希望の日記

2006年04月23日(日) 今日

昨日は楽しかった。クルーズの説明会にいって、地中海クルーズの説明を受けた。皆さん、余裕があって世界中旅行していらっしゃる人ばかりであった。一人自分にそっくりな男を見つけて嬉しくなった。話してみたいものだ。そこで一歩が踏み出せないのが友達ができない理由だ。
それからお遍路に行ったがこれはつまらなかった。俗物だ。須藤元気の話は唯一面白かった。夕方天満に移動して「家族ごっこ」鑑賞。小林育栄が良かった。また行きたい。ああ、毎日充実している。
今結構充実しているかもしれない。ものすごい勢いで目覚めつつある。多分、30年ぶりくらいに脳が目覚めつつある。今までさなぎみたいな状態だったのが漸く空を脱して生き始めたのだ。自分を守るためならいつでも何をしてもいいのだ。呼吸法だけで全てがうまく行き始めた。免疫力、防衛力が付いてきたのだ。自分の身は自分で守っていいのだ。そう考えるとすごく楽になった。女なんかを恐がる理由が全くないことが、体からよくわかった。イルカだと思えばいいのだ。女の存在理由は何か。あんなに無能なのに。それは命の守り手、心の癒し手としての役割だ。男の性の相手になり、子供を生み、育て、食事を作り、家を守る女の役割はそういうことだ。だから癒されたいがためにイルカに会いたいというのはいいが、すぐ身近に言葉の通じるイルカがうようよいるのだと考えればいいのだ。
私は理屈っぽいと言われることもある。数学は嫌いだったのに。論理的なことが苦手だといってもそれは食わず嫌いで、やれば人並みにできる。なぜできないかというと修練が嫌いだからだ。同じことの単調な繰り返し。それが退屈だからだ。スポーツが嫌いなのも同じ理由だ。それが嫌だと言うと無理やり暴力でやらされるというイメージ。イメージではなく、実際そうだ。もちろんそれは理にかなっているのだ。繰り返しによって、神経と筋肉のネットワークができるので、最善の方法なのだ。最近になってやっとそう気付いた。うまく世の中に適応できない人の多くはそういう修練ができなくなっている人だろう。森田療法も理屈じゃなくて、修練である。だから理にかなっていて万人に通用する。私が信じるゆえんである。
今ものすごく調子がいいので全ての問題を片付ける数少ないチャンスだと思う。あらゆることが理解できるようになった。働くのはなぜか。自分の命を守るためだ。仕事の第一歩は、食べること、排泄すること、眠ることだ。おかしくなると、食べられなくなるし、眠れなくなる。最近漸く食べられるし、眠れるようになった。働くことが自分の命を守ることであり、人を助けることだとわかれば、働くことに不同意ではなくなる。むしろ楽しく自発的になる。驚いたことに自分で自分が守れなくなっていた。多分、中学くらいから。三十数年にもなる。これは体が動かなくなっても無理はない。今修練をやっている。全ての仕事は簡単な修練の積み重ねだ。どんなに複雑に見える仕事でもそうだ。偉大な小説でも絵画でも音楽でもものすごい修練の積み重ね以外にそれができる方法はない。天才とはそれが自然にできる人だ。何も努力しない天才などありえず、人並みはずれた努力が苦もなくできる才能のある人のことだ。
自分の命を狙うやつは本当に腹が立つ。殺意を覚えて当然だ。自分よりどれだけ強かろうと向かっていくだろう。母親は自分の子供が襲われそうになれば、どんな凶暴なやつにでも向かっていくだろう。私の女に対する今の気持ちはそういうことだ。何で私に喧嘩を売ってくるのか知らないが、私は絶対に許さない。絶対に負けない。女なんかに力でも口でも頭でもありとあらゆることで絶対に負けない。そんなものが何で恐いのか。全く恐くない。女を傷つけてはいけないと思い込んでいるからだろう。何で一方的に言われないといけないのか。何で黙っていないといけないのか。何で仲良くなんかしないといけないのか。こんなに嫌いなのに。


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