体本位でいこう。今朝早く目が覚めて色んなことを考えた。私の考えることはくだらない。役に立たない。それでも考えてしまう。考えることを止めて体に従おう。それは人としての務めだ。中学のとき母親が嫌いになった。キチガイと付き合っておかしくなった。母親が嫌いになることはよくなかった。本能的にそう思う。自分を生み育ててくれる存在を憎むなんて本末転倒だ。でも何万人に一人かはいるだろう。エディプス的な衝動を人間は抱えて生きている。だからそれを戒めているのに、私はそれが許されていると勘違いする。やくざのような考えだ。だからヤンキーと相性が悪い。私の考えは何ら新しくも正しくもない。ヤンキーややくざの考えと全く一致する。それを珍しいことのように言い立てているだけだ。今母親は全く気味の悪い存在として私の前に立ち現れた。会社でもそういう存在がいる。私がおかしいからおかしな態度になって返ってくる。こういうときは体に従おう。考えているようで暴走しているだけだ。読みもしない本を買い、聞きもしないレコードを買う。でも漸く自分の姿が見えてきたのは小説を書き始めたからだ。美しくも醜くもない、あるいはその両方の存在。母親を嫌いになることもあるだろう。でもそれは間違いだったとはっきりいえる。誰だって欠点はある。美しい人や賢い人ばかりではない。昨日電車の中で人が恐くなった。いつまでも発車しない電車に次々イラついた不機嫌な顔で乗り込んでくる人々。恐くなって私は電車を降りた。 私は漸く自分の姿が見えてきた。中学以来見失っていた自分の姿を。体本位で生きていこう。中年になるまでやってこれたことがこれからはやっていけない。当たり前のことだ。ヤンキーややくざだって生きてはいける。ヤンキーの約束事と言うのがある。それを守ればいいのだ。 体本位で行こう。具合が悪いのに決定的に悪くならず、時間は快く流れていく。これがベストの状態なのだろう。私の場合は。最近、誰とでもうまく行かない。心が荒れてきた。z氏ともうまく行かなくなった。人から好かれることが重荷になる。不快に感じる。k女史が言っていたことがよくわかる。うまく行かない。母親との葛藤。それは女が母親と葛藤が生じることと重なるのだろう。生き辛さは私だけが感じているのではない。地べたに座る若者。社内で化粧する女。子供を産まない女。何かがおかしくなっている。先進国だからしょうがない。体本位で行こう。母親を嫌ってはいけない。小説もいいが、それなりの覚悟が必要だ。悪事を働くのとは違う。人間的に良いことをしたい。そういう文学も可能だ。電車に乗っていても街を歩いていても旅行をしていても私は疎外されている気がする。見下されている気がする。それは半ばは事実だろう。でも半ばは思い込みだ。気にすることはない。 社会で役割を持っていない。家族や集団に属していない。そういう人間は社会で排除されていく。知らないうちに人を圧迫し、傷つけている。私の中に悪意が宿っている。悪意に気付くことが第一歩だ。人を傷つけたくないなら自分が傷つける人間だと気付かないと。体本位で行こう。でもb校に通うようになってからいろんなことに気づくようになった。やっぱり力になる。生き抜く力。自分が一番得意なことができないなんて生きてる意味がない。今は生きがいができた。 ツッキーやb校の皆には恩義を感じる。世話になった。悪いことをしても得することはない。立派な人間になろう。b校でもどこに行っても馬鹿にされるのは馬鹿にされるようなことをするからだろう。馬鹿にされないよう立派なことをしよう。仕事をちゃんとしよう。就職活動していたときも変な奴と思われた。やっぱり変な奴だったのだ。全然平均レベルにも達していないヤンキー野郎だった。でもこれからは違う。はっきり目が覚めた。大体社会に出て一度もきちんと仕事がこなせたことはない。でも小説だけは誉められた。これで飯が食えたらいいな。普通文学は孤独な行為で、一人営々と努力して、賞を狙ったり、持ち込んだり、勉強したりする。それができないのに集団に甘える。でもこれは労働運動の一環として始まったのだから当たり前だ。 中学のとき色気づいて、変な世界に興味を持った。あんな変な奴と付きあったからだ。もう取り返しが付かない。そういう体質だったのだ。自分のことしか興味を持たないなんておかしすぎる。こんな日記も良くない。自分から外界に目を向けよう。性的に余りにひきつけられるのは非行と言えなくもない。道を踏み外した。今度の小説も道を踏み外す話だ。逸脱。若い頃にはよくあることだ。大人になった今では是非善悪の区別くらいはつくようになった。 女のことも忘れたらいいと思う。一番手っ取り早い解決法だ。私の正直な気持ちだ。忘れたい。だから忘れる。 昨日電車で見た小さい女の子の姉妹は本当に可愛かった。傍にいたお母さんが不審そうな目で見た。本当に可愛かった。でも育てるのは大変なことだ。