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「IE/047」
【INSOMNIA】
プロットが固まりしだい始めたいと思ってます。 今回も全十回予定。
2005年06月28日(火) |
夢喰い 【イレギュラー】 あとがき |
みなさま、どうもこんばんは。 またしても開始から3ヶ月弱時間がかかりました。 どうもいけないですな、コンスタントに出来ていない。それが今後の課題かもしれません。 ということで、夢喰いシリーズの番外連載でした。
本編では、サブレギュラーの位置を占めている神田勝利については、 色々と書きたいことがあったので、今回はとてもいい機会だったと思います。 わたしは勝利をとても誠実な男だと思っています。 柔軟で朗らかで、遊ぶときは遊び、真剣に向き合うときは向き合う。 半分ファンタジーのように、色々な特殊な人間が出てくる作品の中で、 彼はそんな能力は全くといっていいほどない、「普通」の人間で。 彼が普通の枠を出ずにいるということは、周りの人間にとっても重要な意味があると思います。 どこか並外れた能力を持っている人間は、時折自分の位置を見失うことがある。 それでも、普通のラインにいて、普通の話ができて、生活を共に出来る人間がいるということは、自分の位置を確認するために必要なことではないかと感じます。 彼は重要なホームグラウンドの旗のようなものだと思ってます。 彼と最も近しい要と都佳沙とは、知らず知らずのうちに、彼が普通でいることに安堵している節は、ぜったいにある。
自分のキャラでこんなことをするのはまたおかしい話ですが(笑)、 弟にするなら、恋人にするなら、愛人にするなら、結婚するなら。 というカテゴリで分けたとき。 結婚のところにはいっつも勝利を持ってきます(笑)。 安定していてよい。 他の三つに関しては、今のところ左から要、雅、一馬となってます。 要は口煩いだろうけど、ちゃんと色々考えてくれそう。 雅もまあ、勝利の次に落ち着いてはいるのでしょうが、彼は自由人なので、 生活云々を考えるよりは楽しくいられたほうがよいと思ったり。 愛人に関しては、あの人は歪んでいるので、時折会うぐらいがいいのです(笑)。 ということで、勝利君がダンナポジションです(笑)。
と、横道に逸れましたね。 今回の連載に関しては、勝利と要と都佳沙と、今ではほのぼのな高校生トリオがまだ、よそよそしかった時代。 勝利と要とがしっかり友達になる過程を書きたいな、と思っていました。 本編ではちらほらと、「中学校の頃にいろいろあった」というのをほのめかしてきたので、それを形にしようと思っていました。 実のところ、書きたいことの輪郭はずっとあったのですが、根幹がなかなか定まらず、書き始めてからも、勝利の「夢」に関する部分はおぼろげのままで、案外しんどい思いをしましたが。 徐々にそのシーンに近づくたびに、霧が晴れてゆくような気がしました。 最終的には、一見ありふれたまとめ方に見えるかもしれませんが、 満足のいく情景が描けたと思います。 奇を衒わなくてもわたしの中でケリがついたような気がする。 最後のあたりは、全く持って青臭い青春なドタバタでした。 少し前の自分だったら恥ずかしくって書かなかったんじゃないかしら。 ああいうのも、アリだな、と思えるようになったのは、 わたしなりの収穫だと思います。 悔やむべくは、今現在進行中の連載よりもおおはばに若いはずのどこかの成瀬さんが、今現在よりも落ち着いたひとみたいになっちゃったことでしょうか。 本当にあなた、当時21ですか、と素で問い掛けたいです。 まぁ、あの人もすこしずつくだけてきたのよね、と思うようにしています。
感想などありましたら、教えていただけたら嬉しいです。 ようやく、ひとつのことにケリがついたような気がして、嬉しいです。
