希望の日記

2006年10月11日(水) 北朝鮮

北朝鮮が核実験をした。大騒ぎをしている。本当にそんなに恐いだろうか私は全く恐くない。
昨日はかなり眠れた。今日は風邪気味だ。何も考えなくていい。これは楽なことだ。ハッピーだ。あんなやつらのことを考える必要はないのだ。ありがたい。頭がぼけてきたので昔のことはきれいに忘れた。新聞を見ても何を書いてあるのかわからない。いいことじゃないかと思う。余計なことを考えない。おばさんと同じレベルだ。義人になろう。義人は困ったことが起こらない。義人は世界一偉い。義人は困らない。私は世界一偉い。世の中の全てのことがわかる。全ての人に愛される。全ての人に信頼される。
世界超一流聖人君子。それが私の姿だ。義人である私は困ったことが起こらない。全てのことを理解できる。小六のときくそみたいな奴と付き合っていたために私が悪人みたいに言われて虐待を受けた。それから人と付き合うのが嫌になって自閉するようになった。家族からも離反した。嫌いになった。それから色々あったが数多くの罪を犯して人間嫌いになった。それでババアが喧嘩を売ってくる。人間が嫌いなのが普通だから、何で攻撃されないといけないのかわからない。人と接触せず交流しないのが普通の状態だ。回路を断ち切って、いることさえ忘れる。互いに無視する。これが普通だ。何でそれで攻撃されるのかわからない。大所高所から見よう。聖人君子だったらどうみるかどう行動するか考えよう。自分を愛さないと許さないというのはストーカーの考えだ。許されるものではない。抗うつ剤を飲んでも素晴らしい気分にはならないのはこの間の事故で脳細胞が痛んでいるからじゃないか。新聞も読めないくらいだから。目が開いていても何も見ていないことがある。危険はないが、ババアなどから身を守ることはおぼつかない。
ババアが機嫌を取れと喧嘩を売ってくる。今も同じだ。機嫌を取れと脅してくる。何で怯えて機嫌を取らないといけないのか。全くわからない。大所高所から見よう。細かいものつまらないものには目もくれまい。当たり前のことだ。ptsdが少しよくなり始めた。抗うつ剤のお蔭だ。
今困ったことは何もない。生まれてからこの方困ったことなんか一度もなかったのだ。それを困った困ったといい続けてきた。お釈迦様みたいなものだ。人の悩みまで世界中の悩みまで背負い込み、困った困ったという。馬鹿みたいだ。私は一度も困ったことなどない。ババアが騒ごうが誰がどうしようが私は一度も困ったことなどないし、これからもない。生まれつき義人だからだ。
何も困ったことなどないのに、大げさに騒ぎたて、人に襲い掛かり、破滅させようとする奴。そんな奴の相手なんかなんでしないといけないんだ。私は何も困っていない。
私は困ってなんかいない。一人でいるのはそのほうが気楽だからだ。家族がいるものを羨ましいとは感じない。自分の方が不幸だなんて思ったことはない。人を受け入れるのは絶望的に不可能だ。でもだからといって何も困らない。愛はいくらでも得られる。私は義人だからだ。聖人君子だからだ。小泉を見よ。あいつは変人で愛するものなどいない一匹狼だ。それでもオペラに出歩き、愉しみや愛を見つけることができる。
私は風変わりな人間だ。でも困ってはいない。こんな人間がいても一向に悪くない。私は小さいころからまったくおかしなところはなかった。私より変わった人間はあの職場にもいくらでも居る。全く困らない。私は困ってなどいない。これからも困らない。あのババアが何か困るだろうか。hが何か困るだろうか。あの会社に勤めることに何か困るだろうか。何も困らない。困ってなどいない。心も体も正常だ。健康だ。
