希望の日記

2006年10月02日(月)

今日は比較的いい気分だ。レンドルミンのお蔭でずいぶん眠れた。秋だし眠りやすい。考えると予定が催し物で少し埋まり始めた。休みに入り始めた頃と似ている。漸く復活し始めた。昨日はキムチ鍋がうまかったし、株が少し上がってきたし、パニック状態から回復してきた。十分注意、準備すれば恐がる必要はない。自分を喜ばそう。恐いからといって全ての喜びを諦めたら、自分を喜ばせられない。回復も遠くなる。三割できそうだったらやってみよう。三割の喜びを得られたらよしとしよう。希望を持とう。夢を持とう。夢を諦める必要はない。夢実現のために戦いや競争も必要だろう。邪魔する奴もいるだろう。でも負けてはいけない。負けたら喜ぶだけだ。同情などしない。敵と味方をはっきり分けよう。負けてはいけない。負けることは人の機嫌を取ることだ。究極には自殺だ。退職だ。田舎暮らしだ。それは人に機嫌を取ることだ。意地悪もするだろう、邪魔もするだろう。でも負けてはいけない。いじめに負けてはいけない。小学生の頃いじめに負けずに撥ね返したじゃないか。今頃になっていじめられたからとか言ってんじゃない。
自分を傷つけて不幸になって、破滅して喜ぶ人間は確かにいる。でもそんな奴らを喜ばせることはない。自分の幸せを喜んでくれる人間を喜ばせる。まず自分だ。自分を喜ばせる。そして自分を愛してくれる人を喜ばせる。
z氏と会ってきた。余り盛り上がらなかった。きっと人を喜ばせることを止めたので肩透かしを食ったかもしれない。自分の身は自分で守らないといけない。自分を守るということができていない。自分を喜ばせようと思う。人を喜ばせるからおかしくなる。
ずいぶん前から緊張する人と話さねばならないとき、人前で話さねばならないとき、急に父親のことを思い出して泣きそうになることがある。これは私が弱いのではなく、明らかにptsdだ。これで強くなれというのは間違っている。細心の注意を払わないといけない。今まさにptsdの影響下にある。ババアがどうとか言う問題ではない。正常ではないのだ。
私はptsdだと感じた。少なくとも直近の出来事、フッキー加藤事件は今の私を苦しめている。典型的なptsdだ。職場での出来事もptsdだと思うし、前の職場での出来事、その前の職場での出来事、その前の会社を解雇されたこと。父が死んだこと。銀行を解雇されたこと。病気になったこと。大学のとき自殺未遂の末入院したこと。いじめ。高校でのクラスでの孤立、教師との対立。中学でも同じ。小学校ではおかしな奴らと付き合ったこと。その結果家族が嫌いになったこと。善人を憎むようになったこと。
人間が恐い。男でも女でも若くても年取っていても、どんな奴でも好きにはなれないし、恐い。恐いということと好きとは両立しない。好きでも嫌いでもないが、恐くはないということはある。フッキー事件はptsdだ。あいつは完全におかしいので人を傷つけても傷つけたとわからない。善悪の区別もつかないので、本気でとめどなく傷つける。良心というものがないので自制するということができない。あのババアと同じじゃないか。良心ないじゃないか。この会社に入ったときもキチガイみたいなおっさんに逆らってモラハラでうつ病になった。傷害だ。でもそれは自傷行為だ。キチガイのおっさんに逆らったらいじめられるというのはやっぱりおかしい。モラハラを誘発する自傷行為だ。どうしてそうなるかというと誘発しているからだ。根が深い。おかしい。義人になろう。これからは困ったことは起こらない。最近、店員に馬鹿にされたり、朝カルでいじめに遭ったり、困ったことが多い。信じられないことが多い。義人となることでそういうことは解消できる。
あのキチガイフッキーのいじめに遭ってptsdになったのも自分がまいた種だ。自分が誘発しているのだ。あんなキチガイを怒らせるとどうなるかわかっているだろう。hだってkだってキチガイだって一目でわかるじゃないか。何でそういうやつに喧嘩を売るのだ。境界例に決まっているじゃないか。自傷行為を止めよう。全ての自傷行為を止めよう。アルコールも含めて。アルコールとグリシンを一緒に飲むなんて危険すぎる。
