| 2006年03月25日(土) |
アカイヌクモリ ―――�勝檻機宗� |
シワいっぱいの婆ちゃんの顔が困惑している。ぼちぼち行ってみようか?と言った母親の言葉のせいだ。帰っとくれ!そう怒鳴られてから早三時間が母親の携帯電話の液晶では経とうとしている。 「もう行っちゃうのかい?でも、帰るまでの時間を考えたら仕方ないねぇ。私の体に自由が利くうちにまた来てもらえるかい?」 婆ちゃんは今にも泣きそうな声で母親の手をとった。 「ええ、必ず来ます。今度は四人で」 「よかった──。その日を楽しみにしてるよ」 「今日は……本当に来てよかったです。──会えてよかった」 母親は力ない婆ちゃんの肩を静かに抱いた。これで──もう婆ちゃんに会うことはないだろう。母親は、明日にでも、というような勢いだけど、親父がすんなり、お袋に会いたい、と言えばあと一回は望みがあるだろう。けど、やっぱ俺……恐い、なんて気色悪い柄違いのことを言って渋った時には、僕は瞬く間にあの世逝きだ。とりあえず今はこう言っておこう。 �倏未舛磴鵑泙燭福�元気で。……さよなら�� 車が走り出すと、サイドミラーには寂しそうに手を振る婆ちゃんが暗さも手伝って、一気に静粛した夜に飲み込まれていった。ひとつの大きなイベントだったにしても、終わってしまえばこんなもの。心で切なさを紛らわすためにそうぼやいていながらも、どうにも解消できない。家を出て八時間、会って過ごした時間はたった三時間だったけど、こんなに切ないものなら会わない方がよかったかもしれない。 「はぁぁ〜。もう初めはどうなることかと思ったけど、あっという間だったね。でもよかった、ちゃんと話のできる人で。親に会いに行けって言われた時は、本気でそんなこと言ってんのかよババアって言いそうになったけど……。冗談です。その状況を誰よりもわかってる人だから、言われて当然だったよ。シドは、どうだった?」 母親の口の悪さはかなりの問題があるけど、いつでも僕を落ちつかせてくれる。 �犧�、この年だからよかった。もしガキの頃に会ってたら、あのトゲみてえな目がトラウマになってたかもな�� 「ちなみに私は、ちょっと人相悪いけど可愛いお婆ちゃんだと思った。──それより、これからまた何時間もかけて帰るんだね。夜だからもっとかかるかも。まあ、のんびり帰りましょうよ」 �爐修Δ靴泙靴腓Ν� 行きも帰りもベックかよ!母親とカーステレオに僕は嫌悪感を抱き始めていた。そして、迷いに迷ってやっとのことで探し当てた供養塔つきのトンネルを勢いよく通り抜けた直後、疲労からか、僕の思考回路は何の前触れもなしに真っ暗な夜空へ消えた。 夢を見ていた。何の夢かはわからない。ただ、分離した場面のポイントだけは薄らと憶えている。固体の塩素が沈んでいるペイントの剥げたプール、そのプールに飛び込み奇声と大きな水しぶきを上げる数人の若者、夜空には満天の星が輝いていた。──この夢は現実にあったことだ。いつ?僕は記憶を遡る。プール……奇声……学生時代……星の輝く夜──ついた。中学二年のゴールデンウィーク、『こどもの日』。その日は初夏の陽気でTシャツ一枚でも汗を掻くほど暑かった。ということで、僕ら五人は記念すべき日を学校のプールで祝った。そこには全てがあった。笑顔、五人が大声で笑えるネタ、酒、煙草、心地いい風、星……。ずぶ濡れになった五人は何故かその日、ジメジメしたカビ臭い女子更衣室で眠りに落ちた。 「おっ、目が覚めたみたいね」 水面に浮かんで見上げた星空と、フロントガラスから見える星空が重なった。眩しい……。横から眩い光が入ってくる。 「そろそろ市街地に入るよ。こんな時間でも結構いろんな店が開いてんのね。あっ、ちなみに今、午前二時半過ぎ。休みとらないできちゃった。あんたはよく寝てたけど。点滴もオムツも替えておいたから、大丈夫よ」 �爐修蠅磴匹Δ皚� 見慣れた風景が目に映った瞬間、たとえようのない安心感でマンホールに落ちるように一気に気が抜けた。家を出る時、リゾート気分だとリラックスしていたけど、心のどこかで祖父母に(爺ちゃんはいなかったけど)会うということと、久々に遠出することで緊張していたのだろう。 �爐弔い伸� 「お疲れさーん!つきましたぜ。さっ、布団敷いてさっさと寝るぞ。──あれ、リビングの電気がついてる。起きててくれてんのかな?」 母親は真夜中ということもあって、僕を降ろすと静かにドアを閉めてこそこそと玄関へ向かった。 「ただいまー」 「おう、やっと帰ってきたか。遅かったなー」 親父は風呂上りのようで、パジャマ姿にバスタオルを頭にかけている。 「もーすごい遠かったー」 「だろうな。で、会えたのか」 「うん、会えたことは会えたんだけど、ちょっと疲れすぎて今はもうだめ……。