昨日はテンションの下がる飲み会だった。何か変な交流サークルで難しいことを言う。食べない、飲まない、しゃべらない、というわけのわからないやつらだった。しまいにお互い同士、携帯のアドレス交換し始めてものすごく不愉快だった。差別だ。女が嫌いだ。嫌いで当然だと思う。好きになる必要などない。嫌いなものを嫌いといっていいのだ。ということを悟った。 怖いという感情と嫌いという感情は多分ほぼ等しい。女が恐いと思うから嫌いだと思う。なぜ怖いかというと簡単に私を傷つけることができ、全く無防備だからだ。キチガイみたいな境界例の女ども。嫌いで当然だろう。どれだけ嫌ってもいいのだと気付いた。嫌いなものを好きにならないといけないという風に思うからおかしくなる。嫌いなものは好きにはならない。嫌いでいいのだ。見合いも何回もしたが、結局恐いからうまく行かなかった。本当に恐かった。嫌いだし、絶対に仲良くできない。大阪の女は全員ヤンキーだ。ヤンキーでない女の方がむしろ恐い。本当に攻撃的で、犯罪者といっても間違いない。 女は全員境界例だ。こんなものまともに相手にできるわけがない。何で仲良くしようなんて思うのか全くわからない。 女は恐い。すぐに私を攻撃してくる。でもいつでもどんな手段でも即座に反撃していい。そう思うと全く恐くない。どんな陰湿な攻撃も全く恐くない。陰湿というのは無力ということだ。無力なものがなぜ恐いのだ。恐いわけがない。 恐がりと言うのは悪いことではないとヒクソンが言っていた。危険を察知できるからだ。クレバーだからだ。だから悪いことではない。でも恐がる必要のないものを恐がるとか、そのため日常生活にも支障をきたすとかになると問題だ。呼吸法がすごく効果があるとわかったのでこれに専念しよう。 昨日はいやな疲れ方をした。森田の会で既に変な疲れ方をしているところに、若者グループと全く噛み合わない話をして本当に疲れた。ああいうのがすごくボディーブローみたいに効いてくる。コントロールから自由になることがモラハラからの自由だ。あのキチガイに精神的にコントロールされていることが問題の本質で、私はもう8割方自由になった。人間は九割方善良で、何かに忠実であろうとする。何かに忠実であることはほとんどの場合、善良なことである。でもその対象が狂ったものである場合もある。ナチスとか戦時中の日本みたいに、日本人の善良なところを悪用して悪いことをするやつがいる。ある種の新興宗教とか。だから批判的精神も健全なことである。 婆へ。私はお前を許せない。でも神は許せといっているような気がする。いつの日かお前を許せる日が来るかもしれないと思っている。私はお前なんか全く恐くない。私はお前のコントロールから全く自由になった。お前は全く無力なババアに過ぎない。死すべき哀れな存在だ。私はお前のコントロールから完全に脱した。では永久にさようなら。 私は女と一緒にいると傷つく。それだけで。自分を守ることができないからだ。善良なだけではだめだ。私も善良なだけではない。だから苦しむ。大事なのは善良かどうかではなく、自分を守れるかどうかだ。恐怖と不安をコントロールできれば、恐怖にコントロールされることはない。恐怖政治はマイナスしかもたらさない。孔子の言うように徳による政治がベストだ。人間らしく生きたい。それは可能なのだ。イルカを見習え。 朝日カルチャーに行ってきた。面白い。植島先生は面白い。私の問題意識と一致する。日本人はなるほど宗教的だ。今日は疲れた。それでも不安定にはならない。危険な感じが全くしない。呼吸法のお蔭だ。善良だけではだめだ。人間の中には善と悪が共存するからだ。自分を守れる第一歩は呼吸法だ。呼吸法は護身術だったのだ。
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