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2005年04月26日(火) |
夢喰い 【イレギュラー】 第十一話 |
【第十一話】
目が覚めたら、昼を回っていた。 いまだ、ぼやける視界で天井を見上げ、要は今、自分が今どこにいるのかが分からなかった。 しとしとと、雨の落ちる音がしている。 閉ざされたままのカーテンから、うすぼんやりとした光がベッドの上に射していた。 枕もとにおかれた目覚し時計を持ち上げて目の前にさらしてみる。 驚いた。 そして、焦った。 昼休みも終わる時間だったのだ。 「うそだ」 呟いていた。 短針と長針を何度も見比べてから、むくりと上半身を起こした。 布団を退けて、ベッドを出る。 階段を駆け下りて、居間の扉を開け放つと、ちょうど煙草に火をつけていた同居人と目が合った。 「なんだ、もう具合はいいのか?」 素っ頓狂なことを言われて、要は固まった。 「ぐあい?」 「しんどいから休むって、朝」 うそだ。 「その調子だと、もう大丈夫そうだな。学校には連絡入れといたから」 咥え煙草のまま、成瀬一馬は間続きになっているキッチンに消える。 居間の扉を押し開いた形のまま、要はしばらく呆然としていた。 全く覚えがなかった。 「どうした?」 台所から引き返してきた一馬が、入り口で固まっている要を見て怪訝そうに眉をひそめる。 「あ、なんでも、ない」 立ち去ることも出来ずに、要は居間に踏み込んだ。 ふらふらと、覚束ない足取りでソファーにたどり着いて、ぽすりと沈み込んだ。 ずぶりと沈むような錯覚を覚える。二度と立ち上がれないような気がした。 おおきく吐息をついたら、溜息のようになった。
―――宿題。
多くを語らずに差し出される手を、気がつけば思い出していた。 僅かな痛みが胸を刺す。目を閉じて、絡まりつく情景を振り払おうとした。 やさしく、されたわけじゃないんだから。 期待もしていなかったはずじゃないか。 週刊誌に書かれていることは、ほとんど正しい。 軽蔑されても、憐れまれても、仕方がない。全てのひとに受け入れてもらえるはずがない。 神田勝利が、少し前に自殺した友人と自分を重ね合わせて、こちらに手を伸べていたのだとしたら、全て納得がいく話じゃないか。 (僕のために、じゃなくて) 肩越しの向こう側、誰かを見ていたのだとしたら、こんな自分に手を伸べてくれた理由もわかる。 だって、気色悪いいきものだもの。そんな理由でもなかったら、受け入れられないだろう。 持って生まれた力も、体の中に棲んでいるもうひとりの自分も、一年前までの箱庭での生活も、全て特異で異質で奇怪だ。 溶け込めるなんて、思っていなかった。 何事もなかったかのようにぬくぬくとあたためられて、ふざけて笑いあうことなんて、許されないと思って―――いや、許したくなかったのだ。 ぼんやりと、両の掌を見つめてみる。 自分がしてきたこと。無意識のうちだとしても、許せるものではなかった。 そんな生き物が、当たり前のように友達に囲まれて笑っている、なんて。 信じてなんかいなかったよ、そんな奇跡のようなこと。 (本当に?) ぽこり。 水面に浮かぶ泡のように、疑問符が浮かんできた。 両の拳を握るようにして、また、下らない考えを振り払おうとする。 あたりまえじゃないか。 一体自分がどれだけのことをしてきたのか、忘れたつもりなのか? 母親に―――一体何をしたのかを。 産んでくれた人のことを思い出すと、急に泣きたくなる。 それでも、囁きは食い下がった。 (本当に、期待していなかったのか?) 揺さぶりをかけてくる。きつく瞳を閉じて、必死にそれを振り払おうとする。耳を貸さないようにする。 当たり前だ。自分のことを、誰よりも自分が許せないのだから。 簡単に許されて、受け入れられるなんて―――。
―――本当に?
静かに、囁きは問いかけ続けた。 本当に期待していなかったと言えるのか。 たとえば、毎朝教室の扉を開けるときに感じていた、あの絶望感。むなしさ。 おはよう、と。声をかけられた瞬間に体中に走った電流のような感覚。じわりと広がったくすぐったさ。 そして今。 どうしてこんなに、脱力感を感じている? 何を悲しんでいるんだ? 初めから何も求めていなかったのなら、つまはじきにされても虚しさを感じる必要なんてないだろう。 構われて喜ぶこともなかったし、何より、こんなふうに悲しむ必要なんてない。 期待が全てを運んできたんだ。 虚しさも喜びも悲しみも。
本当は、本当は、本当は―――。 受け入れられたかった、んじゃないのか。 無理だと、諦めているつもりで本当は。 欲しがってたんじゃないんだろうか。
他愛もない話をして笑いあったりだとか、つまずいたときに励ましてくれたりだとか、何よりも、この胸の内側に抱えた全てを吐露しても、離れずにいてくれるんじゃないか、とか。 奇跡のような期待をどこかでしていたんだ。
(本当は、傷ついてるくせに) 自分のもののような、他人のもののような声が宣告した。 ほろっと、見下ろした掌に何かが落ちた。 重みを持った水分が、重力に引きずられて落下した。 要は、無駄な抵抗を諦めて、受け入れた。
友達になれるんじゃないかって、思っていた。
こんな自分を受け止めてくれるんじゃないかって。 無邪気に焦がれた夢が、やっぱり叶わないものだと気がついて、しらしめられて、だからこんなに苦しいんだ。
頬を、水の流れが伝って顎を辿って落ちる。 水の通ったあとが空気に触れて、ひやりと冷たい。 唇を噛んで、必死に嗚咽を堪える。肩が細かく震え始めた。 このままここにいたらいけない。 勢いで、ソファーから立ち上がった。 「要?」 いぶかしむ声も、無視する。 荒々しい足取りで居間を横切り、部屋を出た。 階段を駆け上がり、突き当たりの自室に飛び込んで、仰向けにベッドに転がった。 ようやく、堪えていた嗚咽が飛び出した。
傷ついてるなんて、認めたくなかった。
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【続く】
2005年04月25日(月) |
夢喰い 【イレギュラー】 第十話 |
【第十話】
勘違い、なんかじゃない。 ここ数日、英要に避けられている。 数日を要して、ようやく勝利は断定した。 認めたくなかった、というのが正直なところだろう。 (なんでなんだ?) 荒々しい足取りで、勝利はグラウンドの端を歩く。 野球部の掛け声や、ボールの弾む音、どこからともなく聞こえてくる吹奏楽のすこし外れた演奏などが、なんともいえない放課後の喧騒を作り出している。
―――……り。
どうして避けられる? 何か気に障るようなことをしただろうか。 思い当たることはない。 足早に野球部のグラウンドを通り抜けて、陸上競技場の方へ向かう。 じりじり、胸の内が焼けているような焦燥感を感じていた。 気持ち悪い。