話す気力もない。悪いけどシドを寝かせる準備、全部してくれないかな?」 「ああ、わかった。風呂は?」 「起きたら入る。カオリは?」 「ちょっと前に寝た。俺とカオリも結局行ってきたんだ、お前の実家。とりあえず起きて落ちついたら話そう。──ご苦労さん。おやすみ」 「うん。──シノブ、待っててくれてありがとう」 僕がベッドに横になったのは四時近かった。帰りの車中ではほとんど寝ていたから、そうは眠ることはできないだろう、と思っていたけど、相当な疲労があったらしい。婆ちゃんの姿を思い浮かべているうちにいつの間にか睡魔に手を引かれ、逆さになった真っ暗な夜空に吸い込まれていった。
母親の起床は午後十六時過ぎ。こんなに寝たのは久ぶりだー、と上機嫌に大きなあくびをしてリビングへ現われた。昨日の疲れは完全に抜けたようだ。 風呂に入り、軽食をとり、残っていた家事を済ませて、ようやく話ができる状態になったのは十九時を回ってからだった。とりあえず母親は、インターホンを押してから婆ちゃんと別れたまでの経緯を事細かに親父に話した。
「親父……」 爺ちゃんが死んでいたという現実にうなだれている親父に、母親は慰めるように優しく言葉をかけた。 「今シノブが落ち込んでいろんなことを考え込んでる前にしなくちゃいけないこと。それはあの家に行ってお母さんとちゃんと会って、話して、お父さんの眠っているお墓に私たち三人を連れて花を供えることだと思うよ。もう時間は戻せないけど、溝を埋めるにはそれしか残ってないって。お母さんもそれを望んでるから。シノブが帰ってくるのを首長くして待ってるよ。ずっとそうやってくれてるんだから、早く行ってあげないと──」 親父は僕をじっと見つめて、そうだな、と吐息のように小さく言った。 「そういうことなら、早く行かなきゃだね、私も行きたい。緑がある所大好きだし。お婆ちゃんにも会いたいし」 カオリが親父の沈んだ心を引き揚げるように微笑んだ。 「何もねえぞ」 「ほんっとに何もないの。酷いよー、私初め樹海かと思ったもん!」 「ちょっと言いすぎじゃねえか……」 さすがにショックだったらしい。親父はまたうなだれた。 「嘘だよ、嘘!へこむんだったらその前に、私の実家、行ってきたんでしょ?その話してよ」 親父とカオリの顔が一瞬硬直した。僕も母親もそれを見逃さなかった。そして、二人を交互に見ながら母親は言葉をじっと待っている。 「マユミ……」 親父は母親のプレッシャーに十秒も耐えられなかった。 「行ったことは行ったんだけど……実はな、お前の親父──」 躊躇した親父に母親は促すこともせず、黙って次の言葉を待っている。その目は鋭い。 「……」 親父は口を開いたまま言葉を発することができない。 「シノブ、早く言ってよ。大丈夫、大体の予測はついてるし、覚悟もできてるから」 母親は口元が落ちつかないのか、煙草を吸う代わりに指で下唇を弄んでいる。 「お前が家を出て二年後に死んだらしい。丁度カオリが生まれた年だ。相当な酒飲みだったみたいだな。大分肝臓がやられてたらしい」 「そう……」 母親の指の動きが止まった。 「それとな、家にも誰も住んでなかったから傷んでたらしくて、とり壊されてた。今はただの空地になってる。一応、近所の人でお前のこと知ってた人がいたから、その人から聞いてカオリと墓参りはしておいた……」 「ありがとう。私も近々お墓に行ってみる。家の址も見たいし──」 母親はひとつ溜息を吐き、天井を見上げながら続けた。 「ねえ、今日悪いけど、私リビングでシドと二人だけで寝たい。今まで父親のこと、思い出したくもなかったけど、今日は昔のことを思い出したい気分なの……」 「なら俺がリビングで寝るから、寝室使えよ」 「ううん、いいの。一日で一番長くいる部屋でいろんなこと、思い出したいの。よくわかんないけど、わかって……」 この夜、母親は真っ暗なリビングでウイスキーを片手に叫ぶように泣き続けた。光がないために表情を窺うことはできなかったけど、僕の頭にはあの余命宣告を受けた時の顔が浮かんだ。──思い出したくもないほど気嫌いしていても、それがトラウマになってしまったとしても、実の親を亡くすということは、どんなに恨んでいても悲しみのどん底に突き落とされるということが母親の止めどなく溢れていたであろう、涙が物語っていた。それと、深く刻まれてしまった過去の心の痛みを一生解消することができなくなった切なさも──。そして、激しい嗚咽と時折抱きしめられるせいか、僕はなかなか眠りにつくことができなかった。
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