つくづく調子が悪い。あいつと飲んだ夜からずっと最低だ。どんだけ邪悪なパワーを持っているんだ。モラハラ光線を3時間も浴び続けて回復不能なダメージを受けた。風邪なんかじゃない。風邪薬を飲んでも治らない。kさんとも昨日おかしかった。あの人は敏感なので自分が傷つけられそうになるとわかる。今の私は誰でも腹が立つし、誰でも傷つけてしまう。邪悪な状態に入っている。人は誰でも邪悪な面を持っている。人が嫌いになる。継子いじめだ。あのババアがやっていたことは。そして私は実の母や姉と継子いじめごっこをやっていたのだ。ある日突然素直で明るい私は邪悪になった。邪悪なものをいっぱい見てしまって、邪悪になった。母や家族を憎み、学校を憎み、教師を憎み、社会を憎み、日本を憎み、人間を憎んだ。邪悪なモードに入っていた。今またあの男の邪悪なパワーを浴びて私の邪悪な面が開かれて自分の力ではどうしようもなくなっている。あの洗脳体験もいっそう自分をコントロールしがたいものにしてしまった。何を信じていいのかわからない。昨日の親鸞の教えもわからなかった。耳に入ってはこなかった。疲れている。ダメージを受けている。休むことだ。 膿を出し切るんだ。今は辛いけれどもここを越えればまた楽しい日々が待っている。母や姉とは対立関係が続いている。権力闘争だ。この間埼玉の家に行ったときにわかった。私を憎んでいるんだ。どうして人をそこまでしつこく憎むことができるのか私にはどうしても理解できない。母は私に結婚しろとは言うが、見合いを紹介してくれたことは一度もない。友達を失いたくないから紹介しないのだという。私から身を守りたいと思っている。こんな親子関係があるだろうか。父が死んでから私に対してストーカーのようになった。家に上げろとか言って来た。性的なものを感じた。恐くなって引っ越したら半狂乱になって姉に電話したらしい。頭がおかしい。私がそうしてしまったのだろう。私は女を許したり、愛したりすることはできない。でも性的なものだけが残る。相手をもののようにみてしまう。でもそれは自分に返ってくる。因果だ。私は人をたらしこむことはできるだろう。でもそれを本当に愛されることなのか。愛されたくもないものからストーカー的に狙われる。芸能人と同じだ。もてるということは、そういう形で愛を貪ることだ。どうして一人の人間を誠実に愛し、愛されることで満足できないのか。ドンファンに、光源氏になろうとするのか。私は女を人を好きとか嫌いとか言うことさえ嫌だ。もったいない。時間も手間も惜しい。心が一瞬でもとらわれ、占有されることが忌まわしい。何の利得もなく害悪だけしかないのに、なぜそんな危険なことをしないといけないのか。私はようやくその愚かしさに気付いた。あの坊さんもファンかストーカーのようになっている。それでいいのだろうか。もはや私にはそういう形の愛しか許されていないのだろうか。もの的な奴隷的な。私は宗教なしでは畜生道に落ちるだろう。父母の恩も知らない。 今の精神状態は最悪だ。でもずっと本当はそうだったのだ。最悪な状態をごまかし続けていたのだ。だから今膿を出し切ろう。誰でも邪悪な面を持っている。それは自然なことだ。でも宗教がある。人の道がある。反省や自戒がある。道徳がある。義理人情がある。一人で生きているのではないし、一人で大きくなったわけでもない。 貪る人は邪悪な相に入っている。サドは非常に能力の高い人間だった。でも性をむさぼったために邪悪の極みに行った。三島も非常に賢く、魅惑的な人物であった。でも貪ったために、邪悪な人物となって破滅した。信長もそうだ。仏教は貪ることを縛めている。あらゆる宗教はそうだ。宗教は頼るに足る。今は念仏のように心に入ってこなくても近いうちにわかるようになる。救われる。貪る。憎む。いずれもちょっとしたきっかけで邪悪な相に入って抜けられなくなる。宗教はその辺の事情を知り抜いているから心配ない。頼ることができる。そこから脱出して一段高いところにいけるよう導いてくれる。 あの坊さんも生い立ちが原因で貪ったこともあったろう。でも宗教が救いにもなり、歯止めにもなっている。でも宗教では飽き足りず、文学を貪ろうとしている。でも彼は未知を踏み迷うことはないであろう。それは経験によって裏打ちされた知恵があるからだ。 馬鹿であることはやめよう。賢くなれるはずだ。馬鹿の水溜りにいつまでもうずくまるのは止めよう。貪りたいのだ。安逸を貪りたいのだ。それは許されない。正しい道に戻ろう。獣道から脱しよう。人を憎むことは愚かな誤りであることを知ろう。美しく生きよう。立派に生きよう。安逸を貪る人間は畜生道に落ちるだろう。私を嫌ったから意地悪する。女のやることはそれに尽きる。俺の言うことを聞かないからいじめる。男のやることはそれに尽きる。賢くなろう。貪るのは止めよう。今の状態から一段高いところに行けばきっと何かが見えてくる気がする。宗教的に一段高いところに行かないと今の状態を脱することは難しいだろう。