今日はロカビリーと中尾ミエらのコンサートに行ってきた。何で行こうと思ったのか今となっては思い出せないが、行ってよかったと思う。おばさんたちが踊っているのを見て面白かった。減感作療法としても良かったと思う。でも嫌なことは嫌と言ったほうがよい。自分の身は自分で守るのだ。 こんな事態を招いたのも不徳の致すところだ。その根源を見極めて事態を打開しよう。かなり見えてきた。 私はどうしても宗教が必要だ。何も恐れないことはおかしい。現世的権力を嫌うのはいい。そんなやつはいくらでもいるし、居場所だってある。でも神仏を恐れないやつは居場所がない。現世でも来世でも。 本当に人間は弱い。無力だ。コンサートが終わって明るい戸外に出たとき、老人たちの群れに加わってゆっくり歩いていたとき、つくづくそう思った。人を助けるとき、人は救われるし、変われると言うようなことをあのおばさんは言った。結局それに尽きると思う。ボランティアをやってみたらどうか。あるいは宗教的な無償の行為。快楽を貪る行為ではなく。 何かに無心に全身全霊で打ち込むこと、他人がどう思おうと構わぬこと。ここ30年くらい何かに打ち込んだことは一度もない。仕事でも趣味でも私生活でも。それが良いことだと思った。でもよくない。腐ってきてしまう。何かに打ち込もう。無心に。私利私欲でなしに、一所懸命に。誰かと仲良くすることが大事なのではない。人間は限りなく無力だ。そんなものに頼ってはいけない。自分のできることを必死にやるのだ。買い込んだ本を全部読む。行きたい温泉に全部行く。海外に行く。 何かに打ち込むことはおばはんとは関係ない。打ち込んでいるときはそんなことは忘れるだろう。ヨガやスポーツが楽しいのはそういうことを忘れるからだ。おばはんを見ていておばはんを忘れるのはさすがに難しい。それでも今日はかなり平気になった。おばはんに囲まれておばはんを見る。拷問か。 善人であろうとすることはストレスの溜まることだ。こうして休むことは本当に自分にとっていいことだ。すぐに善人の振りをしてしまう私の悪い点が出ないからだ。はっきり言って文校では本当にひどい目に遭った。特にあのWには本当にひどい嫌がらせを受けた。私は善人ではない。だから善人のふりなんかしない。自分の身は自分で守る。そういうことだ。誰かが守ってくれると思うから善人でいようと思う。でも自分の身は自分で守ると言うのなら善人でなくても良い。
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