今日は少し体調が良い。昨日少し眠れたのが良かった。明日は元気に温泉に行きたい。書いてる暇があったら読もうと思う。書くことは自分の中から搾り出す苦しい行為だが、読むことは人から贈り物を受け取る楽しい行為だからだ。 恐がらないことだ。恐がる必要はないのだ。恐がると向こうが恐がる場合と、逆に攻撃してくる場合とある。あのキチガイは攻撃してきた。自己愛人格障害は自分にも当てはまる。入社したときのあのキチガイにされたことは、モラハラだが、知らぬ間にそれが自分にうつっている。それをあのババアが何でもまねするからそれを取り入れたのだ。仕事だけはする気がしないのはなぜだろう。集団のために働くことをこんなにも嫌がるのはなぜだろう。 自由であること。あのキチガイババアは本当に自由だ。それがねたましいのだ。人間がこんなに自由であってはならないと言う思い込みがある。大阪のおばはんは全く自由だ。何でそんなに自由なんだと怒っても仕方がない。それから身を守るためには野獣を相手にするようにしないといけない。一からしつけをしようとしてもしつけられるはずがない。恐がらないことが必要だ。恐がる必要はないのだ。恐がる必要はない。私も全く自由だ。全く自由なのだ。だから恐がる必要はないのだ。全く自由な人間は野獣を恐れない。 私は恐がりだが、全く恐れしらずな面もある。両方があってバランスしているのだ。私も知らないうちに人を恐がらせているのかもしれない。暗いとか何を考えているのかわからないとか。実際発病してからは自分でも自分がよくわからない。ところでこんな非生産的なことをしているより、元気を取り戻してよく働き、よく遊ぶと言うのが重要だ。 恐がる必要はないが、全く無防備とか無抵抗とか言うのは良くない。全く良くない。本当に攻撃してくるやつがいるのだ。本当に世の中が平和で善意に満ちた人ばかりならそれでもいいが、そうじゃないやつが多すぎる。姉がそうだった。中学の担任がそうだった。こちらがどんなに善意であっても犯罪者はそんなことはお構いなしだ。恐がる必要がないということはこちらがいくらでも抵抗できると言うことだ。あの職場は私が全く抵抗できないようになっていた。私はあの職場には戻らない。完全に安全な状態に戻らない限りは。アサーティブの研修でも変な女にいじめられた。文校でもそうだ。職場でもどの職場でもだ。無抵抗ではいけないのだ。恐がっているから抵抗できないのだ。犯罪者はあの手この手で、平気で犯罪的なことをしてくる。 全く自由に自分を守ってよいから恐がる必要はないので、全く自分で自分の手を縛って、無抵抗と言うならそれは恐くない方がおかしい。命知らずと言うべきだ。力の均衡があって、こちらの抵抗力がはっきり確立しているから、安心していられるだろう。恐がる必要がないのは、女なんかに負けるわけがないからだ。私が法律を学んだのは自分を守るためで十分筋道が通っている。世の中には犯罪者みたいなやつがうようよしているのであって、その中で素っ裸で歩いているようなものだ。無抵抗、無防備であってはならない。恐がる必要はないというのはそういう意味だ。危険でないと言うのではない。子供でも男の子は明らかに攻撃してくるのだから、簡単に言えば殺したっていいということだ。自分の身を守るためにはそういうことだ。弱肉強食と言うことだ。 姉が何の理由もなく私をいかにも道徳的な理由で、猛然と攻撃していた。私が嫌いと言う以外の何の理由もなく。人が私を嫌ったとしても私には責任はない。自分を責める必要はない。何とかして好かれないといけない理由もない。父が死んだときも私を道徳的に攻め立てた。何を考えているのかわからない。私を見ると何かスイッチが入るらしい。あのババアと同じだ。恐れる必要がないのはいつでも反撃ができるからだ。私は暴力以外自分を守る術がなかったので暴力を振るった。口で人を傷つけることと、暴力は等価と確信した。だから止めなかった。私を傷つける言葉を吐き続ける限りは。この間、母親の見舞いをかねて行った時もおかしな対応だった。人としておかしい。絶対に私を普通に扱おうとはしない。普通には絶対にしゃべらない。食事もハンバーグ一個でビールは缶ビール350m一缶。俺が酒のみなの知ってるだろう。しかも久し振りと言うか初めて家に行ったのに何の親しみも持たないと言うのは精神的虐待だったと思う。あの姉はずっと私に精神的虐待をしていたのだ。この間、白浜に行った時も、全く私に連絡を取らずに勝手に行動して、訳がわからなかった。何でこんな目に遭わないといけないのかわからない。とにかく私を恐がり、先制攻撃してきた。私は何もしていない。私は人と仲良くしようなんて思わない。今まで仲良くしてもらったことなんかない。恐れる必要がないというのはどんな手段を使っても自分を守ってよいと言うことだ。