希望の日記

2006年04月03日(月) 今日

 今日は昨日と打って変わって良い天気だ。私の未来を祝福しているようだ。女を恐いと思う。ヤンキーとか恐いと思う。それは相手からすると攻撃と映るようだ。でもそれはやむをえないだろう。本当に恐いのだから。例えばwが恐いと思う。でも怖いという態度をしていると向こうも嫌がる。攻撃されていると感じる。あのババアとの間に起こったことと同じだ。どうしても避けられないとわかったら、恐がらないことが大事じゃないか。扁桃体か何かが以上に興奮しているのだ。だから自分では理由はわからない。恐くないようにする方法はあるらしい。もらはら講座で教えてくれる。
私はヤンキーだめなんですよ。でも例えばヤンキーであっても心を開いてきたら、相手にしてやったらいいじゃないか。それができないということが悪い点だ。はっきり敵対的、攻撃的な行為であって、外交儀礼上、大変な違反行為ということになる。その根源にあるのが昨日気づいた悪への親和性であって、生まれつきか三つ子の魂か私に組み込まれたものだ。それをしかし前頭全野の力でコントロールすることは可能だ。宅間みたいな奴であっても、殺すのではなく許して、矯正し、更生させることは十分可能であって、そのほうがより望ましい。宮崎もただ殺すのではなく、治療することが人権上望ましい。頭にかっと血が上って、相手を殺したいと思うのは相手と同じレベルに留まることだ。一段上に上って相手を許すことがより宗教的で崇高で気高く、自分も相手も救われる可能性が高い。相手が死んでしまったら相手に謝罪してもらう可能性が永遠に失われる。宅間は狂人ではない以上、改心して悔い改め、謝罪する可能性はゼロではなかったことは疑いない。宗教的に生きたいものだ。wさんでも顔が怖いとかそんな原始的な理由で拒絶するのは極めて未熟な態度だ。和尚さんのように懐に入れることがより大人な態度だ。私はそれができそうな気がした。
 今日は森田の会に行って来た。リーダーの何とかさんが何か普通の慰めの言葉をかけてくれて、ジンと来て涙が出そうになった。やっぱり弱っているのだ。女は容赦がない。こちらが弱っていると見ると余計に攻撃してくる。信じられない。全く信じられない。恐怖のサイクルができている。でもそれほど恐がるほどのものじゃないとわかってきた。弱くて馬鹿でどうしようもない奴なのだ。何で恐れる必要がある。
 優しく穏やかで、崇高で気高く、献身的で理想的で宗教的な行為だけが価値があるのだ。金になるかどうかにかかわりなく。名誉とか地位とは関係なく。全ての人はそうしている。
 体も自然に動くし、心も同じように自然に動くのだ。自然に動くままに任せて置けばいいのだ。そうすれば自然にうまく行く。女なんか放っておけばいいのだ。


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