朝、洗濯物を干していたら。 女性に声をかけられた。 ふたり、連れ。 とても優しそうな雰囲気。 あ。 来たな、と心を固める。 「目標のある生き方についてお話ししませんか?」 穏やかな声。 きらきら眩しい笑顔。 本当に優しいヒトなのだな、と思う。 そして、真剣なのだな、とも思う。 けれどアタシは。 「お話しすることは何もありませんし、聞くこともいたしません」 と。 普段、もにょもにょ話すジブンにとって、鋭利な言葉を返す。 それは本当に話すことはないから。 そして、聞く耳も持たないから。 いろいろな宗教を否定する気は1ミリもない。 むしろ真剣なのはスゴイな、って思う。 けれどアタシはアタシの中にある、何かを信じているから。 聞く耳を持たないのに、ムダに話をさせてしまっても申し訳ないから。 ドアを叩く布教の方々へはいつになく強い口調になる。
「お顔を合わせただけでも何かの縁ですから」 と。 優しい雰囲気の方々はとても押しが強い。 玄関先でなく、玄関の外だったので。 ぐいぐい押しつけられる冊子を突き返すことができず。 はあ……とため息とともに受け取った。 目標のある生き方ねえ……。 と、いつになくぺらりと冊子をめくると。
オリンピックを目指してがんばっている人は必死です。胃に穴があいても、まだ頑張っています。目標のない人は、毎日うつ病のような顔をして、バカらしいバカらしいと思って働いています。目標のない生き方をしていると、その時は楽でも、サメのいる海へながされているようなものかもしれません。
とある。 なんてうつ病の方へ失礼な言葉だろう。 サメだってニンゲンの言葉がわかれば、ムカツクよなー。 悪いけれど。 まったくこころに響かない言葉だった。 むしろ。 こんなことを平気で言えることが不思議だった。 それを信じられるキモチも理解不能だった。 もちろん。 信じている方々をどうのと言うつもりは全くないけれど。 それを押しつけるのは止めて欲しい。 信心や敬意をはらうことは強要されてのことじゃない。 アタシは。 空がとても美しい時、自然と手を合わせる。 季節を移ろう風の香りを感じた時、感謝の言葉をこころで詠う。 コンクリートの隙間から必死に伸びる草花を見ると、どうしたって頑張る勇気を頂く。 アタシのこの考えが正しいとは思わない。 間違っていると言われても変えることはしない。 ヒトに押しつけたりもしない。 説いて回ったりもしない。 けれど、これがアタシなのだと思う。
中学生の頃はキリスト教に興味を持ち、高校生の頃は仏教に惹かれ。 けれど今のアタシは無宗教だ。 神、のような存在は。 すべてに宿ると思っている。 目に見えるものでなくても。 あまり宗教的なことを書くのはいろんな意味で諍いのもととなるので。 なるべく書かないでおこうと思っているのだけれど。 今日ばかりは思いの丈を綴ってしまった。
少しだけ。 疲れているのかな?
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