希望の日記

2006年10月10日(火) 琉球フェス

昨日は琉球フェスティバルに行ってきた。余り楽しめなかった。隣のおっさんが目に見えないミクロな嫌がらせをしてきた。チックみたいな奴。チックのやつって見ていると気分が悪くなるから止めてくれといいたいんだけど、嫌がらせじゃなくて病気だからいえない。そういうやつ。イライラが募る。気が狂いそうになる。義人の道は険しい。数日前北花田に行ったときからおかしい。雑民の皆さんのパワーに押される。昔は馬鹿にしていたのに今は心底羨ましいと思う。でも義人は世のため人のために生きているので、羨ましがったりしない。色んなことを考える。私が幼い頃、悪の道に目覚めたことは大きい。後になって大きな災いを自分と周囲の人間に引き起こした。申し訳なく思っている。今その報いを受けている。こういう考えはうつ特有だろう。罰を受けているとか言うの。あのババアの姿を見、声を聞くだけでptsdになる。私は気が弱く善人なので受け入れて我慢してしまう。他の人にとって我慢できても私には我慢できない。挙句にモラハラしてきた。救いようがない。抗うつ剤を飲むこと。あの職場には戻らないこと。この二つが回復の条件だ。私は自分の悪事によってptsdになる。あの姉も相当おかしい。言葉では表現できないが、モラハラ体質であることは間違いない。私も相当被害を受けた。父も確かに優しかったが、モラハラ体質(隠れ)だったかもしれない。飲んだくれ振りが子供心に悪影響を与えていた。正月のたんびに母ともめていた。問題なしとはしないだろう。結局私がたまたま悪くなったのではなく、家族の病理が私に収斂されたとも言えるだろう。それにしてもあの職場の病人の多さよ。hやkは明らかに病人なのに、うまく適応する技術を持っているのだ。悪とは適応のひとつではないだろうか。行き過ぎると悪となるが適切であれば褒められる。それであくがますます栄える。サドの言うことは間違ってないかもしれない。あれに似た人物はいる。フッキーとか加藤とかプチサドみたいなやつ。ptsdになる。私は善人で小心者だから。飲酒は悪ともいえるが適度であれば、疲労回復、潤滑油になる。義人となろう。大所高所から見よう。聖人君子となろう。必ずなれる。そうすれば楽になる。義人となれば人の子が可愛くなくなる。どうしてだろう。人の子を可愛く思うのは優しさのように見えて欲望だからかもしれない。義人となろう。愚直に義人となろう。それ以外考えられない。自分を救う方法は。
純粋にhとかkに怒りを覚える。何の関係もないのに絡んできやがって嫌がらせをする。お前らにどうして愛情なんか持たないといけないんだ。赤の他人じゃないか。何で機嫌の悪いお前らの機嫌を取らないといけないんだ。全くわからない。私はこの数年間苦しみぬいた。それに対してもっと怒ってもいいはずだ。仲良くなんかできるわけない。無視したって無視も何も関係ないじゃないか。何でお前らの機嫌を取らないといけないんだ。ものすごい怒りを覚える。私は義人だ。義人に対してそういう振る舞いをして許されると思っているのか。もう我慢できない。何で我慢しないといけないんだ。ストーカーみたいに絡んできやがって。それに対して怒れないというのはおかしい。聖人に対して許しがたい行為だ。ものすごい怒りを覚える。怒りを覚えないのは奴隷根性だ。常備軍を持たない国くらいおかしい。変なことをしたらただじゃ置かないぞという気持ちが大事じゃないか。何をされても黙って我慢しますというのはおかしい。私はこれを許さない。許しようがない。中学時代に私をptsdに陥れたキチガイにも激しい怒りを覚える。お前らのやったことは単なる犯罪行為だ。
何に怒りを覚えるか。しつこいところだ。許さないところだ。それぞれ事情があるのだ。それを一切聞かないで許さない。しつこい。頭がおかしいんじゃないかと恐怖を覚える。その後激しい怒りを覚える。義人の道を歩もう。義人を傷つけることはできない。攻撃することはできない。iもしつこかった。境界例特有だ。頭おかしいんじゃないかと思う。大所高所から見よう。義人聖人の道を歩もう。悪とはなんだろうか。馬鹿な奴と付き合ったのが悪だろうか。確かにおかしい。悪に魅せられたのはおかしい。自分も悪の同類とみられても仕方がない。じゃあそんな奴を野放しにするなといいたい。悪から子供を守れといいたい。ptsdになった。hやkにしつこく言われると小学校や中学のとき、感じた怒りがよみがえってくる。私は義人となってこの怒りを克服しよう。