今日は少し風邪がよくなった。熱が下がった。恐がることはない。自分の利益を死守すればいいだけだ。マインドコントロールされる必要はない。全くマインドコントロールされない方法はある。女なんかになんでマインドコントロールされないといけないのか。 恐がらないことが大事だ。これが最大の発見でこれに尽きると思う。恐がらなければ本当は問題が何もないことに気付く。相手は実はこちらの承認と愛情を求めているだけで、それは幼児のように素直な心なんじゃないか。素直な心を傷つければ起こるのは当然なんじゃないか。フッキーも確かにキチガイだが、あそこまで怒り狂う必要もない。あのキチガイババアも同じだ。気持ち悪いと言うことは確かに恐い。ハンセン病患者が恐れられるのは危害を加えるからでないことは明らかで、気持ち悪いからだが、気持ち悪いことが恐怖を呼び覚まし、恐怖が一定の権力作用を帯びることはある。昔そういう哲学書を読んだことがある。アブジェクション論。でも本当に気持ち悪いとか生命身体財産にとって危険なのものも同様に気持ち悪い。そういうものを避けることは当然許される。衛生学の問題だ。不潔を避け、清潔に保つことは当然のことだ。キチガイや犯罪者と付き合わないと言うのも差別ではなく、当然の市民の義務だ。売春婦と接触しないとか。恐がるべきものを恐がらず、恐がるべきでないものを恐がる。これをきちんと調整すれば、再び、社会復帰は可能だ。恐れの気持ちは必要だろう。宗教的、敬虔な気持ちは道徳や法律、善に通じる。フッキーみたいな本物のキチガイは恐がるべきなんだ。売春婦もやくざも恐がっても恥ずかしくないんだ。やくざが恐がられなかったら、商売上がったりだ。あのキチガイババアは恐がる必要はないということだ。恐がる必要はないものを恐がる必要はないということに尽きる。 恐がらないと言うのに尽きる。おばはんは抑圧されているので意外に恐がる。人は人を恐れている。日本人であろうとアメリカ人であろうと人を恐れる。でもそれは当然で健全なことだ。アメリカ人はフリーズと言って立ち止まらなかったら発砲する。それで罪には問われない。そういう国だ。 同和が恐いと言う認識ができるとそれが一定の力を持つようになる。警察が駐車違反を取り締まらないと言う話を聞いたことがある。嘘かホントか知らないが恐いものが一定の力を持つと言うことはある。あの職場で気の狂ったやつが2,3いるがそいつらは一定の権力を持ちたがっているのだ。汚いやつらだ。嫌がられているだけなのに、それで権力をほしがるなんて。 恐がる必要はないのだ。キチガイだからといって何もできはしないのだから恐がる必要はない。女がキチガイだからといって何もできないのだから恐がる必要などない。モラハラ状況に陥る必要などない。呼吸法で恐怖心をコントロールできるようになれば全て解決すると悟った。私は恐怖心を失うことを恐れているのだ。汚いタオルを手放さない子供のように。汚いタオルを手放せばものすごくいろいろな可能性が開けてくる。女を恐がるのではなく役に立てることができる。女の能力はセックス以外では限られているけれども使えないわけではない。恐がらなければ世の中はそれほどおかしなものではないことがわかる。いろいろなものが見えてくるし、自分がいろいろなことができる可能性があると言うことがわかってくる。 恐がる必要なんか全くないのだ。白衣を着ていようが制服を着ていようが、恐がる必要なんか全くないのだ。モラハラ的状況に自ら身を置く必要はないのだ。自分から尊厳を放棄する必要などないのだ。あんなキチガイと付き合うことは自分の尊厳を譲り渡すことだ。恐がる必要なんかないのだ。なにが生活発見の会だ。いい加減にしろ。キチガイ集団め。キチガイを恐がる必要なんかないのだ。
|