次は、「IE/047」の第参話目をやろうと思っております。 お付きあいありがとうございました。
2005年06月11日(土) |
夢喰い 【イレギュラー】 最終話(完結) |
【最終話】
花束を買うと、何故か気恥ずかしい気持ちになる。 駅をとおりこして、ビルの立ち並ぶ大通り界隈にいた。
もう三年。 まだ、三年? どちらものような気がする。 春がおとずれれば、無事に受験生に進級するのだ。 ときは経ち、色々なものを置き去りにして大人になるのだろうか。 鋭かった痛みも、にぶく弱くなり、思い出す機会も減る。 残酷で、ひとでなしで、薄情で、やさしくない。 人間、忘れるように出来ているんだけれど。 忘れていく自分は、とてつもなく酷いいきもののような気がする。
ここに来る頻度も、すくなくなったな。 以前は月に一回ぐらいふらふらと来ていたものだけれど。 結局今年は一年ぶりだ。 それ以外の三百六十四日は、くだらないことで笑ったり怒ったりしているんだ。 「ずいぶん久しぶりで、ごめんね」 何も、自分だけの変化ではないことは分かっていた。 その証拠に、この場所に花が手向けられることも、ほとんどなくなりつつあった。 ここで死んだ人間がいるってことを、この道を通るどれぐらいの人間が知っているだろう。 未だに取り壊されずに残っている廃ビルだが、来年度に入ってからようやく取り壊すことが決まったと、風の噂で聞いた。 完全に板がうちつけられて、出入り不可能になった入り口に、買ってきた花束をたてかけた。 「高幡、俺さ、本当はおまえとも」 春はもう、そこまできている。 三月の半ばとなれば、厳しい寒さもやわらいで、厚手のコートもいらなくなっていた。 先程わかれた二人の顔を思い出していた。 こんなに深い付き合いになるとは、出会った頃は考えもしなかったけれど。 あれほどそっけなかった「隣のクラスの銀くん」とも、近頃は要を挟まなくても十分じゃれあうことができる。 「おまえとも、馬鹿言って遊びたかったんだ」 偽善も正義感も優越もとっぱらって、くだらない話をしてふざけてからかいあったり。 何もむずかしくはない。 簡単なことだ。 友達になれたらよかったな。 お前のくるしみを、もっと聞き分けてあげられる耳を、もっていればよかった。 あの頃は、まわりよりも、多くの物が見えているつもりだったけれど。 結局は高幡、俺もさ、自分のことだけで大変だったんだ。 ゆるしてよ。 精一杯だったんだ。
「また来るよ。ストーカーだって言われても」 ここに、あたらしくどんな建物が建っても。 この土地を離れて暮らすことになっても。 もういいって、言われたって。 来るよ。
肩越し、背中のほうから。 まぶしい光が帯のように射してきて、勝利は振り返った。 黄金に染まった空の、雲の切れ間から、あたたかい光がこぼれてきていた。 なぜか、懐かしい気持ちになる。 あんな、やわらかくって美しい光を、どこかで見たことがあったような。 どこでだったかな。 目を細めて、光を受ける。 熔けてゆけそうだ、と思った。 おだやかな、ゆるやかな時間の中に。 切れ間から差し込む、黄金色の。
光の中へ。
【了】
2005年06月10日(金) |
夢喰い 【イレギュラー】 第二十話 |
【第二十話】
