柊小説

2006年03月19日(日) アカイヌクモリ  ―――�宗檻押宗�

 ──家族。そこだけにスポットを当てることによって、この植物人間という四年間で胸が詰まるような思いで感じることがある。それは、僕という人間が家族からこの上なく愛されていたということだ。 母親は僕の顔にアクネクリームを塗りながら言った。
「私は出かける時以外ほとんど化粧しないから、その分あんたの美容に回すよ。何でそこまでするんだよって思う?……愛してるからだよ、ただそれだけ。大人ぶってたくせに、あんたは本当に世話を焼かせるんだから。でも、可愛い奴だから許しちゃう。……私たち家族はさ、シラギの言った五年ていう現実を受け止めて、ある程度の覚悟はできちゃってるけど、いい?奇跡を諦めたわけじゃないからね。だから、がんばるんだよ」
介護をされていることの感謝を忘れたことは一度としてない。けど、その気持ちを心の中だけで告げることしかできない。声に出して、ありがとう、とそれすらも言えないことが何よりも辛い。そして、そんな言葉は何度でも言えたあの頃を思うと、心を閉ざしたい、目を背けたい、という気持ちを僕は抑えきることができず、もがき苦しんでいる。
 中学を卒業してから、僕はあの世への手土産として家族からいろんな場所へ連れて行ってもらい、また、いろんなことを聞かされた。
 親父は話以上に、休みとなれば僕を外へ連れ出した。場所は動物園から国宝級の大きな橋、ストリートミュージシャンが多く集まる公園、海、映画館……。中でも映画は僕が障害者ということで場所によってはただで見ることができた。親父はそれをいいことに上映している映画という映画はジャンルを問わずに観賞した。そそられることなんてまず有り得ないおかしなアニメまで……。けど、映画を観ることでさまざまな価値観に触れ、何かと考えさせられた。もし、正常な身体のままだったら映画から何かを得るようなことはなかっただろう。
 唯一、親父が連れて行った場所で僕が心を奪われ、その雰囲気に圧倒された所があった。──僕の親、つまりシノブとマユミが運命的に出会った風俗街だ。

 ある土曜の真夜中だった。夢の中にいた僕を、
「今日は一週間で一番客の入りが多い日で、今頃人がごった返してるだろうな。──行くぞ」
という問答無用の身勝手な発言で、親父は僕を二人に気づかれないよう外へ連れ出した。
「今のうち星を見とけ。あそこに入ったら多分見えねえと思うから」
�爐帖爾�クソ親父!星とかそんなことよりどこ連れてく気だよ!?またあのきたねえ山か?そんなことしたら今度は全治十日じゃ済まねえぞ!��
僕の必死の抵抗も空しく、親父は何かを待ち望んでいるような顔をちらりと見せ、夜道へ向けて車を走らせた。

