私の雑記帳
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2009年12月08日(火) |
「渇愛」について抜粋 |
■反応を期待すると自分も他人も苦しくなる
仏教には、人間の一生は苦しみの連続であり、心の苦しみを引き起こすものに「渇愛(かつあい)」がある、という教えがあります。
渇愛とは、あくなき欲望のこと。人間関係においては、「私をもっと好きになって!」「私をもっと認めて!」と求めてやまないのが「渇愛」です。
こうした気持ちに縛られるのは、私たちの心は生まれながらに「無明」(無知であること)だからなのだそうです。たとえば、あなたが誰かに好意をかけるとき、心の底ではこう思っていないでしょうか?
「これだけしてあげたんだから、感謝しているに違いない。すごいと思ってるに違いない」
少しでも、上のような気持ちがあれば、その心に「渇愛」がある証拠です。「渇愛」は本人には自覚しにくく、他人の方が敏感に感じとります。だから「渇愛」が潜む行為を、他人は負担に感じるのです。
■人に何かをするだけで単純に「幸せ」と思えるか?
「渇愛」には際限がありません。
「こんなに素敵なおもてなしをした私、すごいでしょ?」 「誰よりも気の利くプレゼントをした俺を、もっと尊敬してよ」
このように、愛されたい、認められたいという気持ちは、どんどんエスカレートしていきます。
そして、好意をかけた分だけ、感謝されなかったときの無念さは強くなります。渇愛の強い人は、見た目にも優しさや余裕が感じられなくなりますが、それを「知らぬは自分ばかり」なのです。
「渇愛」によってかけられた好意は、いわばニセモノの好意。受け手にとっては、これは「押し付け」に他なりません。
では、ホンモノの好意とは、どんなものでしょう?それは「慈悲」の心によるものです。慈悲とは、見返りを期待しないで与える心のこと。感謝されなくても、尊敬されなくてもいい。ただ、相手のためを思い、愛情をかけることです。
■ホンモノの好意を実践しよう!
渇愛から卒業するには、どんなことに心がけたらいいのでしょうか?それには、以下の3つのポイントを覚えておくといいでしょう。
・好意は「美意識」としてかける 人に何かをしてあげるときは、相手の反応や感謝を期待せず、自分の心の「美意識」として行うことが大事です。
・損得で考えない 「これだけの好意をかけたら、困ったときに助けてくれるだろう」と思うこと自体、もう渇愛です。損得を考えずに相手のことを思って何かをすれば、自然に他人は感謝します。そして、自分が苦しいときには、手を差し伸べてくれます。
・人が喜べばそれでOK 「喜んでくれれば、それだけでうれしい」 純粋にそういう気持ちになれれば、慈悲に近づいている証拠です。
このように、自分の心の奥にある渇愛に気づき、少しでも慈悲の心で接する気持ちを持つことです。すると、以前より確実に人間関係もよくなっていくでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 俗人にはそう簡単に出来ることではないけれど、意識くらいは持っていたい。
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