希望の日記

2006年05月21日(日) 新しい朝

何も卑屈になることはない。道徳と宗教に従って正しく生きていけばいい。時間は未来に向かって開かれている。
dは洗脳を行っている。私は苦しさから逃れたい一心で洗脳を受けてしまった。あんなことはやってはいけないことだ。ptsdのような症状になっていまだに不安定だ。誰にも文句の持っていきようがない。私にそれを勧めてくれたカウンセラー自身が洗脳マニアだから仕方がない。反省などするわけがない。自分で自分がコントロールできなくなった。すごく攻撃的になってトラブルを起こしやすい。かっとしやすい。とうとう会社を休む羽目になった。洗脳後絶好調になったのだが、それが人格崩壊の始まりだった。今はどうしていいかわからない。道徳に必死にしがみつくだけだ。逸脱行動をしないように宗教や道徳に救いを求めるだけだ。でも未来に向かって開かれている。やがて安定して、道徳に従って生きることができるだろう。
洗脳の悪影響。不安定になった。攻撃的になった。向こう見ずになった。自傷的行動が増えた。境界例ぽくなった。人とトラブルを起こしやすくなった。衝動的になった。セルフコントロールができなくなった。不眠になった。誰も責任を取ってくれない。もうあのカウンセラーと会うのもやめようか。私にできることは理性的に道徳に従って生きることを心がけるだけだ。
私は恩知らずになってはいけない。邪悪な行為の中で恩知らずほど重い罪はない。両親にどうしてひどいことをしてしまったのか。あんな良い人たちなのに。取り返しの付かないことをした。弱いものいじめも重い罪の一つだ。小さい頃、頭のおかしなやつを友達にしたらそいつの弱いものいじめに参加させられておかしくなった。私の病気の原点の一つだ。誰でも過ちは犯す。過ちは繰り返さないことだ。
ひどく疲れた。あのキチガイ親父のいじめがptsdのようになってなかなか回復しない。身体に現れる精神的打撃ってどれだけひどいんだ。私は知らないうちに我慢してptsdになってしまう。いじめに参加させられたのも虐待だ。ptsdだ。邪悪なものに興味を持ったのも虐待の悪影響だ。あの精神科医は本当に気持ち悪い。邪悪なものに興味を持つというのは自分の中に同じものがあるということだ。
道徳的に未来に向かって生きよう。道徳を死守するんだ。あのキチガイカウンセラーが何を言おうと道徳が大事なんだ。好き嫌いなんかどうでも良いだろう。私が精神的に病んでいたら攻撃するのか。逆だろう。いたわらないといけないのに。自分に優しくしよう。自分を虐待してはいけない。自分で自分を守ろう。誰も守ってはくれない。道徳的に生きよう。自分にも人にも優しくしよう。
一所懸命道徳的に生きよう。少しくらい辛くても道徳的に生きていればきっと救われる。人を救うこともできる。邪悪なものを一所懸命取り除こう。あのキチガイババアもキチガイ親父も私の邪悪なエネルギーに反応しているのだ。私がいくら何もしていないとか邪悪でないと言い張ってもやっていることは邪悪なのだ。道徳は自由だ。縛られることではなく自由になることだ。不道徳な気持ちではできないことが道徳的であればできる。
私は魔境に落ちたのだ。迷いの中にあっては是非も非という。迷った状態であれこれ言っても仕方がない。全て間違ってしまう。それが魔境だ。意識して道徳的に生きるしかない。
魔道に落ちた私を誰か救ってくれ。自助努力。宗教。道徳。魔境に落ちて魔性となった私もきっと救われる。道徳は自由だ。道徳は力だ。魔性に落ちて神経が麻痺してじっとしていたら沈んでしまう。どこまでも落ちていく。小説もいいんじゃないか。貪ることは良くないが、芸術であれば許される。芸術とは蕩尽である。稼ぐだけじゃなくて消費することも芸である。3億円のストラディバリを買ったやつがいる。高価な美術品を落札する人がいる。稼いだ金を使うことはかくも難しいのだ。芸術家は使い方を知っている。だからパトロンが現れる。ビトンを貢がせる女は芸術家である。私も美に殉じるのか。三島のように。芸術家はとことん邪悪である。なぜそんなものに興味を持ってしまったのか。
道徳的であろう。呼吸法をやったら少し落ち着いた。やっぱりすごい。心理療法に比べて効き目がある。kさんもこんな私では救えない。z氏もそうだ。道徳的であれ。昨日のu氏もそういうことを言っていた気がする。武道をやるということ、能をやるということはそういうことだ。
苦痛は伴うものだということだ。森田療法が教えることはそういうことだ。惰弱な快楽と安逸を貪る生活を続けた結果、そんな当たり前のことがわからなくなったのだ。今まで二次元だったのを三次元に移行するくらいでないといけない。恩知らずはいけない。母親や両親を憎むことは大変恩知らずなことで、地獄に堕ちる。簡単な道徳を守ればいいのだ。森田の教えだ。好き嫌いを越えるのが道徳だ。私は女が恐い。好きではない。でも好きになろうと努力する必要はない。もちろん、恐がる必要はないと言い聞かせ、呼吸法で恐さを取ることは大事だ。でももう一つは、恐くて嫌いでもそれはそれでいいということだ。非難されたり、攻撃されたりすることはない。気分や感情に左右されないといってもいい。これも森田の教えだ。気分や感情という子供のような一時的情動に基礎を置いて左右されるならば、生きることは地獄の苦しみになるだろう。世の中はそういうもので動いているのではない。道徳や思いやり、法や正義という人工的な人間が作った二次的な現実に依存して生きているのだ。それなしに人間が自然に自由に好き勝手なことを始めたら、生きてはいけない。そういうことは小さい頃から繰り返し教えられたはずなのに、邪悪な性分が身に付いたためにわからなくなっている。人間は迷い、過ちを犯す。しかし、そのつど、反省し、悔い改め、二度と繰り返さないと誓い、法や道徳の定めに従い、新しく未来に向かって開かれた時間を生きることを許される。一時的な感情や気分に従って生きることは無理だ。どんな天才でも不可能だ。法や道徳は新たに未来に向かって自由に作り出せるものだ。縛るものであると同時に、自由を確保し、未来を切り開いてくれるものだ。魔道から救い出してくれるものだ。
