希望の日記

2006年01月09日(月) 鞆の浦

 鞆の浦から帰ってきた。嫌なことが多かった。人とうまく行かない。それ以前に差別される。差別、排除だけは慣れることができない。誰でもそうだ。わきがのことでも神経がずたずたになる。感情が鈍磨してくる。博物館の窓口にまで嫌がらせをされる。不機嫌を通り越して無反応になってくる。うつ状態になる。文学だけが救いになると感じた。尾道の志賀直哉の旧宅を見た。おっさんが解説してくれて面白かった。嫌なことが本当に多かった。うつでかつとげとげしいのはあんな職場にいるからだ。人に近づきたくない。旅などしたくない。医王山という寺の境内から見た鞆の浦の風景は最高だった。あの一瞬だけが私を救ってくれた。人によって救われることはなかった。中村憲吉の短歌だけが私を癒してくれた。死を目前とした淡々とした心象風景。文学は救いを与える。
 体本位であること。これが大事だ。あの仙酔島の役人グループ。醜悪極まりない。朝から酒を飲んでいた。全く癒されなかった。神経がずたずたになった。うつに落ち込んでいたら死んでしまうだろう。だから武装していなくてはならない。職場でもうつなのに攻撃される。体本位であればバランスが取れるだろう。正気を取り戻せるだろう。敵と戦えるだろう。身なりで差別する。排除する。金品を奪おうとする。当たり前のことだ。人と係わり合いになってはいけない。体本位に生きなければ。
 体本位であること。それでかろうじて自分を保てる。本当に人間が嫌いになった。本当に心の底から嫌いになった。人が私を嫌うからだ。子供や犬まで嫌う。女が大嫌いだ。向こうも嫌いらしい。大体女なんか何で好きにならないといけないのか。嫌いでいいじゃないか。文学に生きよう。文学さえあれば人に嫌われようとどうしようと関係ない。文学は生きることそのものだ。強くなる。
 嫌われたらいいじゃないか。私も人間大嫌いだし、世の中本当に嫌になった。本当に嫌になってしまったんだ。誰も彼も嫌いだ。だけどだからと言って生きる価値がないとは全く思わない。私には文学がある。紫式部が寡婦になったとき生きる価値がないと思っただろうか。そうではない。人はどんな境遇でも生きる価値がある。自明である。
 本当に長年生きてきたが、これほど人が世の中が嫌になったことはない。認知療法を二十回くらいやらないといけない。私も人間嫌いだし、人も私が嫌いだ。全然矛盾がないじゃないか。会社でも好きになれないからそういう態度を取る。嫌いだから仕事をしないなんて言ってない。体本位で考えるならば、自然にうまく行く。
 人に嫌われてもいいじゃないか。嫌われたいわけではないが、大嫌いなのだから嫌われても仕方がない。女の子を見ていると可愛いこともあるが、大人の女は可愛くない。あのコンパニオンみたいな女には辟易した。女の皮をかぶったおっさんだ。人に親切にされても全くなんとも思わなくなった。そこが普通じゃない。感謝に気持ちが大事だ。


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