「夢喰いって、いうんだ」 勝利が学校に戻ったその日の放課後、要は中庭にいた。 円藤と話をした、あのベンチに座っている。 部活動の喧騒が遠くから聞こえてくる。 勝利は何も言わずに、隣に座っていた。 「信じられないかもしれないけど、夢に潜ることが出来るんだ。潜ってる間の夢を食べるっていうから、神田くんは何も覚えてないと思うけど」 「確かに、覚えてない、かも。眩しかったことしか」 ぎこちない沈黙が、その場に満ちた。 「でも俺、お前に助けてもらったんだろ?」 「僕は……なにもしてないよ」 また黙り込んでしまう。 要は、深く深呼吸をした。 「あのさ」 腹をくくって、切り出した。 「僕、本当に普通とちょっと違うんだ。あの雑誌に書かれてたこと、ほとんど全部、本当のことなんだよ」 信じられないかもしれないけど、とつけくわえた。 普通なら、信じられないだろう。 なにいってんの、と返されることが一番おそろしかった。 つづく沈黙に、押しつぶされそうになる。 「僕、神田くんに謝りたかったんだ」 勝利が、自分のほうに顔を向けたのがわかる。 そちらを見つめ返すことは出来なかった。 「急に、無視したりして、ごめん。どうしたらいいか分からなかったんだ。神田くんが話し掛けてくれるのも嬉しかったし、楽しかったよ。だけど、―――噂を聞いて」 「高幡の」 「……うん」 「俺も」 背もたれに重みを預けて、勝利が顎を反らした。 ベンチを包み込むような大木の、めいっぱいに広げられた枝葉の緑に、目を細める。 「英にひどいことしただろ。噂って、多分ほんとだからさ。俺きっと、お前のこと身代わりにしようとしてた。楽になりたくって」 風に葉擦れ。すきまからちらちらと、光が零れていていた。 「高幡が、自殺したの、俺ショックだったんだ。全部が全部自分のせいだなんて思わないけど、背中押したの、俺なんじゃないかと思って。だからなかったことにしたかった。お前のこと利用しようとしてた」 今度は要が、隣の勝利をうかがった。 さわさわ揺れる枝を見上げて、ぼんやりと遠くを見ている。 「俺、お前のこと分かんなかった」 仰向けた首を急に元に戻すから、とうとう目線が合ってしまった。 「なんていうか、浮世ばなれしてるっていうか。顔もそうだけど、色々知ってるみたいであたりまえのこと知らなかったり、まわりの奴らとなんか違ってて、戸惑ってた。クラスの奴らだってきっとそうだ」 要の持つ雰囲気に、なじめずにいたのだ。 どこか、他人と違う。 だからあの突拍子もない雑誌の記事だって信じ込んでしまったんだ。 「それにお前、諦めがよすぎて、俺はそれが気に食わなかった」 明らかに態度を翻したクラスメートにあっけないほど簡単に要は諦めた。 それでいいのか。 不当な責め苦だと思わないのか? 納得がいかなかった。 「本当の、ことだから。反論できないよ」 恐れられたって、仕方がないと思っていた。 「今は、関係ないじゃん」 力づよく、勝利は言い張った。 「今のお前を分かってもらったら、いいんじゃないの」 要が驚いた顔をするので、勝利は思わず黙り込んだ。 「……悪い、俺の、悪い癖だ」 高幡のときから変わっていない、我を通す癖だった。 「ううん」 要は、首を横に振って答える。 「そうだよね。そうだと思う」 噛み砕くように、要が頷いた。 「僕は神田くんの、そういう真っ直ぐなところがとても好きだ。助けられてると思うよ」 ぱちくりと、勝利が目をしばたいた。 何を言われたものか、一瞬分からなかった。 「ばっ……!」 言葉が意味を結んだ瞬間に、とてつもなく恥ずかしくなって、勝利は顔をそらした。 「お前! 変なこと言うなよ」 耳のあたりが熱かった。クラスメイトの、しかも男子相手に何を赤面しているんだろう。 要は別に、恥ずかしいことを言ったという自覚はないらしい。 勝利の反応にきょとんとしている。 こういうところが、浮世離れしているというのだ。