後悔とか、罪滅ぼしとかそういうものは無意味なんじゃないか。新しく時間は未来に向かって開かれているのにそういう後ろ向きのネガティブな作業ばかりやってるから、うまく行かない。遊びに行ったほうがまだましだ。小説の一つも書いたほうがましだ。スカッとする。
道徳は未来に向かって生きることを可能にする。自由に無限に自由に行き方を整理創造できる。それをしないことは生きることを放棄することだ。
女はそういう意味ではみんな魔境に堕ちているようなものだ。だから気にすることはない。必ず抜け出せる。道徳は自由だ。道徳や思想は自由に未来を切り開いていけると考えて、大学時代は思想に打ち込んだが答えは出ず、逆に魔境に落ち込んだ。そこから這い出すきっかけは何も考えずに遊ぶことだった。もはや何も考えないこと。それが一番道徳的だ。
快楽と安逸を貪ってはならない。道徳に従い、価値を創造せよ。私は今までとは別の人生を歩む。依存的で怠惰で反社会的な態度ではなく価値創造的で、道徳的な生き方をしよう。それは病気であろうと健康であろうと誰でもできることだ。しなければならないことだ。
悪いことはしてはいけないし、良いことをしなければならない。価値を生み出す行為をしなかったら生きてはいけない。b校は恐ろしい。邪悪な人々が集まる。邪悪な波動が生じる。貪ろうという悪い気持ちが充満する。悪が許されるという気持ち。私は怠惰であることが余計にまずかった。悪の波動をまともに受けた。どこでも出て行けばいいというものではない。洗脳体験が良かったのか悪かったのかは何ともいえない。
悪はいけない。洗脳されたから悪が許されるものではない。道徳水準の低下はずいぶん前からだが、それが正当化されるものではない。どうしても価値的なこと、道徳的なことは要る。頭がおかしいからといって悪いことをしていいというものではない。
騙されたと思って森田療法の言うように恐怖突入してみようか。女が恐い、人が恐いといっても恐がる必要はない。
洗脳以降、眠れなくなった。こらえ性がなくなった。セルフコントロールができなくなった。思いやりがなくなった。短絡的になった。衝動的になった。女に腹が立つようになった。目つきが悪くなった。ヤンキーに絡まれるようになった。女ともめることが激しくなった。もうなってしまったものは仕方がない。道徳の力で自由に自分の意志でコントロールできると信じる。
どうしていいかわからない。でも焦らず、自暴自棄にならず、価値あることをしよう。昔いた担任教師は目つきが怪しくきちがいじみていてすぐ暴力を振るった。おかしいと思う。暴力を振るうやつは大体決まっている。暴力を肯定するやつも大体決まっている。精神的におかしいやつだ。私はそうではない。正気だ。優しい。暴力は否定する。道徳的であることを目指せばこの苦境は抜け出せると思う。
本当に道徳的であろう。当たり前のことで全ての人はそうだ。小さい子でもそうだ。
もちろん今は苦しいが、必ず安らかな気持ちになるときは来る。意志の力と道徳の力で必ず自由に未来を切り開いていける。私は確信している。邪悪な状態から脱して社会に貢献できる。必ず。この魔境から脱することができる。
私はきっとこの苦境から脱出できる。道筋がはっきり見えた。悪いことはしないことは当たり前だが、良いことをして初めて人は生きていける。価値破壊ではなく、価値創造が必要だ。
私は人を傷つけたりしない。すぐ暴力を振るうやつはおかしい。戦争なんてもってのほかだ。道徳が大事だ。すごく大事なことに気付いた。偉いとは思わない。当たり前のことで普通の人なら誰でもわかっているからだ。
気分とか好き嫌いとか感情に基礎を置くと辛い。そういう生の一次的現実から離れて、道徳や法律などの二次的現実に根拠を移すこと以外にこの苦境を救う方法はない。快楽や安逸を貪る態度は義務や道徳を軽視する邪悪な考えから生じる。
普通の人は普通に一所懸命働いて、パートナーを見つけ、子供を作り、育て、家を立て、死んで行く。羨ましいと思う。私にもできる。そういうこと以外に何かすることがあると思うところがおかしい。芸術?そういうのは嫌だ。三島由紀夫みたいな人生?無理だ。私は凡人だ。凡夫だ。
今日サントリーの工場で嫌がらせを受けた。私だけお絞りが出なかった。差別だ。私が何をしたのだ。本当に女が嫌だ。接したくない。
頭が勝手に動く。すると女がそれに反応して攻撃的になる。本当に困る。私は悪くない。自分の思うとおりに道徳的に生きよう。全ての人間はそうして生きている。快楽や安逸を貪っているやつなどいない。
私は悪くない。道徳的に生きることにした。モラハラ状況を自分で作る必要はない。恐がる必要はない。
道徳によって自由に未来を切り開くことができる。


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