昨日の反動か妙にしんどい。うつには久保田は効かないようだ。自分を王侯貴族のように扱うと言うことが一つの案だが、一方では規則正しい生活、目標管理、掃除、などがいいような気がする。宗教は絶対に必要だ。間違ったことを一所懸命やっていても仕方がない。何の価値もない有害な奴と付き合っても仕方がない。正しい考えに戻ろう。正しい考えは楽な考えだ。無理な考えは間違っている。 悪いことをことさらにするのはやめたほうがいい。確信犯的に人を傷つけるとか義務を違反するとか、禁じられたことをやるとか。全く意味ないじゃないか。これはウジムシと付き合った結果で何の意味もない。今すぐ改めて正道に就こう。宗教的なことしかしないという意味はそうだ。そうすれば道を踏み外すことはない。 尾崎放哉はほとんど一人で死んだ。酒で人格崩壊していたため、誰にも相手にされなくなった。 しんどいけれども、最大限のケアーをする。セルフヘルプ、セルフサポートをする。誰も自分をケアーしてくれないというより、自分で自分をケアーするのだ。王侯貴族のように真剣にケアーしようと思う。とことんケアーしようと思う。 昨日帰りの電車の中でくそみたいなオタク爺から嫌がらせをされた。阪和線と言うのはキチガイの巣だ。スラムへの道。 自分を徹底ケアーするぞと思うと周囲との軋轢ができる。でもそれが人間じゃなかろうか。何の軋轢もなくと言う事はなんの得るものもなく人間関係も生じず、一人で生きていることと変わりはない。それが寂しい私の人生。すぐに軋轢を恐れて身を引いてしまう。引きこもってしまう。主張すべきは主張せよ。それがアサーティブの教えだ。自分を守ろうと思うと他人の権利侵害は許すまいと思うし、強くなる。昨日もキチガイババアに割り込みを許して何も言えなかったのはアサーティブではなかった。何であんな職場にいなければならない。それが一番アサーティブじゃない。私は精神的にケアーの必要な人間だ。その人間を虐待することは許されざる罪だ。地獄に堕ちろ。私は戦う。 私が弱かったり、引きこもりがちなのは私が悪いからではない。そんなことを責められるいわれはない。 私は自分をとことんケアーする。私に道徳的に云々されても一向にわからない。私は自分のためにとことんサポートする。セルフヘルプする。 親鸞の教えは私のような凡夫に誠に最適の教えだ。修行、戒律お断り、悪いことをしても大丈夫、死が怖くても適応障害でもますます大丈夫、これが宗教ではないか。弱いからだめ、悪いからだめと言うのでは話にならない。だめな奴こそ救われるのだと言う教えは誠に心強い。 いくら道徳や倫理で厳しく縛ってもひょんなことで悪行をなす身になる。これは私のことを言っているようだ。善行悪行は自己のコントロールを超えているのだという認識は誠に鋭い。私が何で悪の道に踏み入ったのかいくら考えてもわからない。親鸞はわからないのは当たり前で自分が決めることではなく宿業業縁によって決まっているからだと言う。それは一見無責任なようでいて実感と一致する。人間とは悪とも善とも決められない複雑な存在だ。何もかも業縁によって決められていると聞くと納得できるし、ほっとする。人間は自分は賢い、全て知っているなんでもコントロールできると慢心しがちだが、全くそんなことはない。それを認めることはなんと心の救いになることか。ストレスレベルが一気に下がる。 あのくそみたいな職場に戻ることは考えられない。自殺行為だ。どこか別の職場に行かなければならない。自分のケアーをとことんやる。私はケアーの必要な精神状態だ。なぜそうなるのかはわからない。自分を守らないといけない。自分のケアーをとことんやって自分を守れるようになることが重要だ。hやkから身を守れることだ。誰にも会いたくない。親兄弟でさえも。それほど深刻な事態だ。私は大学で発病して入院してからほぼ働いたことはない。社会生活ができないから働くこともできない。自分をケアーしないといけない。ケアーせずに我慢していると大変なことになる。細心の注意を払って自分をサポートし、多くの努力をしないといけない。普通にうまく行くことはありえない。自分を守らないといけない。 めまいがする。