昨日は同窓会に行って大変緊張した。同窓会とは本来同じ年の同じクラスの者が集まるものだがこれほど年が違うと何のことやらわからない。緊張するばかりだ。でもお話はとても面白かった。南極にいった理由が行きたかったからというのは笑った。私と同じお調子者、好奇心の塊だ。都市は好奇心を満たしてくれる。田舎ではこうはいかない。やっぱり都市が好きだ。 でも昨日は自分の限界を感じた。いきなりハードルが高い。低いハードルを設定して一つずつクリアーするようにしよう。人に嫌われる性格を何とかしようと思った。でも問題があるから休んでいるので仕方のない面もある。疲れているときは悪い面が出るので人に会わないほうが良い。人に好かれることを恐れているんだと思う。人に好かれることは良いことだ。嬉しいことだ。社会に参加できる最低条件だ。でもだいぶ仕事ができるようになった。この調子で悪い面を直していけば十分行ける。 やっぱり悪いことばかり考えてきたから顔に出るんだな。どこに行っても怪しまれる。排除される。たとえどこかにもぐりこんでもすぐに怪しまれ、つまみ出される。自分がどういうことを考え、どういう行動をしているか良く考え、慎重に行動しよう。そうすれば自分の高い能力を生かして社会に貢献できる。昨日お会いした皆さんは皆そうして自分の力を社会で十二分に発揮して、相応の社会的地位を築いてきた人ばかりだ。私が場違いだなと感じる一番の理由はそこにある。 活動も良いが、休みも必要だ。今は疲れが溜まっている。自分を酷使することも自分に害悪を加えているのと同じだ。それが続けばやがて人に迷惑をかける事態にもなりかねない。ゆっくり休もう。そのために休んでいるのだ。 やっぱり宗教が必要だ。私だけではなく誰でも。特に私は悪いことばかり考えてしまう癖があるので、宗教的な思考を取り入れて、というより宗教的に生きようと思う。理性で正しいことは何なのかを常に意識し、良心の命ずるとおりに生きよう。悪の心に流されるまま生きてはいけない。宅間氏のようになってしまう。尾崎のような死に方をしてしまう。彩姐さんはボーダーっぽいと思うけど女の強さで立派にしたたかに自由に生きていらっしゃる。女でありながら尊敬できる人は彩姐さんをおいて他にいない。 今日は社会企業家ということでイベントに行ってきた。一癖も二癖もある皆さんは見ているだけで飽きなかった。途中嫌がらせとかされたけど余りにも面白かったので最後までいた。私は内面が大きく変わってきて普通の人と同じように考えることができるようになってきた。そこで行動もそれに合わせて変えたらいいんじゃないかと気付いた。内面が変化したことを行動で外に示すのだ。そうすれば過敏状態は解消されてうまく行く。今疲れ切っている。本当に毎日一所懸命生きている。宗教的に生きようと思った。ただ外界の物事に反応するだけではとても生きてはいけない。どうすれば世の中に貢献できるかとか、正しいことだけをやろうとか道徳的なことを考えて常に行動しようと思う。生きることは運動だ。生を極限まで燃焼しつくすことだ。客観的に自分をセルフプロデュースして自由に生きていけばいいのだ。過敏状態からそうして脱出することは可能だと思った。 ラーメン屋亀王というのに入った。谷九にある。入るつもりではなかったがおいしかった。私が始めて生まれ変わって受け入れられた店として永遠に記憶されるだろう。私はvipのように扱われ、大変気分が良かった。生まれ変わった私は行動も全く新しいものに変えて良いんだと思い、その通りに行動し受け入れられた。その意味で記念すべき場所である。フランス系カナダ人の精神科医の本を読んでいた。エキサイティングであった。私の中で何かが大爆発を起こして、もはや止めようがない。かつてのような制御不能なものではなく、全く穏やかで、常識的で親和的で、世間から受け入れられ、世の中から感謝され尊敬される。もともとそういう身分であったのに自ら身を落としたのだ。馬鹿な奴もいたものだ。黙って働いていれば良い身分になれたのに。でも今からでも十分間に合う。私は生まれ変わった。何でも思い通りに行動し、全くその通りに受け入れられ、人々から敬われ、感謝され、尊敬され、豊かになれる。これが私のこれからの人生である。そう確信した。 先日は京大oクラブに出席して大いに勇気付けられた。大いなる力に守られていると感じ、自分も恥ずかしくないように頑張ろうと思ったことであった。清らかな心の結びつきは非常に良いものだ。私の中にもそのような清らかな気持ちが熱く、脈脈と流れているのを感じ勇気付けられた。 私はもう悪いことをしなくても良いんだ。良いことだけをして皆に感謝され尊敬されて豊かになり、皆を幸せにすることができるときがきたのだ。心が変わってしまったので、行動も言葉も変えていいのだ。自分が変わったことを周囲に誇示しても一向に構わない。私がこんなにすばらしい人間だということを誰が嫌がるだろう。皆歓迎し、祝福するだろう。
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