「……り、勝利ってば、オイ!」 急に、右肩を掴まれて強引に振り向かされる。 乱暴な力加減に、勝利は反射的に肩にかかった腕を振り払った。 「なんだよ」 豆鉄砲を食らった鳩の顔で、円藤慶太は振り払われた手を持て余している。 まるで傷ついたような顔つきが、さらに勝利の苛立ちを逆さに撫でた。 咄嗟につかまれて、驚いたのはこっちだ。勢いで払っただけで、そんなに愕然とするなんて。 (まるで俺が悪いみたいに) 慶太は、驚いて瞠った瞳をほそめるようにして、憮然とした表情をつくった。 「おまえさ、おかしいよ」 決意を固めたような、毅然とした表情だった。 叱る顔。 「どうしたんだよ、全然らしくないよ」 「なにが」 慶太の顔は、正義を確信している。肩に力をいれて、道を逸れた友達を、引きずり戻すという大義を背負っている。 俺が、そんなにどうしようもなく、間違っているのかよ。 そんなに、真正面から向き合って、腹割って叱らなければ目が覚めないぐらい、何か逸れているのか。 絶対的な正しさを疑わない、慶太の眼差しに、勝利は苛立った。 何がおかしい。何が間違っているというのか。 「身代わりにすんなよ、かわいそうだろ」 何を言われたのか、飲みくだせなかった。 今度はこちらが、豆鉄砲を食らった心もちがした。 ぽかんと、慶太の顔を見つめる。 「おまえ、気づいてないんだろうけどさ、あれじゃ丸分かりじゃんか」 「まわりくどく言うなよ!」 怒鳴りつけると、慶太が一度口をへの字に結ぶ。 「あの転校生に構ってんだってな」 覚悟を固めたように、慶太が再び重そうに口を開いた。 ぎくりとした。後ろ暗いところは何もないはずなのに、痛いところを突かれたような気がした。 「見ててイタいよ。それってさ、おまえ、高幡の身代わりにしてるんじゃないの」 「なんだよ、それ」 咄嗟に反論が出てこなくて、勝利は困った。 とても不当な中傷を受けたような気がしたけれど、真正面から言い返す言葉が見つからなかった。 「おまえが何に負い目感じてるのか分かんないけどさ、高幡が自殺したの、おまえのせいじゃないだろ」 慶太が眉をハの字に下げた。今度は、憐れむような顔をした。 どっと、嫌な汗が吹き出した。 「分かってる、よ。そんなの……」 逃げ出したくなった。急に、この場から。 怖気づく脚が、勝手に後ろに下がろうとする。虚勢を張るように、耐えた。 「分かってないよ」 張りぼての勢いを崩すように、慶太は一歩踏み込んだ。 「全然、分かってないよ。負い目に感じてるんだよ。いい加減認めろよ、おまえ」 「やめろよ!」 焦って、勝利は止めた。その先を聞いたら、引き返せないような危機感を感じた。 制止を、慶太は聞かなかった。 「おまえ、ショック受けてるんだよ」 ぷつん、と。 見えない糸が切れる音を聞いた。 目を逸らしつづけてきたのに、強引に顎を掴まれて、そちらに目を向けさせられたようで。 冷水を、バケツごと頭の上からぶちまけられた気分だった。 熱くなっていた体が、急に冷えてゆく。 一点に、集まってきた。目元が熱い。 ちがう、と怒鳴り返したかったけれど、口を開けば壁が崩れてしまいそうで、引き結ぶ。 泣き出してしまいそうな気がした。 「俺は、勝利が心配だよ」 慶太の手が、勝利の肩にふれる。 いたわるように少しだけ、さすった。 あっけなく、堤防は瓦解した。 ぼろっと、大粒の雫が右の目から落ちる。 「……傷ついてない」 手の甲で目元をぬぐって、虚勢を張った。 「嘘だよ」 きっぱりと、慶太は否定する。その強さが、そのやさしさが余計に沁みる。 「嘘じゃない……」 否定したい。 だけどどうして、一粒落ちたら止まらないんだろう。 涙が。 「意地、張るなよ」 (だって、否定しないと、どうしていいのか分からなくなるよ) 感情を持て余したら、自分でどうやって処理していいのか分からなくなるよ。 だから厄介な気持ちは、奥深くに仕舞いこんでおきたい。 余所にやってしまいたい。 知らないフリを決め込んでいたかったんだ。本当は知っていたけど。 「俺の、せいだ」 ずっと。 何度も何度も、胸の内側で叫びつづけてきた。 ぼろっと、涙の雫と一緒に、唇から外界へ零れ落ちた。 そうしたら。 内側で叫んでいたときよりも、もっと―――重かった。その重みに自分で驚いた。 咽喉が鳴る。惨めで不恰好な嗚咽が零れた。 「おまえのせいじゃない」 慶太はやさしい。だけど、頷けなかった。 不恰好に、首を横に振る。 「俺が無責任に、あんな―――」
―――あんなことを、言ったから。
慶太は、もう何も言わなかった。 ただ、勝利の肩を握る手に力を込めた。
「俺のせいだ」 気づけば、繰り返して呟いていた。
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【続く】
2005年04月23日(土) |
夢喰い 【イレギュラー】 第九話 |
【第九話】
夕方から降り出した雨は、夜通し雷を伴って暴れまわり、次の日の朝までしとしとと続いていた。 重い体を引きずって、要は教室のドアに手をかけた。 肌に触れた金属の部分が、やけに冷たく感じられる。 一呼吸、置いた。 週刊誌の一件があったときの覚悟とも、神田勝利と挨拶を交わしたあとの高揚ともまた違う。 妙に冷えた心地がしていた。 横滑りに、いつものように扉を開いた。 向けられる幾つもの視線が、今までとは違う気配を含んでいるように感じられた。
みんな、そんなふうに思っていたんだろうか。 自殺したタカハタという誰かの代わりにされているんだ、と。 ここ数日、皆そう思っていたのだろうか。 かわいそうに、と。憐れまれていたのだろうか。 急に、要は叫び出したい気持ちになる。 同情を寄せられるぐらいだったら、怯えられて遠巻きにされたほうがマシだ。 自分だけ何も知らずに、やさしくされて喜んでいたなんてそんなの、惨めじゃないか。
「よぉ」 気楽な挨拶に、憂鬱な思考が分断される。 人懐こい笑みがそこにあった。 屈託がなく、明るい。 昨日までは、その笑顔を向けられるとくすぐったい気持ちになっていたけれど、今は違った。 ちろちろと、小さな炎が胸のうちで燃えている。 それは苛立ちかもしれない。 自分の向こう側、どこか遠くのために、その笑顔が向けられているかもしれない。 そう思うと、相手の顔がまともに見られなかった。 うん、と素っ気無い相槌だけうって、要は椅子を引いて座った。 一瞬、勝利が呆気に取られた顔をしたのが、視界の端に見えた。 戸惑う気配が、隣から漂ってくる。 要は、左側を意識からはずす努力をした。 そうすればそうするほど、敏感にそちらの気配を感じ取ってしまうというのに。 戸惑っているのも、こちらに声をかけようとするのも、気配で知れてしまう。 こちらの機嫌を伺おうとしている勝利の気配が、尚更気に障った。 (放っておけばいいじゃないか) 得体の知れない、転校生のことなんて。 無理にかまってくれなくったっていい。 誰かの代わりにするぐらいだったら、あからさまに遠巻きにされたほうがいい。 勝利が躊躇っているうちに、以前よりは幾分か顔色のよくなった担任が教室前方の扉を開いた。 出席をとっている最中、いつもならば小声で宿題を要求してくる声も、なかった。 (すっきりした) これで、元通りだ、と思った。 左側に頬杖をついた。
*
時折伺うような視線を左側から受けながら一日を過ごし、授業が終わるとすぐに帰途についた。 雨は上がっていたが、雲はどんよりと空を覆っていた。 ただの荷物になった傘を引きずるようにして、住み慣れた家の玄関までたどり着く。 鍵を差し込んだところで、要は急に憂鬱な気分になった。 こんな日に限って。 ひとりになる時間が欲しかった。何も考えないで、ぼんやりとしていられる時間が。 家ならば、夜まで誰にも会わずに済むと思っていた。 鍵を仕舞いこんで、要は扉を少しばかり手前に引く。 予想通り、扉はあっさりと手前に開いた。 「……ただいま」 更に扉を大きく開いて、その向こうに声をかけた。 「おかえり」 居間の方から返答があった。 無意識のうちに、要は嘆息していた。 すきまから体を滑り込ませるように玄関に入って、しっかりと内側から鍵をかけた。 傘立てに傘を突っ込み、のろのろと靴を脱いだ。 「カズマ、鍵」 うかがうように居間の扉を開いて、声をかけた。 「ん?」 家主は、ドアから左手側にある応接用も兼ねるソファーにいた。 目を通していた新聞から顔を上げて、要のほうを肩越しに振り返る。 「鍵、開いてた」 言葉を覚えたての子どものようにみじかく、要は告げた。 「ああ、ごめん」 読みかけの新聞をたたんで、家主は詫びた。 そしてそのままじっと、要の顔を見る。 居心地が悪くなって、要は眉間に皺を寄せる。 「なに」 不機嫌を前面に押し出して、要は訊いた。 「最近、あまり顔色がよくないな、と思って」 たたんだ新聞をソファーの上に置いて、成瀬一馬が腰をあげる。 要の背中を、冷たいものが一気に流れて落ちた。 思わず一歩、後ろに引こうとする足を、必死に食い止める。そんなことをしたら、相手が余計にいぶかしむ。 (だから会いたくなかった) 変なところで勘が鋭い。全て見透かされているような気になる。 