当やばいところにいる。昨日も隠すことさえできずに悩みをしゃべってしまった。脳が崩壊寸前だ。うつとは一時的に脳が壊れて言うことを聞かなくなる病気だ。文学に救いを求めて一部はかなえられた。o氏が言っていたのは悪いことをする奴には反撃せよということだ。温厚そうに見えてもやっぱり自衛のためには必要だ。自分の領分を侵すものにはきちんと反撃する。アサーションの考えと一致する。自分を愛そう。愛しているが、もっと愛そう。男も自分を愛してよい。o氏も心から自分を愛している。誰に何と言われようと自分を愛することを邪魔されるいわれはない。
 あんなグループにいること自体が自虐的だという結論に達した。他方でどこにいっても同じじゃないかという懸念もある。下に行ったときは変な女が噛み付いてきた。女が嫌だ。本当に嫌いだ。女はキチガイで下等な生き物だ。これは間違いない。キチガイなんだ。相手にしてはいけないのだ。
 自分を愛そう。とことん愛そう。自分を愛そう。努力は必要だ。少し休めば大丈夫だ。自分を愛することだ。ibの考えに影響されると努力しなくてよいみたいになってしまうが、そうではない。文学について努力する気があるのなら、楽しみを得られるだろう。
 自分を愛そう。自分を愛している。努力をしよう。女は愛されるためにできることはなんでもする。見習わなくてはならない。自分を愛そう。欠点も含めて自分を愛そう。それがこの苦境を脱する方法だ。自分を愛するならば自分を守れるはずだ。女はキチガイって皆知っているじゃないか。今更のように言うんじゃない。肉体的にも精神的にも性愛においても女を愛することができない。
 昨日は飲みすぎた。何だか疲れた。うつが高まる。リスパはセロトニンを遮断するのでうつになりやすい。でも飲まないと等質になってしまうので仕方がない。自分を愛することで乗り切ろう。頼り過ぎないようにしよう。万能薬ではない。自分を愛するとはうぬぼれとは違う。自慢でもない。他人に対するものではない。自分で自分を愛するのは当たり前のことだ。芸事に熱中すると通常の性愛では満足できなくなる。少なくとも私はそうだ。そうすると薄着をした若い女を見ても何も感じなくなる。女に何らの愛情も感じない。でも関係は持つことはできる。礼儀正しい関係だ。一番最初に接するような関係が大事だ。他人の関係。よそよそしい関係。仲良くなんかならなくていい。できないんだったらしなくて良い。あんなキチガイババアと仲良くできる奴なんかいない。仲良くしなければならないというのはibだ。打ち解けなければならないとか。何で仲良くしなければならないのか。恋人とか夫婦とかそういう関係なんかないんだから何でご機嫌取ったりしないといけないんだ。芸者じゃないんだ。いい加減にしろ。
 高橋ががんばっている。怪我というのは大したことはないのか。芸というのはなんだろう。o氏は芸熱心だ。諸芸に励み勤めている。見習おう。小説も修練だ。自分を愛するの修練だ。ゆっくりがんばろう。がんばれる条件が整ってきた。自分を愛することができるようになった。人に許可をもらわなくても自分で自分を愛することができるのだ。人に断らなくて良い数少ないことのひとつだ。人に会いたくない。会社に行きたくない。こんなことを思うのは初めてだ。私と母の関係は独特だった。ずいぶん親不孝だった。どうして親孝行ができないのか。温泉に連れて行ったときも結局は悲しい思いをさせた。残酷なのだ。自分に一番残酷だ。自分に近いものから残酷だ。無条件に自分を愛そう。仕事ができるから、何を持っているから、愛されるというのは辛いものだ。人は無条件で愛され受け入れられる場が必要だ。
 私は女が嫌いだ。もう隠さない。どうしても好きではない。でも関係は成り立つ。性を媒介としない関係はいくらでもある。自分も相手も尊重する関係はありうる。
 高橋が優勝した。ゴールしたときは涙ぐんでいるように見えた。辛かったのだろう。しかしインタビューにはもっと感動した。辛い立場にある人も希望を持って生きよというメッセージは私に届いた。一度は陸上をやめようと思ったらしい。辛かっただろう。でも夢をあきらめず、希望を捨てずがんばり続ければきっと夢はかなう。我慢も必要かなと思った。
