昨日は楽しかった。一応5時まで眠れたのでよしとしよう。足が相当疲れている。もう少し短い距離の方が良さそうだ。頑張りすぎ。風邪っぽい感じはまだある。わき腹と下腹部の痛みは良くなった。歩いているうちに落ちてきたのかもしれない。結石が。昨日の夜考えたのだが、女を恐いと思わなくなったのと、恐がる必要はないことと、恐がるのは損だということ。私は恐がりだけれども恐がる必要のないものを恐がって損をするのはもう嫌だ。そう思った。恐がるということを聞かないといけないような気になる。全然そんなことはないのにそうしないといけないような気がしてくる。人にもそういう風に恐怖心でコントロールしようとしてしまいたくなる。それは明らかな誤りだ。戦時中、そして今でも日本人がやっていることだ。アメリカ人でもどこの国の人間もやっているが。自分で自分を恐がらせて自縄自縛になっている。自分を恐怖心から解放しよう。人の機嫌を取らないというのはそういうことだ。私がサドを読んだのは邪悪になりたかったからだ。邪悪になれば強くなり、恐怖心から自由になれると思ったからだ。それはかなったんじゃないか。私は強くなった。恐怖で人をコントロールすることはできない。女は私を恐がらせて私をコントロールしたり、財物や利益を奪ったり、支配することはできない。私は今女に余り興味を感じない。性的興味、人間的興味、何も感じない。恐怖も感じないから、女につけこまれたり、いいようにあしらわれたりすることはない。自発的に自由を放棄するようなまねさえしなければ。自発的に隷従の道を歩まなければ。私は恐いものは何もない。女を恐いと思わない。私は十分邪悪だ。邪悪であることのメリットは邪悪な人間に恐怖によって支配されないということだ。私は人間が大嫌いだ。だが恐いとは思わない。私は邪悪な人間だからだ。アメリカ人は邪悪だ。恐怖が人を邪悪にさせる。恐怖によって人を支配しようとする人間は少なからずいる。そういう人間は自分がそうされた経験を持っている。自分が恐怖によって支配されたかされているので、人をそうできると信じている。私は恐怖から解放された。恐怖の支配から解放された。人を恐がると人は自分が偉くなったと勘違いする。だから人を恐がるのは損だ。言うことを聞かなければいけないような気がしてくる。その必要はないのに自分から自由を放棄し、自分の大事なものを差し出す。その必要があれば別だ。軍隊に入っていて、言うことを聞かなければ殺されるとか、会社に入っていて、金をもらっているから言うことを聞かないと首になるとか。でも私は女と付き合ってもいないし、結婚もしていない。束縛される必要もなければ恐れる必要もない。でも女は私を脅して言うことを聞かせようとしてくる。ばかな話だ。私は十分邪悪なので女の邪悪さ、ずるさに十分対抗できる。体力的にも知的にも、言葉の上でも絶対的に優位にある。にも拘らず女を恐れる必要があるだろうか。全くない。機嫌を取らないといけないだろうか。だれかれ構わず恐れ、機嫌を取ろうとする愚かな振る舞いは金輪際止めにしたい。 私は成長した。女が、人間が恐くないと感じるからだ。フッキーとか加藤氏に支配されないといけないだろうか。彼らの言うままに奉仕し、喜ばせ、楽しませなければいけないだろうか。全くの勘違いだ。私は大きく成長した。フッキーや加藤氏と出会い、傷つくことはある意味必然であった。b校のキチガイ女どもに会って無防備なまま傷つけられることも必然であった。自分でそれはおかしいと気付くまでそういうことは続く運命であった。しかし今は違う。自分の自由意志で自分のおかしな行動と思考をコントロールできる。馬鹿なことをしないように自分を監視することができる。つい奉仕してしまう。つい無償の隷従に身を置きたがる。しかし今は全くそんなことはない。ウォーキングのお蔭だ。人が全く恐くない。女も当然恐くない。恐いものがなくなって初めて仕事ができるし、職場にも復帰できる。今私はその第一関門をクリアーした。人が当然享受している自由を私も感じられるようになった。自由に恋愛し、結婚できるかもしれない。自由に嫌いな人間から離れ、自分を守ることができるようになった。体力的にも知的にも社会的にも女が全く恐くない。そう宣言すればそうなる。それを初めて知った。私は穏やかで優しい、愛を知る人間だ。感謝できる人間だ。それでも十分すぎるほどの邪悪さすなわち、強さを兼ね備えている。それゆえ私はいきり立つ必要もない。焦る必要もない。この世から追放される理由もない。安らかに楽しんで人生を過ごすことができる。恐怖のピークを通り過ぎて何も恐がる必要はないとわかった。素晴らしい気付きだ。