2009年04月28日(火) |
危惧する臓器移植法改正の動き |
今行われている国会で審議されている法案の中で注目されている法案の一つに臓器移植法の改正があります。 既にご存知の方も多いとは思いますが、平成9年に施行された臓器移植法には臓器を摘出するドナーの年齢制限があります。15歳未満の人をドナーとして臓器を摘出してはいけないことになっています。今回の臓器移植法の最大の改正点はここにあります。 15歳未満の子供さんの中には、現代の医学では臓器移植しか助かる方法がない難病に苦しんでいる人がいます。現状では日本国内で15歳未満の人からの臓器移植は禁じられていますのでやむを得ず海外で移植治療を受けてきました。 昨今、このような日本人が増えてきたこと、それから、海外でのドナー不足から国外での臓器移植を制限されるようになってきました。ということは、臓器移植しか助かる方法がない15歳未満の人は、現在の医学では命を守れなくなってきていたのです。 そこで議論となってきたのが、臓器移植法の改正です。現在、臓器移植法は、年齢制限を撤廃し、本人の拒否がない限り家族の同意で臓器提供ができる「A案」、臓器提供ができる年齢を現行の15歳から12歳に引き下げる「B案」、脳死の判定基準を厳格化する「C案」が提出され、更に別の案もあるようです。 これは与野党の垣根を越え、活発に議論されているようですが、どうもゴールデンウィーク明けに本格的な改正の動きが出てくるとのこと。
以下は僕の全くの個人的な意見です。15歳未満の人で現在の医学で臓器移植しか助かる方法が無い人には同情します。本人のみならず家族の方の心労は他人では想像することができない大変なものがあるでしょう。この世に生まれてきた幼い命を何とか救うのが現在医学の使命ですから、臓器移植しか方法がなければその方法を追求するのが筋でしょうし、そのための法整備は必要不可欠なことだと思います。この精神に全く異論はありません。 ただ、僕が気になるのは臓器移植にはドナーの存在があるということです。臓器移植の宿命で、一人の命を救うためには一人の尊い命を犠牲にしなくてはなりません。もちろん、尊い命の犠牲には医学的に正しい死の確認が必要です。以前のように心臓が停止し、呼吸も止まり、瞳孔が散大するという、いわゆる心臓死が死であるという認識が一般的であった時代は死に対して誰も文句をつける人はいませんでした。問題は脳死という死の概念が出てきてからです。
脳が死ねば心臓も止まり本当に死に至ることは事実です。脳が死ぬことイコール人の死であることは医学的には問題がありません。 ところが、問題は脳死を如何に判定するかです。平成9年に臓器移植法が制定されまでの最大の論点の一つがこの脳死判定だったのです。一見、脳死と思われている人の中には脳神経細胞の一部が死んでおらず、生き返る可能性がある場合があるのです。少しでも生き返る可能性があるなら、救命を行うのが医学の務めですが、脳死判定を厳格に行わないと、生き返る可能性のある人から臓器移植をしてしまう、誤って人を殺してしまう可能性があるのです。
臓器移植しか助かる方法が無い15歳未満の方には同年齢のドナーからの臓器移植をしなければいけません。ということは、ドナーの脳死判定がきちんとなされることが前提であるはずですが、ここが現在の日本の医学では脳死判定の基準が曖昧です。 ここをしっかりと議論し、きっちりとクリアーする必要が不可欠だと僕は考えます。
また、親の同意が必要ではありますが、昨今の虐待報道を見ていると、親が子供をモノとしか見ていないと思わざるをえないケースが少なくありません。このような子供がドナーになった場合、どうでしょう?子供の臓器売買のような話が現実化してきます。これは絶対に避けなければなりません。生まれてきた子供を臓器売買の道具にしてしまうことだけは禁じなければなりません。一人の貴重な命を救うために殺人が行われることだけはあってはならないのです。
今の臓器移植法の議論を見ていると、どうも15歳未満の人の移植を国内で行えるようにして欲しいという意見が多数を占めているように思います。この意見に異論はないのですが、これら意見にはドナーの存在を無視している、軽視しているような風潮が強いと感じるのは僕だけでしょうか。 臓器移植においては一人の貴重な命の犠牲があって初めて成り立つのです。しかも、今回の臓器移植法においては、まだ前途洋洋たる未来がある15歳未満の子供が対象です。一人の子供を救うために一人の子供の命を犠牲にする事実。 僕はこの事実をもっと多くの人が真剣に考え、臓器移植法の改正につとめて欲しいと願って止みません。
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