蜂蜜ロジック。
七瀬愁

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■ 交差��

side 泉


「独立?」

驚いて問い返せば、春日はいつものように薄く笑って頷いた。

「独立、するって?」

もう一度その言葉を繰り返したのは、尋ねたと言うよりもあたし自身に言い聞かせたと言ったほうが正しい。それくらい唐突で、今言い出すなんて思ってもみない話で。

あのさぁ、なんて、バスタオルを頭から被ったままバスルームから出て来た春日が話しかけてきたのは、ほうれん草のキーマカレーを作り終えたところだった。

何の予期もしていなかったその内容に、首を傾げてしまったのはそのせいで。

スパイスの香りが漂う中、今日のメニューは何?なんて口にするほうが余程春日には似合っているのに。
それを砕け散らせるだけの力を持って、春日は伺うようにして何の反応も返さないあたしの目を覗き込んだ。

「…いつから?」
「え?あぁうん、来年には、って思ってるんだけど。ほら、年にも区切り良くない?」

フローリングを素足で歩く音が、あたしに近寄る。その顔をじっと見つめたまま、違う、と呟いて。

「いつからそんな事考えてたのって聞いた」
「いつからって」

ほんの少し、考え込むように逸らされる視線。

「急に思いついた訳じゃないでしょ」

換気扇が煩い。
コンロの上では、蓋をしたオレンジ色の鍋が一つ。
火を消してしまえば換気する理由は、一つもない。
でも消してしまうと嫌な静寂がやってくるのはわかりきっていて、止めようとは思わなかった。

きちんと身体を相手に向けて、外したエプロンを椅子の上に置き、シンクを背にした。

「一昨年くらいかな」

部長には前々から相談はしていたけどさ、と付け足された言葉に、自然と掌を握り締めて。
一昨年。あたしは、何していたっけ。

「…聞いてない」
「泉ちゃん?」

僅かに抑えてしまった声を訝しむように春日が手を伸ばして――あたしはその手を払い退けた。
怒ってるの、真っ直ぐとこちらを見据える問いに、首を左右に振る。

あたしだって馬鹿じゃない。考えなかったわけじゃないし、いつかはそんな話が出てくるとは思ってた。でもそれは、あくまで、いつか。

少なくともビジョンが出来上がった時点で打ち明けられると思ってたし、何の疑いもなく一番最初に聞かされると思ってた。

こんな行動を起こす一歩手前なんかじゃなくて。

だから、猶予はまだあるんだって、そう思ってたのに。

反対するだとか、しないだとか、そんな事を言いたい筈がないじゃないか。あたしが店をやりたいって言い出した時だって、あんたは反対なんてしなかった。
いいね楽しそうじゃない、なんて気楽に笑われて。だから、そんなのじゃなくて。

――どうしてもっと早く、言ってしてくれなかったの。

そう思ってしまうのは、我が儘?そんな事を願うのはおこがましいのだろうか。あたしは…頼りにならない?

そう思うと、何だかひどくやるせなくなって。

「違う。反対なんて、してない」

したい筈もないじゃない。洗い立てのまだ湿り気を帯びた前髪が無造作に額にかかって、やけに幼く見える相手の真っすぐな視線は、見ることが出来なくて。

「ご飯、食べよう」

そう言うのが精一杯だった。

◇


ふらふらと歩く道路の上は、いつものように固くはなくてまるでスポンジみたいだった。
背後で杉本くんが時々何か話していて、でも何を言っているのかまでははっきりわからない。あたしに話し掛けている筈なのに、こちらまで届かない声。

帰りたくない。

今朝だって顔は合わせる事なく出て来た。だって、どんな顔をすればいい?子供染みた小さな不満は、夜が明けてもちっとも晴れる事がなくて。
今日だって春日に会えば――不必要な事を言ってしまいそうで。

春日がいつもあたしを甘やかすから、増長してしまっているんだ、きっと。

車道のくせに、車はまるで通る気配はない。くるりと振り返れば、どうやら電話していたらしい杉本くんと目が合って。困ったような呆れたような視線が、向けられる。

「二十分くらい」

何の事かわからなくて緩く首を振れば、杉本くんは眉根を寄せて「春さん迎えに来てくれるって」低くそう告げた。

正面から風が吹き抜けて。やけにひんやりしたその一陣のせいか、杉本くんが発した言葉のせいか。
急速に頭の中が醒めてクリアになって、妙な後悔が押し寄せた。

2008年09月05日(金)
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