貪ることを止めない限り、畜生道から脱し、正道に戻ることは難しいだろう。 過ちを犯すことは誰にでもある。小さい過ち、大きな過ち。少年犯罪。でも更生してちゃんと生きているものもいる。なぜ更生できたか。宗教的な気付きがあったからだろう。過ちは偶然に作用された一次的な現実だ。それを反省して改めることは宗教的な意識なしにはできない。やってはいけないことはやってはいけない。二次的な現実を見ることができるかどうかだ。その目を持たなければ絶対に治らない。この間姉妹を殺したやつはやったことが悪いとは思わないと明言し、出たら同じ事を繰り返すといった。このような例もある。宗教的な目を持つことを拒否している。一次的な現実の快楽が余りにも大きい場合、人はそこから抜け出せなくなる。サドもそうだ。母親を殺したときに味わった性的快感が彼の人生の全てになってしまった。かわいそうな病人だ。しかも狂人ではないから意識ははっきりしている。憎しみや快楽は一次的な感情だ。人間として生きるには賢くならなければならない。賢くなることは楽しいこととは限らない。快楽を貪る方が楽しいに決まっている。今の私のように安逸を貪ることの方が楽だ。でもそれは現実とはかけ離れている。人間とはかけ離れている。まさに畜生道だ。母親も見放すだろう。 好きとか嫌いとか言うのは愛を貪って肝心なことを忘れている。道徳的、宗教的なことを忘れている。嫌われたら、いい気持ちはしない。あの坊さんも嫌われれば怒るだろう。貪っている。私は母の愛を貪っているのだ。貪るものは滅びていく。 18歳から私は勉強したり、働いたりすることが嫌になった。安逸を貪るようになった。不良だ。それまでは自分に厳しく道徳的だった。でもそうでない芽が芽生えていたのだ。道徳はどうしても必要だ。なぜ働かなくていけないか。宗教や道徳なしには答えは出ない。宗教や道徳を受け入れるならば簡単に答えが出る。 私はちょっとしたきっかけで邪悪の相に入って言った。怠惰、安逸、蛇淫を貪った。七つの大罪を犯した。もともとは素直でいい人間だった。能力も高かった。悪いことを始めると能力も高いだけにとことんまで行った。でも立ち直れる。 二次元で考えているからだめだ。言葉の悪い点は二次元であることだと甲野氏は言った。あのババアはいくら馬鹿とはいえ、三次元だ。二次元に三次元では勝てるわけがない。 新しいステージに上がることが必要だと思う。それは簡単なことだ。新しいステージに上がることは簡単だ。正反合という弁証法で進んでいけば二次元も三次元になる。頑張らないと。頑張ろうと自分から思うのは大丈夫だ。でも頑張り方がわからない。宗教的な意味で頑張ることが必要で、今までの延長上の貪り型の怠惰な虫のいい頑張りではだめだ。マゾヒズムは邪悪の極みだ。怠惰と迷いの極みであって、それ自体は健全なことが病的になる。私はf氏の邪悪な貪り的嫌がらせによってひどい状態に陥ったが、お蔭で大きな問題点に気付いた。 大学に入ったときも新しいステージに上がるチャンスだったのに変な作家の影響で引きこもってしまった。実に文学とは恐ろしい。世間とかかわりのないところで日陰者のように生きていくのか。kさんはそういうことを戒めている。fがネットでモラハラを仕掛けてきた。邪悪な人間はいくらでも嫌がらせの方法を思いつくものだ。病気だから仕方がない。なぜ病気か。遺伝だから仕方がない。私は付き合いたくない。絶対に嫌だ。好きとか嫌いとか関係ない。自分を傷つけられるのは嫌だ。自傷的な行為は止めよう。卑屈になる必要はない。心が晴れた。過ちは改めればいい。時間は未来に向かって開かれているのに、過去に引きこもるのは愚かだ。未来に向かって開かれた時間を生きることが生きることであって、過去に引きこもることは生きるとはいえない。 時間が未来に向かって開かれていることに気付けば宗教的に生きることは可能になる。いくらでも自由に自分の意志で人生を、生き方を決めることができる。嫌なことは嫌といえる。好きとか嫌いとかは内心の問題で自由であるはずだ。それをコントロールしようとするのはおかしい。私は自分を必ず傷つけるとわかっている人間に近づいてしまう。自傷行為以外の何者でもない。やられて黙っているのも過去に生きているからだ。宗教的に生きることが可能だ。人間は。あの殺人者は宗教的に生きることを拒否してしまっている。宅間もそうだ。簡単に宗教的に生きることができるのに。未来に向かって開かれた時間を自ら閉ざすなんて。人生は最後の瞬間までわからない。今までは過去に生き、宗教的に生きていなかったから人間らしく生きていたとはいえない。これからは自分の意志で宗教的につまり人間らしく生きて生きたい。絶対にそれを邪魔することはできない。テフロンのように丈夫になりたい。私は恐がりで、生きているだけでパニックになって落ち着いて考えられない。恐がる必要はない。 かなり悩みが解決した。