サイトの小説、「初恋Rainbow」の11話をupしました。 先のupから、なか三日ほどの速さは。 今までに1番、くらい、かな? てか、10話を書いた時には半分ぐらい11話も書いていたから。
で、「よだかの星」。 11話にはこの話をめぐるやりとりがでてくるのだけれど。 サイトへいらした方がこのニッキをどれくらい読んでくださるのかわからないのですが。 あの解釈はあくまでも「わたくし自身」、のもので。 間違っているかも、というかきっと思い違いをしているのだと思う。 一が話す言葉は、アタシ自身が初めてこの童話を読んだ時の感想そのもので。 今となっては、あの童話のどこにも救いがない、とは思っていないのだけれど、本当に青くさい10代前半のアタシには、到底受け入れがたい童話だったことを鮮明に覚えている。 また、「永訣の朝」という詩も、実際、「よだかの星」を読む前に読んでいた自分自身のこと。 その頃は「詩」にとても興味があって、けれど、外国の人が書く詩ではなく、日本人の、日本語の、詩を読みたくて……。 本屋で立ち読みをしては、あーこれでもない、うーん、これでもない、とその時の感覚に合う詩人を捜していた。
けふのうちに とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
まだ小学生か中学生入りたてか、そんな頃だったと思う。 始まりの三行の、「おもてはへんにあかるいのだ」というフレーズが、とてもこころの中に響いて、印象的だったので、ずっと覚えていた。 そのあたりから宮沢賢治の文章はさほど読まず、「八木重吉」と「山村暮鳥」に熱していったので、「よだかの星」を読んだのは、おそらく中学二年生くらいだったはず。 アタシの故郷の方言で言えば、「なんだん、これ」 関西風に言えば、「なんやねん、これ」←ちょっと違うかな? ともかく。 よだかを哀れむ気持ちはこれっぽちもなく、ただただ怒りだけが残った、という感じ。 何に怒ってしまったのか、その気持ちは薄らいでしまったけれど、どうにもその時の印象が強く、今回久しぶりにこの童話を読み返した時、ふとあの頃の自分を思いだした。 チコ(ティコ)の星のことは、それからずっとずっと後に知ったのだけれど。
ともかく。 感情のままに解釈をしているので、本当はもっともっと深く、違う意味なのではないか? と思う。 原人が語るのはずっと大人になったアタシの解釈で、これも違うのだと思う。 その点はご容赦ください、と言うしかないので……。 そのことを伝えたかったのデス。
「初恋Rainbow」はしばらくこの勢いで突っ走ります。 本当はひとりでも多くの方に読んでいただきたいのですが。 それはあまりにも欲張りなので。 自己満足だけでも良し、としよう。 うん。
|