必死に取り繕ったとしても、そんなもの、全て無駄な努力だと言われているような。 「気のせいじゃないの?」 上手く笑えただろうか。 唇の端を持ち上げた感覚はあるけれど。 歪んだ笑いになっているような気がした。 「じゃあ、宿題あるから」 今は、これ以上顔を合わせていないほうがいい。お互いのために、それが絶対いい。 何よりもひとりになりたかった。 話を切り上げて、踵を返しかけると。 「要」 呼び止める声があった。 振り返らずに、ただ立ち止まる。 「何かあったんじゃないのか?」 労わるような声が背に掛かった、次の一瞬、自分で自分の感情が分からなくなった。 何かが、胸の内側で大きな爆発を起こしたことだけはわかった。 けれどもそれが怒りなのかかなしみなのか恥ずかしさなのか、他の何かなのか。その全てなのか。 ただ、目の前が真っ白になった。 「カズマには関係ないよ、かまわないでよ!」 咽喉がカッ、と熱くなったような気がした。灼けるように。 急激に発生した熱は、咽喉から一気に頭のほうへ駆け上る。目頭が熱くなった。 泣きそうだ。 様々な感情が絡まりあっている中で、それだけは分かった。 泣き顔を見られるのは嫌だ。 逃げるように、居間の扉を閉ざした。叩きつける勢いが、耳障りな騒音を生む。
階段を駆け上り、二階のつきあたり、宛がわれた自分の部屋に飛び込んだ。 閉ざした扉に背を預け、ずるずるとへたりこむ。 怒っているのか、悲しんでいるのか、それとも? ぐちゃぐちゃしていて、収拾がつかなくて、自分の気持ちがわからなかった。 泣きたいのか、喚き散らしたいのか、何かを傷つけたいのか。 全てのような気がした。 抱いた膝に、額を押し付けた。
(カズマに怒鳴ったって、仕方ない) ただの八つ当たりだ。分かってる。 分かっていても、どうしようもなかった。 「……最低だ」 同情されることも、過度に庇護されるのも気遣われるのも、いやだ。 けれど、一番いやなのは、善意で伸ばされる手まで乱暴に振り払ってしまう自分、なのだ。
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【続く】
2005年04月22日(金) |
夢喰い 【イレギュラー】 第八話 |
【第八話】
不可思議な感覚に、戸惑っている。 興奮? 高揚だろうか。 落ち着かない。
ここ数日というもの、教室の扉を開ける一瞬は、いつも緊張していた。 軽い扉を一枚隔てた向こう側に広がる、極寒の地を思って覚悟を決める時間が要った。 能面になる準備。感情を押さえ込むこと。扉に手をかけて、一拍を置いて、深く呼吸をしてから。 無表情には慣れていた。すこし昔の記憶を呼び覚ますだけでいい。 周囲の大人たちに、怯えを気取られないように、父親に不快な思いをさせないように、人形のようになること。 一年前までは、簡単に出来ていたことだ。 どうして今、難しいと感じるのか要には分からなかった。 (元に戻るだけじゃないか) 言い聞かせて、実行してきた。毎朝仮面をかぶることにも慣れてきたころ、突然変革が起こった。
―――おはよう、と。 隣の席の少年が急に言い出したのだ。 友好的な笑顔でもなければ、柔らかい声音でもなかったけれど。 むしろ、睨まれたような気もしたけれど。 面と向かって声をぶつけられたのは、久しぶりの気がした。 せっかくつけたはずの能面がぽろりと、はがれるのを感じた。 驚いてしまって。 おはよう、と返すのがやっとだった。 それ以外何を言っていいものか分からなかった。礼をいうのもまた、すこし違う気がする。 他愛のない挨拶を返すだけにして、おざなりに流してしまったけれど。
それから数日。 相変わらず要は、教室の扉を開けることに戸惑いを感じていた。 しかし、それは連日続いていた極寒の地への準備ではなかった。 勝利と挨拶を交わしてからというもの、扉を開けて踏み込むと、僅かながらかかる声がある。 そのことに、要は今戸惑っている。 嬉しいはずのことなのだ。けれど、どう対処すればよいのかが、分からない。
「英語の」 戸惑いながら、自分の席につくなり、隣から声がかかった。 首だけを向けてそちらを見ると、四方に跳ねた髪を持つ少年が、こちらを見ていた。 ひらり、と掌を返す形で差し出される。 戸惑いながら、席につくことも出来ない要に、神田勝利は。 「宿題のプリント。やってある?」 「え……?」 「最近朝練いそがしくって。昨日帰って寝ちゃったから」 見せて。と、勝利が言った。 「……間違ってるかもしれないけど」 要は、ぎくしゃくと自分の鞄を開きながら言った。 「一時間目だろ、英語。やってないよりマシだし」 「……はい」 ファイルから、英語のプリントを引きずり出して勝利に手渡すと、人好きのする顔で勝利が笑った。 「サンキュ」 「……間違ってても、知らないよ」 礼を言われるのがどことなく気恥ずかしくて、要はわざと拗ねたように言った。 いいのいいの、とくりかえして、勝利は早速自分のまっさらなプリントに回答を書き写し始めた。 横目でそれを伺いながら、要は席につく。 以前のような寒さは、なくなっている。 明確な変化だった。 温度差に、戸惑っている。 困りながら、そのぬるさにうっとりと目を閉じたくなる自分もいる。 委ねて、溶けてしまえるかもしれない、と思う。 ぬるま湯のなかに。 ダメだ、と引き止める自分も確かにいる。 甘えてしまえば、そのあたたかさに浸ってしまえば、外へ出たときの寒さに適応できなくなるんじゃないのか。 傷つくのを迂回する臆病さが、ひきとめる。
(だけど) 神田勝利に、おはよう、と言われたとき。 嬉しかった。 その気持ちだけは、誤魔化せなかった。気恥ずかしいような、くすぐったいような。 慣れていないから、そんな”ぬるさ”は知らなかったから。 どうしていいのか分からなくなる。 笑えばいいのか、神妙な顔をすればいいのか、それとも―――。
「助かった」 白いプリントが、隣の机から差し出される。 差し出された手の方へ顔を向けると、人懐こい笑みがあった。 こんなときも、どういう対応をすればいいのかわからなくなる。 ああ、うん、とうやむやに頷いて勝利の手からプリントを受け取った。
*
神田勝利の対応に引きずられるように、ごくごく少数ではあるが、要に声をかけてくれるクラスメートも増えた。 担任がHR中に泣きそうな顔をすることも減った。 上手くいきすぎだ、と要は思う。 ふわふわと、覚束ない雲の上を歩いているような気分だった。 すぐ目の前にすっぽりと穴が開いていてもおかしくないと思っていた。 だから、その日の放課後。 職員室で担任とすこし話をしたあと戻った教室でその話を耳にしたときも、驚きはしなかった。
新任から二年ほどの女教師は、最近いつも悲壮な顔をしている。 何かあったらすぐに相談してね、とは言うけれど、自分が一番重い荷物をしょっているような顔をしていた。 うちのクラスでイジメなんて、という愚痴が顔に書いてある。 表向きだけ憐れむような、優等生然とした彼女の顔を見るのが、要には苦痛だった。 女の人の、疲れた顔は見たくなかった。 そんな顔を自分がさせていると思うと、惨めになる。 大丈夫ですから、と半ば一方的に話を切って、職員室を出た。 英くん! と悲鳴のような声も無視した。 あのまま職員室にいたら、自分を押さえる自信がなかった。 自分では律することの出来ないもうひとりの自分が、いつ顔を出すかもしれない。 絶対に、それだけは避けたかった。
燻る熱を抱えたまま、英単語のドリルを忘れてきたことに気がついて、教室に足を向けた。明日の朝、小テストがある。 人気のなくなった、がらんとした教室の後ろの扉に手をかけたところで、中から人の声が聞こえてきた。