恐怖心から自ら自由と利益を放棄し、下らないもの。最も蔑むべきものへの隷従を選択する。それが今までの私の人生だ。しかし無駄ではなかった。私はお蔭で強くなった。邪悪にもなったが、邪悪さに負けなくなった。心穏やかに強く優しくいられる。弱いものに優しくできる。女を弱いものと認めなければ優しくはできない。恐いと思えば攻撃するだろう。女とうまく行かない最大の理由はそれだ。女は弱い。ちっぽけな存在だ。恐れる必要は何もない。だから優しくできるのだ。弱いからいじめると思われているのだ。私が女性的であるかどうかにかかわらず、男である。その利益を享受できる。そうである以上、女に優しくする義務がある。そうすれば自然に女との争いはやむだろう。女は被害者意識を持つというが、実際弱い立場にあるということを理解すれば自然に優しくできるだろう。まず恐怖心がなくなるだろう。恐怖心がなくなれば自然と優しくできるだろう。少なくとも敵意は抱かなくなり、争いはやむだろう。あのババアどもの言いたいことは女性として優しくしてほしいということだ。いくら厳しく、恐怖心でコントロールしようとしても絶対にうまく行かない。女は男よりも我慢強い。厳しさ、忍従にはいくらでも耐える。でも優しさには本当に弱い。愛と優しさには本当に弱い。感謝とねぎらいには本当に弱い。私は十分に邪悪で余りにも多くの罪を犯した。でももう悟った。強くもなった。今必要なことは強くなること邪悪になることではなく、優しくなること、愛に生きることである。慈悲である。老子の生き方である。 女や子供を恐怖心で支配することはできない。性によって支配することもできない。金で支配することもできない。愛と優しさと感謝だ。それも支配ではない。愛で支配するということはない。愛とはそれ自体が目的である。支配の道具ではない。経済がこれだけ発達しても愛だけはお金で変えない。商人はお金よりも感謝の言葉と気持ちを嬉しいと思う。人間とはそういう生き物だ。悪い人はいないというz氏の言葉は当たり前のことだ。人を恐怖で支配しようとしなくなるためにはまず自分が恐怖から自由にならなければならない。で私はそれに成功した。ありとあらゆる辛酸を嘗め尽くし、恐怖と屈辱と苦痛を味わいつくした後、私は漸く恐怖から脱し、愛と優しさと感謝に帰ってくることができた。これは尊いことだと思う。ただ何も考えずに生きてきたよりも何倍も素晴らしいことだと思う。私の魂には愛の尊さがしっかり刻み込まれているからだ。 やっぱり私の辿った道は悪の道だった。その点はしっかり反省せねばならない。両親に対しても本当に悪いことをした。自分で自分のやっていることがわからなくなっていた。今でもわかっているとはいえない。恐怖からそういう行為に走ったのだ。恐怖から自分が強くなりたいと思ったのだ。不良が喧嘩に明け暮れるのと同じだ。でももうやっとわかった。愛と感謝と優しさだということが。頭の中が千日手のようになってハングを起こしている。アルコールと薬で少し壊れたのが良かったかもしれない。この世に大事なものは愛だということがわかったから。恐怖がなくなった。悪い人間はいない。恐れるものは何もない。恐怖で人を支配することはできない。 私はもうぐれていた。でももう立ち直った。恐れるものはない。恐れるものはないというためにはフッキーや加藤から身を守らなければならない。自ら危険に身を曝すことはあってはならない。 愛の道は善の道だ。愛と感謝と優しさだ。仕事は愛を実践できる主な活動だ。一人さんも稲盛さんも同様のことを言っている。少なくともそう感じられる。私は恐怖から脱し、仕事をすることができそうな気がする。人を信じられる気がする。疑ったり、恐怖から妄想に逃げ込んだりしない。人を馬鹿にしたりしない。傷つけたりしない。森田に行ったときものぞき趣味みたいなことがあったから逆に傷つけられたのじゃないか。 私は愛と感謝と優しさを信じているので、恐怖にとらわれたりしない。何で加藤さんの言いなりにならないといけないのか。何でフッキーの言いなりにならないといけないのか。恐怖にとらわれているからだ。そんな必要は全くないのにお蔭で傷つけられた。高いレッスン代だ。 私は悪いことをいっぱいした。恐かったからだ。人が信じられなくなったからだ。でも今は違う。回心した。きっと立ち直る。悪いことは反省する。これからはちゃんと人間らしく生きる。いくらでもすることはある。 今の私を見て何かおかしいと感じる人は多い。最初の海外旅行のときもものすごい目で見られた。私はなぜそんな目で見られるのかわからなかったので、気にしなかった。でも本当におかしくなっていた。悪に染まっていた。