蜂蜜ロジック。
七瀬愁

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■ リバーシブルチェイン��

いなくなって初めて、それが大事な人だと気付くのだと言う。
心の空虚感が、それを知らせるのだと言う。

それなら最初から大事だった人がいなくなれば、どれだけ空っぽになるのか。その深さを人に伝える事は不可能だ。

泣いても喚いても戻らないのに、わかってるのに、それを繰り返す。
4、引く2は、2。
簡単な引き算だ。
だけどそんな計算を自分の家族でしなくちゃならないなんて、思わなかった。
ある日突然、親父と母さんがいなくなって、俺と姉ちゃんだけが残されて。

俺はあの日から、空いた穴を埋められないままに生きている。


*


「はい。あーんして」

粥を掬ったスプーンを俺の目の前に差し出して、姉ちゃんはそんな事を言った。
炬燵の上に置かれた小さな一人用の土鍋からは、半透明の湯気がもうもうと立ち上り、その熱さを明確に伝えてくる。

「一人で食えるってば」

湯気の量が半端ない。そのまま金属製のスプーンなんか口に入れたら、火傷するのは目に見えている。

「なんでよー。せっかく看病してやろうって思ってんのに。ほら、口開けて口」

炬燵に腕まで潜り込ませ、机に突っ伏した。

「リクー? しんどくなっちゃったの?」

「……そんなんじゃねえけど」

スプーンから逃れる為だって気付けよ。
高校生にもなって幾ら風邪で寝込んでるからって、姉ちゃんに食べさせてもらう義理はない。 ないはずだ。ないよな。

やたらと熱さを主張しているその粥を喰わせようとするあたり、鈍感なのかサディスティックなのか、どちらにしても遠慮したい。

「いーって、マジで。自分で食えるし」

「何言ってんの。学校早退してまで弟の面倒見てやってんだからね」

未だスプーンを片手に持ったまま、姉ちゃんは恩着せがましく唇を尖らせた。 我が姉ながら、可愛らしい、と思ってしまうあたり俺はどうかしてる。


「もー、ほら開けてってば」

「あ…つっ」

痺れを切らせたのか開けてもない唇に、スプーン無理矢理が押しつけられ、思わず退けぞった。
熱い、と言う前に声が出なかった。
とろり、とした粥は尋常じゃないくらい高温で。痛い。

反射的に顔を背けたせいでスプーンが、かしゃん、と派手な音を立てて机に落ちた。

「ちょっと、行儀悪いー」

「や、おい。誰のせいだよ誰の」

「えー? そんな熱かった?」

「洒落になんねえよ」

「うーん? そうかな」

土鍋の状態を覗き込んで、姉ちゃんは不思議そうに言った。

「舌が鉄で出来てんじゃない、姉ちゃんは」

「何でよ。ああもう零れちゃったじゃない。リク、ちょっとここ拭いて」

「何で俺が」

「リクが零したんでしょう」

粥が入った茶碗を炬燵机の上に置き、姉ちゃんは俺を追い立てるように手を振る。

「…姉ちゃんが、看病するって言わなかったっけ」

「言ったよ」

全く悪気が無さそうな顔をして、姉ちゃんはあっさりと頷く。

「じゃあさ。せめて雑巾ぐらい、持って来てくれてもいいんじゃないの」

俺のぼそぼそとした反論に、聞こえよがしな溜息が姉ちゃんの唇から漏れた。

「なぁに言ってんのー。自分の事は自分でしなきゃ、でしょ?」

僅かに首を傾げて、姉ちゃんはにこりと俺に笑顔を向けた。

「…はいよ」

分かってて言っているのか、いないのか。
口癖になっているその台詞は、昔、母さんがよく言っていたのと同じだ。
時に怒って、時に呆れて、時に笑いながら。
あまり口煩い人ではなかったから、怒られた記憶はほとんどないけれど。

優しい人だった。
よく笑う人だった。
綺麗好きな人だった。
いろんなことを、話してくれる人だった。

中学生になった頃には、親父とも母さんともほとんど話した記憶が無い。
思春期特有の気恥ずかしさから、両親を遠ざけるようになっていた。
たくさん話しかけてくれたのに、何一つ覚えちゃいない。

覚えているのは、もっと小さかった時のことくらいで。
そんな記憶は曖昧で朧気で不確かで。

全部が過去形になって、何一つ未来がない。
もっと笑って欲しかった。
もっと優しくしてあげたかった。
もっと話を聞いてあげたかった。

最後に会った時、母さんは何て言ったんだっけ。
何で俺は覚えてないんだろう。
何でその時には何でもなかったはずの一瞬が、こんなに大切なものだったって事を、知らなければならないんだろう。

一つ溜息を付く度に、胸に鉛を呑み込んだ気分になった。
飲み込むのは後悔という、やり場のない苛立ちだった。
それを振り払う為に台所へ向かい、雑巾を手に取る。
昔の事を思い出した時は、動けば少しは楽になった。

「ついでに林檎ジュース取ってよ、冷蔵庫に入ってるから」

「ホント好きだね」

笑って冷蔵庫を開ければ、姉ちゃんも笑った。

『一日一個の林檎は医者要らずなのよ』

どこまで本気なのかわからない言葉を、けれど両親がいなくなってから守るようになるなんて思ってもみなかった。

黙って冷蔵庫からパックジュースを取り出し、雑巾を持って戻る。
そうして無言で机の上を綺麗に拭いて、姉ちゃんの目の前にジュースを置いた。

「ありがと」

「いーえ」

嬉しそうにジュースを見る顔は、俺より幼い気がする。
きっとそんな時は、母さんの事を思い出しているに違いなかった。

「リク、変な顔してる」

炬燵に潜り込めば、姉ちゃんがからかうように言った。

「うっせえな、姉ちゃんがガキみたいに嬉しそうにリンゴジュース眺めてるからおかしくなっただけだよ」

「嘘」

「嘘じゃないって」

「いーもん。リクこそ、そんな変な顔してると戻らなくなって不細工になっちゃうんだから」

「いいよ。別になっても」

「何言ってんの、そうなったらもう家に入れてあげないからね」

当り前のように姉ちゃんはそう言って、琥珀色の液体をストローで吸い上げた。 つん、と澄ました顔はペルシャ猫みたいだと思った。
その顔を見ていたら、少し意地悪な気持ちになった。
だから余計な一言が出てしまったのかもしれない。

「俺だって別にいーけどさ。そんな事したら、姉ちゃん一人になっちゃうんじゃねえの」

返事はない。言ってから後悔する。だけど、ごめん、という言葉は口から出てこなかった。



「お粥、ちゃんと食べなきゃ駄目だよ」

小さい声でそう言って、立ち上がる。俺を見ない。
不意に不安になって、手を伸ばした。

「ユイ、」

掴んだ小さな手は少し震えていて、更に後悔した。

「…ごめん」

掴んだ手を引けば、姉ちゃんは大人しく俺の隣に座り込む。
伏せた視線の先は、繋いだ手を見ているようだった。
伸ばした手と共に、姉ちゃんは俺にもたれ掛る。

痩せた華奢な体。肩にかかる重みは、大して感じない。

二人きりの生活が始まって、三年。
母さんと親父がいなくなってから、まだ三年しか経っていない。

俺達はまだ、それに慣れないでいる。

2010年06月05日(土)
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