希望の日記

2006年05月07日(日) 今日

私が元気がなくやる気がなくなり、自暴自棄になれば、あのババアの思う壺だ。それがモラハラの目的だ。結局私もあのババアがうるさく恐いのでおとなしくしてほしいから、無視して相手にしなかった。そしたら10倍になって返ってきた。私が今度は萎縮してモラハラ状態になることはあのババアの思う壺だ。あんなババアなんか恐くない。恐がれば思う壺だ。あんな無能で厄介者の馬鹿が存在理由を示せるのは人に嫌がられることだけだ。人が気分悪くなって、モラハラ状態になって、マインドコントロールすることが望みなのだ。恐がられて、自分の思い通りにしたいのだ。マインドコントロールできる自信ができてきた。他人に迎合しないことだ。モラハラから脱しないといけない。呪縛から脱しなければいけない。それができるような気がした。あいつが望むのと逆のことをすればいいのだ。あいつを怖がらなければいいのだ。あのくそ女どもを恐がらなければ好きでも嫌いでもないから、不当に扱うとか言う言いがかりを受けないですむ。自分の思い通りにできるのだ。それがマインドコントロールから脱することだ。相手が自分を憎む気持ちに屈してはいけない。必ず撥ね返さないといけない。
目の前の現実を受け入れないで、合理化しようとしてもうまく行かないのは明らかだ。嫌いなものを好きになるとか、どうしても嫌なものを受け入れるとか。中学の頃キチガイ教師に暴力を振るわれてその受け入れられない現実を受け入れようと、必死に合理化して受け入れようとしたが無駄だった。病気になった。この世に起こることを全て合理化しようとするのは虚しい試みだ。女を合理化して受け入れようとしても無駄である。恐がらないように自分をコントロールすることはできるし、それが必要にして十分である。恐がる必要など全くない。受け入れられるはずにないものを受け入れようとしてきた全ての努力は無駄であった。恐がらないよう自分をコントロールすることだ。恐がる必要のないものを恐がらないように。中途半端に受け入れるような受け入れないような態度が一番危険だ。私は女を受け入れられない。しかし恐がらないようコントロールすることは十分可能だ。暴力によらないで排除すること、自分を守ることは十分可能だ。
自分をコントロールすることと、恐がらないことと、自分の利益を守ることだ。損得を中心に考えよう。受動的に相手が改善することを待っていても改善しない。恐がってはいけない。どうすればいいかすごくわかった。相手を分析しても理解しても譲歩しても働きかけてもだめだ。本当におかしいのだ。女は。おかしいやつに何を言っても無駄だろう。何か共通点とか合意点を探ろうとしてもだめだ。完全におかしいのだ。暴力を振るおうとしているのだ。恐がらないことだ。穏やかに済まそうとか善人であろうとか馬鹿なことは考えないことだ。非暴力を貫くこと、決して屈しないこと。相手のいうことなんか聞く必要ないのだ。
咳止めと風邪薬と睡眠薬を一緒に飲んだら案の定おかしくなった。ODみたいになっている。どうしてこう世の中と折り合いが悪いのかと思う。特に女と。女同士はいつも折り合いが悪い。それが理由だ。私が女と折り合いが悪いのは。でも恐れないこと、自分で自分を守ること、それを言い聞かせよう。人が道徳的に振舞うべきことを強要する方法はない。特に関西人と女には。恐がらないことと意思の疎通は簡単ではないこと。人が善意に振舞うことは少ないと言うこと。恐がるから嫌いになる。それが相手の敵意を呼び覚ます。女なんかいつも臨戦態勢だ。いつも何かに怯えているから、こちらに何の敵意もなくてもいつの間にか加害者に仕立て上げられてしまう。善意で付き合ってはいけない。恐がってはいけない。向こうのペースに乗せられてはいけない。女に近づいてはいけない。