こちらにも対等な防御手段があって初めて恐がる必要がないということだ。私は抗議と準備のために一年半会社を休む。引きこもりではない。引きこもりであったとしてもだからどうしたと言いたい。 今モラハラの記述を読んでいて、加害者の性格ややっていることが自分が無意識にやっていることと一致しているのではないかと思った。私は自分が愛情を感じない存在にはそういう残酷な態度を無意識のうちに取ることがある。それに気付いた。私は姉に愛情を感じなかった。そういう態度を自然に無意識に取っていたので、不安を感じて姉は牽制していたのではないか。傷つけられるのではないか、あるいは現に傷つけられていると感じて私を敵視したのではないかと思う。私は私を攻撃する人間をアプリオリに悪と決め付ける。どういう理由で攻撃するのかを深くは考えない。もちろんそんな暇はないだろう。いきなり暴力を振るわれているように感じるからだ。私は女に何の愛情も感じないだけでなく嫉妬を感じる。ほとんどの女はそうだろう。私は半分以上女なのでそれはごく自然なことだ。それで知らず知らずのうちにモラハラ的に振舞っている。あのババアは何でもまねするから、それをそっくりそのまままねして私にぶつけたのだ。ヤンキーはそういう育ち方をする。何の愛情もかけられずモラハラ的に育つ。だから私のやっていることが本能的にわかるらしく、と言うより全く自分たちと同類に思えるらしい。私は自分のことを邪悪と思ったりするがやつらにとっては当たり前のことらしい。 私は私に起こったことをほぼ完全に理解した。私が女どもにモラハラ的行為を行っていたのだ。これは明らかだ。母や姉に私はそういうことをしていた。モラハラと言うより、本当に暴力だ。私の中で道徳が崩壊した。九州はそういう境界例の人格障害者の巣なので私は抗することができなかった。会社を何社もくびになったのはそういう道徳的崩壊によるものだ。 道徳的に自分を守ることができなければならない。おかしな人間と付き合ってはいけない。私のこういう奇怪な怪物的性格はどうしてできたのだろう。自己愛性人格障害の本を読んだほうがよいのではないか。三島由紀夫もそうだった。そうするとあのキチガイをどうこうしようとか直そうとかよりも、自分を治したほうがよいのではないか。 私は女を愛することはできない。これは仕方のないことだ。猫が空を飛べないからといって責めることはできない。でも仕事に支障が出たり、病気になったりするのは大きな損失だ。と言うより人生そのもを失っているようなものだ。銀行は女が嫌いで嫌になり、病院は看護婦が嫌いで、今の会社も女でもめて左遷された。本当に女が嫌いだ。それは直すことはできない。でも日常や職業に支障が出るのはこれ以上嫌だ。破滅だ。と言うかなんで私だけこんな不利益を受けなければいけないのか。愛する必要はない。でもまともに争うくらい馬鹿なことはない。女なんかどうにでもなる。恐がる必要はない。社会は男中心にできているからだ。女がしゃしゃり出てくる場所ではない。いくらでも勝ち目がある。恐がる必要もないし、一歩も退く必要はないのだ。 女を恐がらない。女を相手にしない。女と喧嘩しない。最初から最後までこちらが勝者だからだ。 恐がらないことだ。恐がる必要はない。今まで私にひどいことをしたやつ全員視ね。何で俺がこんな目に遭わないといけないのか全くわからない。全くわからない。何で俺があんな職場にいなければならないのか。全くわからない。n課長も同じ気持ちだと言うことを俺に伝えたかったのだろう。私はそれを受け止められなかった。私の気持ちをわかってくれるやつはいないと思っていた。hはちょっとおかしいと思う。付き合わないほうが良い。執行委員か何か知らないが、私のことを全く理解していない。俺をひどい目にあわせるやつを殺したい。これを合理化したくない。説明も受容もできない。絶対に許せない。何であんな職場にいなければならないのか。恐がる必要はないということはいつでも自由に必要十分に反撃できると言うことが保障されて始めて言える。こちらは無防備無抵抗で、恐がるなと言われても無理だ。ひどいことをされて我慢しろとか、受け入れろとか言われても困る。私が言いたいのはそういうことだ。私が言いたいのはなぜこちらが無防備無抵抗なのに際限もなくこちらが病気になるまで攻撃してくるのかわからないと言うことだ。こちらも好きなだけ反撃していいのならばわかるが、全く反撃できないじゃないか。本当に女と関西人は理解できない。でも関東に行けばもっとひどいババアがいるに決まっている。父は暴力的な人間だった。あれだけ酒を飲み自分を痛めつけ、間接的に残りの家族に惨めな思いをさせた。私は文校のあの女どもを許すことはできない。信じられないやつらだ。犬畜生だ。
|