今日は雨らしい。女を嫌うことは損だ。時間と労力の無駄だ。女の悪い性格は直るわけはないし、私のせいではない。私のせいではないのを何で私が面倒を見ないといけないのか。女を嫌うことは親切すぎることだ。絶対に相手にしてはいけない。何か世界が開けた。自由に振舞おう。王侯貴族のように振舞おう。嫌うのさえもったいない。嫌うというのは同じ土俵にいるということだ。絶対にそれはおかしい。せっかく男に生まれたのだから、絶対にそんな損なことはしてはいけない。差別とは非常にいい仕組みだ。差別しておけば嫌いなものと距離を保てる。差別とはいい仕組みだ。婆とかコギャルとか自分から差別してくれといっているようなものだ。嫌うほどばかばかしいことはない。絶対損だ。その必要はない。もったいないことだ。中学の頃母親を嫌った。全く無益なことだ。母親は私の世話をしてくれた。それを嫌うのはよくないことだ。無益なことだ。 人を嫌うのは悲しいことだ。私は中学の頃母親を嫌った。それは純粋に意地悪な残忍な気持ちからだ。娘が思春期に父親を嫌うのと同じかもしれない。悪いがきの影響かもしれない。でもそれは意志の力でコントロールできる。宗教的な気持ちが大事だ。性的なものは違う。私が女が嫌いというと性的なものがむき出しになる。男と女を結びつけるものはそれしかないからだ。女を嫌うことの危険性はそこにもある。嫌う必要などないのだ。醜いから嫌う。それは無益なことだ。暴力的なことだ。母親を嫌うことは父親を嫌うことでもある。なぜ嫌うのかわからない。ハンセン病患者を嫌う。死馬牛処理者や芸人、遊女を嫌う。理由は様々だ。醜いから、汚らわしいから、馬鹿だから、卑しいから。差別は嫌うことのエネルギーを節約する。社会的な制度だ。差別が悪いというならその前の嫌う気持ちが問題になってくる。故しらず嫌いと言うのもある。親父差別は厳然としてある。こうなったら完全に自由になることしかないと思う。昨日の夜そう思った。村上龍みたいに穢れたもの、差別されたもの、聖なるものに踏み込んで、一体化する。そうすれば恐いものはなくなる。宗教に惹かれるのはそういう理由だ。 母親を嫌うようになった。父親を嫌うようになった。兄姉を嫌うようになった。教師を嫌うようになった。級友を嫌うようになった。日本を嫌うようになった。世界を嫌うようになった。自分を嫌うようになった。ついに自殺を図った。なぜそうなったのかわからない。嫌うことはもったいない無駄なことだ。大変な労力を強いられる。でも嫌うことには何か必然性もあったかもしれない。それを解き明かすことは不可能だ。そうではなくより高次の段階を目指すことだ。何かに夢中になることだ。体を使うことがいいだろう。
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