「あ! いた!」 居心地の悪い空気を、外からの攻撃が破った。 「勝利おまえ、いつまで部活休んでるつもりだよ! 鈍った体、鍛えなおしてやるから早くこいよ!」 校舎の二階部分の窓から、小柄な人影が顔を出していた。 円藤慶太だった。 「おー。今行く」 「早く来いよ!」 のんびりと答える勝利に釘をさし、円藤はひらりと要に手を振った。 要の反応を待たずに、円藤は窓際から去っていってしまった。 「さて、と」 大きく伸びをして、勝利がベンチから立ち上がった。 「何がどうなってんのとか、俺、よくわかんないし。レイカンとか全然ないから、いまいち英の説明とか、身にしみてわかんないや」 うん。ちいさく、要はうなずく。 正直な反応だと思った。勝利は、常に誠実だ。 嘘がない。 「でも、こうやってさ、また起きて普通に生活できて、うれしいよ。ありがとな」 笑って、勝利は校舎のほうへ歩き出した。 ベンチに座ったまま、要は背中を見送った。 何か、言ったほうがいいのかもしれない。 だけど何を? ためらううちに、背中が遠ざかる。 このまま別れたら、今までと何も変わらないんじゃないのかな。 一歩を踏み出せぬうちに、勝利の姿が校舎の中に消えた。 すとんと、体から力が抜けてしまった。ベンチと同化してしまったような気すらする。立ち上がれない。 根性なし、と自分を責めた。 どうしていつもいつも、肝心なところで手を伸ばすことが出来ないのか。 臆病な自分が、嫌になる。 撥ね退けられたらどうしよう、なんて。 そんなことを考えてたら何も出来ないじゃないか。 友達に、なんて。青臭くて恥ずかしくて、改めて口に出して頼むことじゃないけど。 だけど。
ばたばたと、廊下を慌しく走る音が迫ってきて、要は顔を上げる。 「言い忘れた!」 中庭と校舎とをつなぐ入り口に、先程まで隣に座っていた姿が現れた。 「英要!」 フルネームを、その場で叫ばれる。 思わず背筋が伸びた。 「お前っ」 怒鳴りつけるような声が、急に萎んだ。 ぼそぼそと口元が動いたように見えたけれど、声は要の元までは届かなかった。 意を決したかのように、勝利は毅然と顔をあげた。 「お前、俺と友達になれよ!」 中庭に、絶叫が響いた。 耳まで真っ赤になった勝利が、肩で息をしている。 まばたきも忘れて、要はクラスメイトを見つめていた。 急に視界がぼやけた。 「ってかさ、もうそうだよな!」 照れ隠しのように、勝利が大声で言った。 糸の切れた人形のように、要はぎこちなく頷いた。 はにかむように笑って、勝利はまた明日な、と叫んだ。 なにやってんだよ、早く来いよー。遠くから、焦れたような声が飛んできて、勝利はそちらに駆け出した。
中庭にひとり残された要はというと。 驚いて立ち上がれずにいた。 溢れるほどではなかったけれども、ずいぶんと目が潤んでいた。 どうしよう。 びっくりした。―――うれしかった。 気恥ずかしくもあるけれど。 思わず笑ってしまった。
友達なんて、と思っていた。 おもて側だけ仲良く出来ても、仕方ない。 身のうちに抱えた闇や、あっけらかんと人に話すことが出来ない過去が、ある日突然溢れ出したときに、どれほどの人間が残ってくれるだろうかと。 怯えていた。 びっくりして早くなった動悸を押さえるように、深く、呼吸をひとつ。 普通ではないということを、治っても痛み続ける傷のように抱えているけれど。 諦めなくっても、多分、いいんだ。 ほっと、胸を撫で下ろしている自分に、要は遅れて気がついた。
*
「ええと、まずはお友達から!」 「……それ以上になるつもりは僕にはないけれど」 「そんなつれないことは言わずに。友達の上は親友だったりするじゃんか」 「よく分からないな。僕は随分と君に、酷いことを言ったつもりだけど」 「過去は水にすべて流しました。あるのは今だけなのです」 その奇妙な取り合わせに、端から見ている要はハラハラしている。 下校途中だった。たまたま玄関で一緒になった要と都佳沙が並んで歩いているところに、後ろから勝利が突っ込んできたかたちだった。 辛辣な都佳沙の態度に、勝利はめげる素振りはない。 「友達の友達は友達、で。いいじゃないですか」 都佳沙は渋い顔をして、新人類でも見るかのような目で勝利を見た。 「一週間も眠っていて、どこかおかしくなったのかな。大丈夫?」 