柊小説

2006年02月07日(火) アカイヌクモリ  プロローグ

「晴れたね」
助手席に座る僕の顔を覗き込むようにして母親が言った。僕は前方の大型トラックのブレーキランプを見つめている。今日は休日ということもあってか、道が混んでいて流れが悪く、時々クラクションが激しく鳴り響く。そして、カーステレオからは一年半くらい前から母親がはまり続けている英国アーティスト・ベックの曲が流れている。
 早朝に家を出てから既に二時間以上も運転している母親の顔は、曲を口ずさみながらも何だか硬直しているようだった。それもそのはず。結婚十八年目にして今日初めて、夫の親に何の前触れもなく会いに行くのだから――。
 一直線に延びる国道を走るこの二時間ちょっとの間に母親は、コーヒー、紅茶といったカフェイン入りの飲みものを引っきりなしに飲み続けている。
「落ちつかないんだよねー。それに、今日会ったらもう二度と会わないかもしれないし、今のうちにカフェインいっぱいとって、眠気覚まして、シノブの親、まあ私の�狄騰瓩任發△襪韻鼻帖沈簑个亡蕁∨困譴覆い茲Δ砲靴覆�ゃっ」
母親は張りきったようにそう言うと再びハンドルを握っていない左手でゴクゴクとパックコーヒーを手にとりストローで飲み始めた。
 
 国道が二車線から三車線に変わり、僕と母親の乗る車は直進の中央車線で信号待ちのために一時停止した。すると、僕たちよりも少し前の左折車線でシルバーのセダンに乗った若い男二人がこっちに向かって手を振っている。運転席にいるのは金髪の坊主頭で、その隣はモミアゲと髭が繋がっている不潔そうな奴だ。しかも、二人ともやたらと笑顔でアホ気な面をしている。もちろん手を振っているのは僕にではない、母親だ。
 母親は僕を二十歳で産んだ。そして今現在三八歳だけど、実年齢には見えないほど若づくりだった。息子の僕から見ても三十前半、無理すれば二十代でも通ってしまうくらいだ。とにかく、そこらにいる同年代とはわけが違った。キリッとした少し意地の悪そうな目に、日本人とは思えないほど鼻筋が綺麗に通っている。それと何より今尚スッピンでも外出できるほどの肌を持っていた。自分でも時々、�爛瀬ぅ▲鵝Ε譽ぅ鵑澆燭い任靴膈瓠△繁佑箍搬欧料阿妊皀妊覺乕蕕韻離檗璽困鬚箸辰討い拭�それでも今日は特別な日ということなのだろう、しっかりと化粧が塗られている。自分の母親をこれほど絶賛するのはどうかと思うけど、そう思わせるものは持っていた。それと、あれは確か中学一年の三者面談の時だった。僕の担任だった中年のオッサン教師は母親を見るなり、年の離れた姉弟ですか?と驚いたように訊いていた。そして、その言葉で気をよくした母親は、先生……私すごく嬉しいわ、と呆れるほどの色気を出し担任を欲情させていた。担任もその言葉だけで既にイッてしまったのか、ただ鼻の穴を大きく広げて頷いているだけだった。
その時の三者面談は、僕の勉強へのとり組み方がメインだったけど、担任は僕の勉強のことより母親に意識がいっているように見えた。いや、絶対にそうだったはず。母親が担任に何か質問をしても訊き直したり、曖昧な返答くらいしかできずに、担任は教師としての平常心、堅実さを失っていた。──思えばそんなこともあった。だから今、母親に手を振っている男たちにはおそらく自分たちと同年代に見えているのだろう。そんな男たちに母親は笑顔で手を振り返す……わけがなかった。母親は微笑みを浮かべながら左手中指を突き立てた。
「あーゆーの見ているとほんっと寒気する。あいつら多分どこ行っても、誰にでもあんなことやってるんだよ、ばっかみたい。何か私、すっごくナメられてる気分だよ」
しばらくして二人は母親の御立腹の様子に気づいたのか、それとも中指を見たからなのか、万遍のない笑顔は苦笑いに変わった。それから気まずそうに顔を前に戻すと、二度と振り返ることはなかった。
 そもそも何故、僕と母親が二人して親父の両親に会いに行くのか。それには僕自身が深くかかわっていた。僕が、僕の身体が……。動くことも、話すことも、食べることもできない僕の身体が――。

「ちょっと失礼」
母親が僕の座っている助手席のダッシュボードに手を伸ばし、そこから煙草をとり出した。�犖耄梢討鵬颪Δ里鳳豼陲僚�いなんかさせてたら失礼でしょ。だからちょっとの間禁煙する�瓠△蛤鯑�気を吐いていたばかりだというのに……。
「ごめんシド。ちょっとの間煙いかもしれないけど我慢ね。やっぱ禁煙は無理だわ。まあ、こんな状況だからね。でもなーんでこんなに落ちつかないんだろ?めちゃめちゃ緊張してるみたい。久しぶりだよ、私がこんなにも緊張するの……。と!いうわけで禁煙宣言解除するから、よろしくね」 
どういうわけだ!?
運転席と助手席のサイドガラスを少しだけ開けて、母親は煙草に火をつけた。
「う〜さっぷい……。でも落ちつくねー……」
深い吐息と共に、母親の肺に一度送られた煙が勢いよく口から湧き出ている。その煙が僕の顔の前をよぎる。更にその後寒さからか、母親の口からはへたクソなビブラートが利いていた。
 二月というだけあって外の空気はとても冷たいらしく、歩道を歩くほとんどの人がマフラーやニット帽、それに厚手のコートを身にまとっている。
だけど、そんな防寒具も今の僕には関係のないこと。何故なら僕の身体は完全に麻痺しているために温度を感じとることすらできないのだ。おまけに臭覚もやられていることで、開けたサイドガラスから逃げ遅れ、僕の顔にまとわりつく煙の臭いも嗅ぎとることができない。
 僕の身体でまともに機能を果たしている器官は、視覚、聴覚、呼吸器官、それから排泄器官だけだ(属に植物人間といわれている中で、医療機器を一切使わずに排泄することができるというのは極めて稀なことで奇跡に近いともいわれている)。
ほかの、機能を果たすことができない器官は全てあの時に失った。
そう……あの時、一瞬にして――。
 僕は相変わらず前方の大型トラックのブレーキランプを見続けている。時々、猛毒と思えるほどの真っ黒な排気ガスが勢いよくマフラーから吹き出ては青い空へ昇っていった。
母親は溜息と煙を同時に吐き出している。――そして、母親が吐き出した煙に紛れ込み、その煙と共にどこかへ消え行くように僕は忘れることのない�爐△了��瓩函∀伺�前の親父から聞かされた話を思い返した――。






この世で俺が唯一�狄喚瓩�ら愛した女──ヒトミに捧げる







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