恐がってはいけない。と言うより、恐がる必要などない。むしろ楽しめ。人生は楽しいのにあんな変なやつのために苦しむのは大損だ。損得に徹しろ。相手が道徳的に振舞うことを期待していけない。そうしない自由があるのだ。法に触れない限りは。暴力の犠牲になってはいけない。そうなるまで放置するなんて。そうなってもまだ相手に道徳的であることを期待するなんて。損得で考えろ。私が女G嫌いなのは仕方がないことだ。しかしそのために不利益を受けるのは絶対に許せない。絶対に容認してはならない。女なんかすぐに人に危害を加える馬鹿な臆病者、卑怯者だ。何で黙ってやられてやらなければいけないのだ。いい加減にしろ。
恐がってはいけない。自分の利益、損得を最優先に考えなければならない。恐がるから嫌いになり、攻撃的になる。自分に不快感を与える人間には途方もなく攻撃的になり、容赦ない。私はワキガのせいで何度も暴力や暴言を受けてきた。文校もひどいところだった。ならず者ばかり集まるひどいところ。そこで自分が守られていると考えるなんて馬鹿だ。恐がってはいけない。ならず者に対して寛容であってはならない。何の理由もなく攻撃するやつはいるのだ。強姦魔みたいなやつはいるのだ。執拗に付けねらうストーカーみたいなやつは。そんなやつの前に無防備にいることが自殺行為だ。ババアの前に裸でいるとか。本当に馬鹿だ。相手が道徳的であることを望むとは。自分の損得を考えなくては。恐がってはいけない。恐がって相手の全く理不尽な要求を受け入れてはいけない。相手に同調したり、卑屈になってはいけない。暴力に屈してはならない。暴力を合理化してはならない。相手の暴力を正当化してはならない。暴力を手段として用いてはならない。自分を守るため以外に暴力を用いてはならない。逆に暴力を持って自分を守ることをためらってはならない。暴力を用いたくないために相手の暴力を合理化してはならない。暴力を用いるならばこちらも暴力を用いてよい。決して相手の暴力を受け入れたり、合理化したり、許したりしてはならない。自分をも守るために暴力を用いることをためらってはならない。暴力を許してはならない。合理化してはならない。受け入れてはならない。認めてはならない。暴力を振るわれて自分が悪いなどと思ってはならない。暴力は100%振るう方が悪い。アメリカはいつも悪いことをしている。誰も罰するものがいないと言うことと正しいことは違う。
恐れてはならない。恐がってはならない。相手が自分より強くても恐れてはならない。逃走という手段もある。アンクルトムはカナダに逃亡し、逃亡運動を指導したと言う。恐れる必要はない。いくらでも自分を守る手段はある。恐れることがなければ嫌いになることはない。適当にあしらうことなど簡単だ。自分が恐れられていると思うと女は図に乗る。女は決して優しくなどない。自分が強いと思ったらいじめてくる。自分が嫌われていると思うと平気で攻撃してくる。嫌うと言うことは恐れていると本能的に判断するのだ。自分がそうだからだ。私はもう社会の外側に立っている。女であれ、男であれ、簡単にコントロールできる。女を決して恐れてはならない。恐るるに足りない。全く足りない。自分の恐怖心をコントロールできれば、ほんの少しの勇気を持てば、なんでも思い通りになる。呼吸法だ。結局そこに行き着く。
恐れる必要はないということと自分の身は自分で守ってよいと言うことは表裏一体だ。人を恐れ、人の道徳心や善意にすがっているときは自分で自分を守らなくても良いと思い込んでいた。でも今は人を恐れない代わりに自分で自分の身を守ってよい、守らなければならないと言うことになる。もはや他人の善意など当てにならないと言うことを知ってしまったからだ。世界を奪おう。人の善意で自分の望みのものが手に入るか。自分を守ることを肯定することは世界を奪うことを肯定することに他ならない。恐れる必要などないということはそういうことを意味する。眠れないから本を読むやつはいるが、日記を書く奴はいないんじゃないか。


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