「勝利さぁ、なんつーか、アレはないよな」 耳に飛び込んできた名前に、要はその場で凍りついた。 クラスメートの声だ。聞き覚えがある。顔も思い出せる。野球部だ。名前はなんだったか? 「なにが?」 もうひとり、男子の声が応じた。 「転校生のこと」 声変わりを終えたばかりの、咽喉に負担が掛かっているような話し方で、野球部の男が言った。 要は急に、冷水を浴びせ掛けられたような心持ちになった。 「あんな週刊誌、誰も本物だって思ってなかったのに、最近のクラスの雰囲気って最悪だったろ? だから、だんだんいい方向に向かってるっぽくて、いいように見えるけどさ。勝利のあの態度って、身代わりにしてるように思えるんだよね」 「……もしかして、高幡のこと?」 「そ。勝利さ、かまってたじゃん、高幡のこと。甲斐甲斐しく」 「まぁな」 「だから、相当ヘコんでたじゃん? ―――高幡が自殺してからさ」
指先に、静電気が走ったような気がした。 弾かれたように教室のドアから手を離した。 足元から、強烈な冷気が這い登って、背筋が震えた。 英語のドリルのことなんて忘れていた。 踵を返す。手が震えていて、抱えていた鞄を取り落としそうになる。 呼吸がうまく出来ない。
―――あの態度って、身代わりにしてるように思えるんだよね。
(やっぱり) 階段を駆け下り、昇降口向かう足取り。リノリウムの床を歩いている感覚はなかった。 じわりと視界が滲む。 それとは逆に、口元に何故か笑いが浮かんでいた。 涙が溢れる前に、手の甲で拭う。 逃げるように、校舎を出た。 (やっぱり、そんなに上手くいくはずないじゃないか) うす曇りの空の、どこか遠くから低い雷鳴が聞こえ始めた。 雨が近い。
―――勝利さ、かまってたじゃん? 高幡のこと。
そんなに上手く話が進むはずがない。 ふわふわと、天上の雲の上を歩く心地でも。
こんなところに大きな穴が、空いていたんじゃないか。
―――相当ヘコんでたじゃん? 高幡が自殺してから。
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【続く】
2005年04月21日(木) |
夢喰い 【イレギュラー】 第七回 |
【第七回】
教室の後ろ側の扉が横滑りに開く。 たったそれだけのことで、教室の温度がぐっと下がる。 勝利は思わず舌打ちを落としたくなった。 植えた肉食獣を警戒するような遠巻きのクラスメートたちと、同じ制服を着た肉食獣とはほど遠い少年と。 このアンバランスな光景が、最近のお決まりの朝だった。 苛々するのは、両方に、だ。 今にも飛び掛ってくるんじゃないかと怯えるクラスメートたちも、その冷酷な仕打ちに抗いもしない転校生もだ。 (これじゃあ、”あの頃”と同じだ) 対象が変わっただけで、根本的には何も変わっていない。居心地の悪さはそのままだ。 くだらない、と勝利は胸のうちで吐き捨てる。それを大声で喚くことが出来ない自分にも、苛立ちが募る。 結局は同罪だ。 何も変えられない。
教室を凍らせた原因が、教室の端からゆるりと窓際まで近づいてくる。 窓際の後ろから二番目の席で、勝利は頬杖をついたままその様子を伺った。 人形のように整った造作の顔には、表情がない。 肌は青白く、生気もないように見えた。 あまりに、従順すぎる。易々と受け入れる。泣きも喚きもしなければ弁明も言い訳もない。 学校を休むわけでもない。 自分は退けられて当然、と。現状を甘受しているような。 その、まるで罪人のような態度が、また勝利の気に障った。 不当に避けられていると、思わないのか? あんな御伽噺めいたゴシップ記事、みんなが皆鵜呑みにしているわけではない。頑なに彼が押し黙るから、間に壁が出来る。 現状にオロオロしているのは、何もクラスメートだけではない。 二十歳をいくつか超えたばかりの担任も、戸惑うばかりで何を言うでもない。 教室の雰囲気はいつも最悪だ。
無言で、隣の席の椅子が引かれる。 床を、木の椅子が引っかく耳障りな音がした。 「英」 自分の声を聞いて、勝利は内心で驚いた。 反射だった。 何か思惑があったわけではない。衝動が、声帯を動かした。 椅子を引いたまま、転校生は呆気にとられた顔をしている。 予想外の出来事にぶつかったときの顔だった。 空気が凍っている。 「……おはよう」 頬杖をついたままで、勝利は斜め上を見上げて言った。 和やかではなかった気がする。好意的でも、きっとなかった。 睨み付けるような、挑むような挨拶だったかもしれない。 転校生は、大きな猫のような目を更に見開いて見せた。 そのあと、急にかなしそうな顔をした。泣くのを我慢しているような。 クラスメートたちには背を向けているから、きっとその顔を見たのは勝利だけだったのだろう。 転校生は、そのせつなそうな表情のまま口元を緩めて、かすかに笑った。 「おはよう、神田君」 寂しげな笑顔をすぐに消して、英要は引いた椅子に腰掛けた。 教室は、写真のように固まっていた。 かすかに見せた笑顔のあとは、転校生はまた再び、無表情に戻っている。 緊迫した教室の空気に、馬鹿らしさすら感じる。 (お前ら一体、何に怯えてんだ) なんで同じことを繰り返す? “半年前”から、何も進歩しちゃいない。
―――”高幡”のときと。 何も変わっちゃいないんだ。
いつもどおり、担任がギクシャクと教室の扉を開け、尖った声で席につくように言う。 そうしてようやく、停止していた教室の時間は、再び動き出した。
挨拶をしてやったのは、何も英要を助けたかったわけではない。 陰鬱な空気の中で、毎日生活するのがしんどかっただけだ。 HRの間中、勝利は自分に言い訳をするように、胸の内で繰り返していた。
半年前と同じようなことは御免だ。
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【続く】
2005年04月17日(日) |
夢喰い 【イレギュラー】 第六回 |
【第六回】
目の前で、美術準備室の扉が閉ざされる。 上履きの音が遠ざかってゆくのを聞きながら、気づけば嘆息していた。 集団心理と言うものが、いまいち都佳沙には理解が出来ない。 群れを作るということ自体、鬱陶しくて仕方がないというのに。 群れがないと何も出来ない心理は分からなかった。
孤高であることを、幼い頃から義務付けられていた。銀という家の束ねになるものとして。 束ねであるということは孤独であるということ。 そうあるために、自我を、芯をしっかりと確立することを常に求められてきた。 だから、あまりにも周囲の同世代の人々とはスタンスが違いすぎる。 強気な発言は躊躇うくせに、口さがない噂ばかりは音速で飛交う。 互いの顔色をうかがって、どちらがわにつくかを決める。 学校とは、魔窟だった。 理解の範疇を越えている。 数が力だという方程式が成り立つ場所だ。 正直居心地は良くないし、肩が凝る。 どうしてこうも、息苦しいのだろう。 陰鬱な集団生活に耐えるということが、義務教育なのだろうか。 (無理をしている) 先程まで向き合っていた少年の、暗い顔を思い出す。 彼が無理をしていることなど、一目瞭然だった。 大丈夫だから、という言葉に説得力はなかった。それでも都佳沙が引いてしまったのは、下手に触ったら悪い影響が出るかもしれないと思ったからだ。
この部屋から、足を重そうに引きずって出て行った背中。彼と出会った、一年程前のことを思い出す。 同い年なのだろうか、というのが正直な印象だった。 人に支えられていなければ、立ってもいられないような頼りなさだったのだ。 叔父である男に連れられて踏み込んだ、昔馴染みの家の中に、彼はいた。 居間に踏み込むと、途端に怯えと警戒を全身で伝えてくる。その所作は、無力な小動物のようにも見えた。 物陰に、全速力で駆け込むような怯え方だった。 自分以外のものに対して発せられる威嚇と警戒。 大きな瞳に、かわいそうなほど怯えを宿していた。 本当に同い年なのだろうか。全身が、子どもっぽい。そんな気がした。 子どもであることなど、許されずに都佳沙は育った。 自我を持った頃から常に一個人として扱われ、甘やかされた記憶もないし、甘えたいと飢えた記憶もなかった。 旧家銀の次の跡目として、幼い頃から縁戚やかかわりのある家に連れて行かれていたから、自覚が芽生えるのも早かった。 そんな都佳沙から見れば、目の前の怯えの塊は、頼りない以外のなにものでもなかった。 本当に、生き残っていくことができるのだろうか? 今はまだ、庇護されているからいいかもしれない。けれど、一歩外へ出れば、外界は天敵だらけだ。 己の身を守る術を身につけなければ、すぐに喰われる。