私は悪くなどない。悪いことなどしていない。悪いことをしたのはお前らだ。私を病気にしたのはお前らだ。私は何も悪くない。あのババアが長年にわたって私に悪いことをして、私の精神が病んだのだ。愛されないのはお前がその資格がないからじゃないか。何で私が責められなければいけないのだ。いい加減にしろ。私は悪いことをすることにした。悪いことをされたら、悪いことをすることにした。私は困ってなどいない。悪いことができないから病気になる。悪いことができれば病気にはならない。どんどん悪いことをしよう。同時に義人になろう。聖人君子になろう。聖人君子とは良いことのためにどんどん悪いことをしている奴のことだ。私は人を愛することはできない。でも困ってなどいない。何で攻撃されるのかわからない。愛は素晴らしい。でも愛と殺意は同じものだ。注意しないといけない。戦争反対といっても愛と根が同じだから根絶は難しい。愛するのを抑えるくらいだ。仏陀の言ったように。
義人とは悪を肯定するもののことだ。世の栄えたものは皆義人であるが生きていられるのは悪を肯定し、実行しているからだ。私が悪を否定し、実行できないので苛立って攻撃してくる。私が優しいから攻撃してくるのだ。私はあのグループに戻らない。別の場所に移るが十分な配慮を求める。
世の中で栄えているものは悪人である。義人、聖人君子とは悪人のことである。悪人は義人であれば何をしてもいいと思っているからである。実際世の中はそうなっている。そうならないのは負け組とうつ病患者だけである。
私は自衛のための悪は許されていると考える。全ての人間はそう考えている。正当防衛とか緊急避難を認めている。どこまでが悪かという問題はあるが、とにかくそうだ。人間は許されていると思うと自然と悪を行う。法や暴力や道徳でいくら縛りをかけても嘘の様に吹き飛ぶ。宗教もだめだろう。アウシュビッツを見ろ。スーパーでセクハラされる。トマトを選ぶ振りをして異様に近づく。誰もとめることはできない。なぜ人は悪を行うのだろう。大阪のババアだからか。もちろんそうだろう。でも許されているとわかっていれば人は何をするかわからない。南京大虐殺を見よ。何で悪を行うのか不思議に思う自分が不思議に思えた。義人は悪を認める。少なくとも人が悪を行うという事実は認める。人は悪いことをする生き物だと認める。そうすればなぜ悪いことをするのだろうとか、何が悪いので攻撃を受けるのだろうとか、驚いたり、不思議がったりすることはなくなる。なぜフッキーは攻撃してくるのかとか。なぜhやkは攻撃してくるのかとか、なぜ不思議がるのかが不思議だ。そういう生き物なんだとはたと気がついた。電車の中で嫌がらせをする。言葉で侮辱する。何でなんだと悩んできた。でもそういう生き物なんだと思えば、納得がいく。レイプされた人も男はレイプする生き物なんだと考えないと整理できないだろう。絶対にレイプしない男なんていないのだと。私のような聖人君子、義人になるとそういうことまで考える。人は悪いことをする。困ったことだろうか。少しも困らない。これからも困らない。私は悪を行われないために引きこもっていないといけないだろうか。そんなことはない。いくらでも防ぐ方法はある。悪は逆に許されている。自分も悪を行う生き物だ。行っていい生き物だ。そうすれば恐くない。
私は悪いことをしてないかというとしている。電車の中で嫌がらせや暴力を振るうのは私が悪いことをしていると思うからだろう。私は義人であるから悪を肯定する。私が歩いているだけで怪しむのは人が悪いことをするものだという考えからに他ならない。私が怪しいからではない。私は自分を守るとき以外悪いことはしない。
大所高所から考えよう。人類は悪いことばかりしてきた。西洋人、アジア人問わない。戦争や虐殺はどの民族でもやっている。それで大阪のおばはんはとか言っていたらおかしい。あれに慣れるということは肯定する代わりに自分にも悪を許す以外にない。卑屈になる必要はない。もうあのグループには戻らない。悪は許される。自衛のために悪は許される。奴隷じゃないんだ。人は悪いことをする。止めることはできない。義人になることは素晴らしい。