罪悪感に苛まれる必要はないが、罪はきちんと反省しよう。善良でありたい。悪人であることが騙されないことだと思った。強いことだと思った。それは間違いだ。すごく善良になった。善悪の区別ができるようになった。恐怖にとらわれないことが回心し、善良になるきっかけになる。 最近少し良くなった。加藤フッキー症候群から漸く立ち直ったようだ。以前より強くなったと思う。傷ついたが、二度とこういうことはないから賢くなった。最初はこういう感じだった。明るくて楽しい感じだった。何でもやってやろうと思っていた。今ようやくそういう気分に戻れた。良かった。善良になった。謙虚になった。優しくなった。愛に目覚めた。感謝できるようになった。 恐いと思わなくなって良くなった。人を嫌ったり、馬鹿にしたりしなくなった。 女性に優しくしよう。女性をうまく扱うことは優しくすることに他ならない。コントロールすることはできない。厳しくしようとか恐怖や暴力や悪や悪いもので支配することはできない。愛と優しさと感謝だ。 かなり良くなったと思う。脳の働きは少し、すばやさを欠くようになったが、理解力は飛躍的に向上した。こちらの方がどれだけ大事かわからない。eqといわれるものだろう。感情、情操の理解力は非常に良くなった。 少し外出したがあまり具合は良くない。大きな気付きは疲れを伴うんだと思う。恐怖心はなくなった。早く復帰したいとふと強く思った。やっぱり真面目になったんだ。善良な人間になったんだ。大きな代償を支払ったが、まともな人間になってよかった。すごく嬉しい。脳がハングを起こして考えられなくなっていたので、少し壊れた方が良かったのかもしれない。脳の方はやがて少しずつ回復するだろう。仕事はしっかりすること。弱者には優しくすること。善良であること。恐怖に支配されないこと。これはもうできるようになった。今まではわかっていてもできなかった。強く悪くなっても自分を救うことにはならない。優しく善良になることが自分を救う。恐くなくなった。すごく弱いものに感じる。恐怖心は感じても良い。危険と安全について教えてくれる。でもそれに圧倒されたり、支配されたり、混乱してはならない。冷静に対処することだ。 私は回復したとはいえ、やっぱり調子は良くない。恐くないといってもいざ外に出ると恐いことは恐い。じろじろ見られると足がすくむほど恐い。悪いことをしているわけではないのに。やっぱり歩くのであれば郊外のフィールドか山以外ないだろう。 カウンセラーが合わない。どうしても合わない。わがままなのだろう。z氏は私のわがままを聞いてくれたし、間違っていても言いたいだけ言わせてくれた。あの堺のおじさんも基本的に安全な気がする。でもあの人は遠くからつんつんつつかれているような気がする。本当にこちらの苦しみに共感しているとは感じられない。帰りの電車でくそみたいな女がすごく感じが悪かった。恐がるから悪いのだ。恐がる必要はないのだ。せきするなって言うんだ。感じが悪い。でも私は謙虚になろう。そんなことで怒ったりするのは止めよう。 愛と感謝と優しさだ。謙虚であろう。怖がることなんかないのだ。 カウンセリングは耐えるものではないだろう。相性が悪いことはよくある。特にこの私の病気がカウンセリングに合わないのかもしれない。それはあの人の責任ではない。あの人を責めてしまわないためにも打ち切るべきだろう。私も少しも癒されない。いじめられている気がする。他のカウンセラーならもう少し癒される。女のカウンセラーと話しているのと同じだ。緊張し恐い。話したいと思わない。大事な問題を告白しようと思わない。合わないことは明らかだ。もうこれ以上耐えられない。 gareに行ったら思い切りじろじろ見られた。私が余裕を持って振舞えればいいのだが、挙動不審になってしまう。恐がる必要はない。練習だ。練習しているうちに恐くなくなる。でもあのカウンセラーと練習するのはどうしても嫌だ。金儲け主義っぽい。恐くない。隣のくそ女でも恐がるそぶりを見せたから調子に乗って危害を加え始めたのだ。恐くはない。恐くないのに機嫌を取るために恐がる。恐がって機嫌を取る。馬鹿なことをするんじゃない。 絶対うまく行く。ものすごくうまく行くような気がしてきた。恐がる必要はないと考えるとすごくうまく行くという気がしてきた。これだけの時間があるんだから絶対にうまく行くという気がしてきた。すごくうまく行くという気がしてきた。困っている人に手を差し伸べたいくらいだ。絶対に全てがうまく行くという気がしてきた。
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