また酒を飲んでしまった。いいだろう。浄土に行くことが約束された祝いだ。私はあのグループには戻らないだろう。犯罪行為が野放しになっているグループ。というか死ね。死ねお前ら。何で生きてんだ。死ね。 死ね。何で生きてんだ。殺すぞ。キチガイ。何であんなとこに行かないといけないんだ。死ね。キチガイ。 死の棘というタイトルを聞いて家で療養していた頃のことを思い出す。帰るべきではなかった。あの母親はキチガイだった。全てを失った。父親も職も何もかも。母親は私を父親代わりの目で見た。死ぬほど気持ち悪かった。何でこんな目に遭わないといけないのかと思った。母親はその後ストーカーと化して私を追い求め、住所がわからなくなったときは半狂乱になった。明らかにおかしい。私の家に上がりたがり、一緒に住もうとした。完全に頭がおかしい。完全に頭がおかしい。私は戻るべきではなかった。私は戻るべきではなかった。でも行くところがなかった。キチガイ人殺し医者に殺されそうになった。善悪の区別もつかないキチガイ医者に。 私は自分を守る。その権利がある。私はptsdだ。一連の悲劇の。あのババアに襲われそうになったことへの。病気になり、職を失い、父親を失ったこと。ババアへの底知れぬ恐怖。ストーカーオニババ。私に襲い掛かってくるな。 今目の前のキチガイババが発狂してストーカーオニババと化して私に襲い掛かってくる。うるさいストーカーオニババ。この間家に来たときのあの目つきはキチガイそのものだった。来るな。側に来るな。襲い掛かってくるな。 私はこの穢れた穢土を離れていつか浄土に行くだろう。誰にも汚されない。純潔な存在に生まれ変わるだろう。弥陀の誓願にすがって生きよう。 女が嫌いというのは思い込みに過ぎないのではと思う。100人に一人くらいは可愛いと思う女がいるのだから嫌いではないのに小学校の頃ウジムシと付き合ったために勘違いしたのだ。 厭離穢土欣求浄土これに尽きる。弥陀の本願にすがって生きよう。宗教は良い。母親とのことがあってババア嫌いになり、あのババアの声を聞いただけで頭がおかしくなって、ストレスからうつになったのだ。モラハラ過敏状態になっておかしくなったのだ。無理することはない。でもこの要求は聞いてもらわないと困る。 ババアとのことが何があっても弥陀の本願にすがって浄土に生まれることに比べればどうということはない。 ばあさんが私の部屋に泊まりたがっていたのは本当に嫌だった。本当に嫌だった。本当に嫌だった。 私は悪いことは全部してしまった。父親にも母親にも私はその報いを受けているのだ。ババアやくそガキにいじめられているのは私が両親にしたことなのだ。私は悪いことをして何も思わない人間だ。どうしてかわからない。自分が愛される理由がないように感じるのか。そんなことはない。誰でも愛される理由はある。弥陀の本願にすがって浄土に生まれよう。他力にすがろう。 宗教的な話だけが人に通じる。あのレイプされた女性カメラマンが立ち直れたのは教会の牧師の粘り強いサポートがあってのことだ。宗教的な話だけが通じるのだ。 男同士でも友情というものがある。それは同性愛だろうか。違うだろう。それを拒否することはできない。私が父親を否定したのは男同士の友愛を自分に禁じていたからではないだろうか。自分に禁じる以上は人にも禁じる。従って男に友情を感じることはない。恐らくそういう構造だろう。私は同性愛的であったので自分が同性に感じる感情は禁じられるべきだと考えていた節がある。芯から男に友情を感じたことはない。友達も一人もいなかった。むしろ女に友愛を感じることがある。でも女はそんなものは必要とはしていない。 弥陀の本願にすがろう。浄土に生まれよう。こう思っただけでもう救われているのだ。私は必ず浄土に生まれるのだ。 セルフコントロールできていない人はいる。でも私はひどい。人格崩壊者と変わらない。