同い年だし、修恵に通うことになるだろうから、何かと面倒を見てやってくれないか、というのが叔父と昔馴染みの知り合いからの頼みだった。 保護しなければならないのかな、と。 ぎこちない自己紹介と握手を交わしながら、億劫に思っていた。 人の世話を焼くことが一番苦手なのだ。しかも、相手は幼い頃から自宅の敷地から外に出たことがほとんどないという相手だ。 手が掛かるのは目に見えている。 自分以外の誰かのことで、面倒を被るのは御免だ。 内心で、冷酷に薄情に、そんなことを思っていた。 詳しい話を叔父から聞いて、彼の生い立ちには心から同情した。それと同時に、厄介で面倒だとも思った。 未だ時折発作のように、彼の内側に住むもうひとりが現れて、今の保護者と派手な喧嘩をすることもあると聞いた。 いつ爆発するかも知れない爆弾を看ていろと言われたような心もちがしたのだ。 そんな暇はない、と。自分のことだけで精一杯だと。都佳沙は思っていた。 突発的な爆発に巻き込まれるのは御免だ―――。
(だけど、どうしたっていうのかな) 都佳沙は戸惑っている。 厄介事はごめんだと思っていたはずなのに、未だ不安定な爆弾である英要という少年を、どこか放って置けない自分がいる。 絶対多数の口さがない噂話という、陰険な凶器が気に入らないということもあるのだろう。 けれど、決してそれだけではなく。 英要という少年の存在が、その行動や言動が、新鮮で刺激的であることもまた、認めなければならない事実だった。 幼い頃から外界との接触を断たれて育った少年は、周囲の人間が「当たり前」と受けとめる物事に対しても疑問を持つ。 そんな彼に何かを尋ねられるたびに、答えに困る自分もいた。 分かっているつもりで、実は本質までは理解していないことに気づく。 新しい発見だった。いつもはっとさせられる。
また最近では、要も随分と都佳沙に慣れてきたのか屈託なく話し掛け、頼りにするようにもなってきたと思う。 頼られるというのは重いものだと思っていたのに、どことなくくすぐったいと感じてしまう自分にも、都佳沙は戸惑っていた。
(これ以上、何も起こらなければいいけど)
本鈴が鳴って、ようやく都佳沙は美術準備室を後にした。
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【続く】
2005年04月10日(日) |
夢喰い 【イレギュラー】 第五回 |
【第五回】
「都佳沙」 名前を呼んで、要は来訪者に歩み寄った。 「どうしたの」 いつもどおりの涼しげな顔で、銀都佳沙は目元で微笑する。 「少し、話できるかな」 ここではなく、と都佳沙の目が暗に言っていた。 顎を引いて頷くと、ひらりと都佳沙が身を翻した。慌てて、要はその背中を追った。 どうしたの、と聞いてみたものの、都佳沙が現れた時点でどんな話なのかは大体見当がついていた。 いずれ、来るだろうと思っていた。 足は、迷いなく人気のないほうへ向かっている。 都佳沙のことは嫌いではない。頼りにしてもいる。 初めてできた、同年代の友達でもある。 けれど気が重い。 せっかく考えないようにしているのに。
都佳沙は、美術準備室の扉を開いた。 途端、油とシンナーの臭いが押し寄せてくる。 要が後ろ手に扉を閉ざすのを待ってから、都佳沙は要に向き直った。 「大丈夫?」 主語もなく、都佳沙が問い掛けてくる。 「なんのこと?」 意味はもう、通じていた。分かっていた。 誤魔化すように、訊き返す。 顔が笑おうとして失敗している、顔の筋肉の動きで、分かる。 「噂、聞いたよ」 都佳沙は正直だ。誤魔化したりしない。 その潔癖さは正しく、強い。 けれど、時として残酷でもある。真っ向からぶつけられると、痛みにもなる。 「あ、うん」 誤魔化しきれずに、要は俯いた。 「口さがない噂は、気にしなければいい。すぐに消えるよ」 正論に、要は俯いたまま小さく頷いた。 都佳沙の言うことは正しいのだ。 けれど、彼は分かっていない。皆、彼のように凛と強く立てはしないのだと。 気にしなければいいと言っても、割り切れない弱さを飼っている。 目を逸らしていても、傷口から痛みが、沁みてくることもある。 治療を怠れば膿む。 尚も目を背け続ければ、致命傷にもなる。 「何かあったらすぐに言って。力になるよ」 普段ならば頼もしいと思える言葉だった。しかし、奇妙にささくれだった心には、真っ直ぐには届かない。 傷つけられていると、認めろ。そんなふうに促されているようにも思えた。 必死に吐き気を堪えているのに、背をやさしく擦られるような。 この仕打ちに傷ついていると、白状してしまえ。 白旗を揚げたら、救いの手を差し伸べてあげるから。 そう、言われているようにも思えた。 ただの被害妄想だと、必要のない意地だと分かっている。 分かっていても。 「大丈夫だよ」 表情を取り繕って、顔を上げた。 「僕は、大丈夫。……慣れてるよ」 奇異の目で眺められることや、遠巻きにされることも、別に今にはじまったことではない。 いつもどおりだ。 過去に起こったことを全て帳消しにして、あたたかくやさしく明るい、そんな学生生活に飛び込めるとは思ってなかった。 そんな、御伽噺みたいな顛末なんて。 信じていなかった―――と思いたい。 信じていなかったから、疎外されても傷ついたりしないのだ。 当たり前のことだと受け入れられる。 (だって) 鈍い痛みが、胸の内に燻っているような気もするけれど、勘違いだと片付けることにする。 (だって、遠巻きにされて傷ついているなんて、認めるのは惨めだ) それに、認めてしまえば、今まで押し込んできた痛みの全てが、一気に噴出してくる気がした。 決壊して、全て溢れ出したら、自分を支える自信がなかった。 かといって、受け容れてくれる周囲の人々に全力でもたれかかるのも嫌だった。 「僕には都佳沙も始さんも雅さんも、いてくれるんだし」 都佳沙や、その父、叔父。全てを理解して尚、受け容れてくれる人もいる。 これ以上彼らに心配をかけることも、憚られた。 何よりも―――。 「僕の問題だから、何とかするからさ」 笑みが、唇の端に張り付いたままになっている。 無理を、都佳沙はきっと、見抜いているに違いない。意志の強い瞳がじっと、要を見ていた。 「だから」 居たたまれなくなって、要は目を逸らした。 ふっと、火が消えるように口元の笑みも、消えた。 「カズマには言わないで」 縋りつくような、ただの懇願だった。 彼には、彼にだけは知られたくなかった。 こんなふうに弱っている自分のことなんて。 常にやさしく労わって背を押してくれる人には、見せたくない。
都佳沙は暫く、何も言わずに要を見つめていた。 やがて、思案するように一度双眸を閉ざし、再び深い黒の瞳を開いた。 「分かった。でも、無理はしないって約束してくれるかな?」 まるで大人が子どもに促すような言葉だった。 無茶は、危険なことは、しないように。 顎を引く動作だけで頷いた。 都佳沙の顔を見ることは出来なかった。
助け舟のように、予鈴が鳴った。
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【続く】
2005年04月08日(金) |
夢喰い 【イレギュラー】 第四回 |
【第四回】
