昨日は起業セミナー楽しかった。輝かしい第一歩にしたい。私は神だ。でも私だけではなく人間は神なのだ。女も男も子供も若者も老人も皆神なのだ。自ずから無限の価値とパワーを持ってこの世に誕生した、超新星なのだ。真面目に生きていいんだ。私は人より恵まれているから、真面目に生きるだけですごい価値があるのだ。パワーがあるのだ。もう時間はない。本質的なこと、大事なこと欲しいものだけに絞ってやっていこう。もう回り道をしている暇はない。逃げ隠れしている場合じゃない。ああ楽しい。人生は楽しいと初めて感じた。最も穏やかで優しく、繊細で宗教的で崇高で高貴なやり方でどんな願望をもかなえることができる。しかも今すぐにだ。楽しく人と付き合いができて、その中で自己実現し、成長し、欲求を十分満たすことができる。物質的にも霊的にも。 疲れ、気分が悪くなるとネガティブな思考になる。なぜ嫌なのか。女が。いくら嫌っても良いし、いくら嫌われても良い。仕方のないことだ。私の力を超えている。私は自分の感情や欲求を抑圧してしまう。そして多分人にも同じ事を強いてしまう。自分の好き嫌いや感情を出す人間を見ると不快になる。女や子供が不快なのはそのせいだ。女や子供は哀れな生き物だ。若者も老人もそうだ。中高年だって哀れだ。哀れでないものはいない。だから恐がる必要などないのだ。 女が恐くて嫌いならそれはそれでいいじゃないか。本当は怖がるほどのものじゃないということはわかっている。だから順々に徐々に恐怖を取り除いていこう。それは可能だ。 今日はナオミの家を見に行った。面白かった。あの女はやっぱり恐かったが、仕方がない。でも最後はよくしゃべった。これは話して良い、悪いということが前よりはわかるようになった。自分と他人の壁という問題が少しほどけてきた。変われば変わるものだ。私が大人になるのにこれだけかかったということだ。昨日書いたように穏やかで、優しく、親切で温厚な態度だけで全て通すことができる。正直で善良な私が唯一価値があるのだ。悪の私には何の価値もない。いくら悪ぶってもだめなのだ。何の役にも立たないのだ。 悪いことをされても自分は悪いことをする必要はない。悪いことをやっているやつがいたとしてもまねする必要はない。 すごく簡単なことのような気がする。そのことに気付くまでにこんなにも長い苦しみと混乱と、他人と自分を傷つけ、人生の貴重な時間を空費してきたのだ。でもそれは今全て報われた。それは最も穏やかで最も優しく最も親切で奉仕の精神に満ち、宗教的で崇高で敬虔で高貴で勇敢で美しい行いのみが価値があり、認められるということだ。その場合のみがwin-winの関係になるのだ。誰とも衝突も葛藤もしない。この間の社長さんの話で私は救われた。人の困っていることを助けてあげよう、何とかしてあげようという気持ちだけが価値がある行為なのだ。お金は命と等価なものだ。血と汗であがなわれたものだ。この崇高で宗教的な気付きだけが意味があり、世間の人が容易に普通に行っていることなのだ。そして私が今までどうしてもできなかった、しようとしなかったことなのだ。wとの関係だって衝突なんかする必要は全くないと気付いた。いつでもwin-winの関係になれるものなのだ。私が前期のような利他的な宗教的な穏やかな気持ちになり、そのように現に常に行動する用にように心がけるならばいつでも可能なことなのだ。結婚もできるし、子供も持てるのだ。私の悪とトラブルと破滅を求めて高速回転する、脳の悪い状態が直ちに終息し、好循環に転じる唯一の道なのだ。誰も苦しめず、自分も苦しめず、自他を共に利する共存共栄の道なのだ。アングロサクソンでさえそんなことくらいはわかっているはずだ。 なぜ姉が私を毛嫌いしていたかわかった。今でも女に警戒される理由は同じだ。それは穏やかで優しく、洗練されていて思いやりがあって、崇高で宗教的な奉仕的精神が全く欠けていて、自分の利益だけを他人の迷惑を顧みず、追求することにある。それを世間では悪と言う。兄や姉は私を本当に嫌っていた。私は私で理不尽だと怒っていたが、今思えばもっともだったかもしれない。道徳に対する理解力が不足していた。自然な行動や心の働きでそれが表せるのが普通の人間であり、それができるようになって初めて大人と呼ばれるのだ。 自分や他人を傷つけようとしている、ということがその状態になっていないことのシグナルだ。私は極度の緊張の余り、常にスイッチがオンになっていて、いつでも誰でも傷つけようとする。そういうタイプはいくらでも世の中にいる。境界例といわれる連中だ。私は意志の力でそれを脱出できることを確信した。競争なんかしなくていいのだ。利他的な行為と引き換えにきわめて穏やかで優しい楽な方法で望みのものを手に入れられるのだ。こんな自明のことに気付かなかったなんて。情けは人のためならず。必ず帰ってくるのだ。 恐らく今後は誰とも争うことなく、望みのものを手に入れ、幸せをつかむことだろう。誰もができていることだ。egで頭が勝手に動くようになった。夜も眠れなくなった。過労の余り、いらいらして攻撃的になった。被害妄想的な過敏状態になった。それは自己防衛的であることでは解消されない。穏やかで優しく宗教的であることでのみ救われるだろう。働くときは働く。でも休むときは休む。穏やかで優しくあることは簡単だ。常にそうでありたい。そのときだけが生きているといえるのだ。生きる価値があるといえるのだ。利他的で献身的で宗教的であるときのみ。
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