宅間とか、畠山とかとそう遠くない。b校にいた人々とも近い。何で仲良くなろうとしたのかわからない。生きる力がほしかった。生きる力になったか。むしろ自分を食い破るような力だったんじゃないか。何ともいえない。自分をとことんセルフケアーしよう。セルフコントロールしよう。 今日はおかしなことがいっぱいあった。クリーニングを出していたらヤンキーみたいなくそDQNに絡まれそうになった。さすがにあれは何もしていない。何もしていないのに絡まれる。半年前と全く変わっていない。ファミレスでメニュー持ってきた女にいきなりキレられたときはz氏も同情というか驚きの表情だった。何も悪いことをしていなくても切れられる。今日大画面テレビを買ったが、買うときからおかしな店員だったのに、また別の店員が出てきて更に切れられた。全くわからない。図書館の職員にもいつもひどい態度をされる。全くわからない。酒も飲みたくなるだろう。でもすごく色んな気付きがある。やっぱり休んでよかった。あそこにいても何も気付かなくてただ苦しむだけだ。こうして一人さんの本や親鸞の本を読むから目を開かれる。毎日目からうろこの連続だ。どんどん自分が変わっていく。これでいいのだ。これでいいのだ。 業縁というものを感じる。両親に対して犯した大きな罪を後悔する。自分の犯した罪は自分に必ず帰ってくる。業というものだ。他力にすがるしかなかろう。自力で何とかできると考えるのは傲慢というものだ。 世の中は奪い合い、足の引っ張り合いみたいなものだ。和やかに仲良くというのは幻想に過ぎない。弱肉強食。善人は食い物にされる。今日の出来事でもわかった。善人ぶってもだめなのだ。きれいごと言ってもだめだ。ちゃんと自分の力で生きて行こうと思ったらきれいごとではだめなのだ。私はhを一番信頼していない。あいつが一番危険だと思っている。人間は善良ではないのだ。狼なのだ。 親鸞の教えに共鳴する。こんなに波長の合う教えはない。宗教家はいない。その上で例えばサービスはやめる。egでサービスのつもりでババアが嫌いといったら本物のババアに切れられ危険な目に遭った。何でそんなサービスしないといけない。何でわが身を危うくしないといけない。何でそもそもegなんか出ないといけない。自分の身を危うくして人の機嫌を取らないといけない。自分の機嫌を取れ。egに出たお蔭で強気になった。人を簡単に信じるようになった。どちらも致命的な間違いだ。今の私の境遇がそれを証明する。それを勧めた当の張本人はうっとうしがって私に会おうともしないじゃないか。どういうことなんだ。私は世の中を何も知らないままだ。一人さんは弱気だろうか強気だろうか。大手も恐れず挑んでいくところは強気だ。でも商売を進める手法は超手堅い。これが理想のバランスだ。私は逆転している。手法は超いい加減で、目標は弱気だ。逆だろう。人を簡単に信じてはいけないし、いつも強気では命がいくつあっても足りないという奴だ。 今は良い状態だと思う。人の書いた本が驚くほどよくわかる。これが全くわからなかったら絶望的だが、これほどよくわかるということは誠に心強い。喜ばしい。成長している。学んでいる。未来は明るいという気がする。本を読んで書いた人とたちどころに対話できる。書いてあることが1001%わかると確信できる。事実わかる。やはり伊達に年をとってはいない。見込みは大いにある。若い者に決して負けはしない。困っているんじゃないんだ。学んでいるんだ。困ってから学んでも遅くはないんだ。私は今一所懸命学んでいる。これまでになくよくわかる。目に触れる全てが学びを促す。人生の秋だ。収穫の秋だ。読む本全てが身になる。こんなことは今だかつてなかった。誠に喜ばしい限りだ。決して困ってなんかいない。
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