「やばい。緊張してきた」
隣でその声が聞こえた時、車は市街地と風俗街の境界まで来ていた。
「そんじゃ、ぼちぼち説明を始めるか」
静かに唸るエンジンを止めて親父は続けた。
「この先は見ての通り風俗街だ。今日は週末だから欲望をぶら下げたヤローが腐るほどいるぜ」
親父の言葉通り、目が眩むほどのいかがわしさを漂わせる入口付近には、どこか晴れ晴れしている奴、もじもじと戸惑っているような奴、光沢がかかったスーツをビシッと決めた明らかに欲望とは無関係と思える形相をした男たちがいた。
「今からお前をあん中に連れて行く。見てほしいんだ。俺とマユミが出会った場所を。シドがこの世に生まれてくるきっかけになった場所を──」
親父はそのふたつを言ってから僕を車から降ろし、風俗街へ向けて一歩一歩ゆっくりと進んだ。�狠襪般襪�逆転した世界�瓠�そこに入った途端時間の感覚が麻痺した。真っ暗なはずの空は、おびただしいネオンによってその時間を支配する静粛の力を失いかけているようだった。背後で懐かしがり何かを言っている親父の声も、客引きや雑踏している男たちの声で掻き消されていた。初めて足を踏み入れた風俗街。その場で、今の感想を一言、と問われたら、
「めまいがしそうです」
としか返せなかっただろう。中学二年にして一人ここへ足を入れ、おまけに女まで作ってしまったサジの肝の据わりように改めて僕は驚かされた。
 入口からびっしり詰まったあらゆる名前のキャバクラや風俗店はどこも溢れるほどの人だかりができていて、ただでさえ狭い一本道を僕と親父はまるで蛇行運転をするように進んだ。時々雑音に紛れながら、助けを呼ぶような悲鳴、脅しをかけるような怒号、男か女かわからない奇声が聞こえてきた。かつてサジが言っていた、�犧戮は�地で、死んじまうってくらいボコられてる奴がいたり、ヤッてる奴らがいたり、死んでるか寝てるのかわからない奴がいた�瓠△箸いο叩�
そういった路地はいくつも目にしたけど、近づくことは火のついた爆弾を抱えることよりも危険だと思った。完全にカオス化しているこの世界の雰囲気に圧倒されていた僕の耳元で、親父は声を弾ませながら言った。
「大丈夫か?ちょっと俺は楽しくなってきたぞ。──この一本道はな、突き当りがないって言われてんだ。このまま直進して壁にぶつかるか、大通りに出るか、そのどっちかだと思うんだけど、奥に何があるのかは誰も知らない。ただ、俺が昔通い詰めてる奴から聞いた話では、奥まで行ったら二度と帰ってこれねえっていうんだ。ここは密売も偽造も、時には殺人もあらゆる犯罪をやってるとこだから、それを少しでも踏み込んじゃった奴は……オジャン!そういうことだと思う。随分昔のことだけど、ここを知り尽くしてるマユミでさえ怖くて足が出せなかったって言ってたからな。相当すげー世界なんだな」
�爐世辰燭蕕海鵑覆箸穫△譴突茲鵑犬磴諭爾茵�早く帰らせろ!��
身体が麻痺しているお蔭で震えも血の気が引くこともなかったけど、ピストルで頭を二、三発撃ち抜かれているような感覚だった。いや、いつ撃ち抜かれてもおかしくなかったかもしれない。違う意味で死と隣り合わせだった。
 歩いた距離も時間もこの世界には必要ないのか、全く頭が働かなかった。かなり進んだ気がしたけど、人の行き来は絶えることなくむしろ増えていた。
この辺だった気がするんだけどなー、と親父は足を止め独り言をいいながら辺りを見回し、思い出の店を探していた。そして、その足がそれ以上前に進むことはなかった。親父の声は感動のあまり微かに震えていた。
「……ここだ、間違いねえ。シド、あったぞ。店の名前は明らかに変わってるけど、ここがマユミと出会った所だ。小さいけどよく見てくれ」
感動的──。そう思った瞬間、腹の底から笑いが込み上げてきた。
『必殺イカせ人』
ライトアップされたその大きな看板の前では、数人のポン引きが�爛ぅ�せ人�瓩隆蕕般樵阿肇好蝓璽汽ぅ此�必殺技を記したプラカードを抱えて客引きをしていた。その中では�爐�美沙�瓩箸い�女がずば抜けて綺麗だった。ちなみに必殺技は──騎乗位。
「いろいろ思い出したよ。あの頃のこと──」
親父は黄昏るようにしみじみそう言っていたけど、僕の頭の中では二人の思い出の場所どうこうより、お美沙ちゃんが騎乗位で腰を振る姿がいつまでも頭の上に浮かんでいた。

 カオリは高校を卒業後、我が家に進学させるほど金銭的な余裕がないことを悟り、奨学金というこそくな手を使って二年制の看護学校に入った。その後は僕のような障害者と呼ばれる人間が暮らす施設に介護士として週に四日勤めている。残りの三日間は、お母さんの負担を少しでも減らすため、だそうだ。できのいい母親思いの優しい娘、と近所からはやたらと好感を持たれていたけど、そんなできのいい娘でも誰にも言わずに何年も抱え込んでいた苦悩があった。