多くの気付きが普通にものすごい感動など伴わずに訪れた。道徳的、宗教的に生きることはどうしても必要なことだ。全ての人にとって必要でその義務を免れる人は狂人と犯罪者を除いていない。私は意志の力で自由にそれが可能だとやっと気付いた。今日は調子が悪いとか、気分が乗らないとか、そういう問題ではない。快楽や安逸を貪ってはいけない。道徳とはそういうものだ。森田療法は本質を突いている。スポーツもいいかもしれない。好き嫌いなんか関係ない。関係ないのに一番こだわっているのは私だ。関係ないと思うならば、自分もこだわってはいけない。それは重要な問題ではないということと、内心の自由だから、理由など説明する必要はないし、できない。私があるとき、母や権力や学校が嫌いになったのはなぜか説明できない。でも嫌いになるのは自由だ。嫌いだからといって迫害されることがあってはならない。好きにならなければいけないものでもないし、好かれなければならないものでもない。この強迫観念の嵩じたものが芸人なり、小説家になったりする。芸人になど誰もなる必要はないのだ。これで後戻りすることはない。とてつもなく気持ちいいとか、気分爽快でなければならないものでもない。憂き世と昔の人は言った。憂鬱なことが多いのが世間だ。それで一人だけいつも上機嫌なんてありえない。皆砂をかむような思いをしながら生きているのだ。好き嫌いは関係ない。道徳の問題だ。好きなものにばかり取り巻かれて生きることなどできない。その代わり、好き嫌いのために迫害されたり、攻撃されたりするいわれはない。女を好きとか嫌いとかいうこと事態がもったいない。時間と労力と精神エネルギーと未来とが損なわれる。道徳的に生きるのに他人に好かれるかどうか他人が好きかどうかは関係ないのだ。 働くことは自衛である。自分の身は自分で守ってよいという権利と、守らなければならないという義務の両方がある。私は働きたい。自分の能力を発揮して自己実現したい。その意欲がまずなければならない。そして自分を守るためには働かなくてはならないという義務がある。これを受け入れなければならない。こんな簡単なことが中学のとき突然理解できなくなったのだ。抑うつ神経症というやつか。 洗脳体験は私が未来に向かって生き始めたことで有意義だったと認められるだろう。道徳的に生き、快楽や安逸をむさぼらないという覚悟ができたことで意味があっただろう。やっぱり休んでよかった。中学以来の悩みがほぼ解決した。気分の変調はあるだろう。変動もあるだろう。しかし、それは好き嫌いと同じで重要な意味はない。人間は宗教、道徳、思いやりという二次元、三次元の世界を生きなければならないのであって、快楽や安逸をむさぼるという一次元の世界に留まることは許されないのである。 感動よりも実践だ。せっかくいいことに気付いたのだ。これは100%実行あるのみだ。道徳的であろう。努力しよう。快楽や安逸を貪るのは止めよう。芭蕉は芸術のために命を懸けていたのであって、決して浮かれ歩いていたわけではない。山頭火だってそうだ。kさんだって良い作品を書きたいと思っている。私だけどうしてそういう風に考えられないのか。でも今は考えられるようになった。時間は未来に向かって最後の瞬間まで開かれている。走れメロスを書いた太宰は全くメロス的な人物ではなく女と情死してしまう破滅的な人間だった。でも私は嫌だ。そうなりたくはない。きちんと社会生活を送りたい。だったら道徳的で努力することが必要だ。金が天から降ってくるわけはない。努力しよう。人は関係ない。どれだけ女が嫌いだろうと努力はできるし、関係ない話だ。女が好きであろうと嫌いであろうと不利益を受けるいわれはない。 今日は阪大中之島センターでインドヨーロッパ語族の話を聞いてきた。すごく面白かった。面白いということは理解できたということだ。少し回復してきた。キチガイ親父の嫌がらせなんか気にならない。キチガイのキチガイたるゆえんだ。哀れみしか湧いてこない。それから朝日ビルに移動して内田樹の対談を聞いてきた。今日は盛り上がらなかった。でも面白かった。キチガイのモラハラから回復してきた。でもあれで自分を守ろう、道徳的、宗教的に生きようと思ったのだから、キチガイの力は偉大だ。 新しいステージに意志の力で上がっていくのだ。道徳的に生きるのだ。宗教的に生きるのだ。自分の身は自分で守るのだ。 食事はおいしくなかった。ビールもおいしくなかった。嫌なことがいっぱいあった。キチガイ親父の嫌がらせからまだ立ち直っていない。精神的嫌がらせから病気になったのは久し振りだ。道徳的に生きよう。時間は未来に向かって開かれている。道徳的に生きるのだ。 モラハラはこちらが道徳的であることで克服できる。モラハラは間違った行為なのにそれでいいじゃないかと思ってしまうことがおかしい。
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