空気が重い。 自然と、苛立ってくる。 入梅してから、空は晴れ間を見せることを頑なに拒んでいる。 そのせいもあって、気分は常に鬱々としていた。 何よりも、隣に座る人物の所為だ、と勝利は思う。 隣の席には、四月に編入してきた謎の美少年が座っている。 横目で盗み見た。 色素の薄い、茶色の髪は地毛なのだという。 同じ色の瞳も大きく、ぱっと見、女にしか見えない。男子用の制服を着ているから、見分けがつくようなものだ。 浮世離れしたその容貌と、妙に世間知らずでありながら、時折達観した顔を覗かせる場違いな雰囲気に、転入当初からクラスメートたちは戸惑っていた。 名前まで、どことなく煌びやかな感じがして、踏み込みづらい。 (ハナブサ、だってさ) 英語の英で、ハナブサ。 漫画の登場人物みたいだ。 けれども、漫画と違うところもある。少女漫画的ベタな展開だと、クラスの女子は騒ぎそうなものだけれど。 あまりにも異質だったので、逆に遠巻きになってしまったようだ。 ただ、遠巻きになることと興味がないこととはイコールではなく、影で様々な憶測が飛交ってもいた。 本人の耳にも届いているだろうに、全く反応を示さないあたり、やっぱりどこか違うのだろうか。 同い年だというのに、あどけないと感じる。 肌も白くて、同性とは思えないぐらいだ。そう、高幡みたいに―――。 そこまで考えて、勝利は静かに息を飲んだ。 “高幡みたいに”。 胃から急激に気持ち悪さが這い上がって、転入生から目を逸らした。 ちょうどよく、チャイムが鳴った。 昼休みだ。ざわざわとクラスメートたちが散ってゆく。 購買にでも行こうか、と勝利も席を立った。 隣を、わざと見ないようにした。
例の、ゴシップまがいの週刊誌が持ち込まれてから、ハナブサカナメを取り巻く見えない壁は、分厚くなったような気がしていた。 新興宗教の神子で、不思議な力を操るんだとか。 あいつの所為で母親が死んだんだとか。 奇妙な爆発があったんだとか。 どこまでが本当なのか、眉唾物の記事だったけれど。 クラスメートたちが感じていた違和感を代弁するには、十分すぎた。 ああそうか、と腑に落ちるような気がする。 だから、毛色が違うのだと。 ゴシップ記事を全て鵜呑みにしたら、楽になるような気がするのだ。 自分たちとは明らかに違う、その存在感に怯えることもなく。 嚥下できる。 そんな気がした。
遠巻きは、更に後方に退いて、野次馬のように転入生を取り残した。 絶海の孤島に取り残されて、英要はすんなりとその状況に適応したように見える。 簡単に諦めてしまったように。 (どうしてそんなに簡単に) 諦めることが出来るのか。 勝利には理解が出来なかった。 その所作は、自分から壁を分厚くしているようにも見える。 他人の理解など、元より求めていないという、冷たい拒絶。 愛想笑いのほかに、端整な顔立ちが笑ったのを、勝利は見たことがない。
適当にパンを見繕って教室に戻る。 陰鬱な空気が漂う教室に戻るのは少し億劫だったが、他に過ごす場所もない。 (別に、俺がシカトされてるわけじゃないんだし) そうは思うのだが、やはり、居心地がいい場所ではない。 「ちょっといいかな」 後ろ側のドアを横に開いたところで、背に声がかかる。 声に色があるというなら、青だ。 清浄で、凛と張っている。 ドアに手をかけたまま、肩越しに振り返って、勝利は目を瞠った。 別世界の生きものがそこにいた。 「C組の人だよね」 すっと、切れ長の瞳が勝利を見ていた。 肌は白く、髪は黒檀のように黒くて癖がない。 (銀) その男の苗字が、水面に浮かぶ泡のようにぽこりと浮かんできた。 隣のクラスの生徒だった。慶太とクラスメイト。 圧倒的な存在感は、英とは別の意味で浮いていた。 大金持ちの御曹司。子どもっぽいところは欠片もない。 群れることなく、周囲に溶け込もうとも馴れ合おうともしない。 周囲に漂う凛とした清浄感は、圧迫感にも似て、誰も下手に近づけなかった。 勝利もそのひとりだ。 別世界の人間だと思っていた。 何ひとつ、共通項のない人間に思えた。 生活環境、家族、趣味、何から何まで、重なるところなどどこにもないような。 「ごめん、人を呼んでくれるかな」 微笑して、およそ中学生には見えない男が言った。 「え、あ、ああ」 動揺を隠し切れずに、慌てて勝利は頷く。 「英要、呼んでもらえる?」 「え?」 思わず聞き返した。
―――例の転校生って、銀と知り合いなんだってね。
慶太の言葉を思い出す。 固まっている勝利に、銀都佳沙は、微かに眉をひそめて怪訝な顔をつくる。 「あ、ワリ。英、な」 ただ眉をひそめただけ。その動作に気圧されて、勝利は逃げるように教室に踏み込んだ。 座りなれた自分の座席。その隣でぼんやりと窓の外を眺める色素の薄い少年に近づく。 「英」 他人行儀に苗字を呼んだ。 首をめぐらせて、つくりものめいた顔が振り返る。 「神田くん」 高い声が、勝利の苗字を呼ぶ。 視線が、どうしたの、と訊いていた。あどけない顔だった。 「呼んでる」 背中にクラス中の視線を感じながら、ドアの方を指差した。 どうしてなのか、声を潜めてしまった。 要は、勝利の向こう側に見知った姿を見とめて、椅子を引いて立ち上がった。 「ありがとう」 小さな礼を残して、要は座席の合間を縫って後ろの扉に向かう。 銀と合流して、一言二言を交わして廊下へ消えてゆく背中を、何故か勝利は見送ってしまった。 この居心地の悪さは、一体なんなのだろう。 せっかく買ってきたパンも、食べられそうになかった。
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【続く】
2005年04月07日(木) |
夢喰い 【イレギュラー】 第三回 |
【第三回】
ざわざわ。さわさわ。 雑音が夢の中まで潜り込んできて、やがて眠りのほうが負ける。 目蓋を開くと、どこか薄暗い白い天井が見えた。いつもならもっと、明るく見えるはずなのに。 カーテンが締め切られた窓から、いつも差し込んでくるはずの朝の強い光はなく。 ああ、曇ってるんだな、と少し間を置いてから気がついた。 体を起こそうと思って、重くて挫折する。 異様なぐらい、頭が、腕が重くて。 気づいていた。それが現実の重みなんかじゃなくて、感覚だけだってこと。 重く感じているのは、こころ。
何か夢を見ていたような気もするんだけど、忘れてしまった。 見上げる天井が、くすんで見える。 さわさわ。 雑音が繰り返して、ようやく細い雨が降っているらしいことに気が行った。 四季折々、季節がしっかり分かれている国だから、しかたないけど。 憂鬱なのは、雨。
枕もとにおいてある目覚し時計を手探りで掴んで、目の前に持ってきた。 10時42分。 一瞬、ひやりと慌てて。今日は日曜日だったことを思い出した。 焦ることなんてなかったんだっけ。 目覚し時計を枕もとに戻して、もう一度起き上がろうと思って、やっぱりやめた。 急ぐ必要なんて何一つなかったから。 ころりと体を横にして、枕を抱いてみた。 もう少し、眠っていてもいいんじゃないのかな。今日ぐらい。 考えずにいたかった。何も。
明日になればまた、7時には起きて、7時45分には家を出て。 学校に行って、授業を受けて、放課後になって。 そんな繰り返しをする。 ただの繰り返し。 ぼんやりとしていれば、過ぎ去って、終わってしまう時間だ。 我慢してればいい。 ものめずらしそうに、気味悪そうに、遠巻きに眺められることなら、慣れてる。大丈夫。 慣れてるから、大丈夫。 言い聞かせるように心の内側で繰り返して、もう一度目を閉じた。 大丈夫。 きつく瞑った目から、何かが零れたような気がしても、気にしないふりをする。 自分の気持ちに鈍感になりたかった。 気づかずに。 自分の本心なんて知らずに。 傷つかずに。 その方が、楽だ。
*