私は義人になると堅く決意した。聖人になる。聖なる時間を過ごすと。大局的に考えよう。義人とは善行を行うことを専らとし、世のため人のために生きる人だ。そういうことを考えて行動し、行きたいと本当に思う。会社で一所懸命に働くことがまさにそのことだと信じる。誰でもそのことを知っている。義人になれば困ったことは起こらなくなる。良いことが雨霰のごとく降ってくる。昨日だって体の不自由な人を神が私に遣わされたのだ。そう信じればいいじゃないか。神様はいるんだ。心に聖なる気持ちを取り戻しさえすれば必ず神様は助けてくださる。
義人になれば自分の楽しみを取り戻せる。義人になれば幸せなことが雨霰のごとく降ってくる。義人になれば困ったことは起こらなくなる。義人になれば皆が親切にしてくれる。義人になれば気持ちが優しくなる。義人になればルールを守れる。義人になれば働ける。義人になれば自傷行為はやむ。義人になればptsdは直る。義人になれば信頼を回復できる。義人になれば人を愛することを思い出す。義人になれば人に愛される。
よくhが人にものを言うときに嫌な顔をするのが気になったことがある。でも今はとても良くわかる。あいつもptsdだ。人が恐いのだ。でも何らかの方法でそれを克服したらしい。スポーツなのかアートなのかわからない。それらはコミュニケーションの技術であり、修練である。それにより、ptsdにありがちな疎通性の悪さを克服したのだろう。kも明らかにptsdだ。海馬に損傷を受けているらしい。それをスポーツだか何だかで克服したのだろう。それであの二人は私には同じに見える。私は強くなるのが嫌だった。恐かった。だから真面目に修練することをやめた。自分が弱いので修練に耐えられない可能性があると考えたのだ。同じようなことをhが言っていた。何をやっても中途半端だと。自己卑下のようにも聞こえるが実感なのだろう。私も自分にそういうものを感じる。中途半端だと。文学も中途半端、法学も中途半端、金融も中途半端、人生も中途半端。何もかも中途で放り出す。それは尊敬されないだろう。義人になればそんなことは問題じゃなくなる。細かいことが一切気にならなくなる。義人になれば今ここ、目の前のことに焦点を合わせられるようになる。今クリーニングを出しに行ったとき、私の重大な変化に気づいたらしい。みるところが細かいからすぐわかるのだ。いいことだ。こんなに良い変化なのだから気づいてもらわないと損だ。目に見えて良い効果が現れてくる。図書館でも同じだった。hもkもptsdだが、何かでスイッチが入るとセロトニンだか何だかが猛烈に出るのだろう。スポーツ系の奴の特徴だ。それが恐いので私はスポーツを中途でやめた。弱すぎる。
義人となることはある意味弱くなることだ。人を信頼することは危険でもある。でもそれが強さになる。その理屈が小さい頃はどうしてもわからなかった。負けるが勝ちと言うか。わかっていたのが、ノイズが入ってわからなくなってしまった。何かに感染したようなものだ。
北花田に行くと何か恐くなる。最初は良いのだが、幸せそうな家族連れの塊を見ていると徐々に威圧されたような気分を感じる。無言の圧力を感じる。ここはお前の来るところではないと。考えすぎか。ブランド物のショップの店員もそういう目で見ているような気がする。でもそれはそうかもしれない。金持ってそうに見えないから。義人になることで解消する。そんな小さなことにはこだわらない。義人となれば何をすればいいか自ずとわかる。女性的でもいいのだと思った。小さい女の子が可愛いともあまり思わなくなった。目鼻立ちの造作が小さいせいか、未完成作品という印象を受ける。最初に姪たちを見たときもそう思った。でも親の目から見ると可愛いのだろう。それで十分じゃないか。義人としては見守るだけでいいのだ。執着したら恐いだろう。
あのババアをどうしたらいいか。大局的に考えることだ。余りに小さなことで私の考えることではないということに気付くだろう。義人は小さなことにこだわらない。


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