「おかしくなったかもね」 へらりと笑って、受け流す。 付き合っていられない、とばかりに都佳沙は大袈裟に溜息を落とした。 「都佳沙くんって呼んでもいい?」 尚も食い下がる子犬のような男に、都佳沙は早々に白旗を揚げた。 「好きにしたらいいよ」 「俺は全然、こないだのことは気にしてないですよ。都佳沙クン、要のことが心配だっただけだろうから」 「え?」 にやにやと、からかう口調の勝利。突然現れた自分の名前に、要がきょとんとふたりを見比べた。 きっと都佳沙が勝利を睨んだ。 「神田くん……」 「いやだな、勝利でいいってば」 都佳沙は、思いっきり脱力した。 「神田くん」 律儀にまだ苗字で呼びながら、都佳沙は疲れた顔で言った。 「僕は君にあまりやさしく出来ないかもしれないよ」 「へ?」 「……苦手な人に、君のそのノリが似てるんだ」 憎々しげに吐き出す言葉に、勝利はクエスチョンマークを頭に浮かべ、要は都佳沙の苦手とする叔父の姿を思い起こした。 ちいさく、要は吹き出した。 なるほど。言われてみればそうかもしれない。 くすくす笑う要に、都佳沙は不本意そうに視線を逸らし、勝利はクエスチョンマークを増やした。
*
「ってなことを、思い出したわけだ」 「それ、いつの話かな」 ファミレスの席に収まった勝利が、懐かしそうに言った。 その場から激しく浮いている違和感の塊が、冷静に突っ込みを入れる。 「ええと」 指折り数える素振りをしたあと、「三年前かな!」と勝利が言う。 全くファミレスが似合わない人間が、へぇ、とあまり感心したふうもなく相槌をうった。 「ほんっと、昔の都佳沙ちゃんったらつれなかったわよ」 「そうかな」 「”そうかな”!? ちょっと、聞いた!?」 勝利は隣に同意を求める。 「勝利、うるさい」 隣に収まった友人から反撃をくらって、勝利はテーブルに突っ伏した。 「要ちゃんは、時を経るごとにつめたくなっていくのであります」 べったり頬を押し付けて、勝利が嘆く。要が不快そうに顔をしかめた。 「要はそれが愛情表現だから」 「ああ!」 コーヒーを口元に運びながら、都佳沙があっさりとそんなことを言う。 がばりと勝利は体を起こした。得心がいった顔をしている。 「やっぱり? そうじゃないかって思ってたんだよね俺は!」 「なんだ、勝利は気づいてなかったんだ?」 「気づいてたよ! 気づいてましたとも!」 「愛情表現とか、変なこと言わないでよ」 どんなに鈍感な人間でも、からかって遊ばれているということはわかる。 不本意、という文字を背負って、憮然と要は立ち向かった。 「一馬さんぐらいに毒舌を言われるようになったら、一人前だね」 「アー……じゃあ、俺もっと親友として頑張らんといかんのか」 がんばろ、と勝利は訳のわからない気合を入れている。 「都佳沙……」 恨みがましく、要は向かいの席をにらむ。 「気をゆるしている証拠なんだから、いいんじゃないの?」 あくまで都佳沙は涼しげだった。 「そうそう。都佳沙っちの雅さんに対する姿勢も大概なんだから、おまえ、気にすることないよ」 それはフォローなのだろうか。横から口を突っ込む勝利に、要は首を傾げる。 なぐさめにはなっていない。 「僕が? なんだって? よく聞こえなかったな」 聞こえていないはずがない。 「いーえ、なんでも」 状況の悪化を察知して、勝利がとぼけた。
「さてとー、俺はちょっと出かけるところがあるのでぇー」 テーブルに両手をついて、勝利が立ち上がった。 「これから?」 もう夕暮れ時だ。 「ちょっとね、秘密の逢瀬をネ」 意味深につぶやいて、勝利は席を立った。 補習がえりの高校生は、健全に黄昏時で散会することになる。
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【続く】
2005年06月09日(木) |
夢喰い 【イレギュラー】 第十九話 |