朝八時からはじまった練習は、十時を回ったあたりに降りだした雨の所為で昼で切り上げることになった。 水気を含んだトレーニングウエアを脱ぎ捨てて、Tシャツとパーカーに着替える。 「せっかく運動公園まで来たってのに、昼であがりかァ」 チームメイトがぶつくさと文句を垂れながら、スポーツバッグを担ぎ上げる。 「勝利、どした?」 後ろから覗き込む気配に、勝利は大袈裟に振り返った。 大きな眼鏡と目が合う。 「慶太……」 「チャリで来たよな? 雨ひどくなってきてるけど。俺ら、バスで帰ろうかと思っててさ」 「いーよ、どうせ家に帰るだけだしさ」 少しだけ笑って、勝利は履いたままだったスパイクを脱ぐ。 窮屈な感触から、足が解放されたように思えた。 「それに、練習中に随分濡れたから、今更変わんないっしょ」 手早く愛用品を片付けて、荷物をまとめてベンチから立ち上がった。 「そう?」 慶太が表情を曇らせている。 勝利は首を傾げて相手を伺った。 「勝利が平気なんだったら、いいけどさ」 慶太は、どこか煮え切らない。 「なんだよ」 少しばかり苛立って、勝利が促した。 仕方ない、というようにひとつ、慶太が嘆息した。 「やっぱりお前さ、最近ちょっとおかしいよ」 丸い眼鏡の奥で、チームメイトが憂いを帯びた目をする。 「しつこいな」 苛立ちの所為で、口が勝手に動く。 胸の内にどうしようもない凶暴な部分があって、それを上手く制御できない。 これじゃ八つ当たりだ。分かっているのに、どうにもならなかった。 「こだわってんの、慶太のほうだろ」 「勝利」 慌てる慶太を振り切るように、勝利は踵を返す。 呼び止めようとする気配が、途中で諦めに変わるのを背中で感じる。 脱衣場の扉を閉めるまで、視線だけはずっと追いかけてきた。
「なんなんだよ……」 陸上競技場を後にした瞬間、後悔した。 こんなことを言いたいわけではなかった。 次第に強くなる雨脚が、アスファルトの灰色を黒く塗りつぶす。 せっかく着替えた服がすぐに、水を吸って重くなる。 髪の毛が束になって、その先から雫がたつたつと落ちた。 眩暈がした。体が不調というわけではなく。 自己嫌悪に嘔吐感すらこみ上げてくるようだった。 慶太に当たっても仕方がない。分かりきっていることなのに、苛立ちを制御できない自分が不甲斐なかった。 どんどん強くなる雨に、体中が濡れそぼる。 両足がひどく重く、だるかった。 枷がつけられているような足を引きずり、鉛のように重いスポーツバッグを背負いなおして、駐輪場にたどり着く頃には、すっかりと体が冷えていた。 屋根付きの駐輪場にもぐりこんで、スポーツバッグを籠に押し込む。 サドルに腰掛けて、うな垂れた。
―――僕、何やってもダメなんだよ。
雨音に混じって、少年の声が聞こえた。まだ高い。 ―――そんなわけないだろ。 無邪気で明るい、自分の声がそれを追った。 ―――高幡だって、やれば出来るだろ。 底抜けで、悲壮感のない、軽い声に聞こえた。 勝利は、きつく目を瞑る。 まぶたの奥に、白が広がった。 まっさらの、縦書きの便箋だった。
頑張ってみたけれど、やっぱり僕には上手く―――
「くっそ……」 やり場のない悪態をついて、勝利は握った右の拳を腿に叩きつけた。 もう二ヶ月も前のことだ。終わったことだ。 何度そうやって言い聞かせてきたことだろう。 自分に言い訳をしてきたことだろう。
閉ざした目蓋の奥。白い便箋の向こう側に、通い慣れた教室の情景が浮かんだ。 今日と同じように、雨が降っていた。 夕立だった。 部活を終えて、教室に飛び込むと、窓際の席にぽつんと座った人影がある。 上品に作られた制服を、ぴしりと着こなして、凛と伸ばされた背中。 首筋が青く細く、肌は病的に白かった。 夕焼けに、赤く染められた机に本を開いて、じっと静止している。 彼の周囲だけ、時間が止まっているような錯覚をいつも覚えたものだった。 物静かで、物知りで、本が好きな奴だった。
高幡千晶。 春休みに、廃ビルの屋上から、身を投げたクラスメートだった。
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【続く】
2005年04月06日(水) |
夢喰い 【イレギュラー】 第二回 |
【第二回】
―――僕、強くなんてなれなかったよ。神田くんみたいに。
どこか遠くで、バットが硬い球を跳ね返す、金属質の音が響いた。 雨に濡れたグラウンドは、所々に水溜りを作っている。 雨上がりのにおい。 水分を多くふくんだ空気が、しっとりと肌に吸いつく。 ナイター完備の、金持ち私立学園中等部の野球グラウンド。そこに隣り合わせる、陸上競技用のトラック。 正式な陸上競技場よりも一回り小さい、二百メートルの。 走りこみ用に引かれた、石灰の白い線。ゴールのしるし。 「勝利」 雨に滲んで消えかけたその線のあたりにぼんやりと立っていると、不意に声をかけられた。 気配を感じなかった方向から急襲されて、大げさに振り返る。 「何してるの」 怯えたように振り返ったその先に、見慣れた眼鏡を発見する。 顔の位置は、自分の目線よりも少し下。声変わりをまだ終えていない高い声に、あどけない顔に眼鏡。 典型的メガネくんの彼が、地区内で有数の走り幅跳びの選手だと言って、どれほどの人が信じるだろうか。 「慶太こそ、今日練習休みじゃんか」 ずりおちかけたリュックの肩紐を直して、神田勝利は部活仲間の円藤慶太に質問を返した。 「明日、中央運動公園のトラックで練習だろ。スパイク取りに来たんだ」 慶太の右手には、スポーツブランドの名がプリントされたスパイク専用の小さなバッグが下がっていた。 ああ、そっか。明日。 納得した。 「忘れてたの? もしかして」 まるで可哀相なものを見るかのような顔をして、慶太が顔をしかめる。 答えられなくて、勝利はついと目線を逸らした。 「どうしたの、勝利。最近ちょっとおかしくない?」 憂うような気配を、哀れむようなその表情に混ぜて、慶太は勝利と視線を合わせようとする。 「この間の大会だってさ、おかしいよ。絶対あんなもんじゃないはずなのに。それに最近、ずいぶんぼぉっとしてるしさ。まさか勝利、高幡のこと気にしてんの? あれは誰のせいでもない、どうしようもないことじゃ……」 「違うよ!」 大声で、否定した自分に、勝利は驚いた。 突然張り上げられた大声に、慶太もびくついて言葉を引っ込める。 悪い。 慶太のメガネから、足元の濡れた土に視点を落として、勝利は謝った。 「勝利、気にすんなよ」 「大丈夫だって」 重く、思わずもたげてしまう頭を無理に持ち上げて、勝利は笑った。 口の端が引きつっていることぐらい、自分で分かっていたけれども。 「もう終わったことじゃんか」 精一杯笑ったつもりで、言った。 目の前の慶太の顔は、なおも、心配そうだった。
終わったこと。 そうだ、と言い聞かせる。 もう全て、終わったことなのだ。 過去の話。
「……それならいいけど」 慶太の声は、譲歩の響きがした。納得したわけではない。 くるりと踵を返して、野球場の方へ足を向ける。その横を通り過ぎて、裏門を出たほうが早い。 「待てよ。俺も行く」 歩き出した慶太の背中を追う。足元で土がぬかるんで、バランスを崩した。 何かに引っ張られたような気がして、思わず飛び出しそうになった悲鳴を、なんとか口の中だけで抑えた。 「そういえばさ。あの、例の転校生って、銀と知り合いなんだってね」 勝利の異変に気づかなかったのか、気づかないふりをしているのか、慶太は別の話を切り出した。 「は? 転校生?」 「勝利のクラスの。あの、英だっけ? 週刊誌の」 「……ああ、あれ」 意識はしていなかったのに、げんなりとした声が出た。 今朝から、教室の空気を気まずいものにしてくれた一件を、思い出した。 慶太のクラスと階が違うはずなのに、もうそこまで噂が届いていたのか。 「うちのクラスに銀っているだろ。あのでっかいお屋敷のさ。噂じゃあの家、お化け退治とかやってるらしいじゃん。その転校生とも、そういう関係あるのかな?」 「さぁな」 気のない返事をした。
興味が、ないわけではなかった。 好奇心なら人並み以上にあると思っている。 クラスの女子が、誰が持ってきたかも分からない週刊誌の記事に群がる気持ちも、分からないわけではないし。 醜い好奇心なら、ある。 同い年のはずなのに、何故かあどけなく見える女顔の美人転校生は、どことなく浮世離れした雰囲気を醸し出していて、新学期から二ヶ月ほど経った今も、なじんでいるとはいえない空気だった。 幼かったり、どこか達観していたり。場面によって表情の変わるその少年の過去。 気にならないなんて嘘だ。 それでも。明らかに居心地の悪くなったクラスの空気。 誰かが、誰かを意図的に避ける、ということ。 その空気に今は、堪えられそうになかった。