あいつらにとっては私に邪慳にされることが悪なのだろう。子供が見捨てられるくらいの悪なのだ。細かいここの人格とか言い出したら全く収拾がつかない。hの声を聞くだけで今は気分が悪くなる。それくらい状態が悪い。フッキーや加藤にあの見捨てないでという声を聞くからか。善の側が悪の側に呼びかける声を聞くからか。良心の声を聞くからか。私は聖なる道を歩こう。聖なる時間を生きよう。聖者となろう。全てが聖なる人間と感じられるまで。悪が染み付いているからそう思うのか。私が間違っているのか。私はあいつらに悪の響きを聞く。私の善良な部分はそれを聞き逃さない。中学のとき、あのキチガイは愛情など全くなく、怒りと憎しみだけで私を罰した。私はそれを許せなかった。今でも許せない。でも恐らく許さないといけないのだろう。相手に愛情があろうとなかろうと、キチガイだろうと境界例だろうと、私がルールを破ったことは間違いない。しかし、世の中がこれほど信頼の置けないものだとは思わなかった。私には理解する力はない。わからない。どうしてこれほどの怒りがこみ上げ、消えないのか。だから聖人になろう。義人になろう。ごく当たり前の義人になろう。理解できないptsd的な出来事は忘れて、義人になろう。
私は素晴らしい人間だ。フッキーのことも加藤さんに何であんなのと付き合うんだといわれて、素直だから嫌いになってしまって、その結果私が傷つけられて終わったということだ。何も傷つけられる必要はなかった。単なる面白い親父でよかったじゃないか。そのまま付き合うのは自然消滅でよかったのだ。確かになんで接近したのかわからない。それと最初の飲み会のとき、明らかにおかしいと気付いたはずだ。このまま行くと大変なことになると。加藤さんはそれを注意したのだ。あんな人間の体をなしていない奴にと付き合っても得にはならないし、大変なことになると。全ての人間が恐くなってくる。加藤さんも恐くなり、職場の人間も恐くなる。z氏まで恐くなる。だから義人になる必要があると思う。聖なる気持ちがなかったら、誰とも付き合えないし、どんな仕事もできない。起こったことを許すためにもその人間より上に立たないといけない。上に立つことは気持ちのいいことなのだ。その人間の上に立つことができる。自分も癒される。
どんなときでも許すことができなければならない。子供に対してでも老人に対してでも寛容と宥恕の気持ちがなかったら、接することはできない。だから義人になりなさいという。聖人になりなさいと、聖なる時間を生きなさいと。女は聖者なんかではない。でも子供を生んだ瞬間に聖者になれる。それだけでもすごい。私は聖者になる資格が十分に備わっている。悪人なんかではない。あらかじめ全ての人間を許せるようでなければ聖者にはなれない。許すとはいかなる場合もあらゆる人間の上に立つということだ。その覚悟があって初めて聖人になれる。それで初めて癒されるだろう。女は生みの苦しみを自分に与えたことで子供を許さないだろうか。そんな母はいない。人間とは生まれながらにして聖なるものになる資格を持っているのだ。
激しい怒りを感じつつ許すことはできる。許さない限り、癒されないし、時間は前に進まない。もっとも許したくない人間もいつかは許さなければならない。そうしなければ癒されず、成長もせず、大人になれず、聖人になれないからだ。許すことで忘れられる。許さないことはその人間をいつまでも覚えておかなければならない。それは生理に反することだ。私は私に害をなした全ての人間を許すだろう。激しい怒りを抱いたこともやがて忘れることができるだろう。これは神様が与えた宿題なのだ。これを片付けないと進めない。でも今そのときだ。中国人は日本人を許した。忘れようとも努めた。でも反省していない態度を見せれば許しは取り消され、再び怒りが噴出する。許すことは難しい。許される側はもういいだろうといい、許す側はまだだめだという。でも人間は許すだろう。それが人間が神に近い理由だ。私はそれを信じる。お互い忘れよう。忘れるために離れよう。私を見て私を許せないと思うのだろう。それで攻撃するのだろう。だから近づかない。私は許すだろう。今がそのときだ。許すときが来た。その代わり私は聖人になる。聖人を傷つけてはならない。二度と許さないとは口にしないだろう。それで私は成長し、癒され、聖人となり、神に一歩近づく。父はまだ私を許してくれないだろうか。きっと許してくれていると信じる。私は今日一歩を踏み出すことにした。