困ったことは起こらない。私は何も困ってなどいない。誰も困ってなどいない。ホームレスも困ってなどいない。障害者も困ってなどいない。高齢者も困ってなどいない。家族がいないからといって困ってなどいない。休職中だからといって困ってなどいない。
この間の事故から、文章の意味がわかりにくい。新聞を読んでも目は活字を追うのに意味がよくわからない。この間山に行ったとき、鶴橋を乗り過ごした。戻ってきたとき、鶴橋の名前を見てもそこで降りないといけないと思わなかった。脳がおかしくなっている。今日はフライパンを焦がしそうになった。危険だ。元に戻るだろうか。でもその間に聖人君子、義人という概念を得た。少し馬鹿なほうがいいんじゃないか。この苦境を脱するには。ptsdのことに気付いたのもその後のことだ。
グリシンを飲んでから一か月になる。まだ完全にはよくなっていないが少しずつよくなっている。目の前のものに脳が反応しない。物忘れがひどい、物覚えが悪い。新聞が読めない。人が何を言っているのかわからない。でもその間に気づいたことの方がより本質的な気がする。ptsdのこととか、聖人君子、義人の概念とか。一人さんの言っていたことが実感でき信じられたのは初めてだ。奇跡を信じられたのだから本物だ。実際、実行してその効果を感得できた。今のところ、図書館のおばはんとレジのおばはんくらいだが。こちらが義人として振舞えばそれなりに扱われるということ。それは偉そうにすることでは決してない。当たり前のことができるようになることだ。普通の人ができることができることだ。大人になることだ。体の不自由な人に自然に親切にできることだ。目が見えなくなって、馬鹿になったらより本質的なことがわかりそうな気がする。今が現にそうだ。人がどうして悪いことをするのか。何で悪いことをされるのか。私が悪いからとか悪いことをしたからではない。人は悪いことをする生き物だからだ。すごくよくわかった。なぜ中学の頃虐待にあったのか人はできるとわかれば直ちに悪いことをする生き物だからだ。悪いことをしたいといつも思い、妨げるものが何もないとわかればやる。そういう生き物だ。あの吉がいも私を密室に呼んで痛めつけた。人目とか気になるということは悪いことをしているということはわかっているのだ。どうして悪いことをするのか。悪いことをする生き物だからだ。なぜこれだけひどいことをされて、そう思わなかったのか。馬鹿としか言いようがない。私が怪しい目で見られるというのは人は皆悪いことをすると思っているからだ。自分を善良だと思うとか、人が私を善良と思うとか、笑うべき勘違いである。私も悪いことをする。悪いことをしてもいいのだ。自分を守るためには。私は悪いことができない。でも人は悪いことをする。だから頭がおかしくなる。悪いことをされたら悪いことをしたらいいのだ。義人の概念はそれを越える。人が悪いことをしようがしまいが困らない。義人は人が悪いことをすると知っているからだ。それに十分対処できるからだ。考えすぎだ。今回の事故は私が頭を使いすぎることへの警告だ。もっと馬鹿のほうが良い。変態にもキチガイにもならない。義人になることだ。筋肉馬鹿になっても良い。三島はそのようになって筋肉とともに自滅した。それは天皇のため、日本のための決起のようでありながら、愛人との心中でもあった。善とか悪とかは意味をなさない。義人であるとは悪と善とが溶け合っていることだ。どちらかを無視したりしないことだ。私は自分が完全な善人であるとか悪人であるとは信じ得ない。それが普通だ。それが義人の概念だ。純粋化するときちがいじみてくる。人が悪いことをするはずがないというのが一番大きな勘違いだ。レイプはほとんど顔見知りの犯行という。この世は安全な場所ではないということか。義人はそれを越える。ptsdになった人は義人になれる資格がある。それを知らない人はむしろ幸せかもしれない。しかし知らない人がいるだろうか。子供ならいざ知らず。


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