蜂蜜ロジック。
七瀬愁

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■ 呉羽理央��

呉羽理央(23)…204号室の美人
櫻井恵(22)…203号室の自称絵描き

朝なんて来なくていい。夜が明ける必要がないから。
新興都市から少し離れたアパートに住む、住人たちの話。

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がたん、と何か重いものが倒れる音がした。幾ら壁が薄いとはいえ、角部屋に当たる私の部屋までこれだけ響くとなると隣の櫻井さんが間違いなく原因だろう。
また首でも吊ったか。面倒くさいと、とは思ったけれども見過ごすことも出来なかった。何せこのアパートはただでさえ目を付けられているのだから、これ以上死人が出ればますます借り手がつかなくなる。

まあ私としては住人がいなくなれば静かになって万万歳なのだけれど、たまにふらりと姿を現わす大家がそれを許さないのだから、仕方がない。タダより高いものはない、とはこういうことを言うのだ。
いっそのこと、期間限定の愛人契約の条件を飲んでおけば幾らか気分がマシだったかもしれない。少し前の自分の選択ミスを呪ってもまさに『今更』だ。

「さくらいさーん」

扉をがんがんと容赦なく叩いていると、不審げに階下から覗く巡回中らしい警官と目が合った。このアパートの住人はブラックリストにでも載っているのか、何かある度に周辺で警官に出食わす気がする。

「どうかしましたか」

好青年、というレーベルがしっくりとくる警官は、爽やかな笑顔を浮かべ私を見上げた。爽やかだが胡散臭い。

「いいえ、何も。大丈夫ですから、お構いなく」

天使のようだ、とよく言われるとびきりサービスの微笑を相手に振りまいて、取っ手に手をかけた。

「あ、あぁそうですか」

一瞬相手の動きが止まる。まとわりつくような視線を投げた後、「何かあればすぐご連絡ください」作ったような笑顔を向けてくる。結局追い払うのに五分を要した。次からは笑いかけないようにしよう、と心に決めた。



「さーくらいさん」

鍵のかからない203号室の扉を開け放てば、画材ばかりの山の向こうでへし折れた窓枠と、見慣れたロープがそれにぶら下がって揺れていた。
先が輪になった綱はわりと頑丈そうだったけれど、窓枠はそうでなかったらしい。

「……。相変わらずカオスな部屋だなぁ。さくらいさん、生きてますー?」

思った通りの部屋の様相に、安心して扉を閉める。

ポケットから取り出した煙草に火を付ければ、がたがたとがらくたの向こうが揺れた。

「おーやさん。ここ、禁煙だよ」

「あぁそうでしたっけ」

「燃えるものばっかだもん。爆発は、しないと思うけど。絵の具は危ないんだって」

自称絵描きという彼の部屋は、いつも薬品と油絵の具が混じった匂いがする。頬に触れる長ったらしく腰まで伸びた髪を掻き上げて煙混じりの息を吐いた。
最後の一本だったのに。
仕方なく手近にあった流しに投げ捨てれば、溜まった水のせいで赤く点いた火がじゅう、と肌を焼く時と同じ音を立てた。また髪に触れる、カールが伸びきってる。そろそろ美容院行かなきゃあならない。

「生きてて何よりです。あなたが死んだら、その折れた窓枠の修理代金の請求先がなくなるし」

漸く揺れが収まりつつあるロープが括り付けられた窓枠を指差せば、櫻井さんがくふふと小さく笑った。

「あー…死ぬかと思ったぁ」

ようやく立ち上がれたらしい203号室の住人が、ふらふらとこちらへとやってくる。肩まで伸びた色素の薄い柔らかそうな毛が彼の目元を覆って表情は窺えないが、どちらにしても楽しそう顔をしているに違いなかった。

先程煙草を投げ捨てた流しで顔を洗うその首には、赤くなった痕が色濃く付いている。


「そういうことして楽しい?」

「すっげえ楽しい」

引きこもりがちの肌は真っ白で、曇りが無い。もうしばらくすれば紫色に変わってしまうだろう痕が、コントラストを彩って綺麗だった。

顕になったそこ惹かれるようにして伸ばした指先でなぞれば、僅かだけれど櫻井さんの頼りない肩が揺れる。
ぼたぼたと滴れる水を着ていたシャツで拭うと、寝起きの一仕事を終えたかのようにやけに晴れ晴れとした顔で私を見て、「そんで」と言った。

「おーやさん、なにしに来たの?」

ふうわりと浮かべる笑顔は、目鼻立ちも含めて女の子みたいに可愛らしい。前に年を聞いたら二十二歳だと言われたけれど、とても一歳違いには思えない。よくて十七、といったところだ。

「あなたが昼間っから派手な音立てるからでしょう。それから私は大家じゃなくて代理です、ただの代理」

「おーやさんじゃん」

「一ミリでも本気でそう思うなら、大人しくしてもらえます?」

「あい」

こくり、と小さな頭が揺れる。
切り取って窓際に飾るほうが、よっぽど有意義な使い方なように思えた。


【END】

2010年05月15日(土)
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