許すということは強くなったということだ。うつも治るということだ。許すことで気持ちの整理がつき、癒しが早まる。中学時代のどうのこうのとか、今まで人生で起こった全てのことが許せないだろうか。許せる気がする。許せないことはこれまでの人生でもなかったし、これからもないだろう。そう思えて初めて人生を生きることができる。巻き戻し法の効果が早速現れてきたか。
hのやったことはモラハラだ。一連のモラハラ行為が私を長い休養に追い込んだ。人の良い私は敵と味方の区別もつかない。危害を加えられることと、適切な行為も区別が付かない。こうして休んで長い人生を振り返って漸くわかることがある。私はあいつを許す。しかしあいつとかかわりのある場所には戻らない。ptsdが再発する可能性があるからだ。モラハラは犯罪行為だ。処罰する法があるかどうかは関係ない。逃げる術はいくらでもある。自己愛性人格障害の心理的呪縛、コントロールから逃れるときが来た。許すことで私はhの優位に立てる。それで呪縛が解けた。私がhに反抗的になったのはモラハラ的呪縛から自由になりたいという心の叫びがそうさせたのだ。何でモラハラを行う相手に自ら進んで従うのか。奴隷根性。小学生のときに起こった出来事を繰り返している。ptsdのごっこ的繰り返し。私は解放された。父親も許す。その代わり、私は父親から解放されたい。許されたい。私はhを許す。そして許されたい。そしてその心理的呪縛から離れたい。
モラハラなんか自分から相手の心理的支配下に積極的に入らない限り、有効ではない。許すことで相手の優位に立つのだ。心理的にだ。役職がどうとかは全く関係ない。役職がどんなに上だろうが心理的にまで隷従する必要はない。そんなことをするからモラハラをやってくるのだ。あの最初のモラハラ王もそうだった。自己愛性人格障害そのもの。私は義人となった。困ったことは起こらないといった。その通りになっている。電車の中で咳を気にするというのは心理的にコントロールされた状態なのだ。モラハラ状態なのだ。ptsdなのだ。真のモラハラ野郎はhだったのだ。最初の頃あいつに迎合するかのように飲みに行っていた。あれも正常ではなかった。あいつは全く私に心を開いていないのに、全く不均衡な関係、これも共依存、モラハラ的関係だ。n氏との関係もそうなりがちなので距離を置いた方が良い。面倒を見る代わりに隷従するという。なぜそんな関係が心地いいのか。母親も私をそのような羽をもがれた状態にしようとしていた。恐ろしい。私は義人となったのでそういうことが初めてわかるようになった。生きるためのストラグル、それはいくらでもする。それをしないといって責められるいわれはない。義人となった今は働くことはいとわない。モラハラを受け入れるいわれはない。
大所高所に立たないといけない。義人とならないといけない。i津に戻るのはもう嫌だ。あいつは何様だと思っているのか。あの場所から逃れないとモラハラは終わらない。モラハラは絶対に許さないという覚悟が必要だ。人は許す。だがそれを、その行為を繰り返すことは絶対に許さない。中国や韓国の態度も同じだ。当たり前のことだ。モラハラは処罰されない。でも許されないことだ。逃れる方法はいくらでもある。
義人になることだ。まずその上で色々な技法などを試してみよう。人は許す。しかし、モラハラ行為は許さない。二度と繰り返させない。何だ。あの電話も持たせない。人の手足のように使う。何もしていないのに叱り飛ばす。継子扱いなどと陰口を利く。馬鹿にしたような笑い顔で見る。私は自信を取り戻した。必ず回復する。あの職場にはもどらない。戻ると考えている奴がいたらお笑い種だ。hは必ずモラハラを繰り返す。一度起きたことは繰り返す。日本人が靖国参拝しただけで怯える。危険極まりない人間が隣に住んでいれば当然そうなる。引っ越すことはできないとは中韓のほうの台詞だ。あの職場に戻らないため、よりよい職場に移るため、全身全霊を尽くす。やっぱりおっさんは嫌だ。おっさんが嫌だから仕事ができないんじゃないか。おっさんの何が嫌ってモラハラ的なところだ。パワハラといった方がいいかもしれない。モラハラとパワハラのダブル攻撃だ。義人であろう。そうすれば困ったことは起こらない。勇気が出てくる。問題が解決する。恐がる必要がなくなる。
あのグループ自体がモラハラに汚染されている。私のほうも心理的に汚染されている。モラハラ行為がいつまでも続くから心理的に疲弊してパワハラを誘発する自傷的行為が発生したのだ。でもお蔭でモラハラ職場から脱出できた。
あんな職場に戻れるわけないだろう。私は義人であって、人に危害を加えたりしない。