 等質でもうつでも自分を愛することで自分の脳の変化が見える。するとコントロールできる。他人に惑わされることはない。あきらめずにがんばろう。あのキチガイのすごいところはあきらめないことだ。馬鹿なところだ。高橋だってあんなひどい目に遭わされたら、恨みを呑んでやめてしまうところをがんばって復活した。私もこの勝利に誓ってきっと復活しよう。
 疲れた。自分を愛そう。散髪に行った。あれもセラピーだ。自分を愛すれば自然に自分を大事にする。自分を大事にすれば相手も尊重することになる。自分を粗末に扱う人間ほど恐いものはない。人の利益を尊重するとは思われないからだ。文校も結構きつかった。でもまだ先は長い。また執筆を再開しよう。旅行記も終わった。掲示板に出なくなったのも自分を大切にする一環だ。
 自分を好きになると思考が自然になり、感情が自然に流れる。女との付き合い方がわかった。他人としてよそよそしく慇懃に対するのだ。絶対に文句を言われないだろう。仲良くなんかする必要はかけらもない。女とも立ち向かおうと思った。女だって理由もなく傷つけてくることがある。そのときは敢然と立ち向かおう。女と距離を保つ方法。男女関係は抜きにして、事務的に接すること。仲良くする必要なんかまったくない。自分を大事にしよう。自分を尊重しよう。
 自分を愛そう。自分を愛そう。自分を愛すればきっと道は開ける。おかしいんじゃないかと思う奴はほんとにおかしい。馬鹿じゃないのかという奴はどう考えてもおかしい。誰が見てもおかしい。s市の奴は全員おかしいんじゃないかと思ってきたがほんとにおかしい。皆知っている。常識だ。騒ぐことではない。あの職場にいる奴は全員おかしいんじゃないかと思ってきたがその通りだ。騒ぐほどでもない。自分を大事にするならばそんなことでは傷つかない。自分を愛そう。好きになろう。馬鹿やキチガイはいる。取り除くことはできない。馬鹿じゃないか。と思ったらほんとに馬鹿なのだ。普通に馬鹿なのだ。女は馬鹿じゃないのかと思うが、その通りだ。自分を愛することはすごい。いろんなことが見えてきた。
 自分を愛そう。他人は変えられないが、自分は変えられる。少なくとも自分の行為は変えられる。自分を愛することは可能だ。自分を愛すると自分の変化を愛することができる。女が嫌いになってきた。性が嫌いになってきたからだろうと納得される。それも仕方のないことだ。
 自分を愛そう。愛することはすばらしい。愛する対象がいなければ自分を愛そう。全く惨めではない。仲良くしなければいけないというのはibだ。間違いない。そういえば長井はどこに言ったのだ。ギター侍は?
 誰もいなかろうと私は自分を愛せるから大丈夫だ。仲良くしようなんておかしい。他人行儀というのが女とのありうる唯一の関係だ。おかしな上下関係は性的関係、男女関係を連想させておかしい。他人行儀というのは対等であって相互に尊重した上でお互いに立ち入らないという関係だ。今の私には最もふさわしく、唯一可能な関係だ。
 でも面白かった。昨日はo氏は愉快だった。故意のまいあひをルーマニア女二人に歌ってもらったときは最高だった。芸事が好きなのだと思った。生身の女よりも芸に熱くなるのは文校に通っているからに他ならない。私はもう女に心を騒がされたくない。他人行儀でいたい。ほんとに女が嫌になった。ほとほと嫌になった。もう年だ。ほんとのことを言おう。ibは捨てよう。
 自分が好きとはいいことだ。誰になんと言われようと自分を好きでいるが良い。自分を愛し、しげしげと自分を眺めてみるとどんな阿呆よりも完璧な人間であることに気づく。恐ろしく頭がよく、良心の塊、全てのことを知り尽くしている。自分のよい点を書き出すセラピー。
 自分を愛することはすばらしい。人が以下に自分を愛しているわかる。自己愛からすべての行動が説明できる。戦略も作戦もいらない。自己愛のみで十分だ。


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