『ウェールズの山』The Englishman Who Went Up a Hill But Came Down a Mountain 1995年
かなり前にNHK-BSで録画したビデオを引っ張り出してきて見る。
長い間積見状態だったのが『エマ』と同じビデオに
録画してあったので存在に気がついたのだ。
ヒュー・グラントが出演していることがわかったので
良くも悪くも肩の力を抜いて見ることが出来る作品ではないかと
少なからず期待をしたのだが全体的に漠然とした印象を受けた。
製作者の意図とか想いの察しはつくのだが
自己陶酔の域にとどまっている感じがするのだ。
なぜ、そう感じてしまうのか考えてみるに
物語自体は面白い設定だと思うのだけど
登場人物の行動(感情に訴えるアクション)がほとんどないので
物語が停滞しているように感じるのではないかと思うのだ。
主要登場人物の測量士を演じるヒュー・グラントなど
ただ村人の作為によって足止めをくらっている人でしかない。
意図した傍観者という設定でもない。
タラ・フィッツジェラルドと恋に落ちるのだって
まるでとって貼り付けたようだ。
そしてこの作品にとって一番重要なテーマである
村人たちが力を合わせて丘を山にするという思いが
イマイチこっちに響いてこない。
『刑事ジョンブック目撃者』のアーミッシュの村人たちが
納屋を建てるシーンのバックに流れていた風の音楽が
この作品の村人たちの共同作業の場面にも流れていたと思う。
『刑事ジョンブック目撃者』のアーミッシュの村人たちが
納屋を建てるシーンには胸が締め付けられた。
本当に歓喜にふるえるような思いになる。
だけど、この作品の村人たちの共同作業のシーンは
効果音楽だけがとって貼り付けたように流れているように感じる。
イマイチ響いてこない。
そして作品の冒頭とラストに出てくるストーリーテラー的な
おじいさんは一体何者なのだ?という釈然としない感。
この登場人物の存在もとって貼り付けたようである。
結局、製作者は一番何が言いたかったのであろうか?
一番何に焦点を当てたかったのだろうか?
と思う。
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