自分の外にあるものを尊重する。他人とか社会とか、会社とか同僚とか。文学とか。体本位で行こう。自分の心の棘を抜いて素直になろう。自分の外にあるものでも価値あるものとして尊重しよう。女であっても。子供であっても、老人であっても皆存在するだけで価値がある。こんなことを素直にいえるようになっただけでも成長した。悪い方向に行くことだけはあるまい。意志の力でどうにでもなるじゃないか。 確かに女性とうまく行かない。でもほとんどの女は女とうまく行かないんじゃないか。それを小さい頃から努力してうまく行くようになったんじゃないか。とりあえず忘れてみよう。今の精神状態で女と付き合おうとしてもうまくいかない。それだったら忘れてみると言うのもひとつの手だ。昨日もいきなり改札で喧嘩を売られた。この会社に入ったときも経理のおかしな女連中に何の理由もなくいじめられた。忘れたい。忘れたらいいのだ。どういうわけか女が嫌いになった。女に好かれるのも嫌だ。嫌いな奴に好かれるほど嫌なことはない。 体本位で行こう。四天王寺に行ってきた。昔行ったことがある。その前に我孫子観音に行った。お参りすると心が安らぐ。平凡な庶民が幸せを願う姿は心を打つ。それから地下鉄で四天王寺に行った。広々とした境内は歩いているだけで心が安らぐ。私の心は悪が忍び込みやすい。悪徳の巣のようになっている。素直な人間が陥りやすい。庭園も見物した。宝物館は時間が終わっていて見られなかった。それから参道を歩いた。谷町筋沿いに歩いた。人通りが多かった。ずっと歩いていくとJR天王寺駅に着いた。これからは天王寺から歩いていける。新しい発見で嬉しかった。それから時間があったので天王寺公園の傍の歩道を歩いていった。動物園に通じるらしい。帰りの家族連れが多かった。見ているだけで癒された。私は孤独だと思った。自分につらく当たるのはやめようと思った。孤独が心地良いわけがない。人は一人で生きるより、誰かがいたほうが良い。母はそういうことで私を思いやって一緒に住もうといってくれたのだ。変な勘繰りは止めよう。頭で考えるからそういう途方もない妄想に陥る。体本位で生きていればそんなことは考えない。やせ我慢はやめようと思った。sさんでさえ生き物をたくさん飼っている。人は一人では生きられないのだ。 それから天王寺の地下でコーヒーをいっぱい飲んだ。個性的な人々がコーヒー一杯で粘っていた。都会人の潤いを手に入れる方法だ。これが福山駅ではこうはいかない。尾道でも無理だ。大都会だから可能なことだ。私は心に余裕がないから、そんなことさえできなかった。人の気配や話し声を聞いているだけでほっとした。ああ、自分は人間が好きなのだと思った。人のぬくもりをこんなにも渇望しているのだと思った。体本位で行けば当然そうなる。簡単にわかることだ。b校で得たものは大きい。e女史やo女史との衝突、軋轢を越えて漸くここまで来た。wさんやyさん、nさんとも良好とは言いがたい。知らずに傷つけている。悪い癖だ。脳で考えないで体本位に戻ればほとんどの問題は解決する。体本位ということと、感謝と言うことだ。女は確かに馬鹿だが、体本位で生きているから男みたいに馬鹿な間違いはしない。私も体本位で行こう。 新世界の町につながっていたので歩いてみた。最初は少し恐かったが、慣れればどうってことない。串カツ屋、スマートボール、映画館、劇場。楽しかった。 人が偉く見える。生き生きと人生を謳歌しているように見える。私も早くそうなろう。会社に貢献できるようになろう。頭で生きるのは止めて体で生きよう。人に感謝でき、社会に貢献できる人になろう。悪の道から足を洗おう。 この年になって漸く人の世が見えてきた。私も凡俗の一人だ。体を使って生きていこう。仕事は全て肉体労働と考えて間違いない。今までいかに盲目で生きてきたか最近わかる。なぜ人が私を嫌うかわかる。それがわかれば嫌われない方法もわかる。素直になることだ。私は超人ではない。凡人だ。こつこつ努力することだ。そうすればいつか報われる。 普通の人の偉さを感じる。自分はエリートなんかではない。凡人と一緒に額に汗して働くのだ。頭ではなく体を使うのだ。普通の人が皆偉く見える。本当に偉いんだと思う。少なくとも今の私と比べたらほとんどの普通の人はすごいと思う。普通に働いて家庭を営む人々は本当に偉大だと素直に思う。 女も子供も偉いなと思う。そのことに気付くことができたんだから私も捨てたもんじゃない。決して自分を諦めてはいけない。 体本位で生きていこう。私以外の人が偉く見えるのは良い傾向だ。人を差別したりしなくなる。正常化への第一歩だ。私は人を差別するほどえらくはない。偉くても人を差別したりはしない。体本位で行けばすぐわかることだ。
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