「それよりさ、今日お前のクラスで英語の小テストやったんだろ? どこ出たか、教えてよ」 「先生、問題変えるって言ってたから無理じゃない? 問題聞いても」 「そこを何とか頼むからさー」 手を叩き合わせて、慶太に強請った。 すぐそばのグラウンドから、バットが硬い球を跳ね返す、金属質の音。 足元にはぬかるみ。 心の内側にはどうしても拭い去れない、重さがある。
―――気にしてんの、高幡のこと。
慌てて否定はしてみたけど。 気にしていないなんて、真っ赤な嘘だ。
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【続く】
2005年04月05日(火) |
夢喰い 【イレギュラー】 第一回 |
【第一回】
教室の扉をいつもどおりに開け放った。 次の瞬間、空気が凍ったと感じたのは自分だけではなかったんだろう。 たくさんの目が一斉にこちらを向いた。 まるで、紛れ込んできた異物に驚いたような。 怯えた目だった。
不自然なほど一箇所に集まったクラスメートたちの手元。 古ぼけた雑誌が広げて置かれていた。 遠目でも、それがなんなのか漠然と分かった。 こちらに向けられているその、異物を見るような視線で、十分わかった。 (ああ、”また”) 石像のように固まるクラスメートたちの脇を通って、この間与えられたばかりの自分の机へ向かった。 慣れている。こんなの。 昔と同じだ。だから別に、傷つく理由はなかった。
僕に怯えてあとずさった女子の足元に、その雑誌が広がったまま落ちた。
―――呪われた新興宗教の全容。
一年も前の雑誌、誰が持ってたんだろう。 ちらりとそのページを見てから、机に座った。 ちょうどチャイムが鳴った。
*
「……ただいま」 少しガタのきている扉を手前に引いて、消えそうなほど小さな声で言った。ぎぃと軋んだ音を立てて開く。 「ああ、おかえり要」 “ただいま”。それに対して”おかえり”。 その言葉がまだなんとなく不自然で、慣れない。口に出すと不思議な感じがした。 扉の向こうには、革張りの黒いソファーが置かれている。ここは厳密に言うと、家ではない。事務所だ。 僕はそっと入り口からまず顔だけを室内に突っ込んで、声の主を探した。 ソファーの向こうに、デスク。黒塗りの、時代遅れの電話。右手に簡易の台所。左手に窓、その下に応接のテーブルと椅子がある。 事務所としては狭い場所だ。 声の主は、台所にいた。 「コーヒー淹れてるけど、お前も飲む?」 思わず壁の時計を見てしまったのは、そう告げた相手の顔と声が、とても眠そうだったからだ。 学校が終わってから真っ直ぐここにきたから、もう既に4時を回っているのに。 「カズマ、寝てたの」 「転寝。暇だったから」 悪戯を見咎められたような、少しばつの悪そうな顔で成瀬一馬は笑った。
6月に入ってから、雨が続いている。 カズマは、火のついていない煙草を口に銜えたまま、かすかな音を立てるコーヒーメーカーをぼんやりと見ていた。 ワイシャツにゆるくネクタイを締めた格好でふっと顔をあげて、「中に入りなさい」。そんな、保護者みたいなことを言った。 気づけば僕は、事務所の扉から、まだ顔を突っ込んだだけだった。 うん、と頷いて事務所の中に入る。目の前のソファーまで歩いていって、カバンを置いた。 なんだかよく分からないけれど、体が重い、気がした。 カバンを置いたソファーに沈み込むように座って、左側を見た。ブラインドの隙間から、オレンジと黄色を乱暴に混ぜたようなひかりが零れ落ちている。 天気雨だな、と思った。
成瀬一馬と暮らし始めたのは、一年程前。この事務所に出入りをはじめたのは、半年ほど前だ。 間の残りの半年は、外に出るのも怖かった。 生まれてから13年、要は、限られた敷地の外に出たことがなかった。 4、5歳までは体が弱かったから。それからあとは―――変な力が見つかったから。 なんと表現すればいいのか、分からない力だった。オカルト的にいえば、超能力、なのだろうか。 感情が高ぶると、身近なものが割れたり倒れたりした。 見る間に、自分を見る周囲の目つきが変わっていって、母は泣いた。 父は、まるで化け物を見るような目をした。そして、守るという名目で、とじこめた。 その閉じ込められた環境から、抜け出したのがちょうど1年程前のこと。 1年前。けれどもそれはあまりにも、遠い過去のような気がした。 振り返ればひたすらに遠く、記憶は曖昧。 きっと、思い出すのが嫌なんだろう。忘れてゆくのは、人間の自己防衛本能。 生まれつき持っているものなんだって。
革張りのソファー。もう座りなれているはずのその感触が、今日は違って感じられる。 なんというか、いつもよりもやわらかくて、ずぶりずぶりと沈んでいってしまうような、錯覚。 「どうした」 ぼんやりとしていると、目の前に白いコーヒーカップが差し出された。 そのコーヒーカップから、それを握る手、腕、肩、そして、相手の顔を確かめた。 「なんかおかしくないか」 僕のほうにコーヒーカップを差し出したまま、カズマは少し表情を曇らせている。 ぎくりとした。 まさか、今日あったことがもうここに知られているはずはない。 できるだけ、動揺を表に出さないように気をつけながら、差し出されたカップを両手で受け取った。 「なんでもない。ただちょっと、疲れただけ」 正直に言ってしまえばよかったのかな。 ごまかしてすぐに、後悔が頭をもたげてくる。 変な意地を張ったんだってことは、自分でも分かっていた。 心配をかけたくないから、というのも確かにあっただろうけど。 今日あったことを話し始めたら、途中で泣いてしまうと思った。絶対に。 今まで、ここまで、ずっと平気な顔をしてきたけれど、改めて話し始めたら、きっと気付く。 自分が、やっぱり傷ついていたんだっていうことに気がついて、きっと泣いてしまう。 それは嫌だった。 沈黙が不自然にならないように、コーヒーに口をつける。 何故だかとても、苦かった。
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【続く】
2005年04月01日(金) |
【INTEGRAL】あとがき |
IE/047 【INTEGRAL】
「IE/047」第二章です。 たった10回の連載に、5ヶ月を要しました。情けない……。 全体的に一話完結の形をとっているんですが、一章を読まないと何が何やらですね。精進します。 シリーズ通して、章は10。連載回数も10回に限定していきたいと思っております。
ハードボイルドとも一味違う、乾いた空気感を目指しております。 その中にどことなく泥臭さが漂っていたらうれしいのですが。 作品のテーマとして、常に「本物とは何か?」を据えていきたいです。 恋の経歴然り、人とサイボーグ然り、今回のことで言えば、聖女アナスタシアのこと然り。
今回のタイトル、【INTEGRAL】は、
in・te・gral ━━ a. (全体をなすのに)必要な, 欠くことのできない ((to)); 完全な; 【数】整数の, 積分の. ━━ n. 全体; 【数】整数, 積分.
ということで、今回は、「完全な」という意味合いをモチーフにしています。 アナスタシアという存在をどことなく皮肉っぽく表現すると、こうなるかな、と思います。
キャラクターについて少し。 主人公の飯田恋は、負けっぱなしにしていきたいと思っています。 あの子はへたれで負けっぱなしなのに頑固なので救えない子ですが、 彼のバックグラウンドもこれから書いていきたいと思っています。
今回の話にでてきた「謎掛け」は、今後のストーリーにかかわってくることになります。 心の片隅にでも置いておいてもらえるとうれしいです。
次は【INSOMNIA】でお会いしましょう。 読んでくださって、ありがとうございました。 感想などありましたら教えてくださいませ。
次こそは、夢喰いの勝利の話を書きたいと思います。
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