 「シド……ちょっといい?」
仕事から帰り夕食を食べ終えたカオリは小声でそう言うと、僕を自分の部屋へ入れた。
「今のうちにいろいろ話しておきたいの。聞いて……」
僕の身体に関しては誰よりもナーバスになっていたカオリも、いつ訪れてもおかしくはない弟の死をここ三年余りでしっかりと受け止められるようになっていた。
「──父親が違うって話と、お母さんが体売ってたことを聞かされたのは中学一年の時で、もう八年が経とうとしてるわ。実を言うとね、私は父親が違うことよりもお母さんのことの方がショックだった。──お母さんのことは大好きだってことを前提として話すよ。自分の過去の話を私にしていたお母さんは、体売ってたことを後悔してないってより、全然恥じらいもなしに話してたの。そんなお母さんを見ててね、汚いって思った。同じ女として軽蔑もした。こんな人が親なら生まれてこなければよかったとも思った。それは笑顔で一緒に生活していながらもずっと変わらなかったんだ。シドが中学に入ってキスマーク首につけて帰ってきた時もお母さん、全然怒らなかったでしょ。それも私には考えられなかった。普通じゃないし、恥ずかしかった。まあ、それはお父さんにも同じことが言えるけど……。でもね、何年もかかってやっとわかったの。その捻くれてた考えを変えることができたの。もしお母さんが娼婦をしていなかったら、私は存在しないし、私自身がこれまでいろんなことから与えられた幸せも感じることができなかった。それに、シドにもお父さんにも会えなかった──。私は一日に一回でも笑うことができれば、それは生きててよかったんだって、生まれてきてよかったんだって、そう思うようにしてるの。私、どこかでシドのことを姉弟ながら羨ましく感じてた気がする。友だちと大声で騒いだり、顔に傷作って帰ってきたり、お母さんともお父さんとも言いたい放題言ったり。私はそういうことしたいと思ってもできなかったから……どっかで意地っ張りになってたのかなー。素直じゃなくなってたのかも。だから、これからはもっとオープンに生きてみるよ。シドを見習って。──それともうひとつ。実の父親には、正直会いたいんだ。でもそれは、父親って見方じゃなくてお母さんを捨てた男っていう目で。どんな人なのか、どういう生き方をしてる人なのか、最近その思いが強くなってきてるんだよね。私が聞かないからかもしれないけど、お母さんからは自分より一四歳年上の人としか聞いてないんだ。……五三歳。憶えてるのかな?お母さんのことはともかく、憶えてないよね、私の顔なんて……。もしかしたら存在すら──」
人を傷つけることも知らないこんないい奴に、どうしてこれほど惨い人生を歩かせたのだろう。神なんて言葉を使いたくないけど、もしカオリの運命を決めたのがそいつならば僕は胸倉を掴んで何度もぶん殴ってやりたいと思った。
 カオリは限りなく純粋だ。恋愛経験もろくにないだろう。僕には、
「自分のせいで私の自由を奪ったとか、そういうこと絶対に考えないでね。シドの介護と私の恋愛、遊びは別なんだから。関係ないんだから、ね」
と言っていたけど、関係がないなんて有り得ない。カオリは一番楽しむべき時期──輝ける時間を僕の介護で打ち消されたのだから。四年もの月日を──。僕のせいでカオリの大切な人生の歯車を狂わせてしまった。ただでさえ人よりも重い運命に圧しかかられていたのに。それを、気にしないで、なんて言えるカオリの気持ちが僕にはわからなかった。あんたのせいで、あんたがいなければ、そういう言葉をどうしてこれまで一言も口にしなかったのだろう。カオリはこの四年間、我慢と犠牲という言葉を自分に言い聞かせて生きてきたのだろうか。そう思うと僕は……。──人の幸せをこれほど願うことはない。姉貴──カオリには誰よりも幸せになってもらいたい。たった一人の弟として心からそう願う。


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柊大地 [MAIL]

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