あまり調子が良いとはいえない。親鸞の教えは確かに大きな支えになる。あのおじさんに教えてもらわなくても本を読めばわかる。でも興味を持ったのは確かだ。最近一日部屋にいてもテレビを見なくても大丈夫だ。素直になることだ。すると本でも頭にはいる。自分のケアーをしっかりやる。安心とはいえない状態だ。非常に深刻な状態だ。ずっと以前からそうだ。慎重に細心に注意すべきだ。入念に手を打って自分をサポートすべきだ。自然に物事がうまく行くことはない。慎重であろう。このままうまく行くわけがない。手を打たないといけない。自分を十分サポートしよう。セルフヘルプしよう。全く大丈夫ではない。入念に手を打とう。慎重にことを進めよう。 めまいがするのは昨日のコンサートで大音量を聞いたからじゃないのか。自分の利益を第一に追求しよう。不真面目でも何もいいことはない。念仏で浄土に行こう。そう考えるだけで楽になる。難しいことは考えなくて良い。 無理することはない。調子が悪いから休んでいるのだ。宗教に従ってのみ生きてみよう。このままでは死んでしまう。親鸞の教えはシンプルで力強い。こうすべきとかこうあるべきは一切ない。私にぴったりだ。森田療法より楽だ。今は人に出会うとか近づくではなく、離れていよう。強力にサポートしよう。セルフヘルプ。人がわからなくなった。徹底して遠ざけよう。私は傷ついている。傷口に触ってほしくない。 しんどい。何をやってもうまく行かない。小説だけは褒められた。どうでもいいけどしんどい。人とうまくやっていくのは難しい。あのくそ職場行きたくない。やくざとくそヤンキーの腐れ職場。悪い波動が出ている。もう悪いことをするのは止めよう。真面目に生きていこう。 宗教だけに従って生きよう。苦しみを軽減したい。苦しいときこそしっかりと強力に自分をサポートしよう。これは今までできなかったことだ。楽しい。しっかりと休もう。何もできなくなっている。セルフケアすればきっと良くなる。人と出会うのは苦しい。今はじっとして力を蓄えよう。 苦しいのは重大な問題でケアーが必要なのだ。セルフケアーが。それなのに放置してはいけない。女はもう嫌だ。 十分にセルフケアーしよう。細心の注意を払って、障害を取り除こう。 私は無力だ。宗教にすがろう。考える力さえない。宗教のパワーをもらおう。道徳ではだめだ。弥陀の本願にすがろう。簡単なことだ。他力本願だ。自分を王侯貴族のように考えることと一致する。自助努力は信心と念仏だ。 私は人に残酷なことをしがちだ。これは小さい頃付き合ったウジムシの一人の影響によるものだ。ウジムシの影響は底知れない、計り知れない。だから宗教にすがる以外にない。自力では無理と言うところから他力本願が生まれるが、誰だって自力では無理だ。修行によって悟りを開けるなんて絶対に無理だ。信じられない。誰も皆凡夫という教えに強く共鳴する。 道徳とか自己とか過去とか性格とかに根拠を置くと間違ったことばかりする。宗教に従って生きよう。帰依するのだ。回心だ。弥陀の本願にすがろう。何が悪いんだ。簡単だし、何も間違っていない。森田療法なんかにすがるよりはるかに良い。私は煩悩具足の凡夫だから浄土にいけるのだ。浄土に行けることの方が正しい。価値がある。現世での利益や幸福より浄土にいけることに価値を置くことが宗教的ということだろう。現代人はそんなことは思わない。ニヒリストだ。この世で良い思いしたいだけの浅ましい獣だ。良かろうが悪かろうが信心があれば念仏を唱えれば浄土に行ける。私は無力だ。凡夫だ。だから絶対浄土に行ける。 弥陀の本願にすがって生きれば、恐いものはない。どんなことが起きても。必ず浄土に行くことができる。悪かろうが良かろうが。 ウジムシと暮らした45年。もうたくさんだ。私は弥陀の本願にすがって生きていく。どうでもいいことは考えない。ウジムシから得たウジムシパワーが出ているから誰ともうまく行かないし、何をやっても失敗する。これからは弥陀の本願だけにすがって生きていく。そのほかのことは考えない。ついてるツイテルといって生きていく。
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