義人は身を守る術を知っている。モラハラ女やパワハラ男からどう身を守ればいいか知っている。パニックやトラウマから自由でいつも自分をコントロールできる。
私は会社では許されないことをしたかも知れないが、なぜそうなったのか理解されたい。モラハラ状態に追い込まれて長い時間が経ったためにそうなったのであって、そこを理解する必要がある。
私は小さい頃から悪いことをすると思われてきた。遅刻をするとか、悪さをするとか。悪事をしておいて起こられると切れる。ptsdになる。自分がわからなくなった。仕事がしたいに決まっている。しかし安全が確保されなければならない。あんな職場であんな扱いでは無理だ。私は義人だ。
悪いことはしないさせない。善行を積む。義人は攻撃されない。義人は悪事を行わない。義人は悪事をされない。こんなことを今考えるべきではない。考えても仕方ないし、今考えるべきことではない。
今は何も考えない方が良い。何を考えてもおかしい。迷っているときに考えたことはどんな結論でも間違いという。
悪の問題を考えてしまうが、悪いことをするから悪いことをされるんじゃないか。中学の教師も全くそういう考えだった。自分がなめられているからいじめる。馬鹿にされたからいじめる。報復の論理だ。善悪ではない。教育的何とかとか全くない。愛情もない。訓戒も改悛もない。やられたからやり返す。それだけのことだ。あのグループで起こったこともその通りだ。ババアを馬鹿にしたから鬼みたいになって私を攻撃してきた。hを馬鹿にしたから報復してきた。だから休んだ。報復の連鎖だ。過去は許そう。人も許そう。でもまた起こるだろう。だから戻れない。仕事をしないからいじめる。でも仕事をしないんじゃなくてできなくなったというのだ。できなくなったのはモラハラによるストレスから来る欝だといっているのだ。そんなものが耐えられるか。
私の人生で私に何が起こったか漸く理解できた。ptsdを発症している。何が起こったにせよもう耐えることはできない。
答は義人となってどこかで幸せに生きていくことだ。あそこではありえない。
今までもhに悪いことをしていないだろうか絶対している。悪いことをいっぱいしている。悪いことをしても許される関係などない。甘えということじゃないのか。北朝鮮みたいに何をやっても許される国などない。制裁を受けるだろう。
朝起きてから寝るまでツイテルツイテルハッピーハッピー、幸せ幸せありがとうありがとうといい続けていたい。あいつらにも特に恨みはない。私が結局恐怖心から嫌悪感憎しみを持ってしまったのが良くないのだろう。今は何も考えなくていいのが幸せだ。それと巻き戻し法は効果がある気がする。フッキーとのことを巻き戻していると、そのことがなんでもないことに思われてくる。そのほかの全てもトラウマもやってみたい。小さなことでもトラウマになりやすい。それは間違いない。なるべく考えないことだ。憎しみについて。許すことだ。義人になることだ。
義人になることだ。hもkも恨んではいない。許している。あいつは財形の貯金を下ろしてくれたり、色々やってくれた。最初の頃は一緒にのみに行っていた。それが自分が調子が悪いからといって、憎んではいけない。私のほうが絶対おかしい。誰が見てもそうだ。だから義人になれと。aという刺激に対してbという反応をするのが普通の人間とするとxというとんでもない恩知らずな反社会的反応をするのが私だ。今回のことでもhに対してxというとんでもない行為をしたのに対し、bという普通の反応を返してきたのが一連の事件じゃないか。
それに対してwというまたとんでもない反応を返したのが休職ということだ。私というブラックボックスは常人にはわからないものになっているのだ。フッキーのことでも私の反応はおかしい。今思うと。最初無理やり仲良くしてもらっておいて、後で向こうが仲良くして来ると気持ち悪がって邪慳にする。それは普通の人でも起こるだろう。あの人は人を傷つけることをなんとも思わないから思わぬ事態になってしまった。自分が十分注意していればよかった。
はっきり言ってhやkをいっぱい傷つけている。それが帰ってきたのだ。自分のやったことが自分に帰ってきたのだ。だから解決策は義人になることでしかない。過去のことを許しを請うとか、卑屈になるとかではない。反省し、改悛するならば、義人となってうまく行くだろう。困ったことは起こらないだろう。


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