【第十九話】
重い。 急に、狭い箱に押し込まれたような窮屈さを感じた。 目蓋の裏に、光がしみてくる。 先程まで感じていたあたたかい光ではなくて、人工の、痛みを伴うまぶしさだった。 先程までの、光? それって、なんだろう。 とてつもなく、眩しく美しい世界にいたような気がしたけれど。 もう思い出せなかった。 体のうえに煌々とかがやく光が、徐々に徐々に、目蓋の裏に浸透してくる。 縫い付けられたかのようにしっかりと閉じたそれを、ゆっくりと、開いた。 「いっ―――てぇ」 うすく開いたとたんに、蛍光灯の光は我れ先にと瞳に飛び込んできた。 瞳孔が、急激な光の増量に勢いよく収縮して、痛い。 もう一度きつく、目を閉じた。 「神田くん?」 すぐそばで声が聞こえた。 そろそろともう一度双眸をひらく。 ぼんやりとぼやけた視界に、人影が映った。 「だいじょうぶ?」 大きな瞳が、悲壮なほどの不安をたたえて覗き込んでいるのがみえた。 あれ、俺、どうしたんだっけ。 次第に眩しさに慣れた視界が映し出すのは、紛れもない自室だった。 そしてベッドの傍らには、心配を体中であらわしている転校生がいる。 「……英?」 思わず名前を呼んだ。 どうしてここにいるんだ? 体を起こそうとしたのだけれど、うまく出来なかった。 骨がすべて抜かれてしまったかのように、体の自由が効かない。 「よかった」 全身の緊張を解くかのように、大きな吐息をひとつ、要はこぼした。 転校生の向こう側に、見たことのない男がひとり立っていた。 濡れ羽色、というのだったか。艶のある黒髪の、二十歳ほどの男だった。 初めて見るはずなのに、何故かなつかしいと、感じた。 既視感? それとも少し違うような気がする。 「無理して体を起こさないほうがいい」 おだやかな声が、制した。 「一週間も寝ていたら、すぐには動けないだろうから」 「一週、間?」 声はがらがらと掠れてひどいものだった。 一週間眠っていたといわれたら、それも仕方のないことかもしれない。 「よかったね、おかえり」 黒髪のひとが、そう言った。 妙に安堵した。 がっしゃん、と陶器が割れるような音が聞こえた。 音の方へ首を傾けると、部屋の入り口に、母親が突っ立っていた。 ばけものでも見たかのように目を見開いて、棒のように立ち尽くしている。 足元には、落下した盆と、割れたグラスと、麦茶の海があった。 瞳をうるませて、広がる海をまたぎこえて、室内につかつかと入ってきた彼女が。 「ばかものっ」 怒鳴って、勝利の脳天を拳骨で殴りつけた。 「いってぇ、何するんだよ!」 「何するんだよ、じゃないよ! いきなりぶっ倒れたと思ったらなんだい、一週間もウンともスンとも……」 みるみるうちに、怒鳴り散らす彼女の目に涙が浮かんだ。 声がつまった様子で、それ以上は何も言わない代わりに、もう一度勝利の頭をはたいた。 「これっきりになるんじゃないかと……」 蚊の鳴くような声で、呟いて、母は息子から顔を背けた。 目元が光っていた。 「ごめん……」 母親の泣いている顔など、見たことがない。 咄嗟に、勝利は謝った。 「本当に、もう。寿命が縮んだよ、どうしてくれるんだい」 目頭を押さえる様子に、勝利は戸惑った。うろたえた。 「だから、ごめんってば」
親子のやりとりをまぶしそうに見守っている要の肩を、一馬は叩いた。 口元だけで、出よう、と伝える。 同居人の顔と、親子の姿を見比べてから、要はこっくりうなずいた。 音を立てないようにこっそりと、扉の前に広がる水溜りを避けて、ふたりは神田家をあとにした。
*
「……ありがとう」 しばらく無言で歩いているうち、要が主語もなく言った。 「たすけてくれて」 うん、と一馬は頷くだけで返事を返した。 「ごめんね」 シュンとして、要が続けた。 立ち止まる要に、一馬は振り返る。 「カズマが、その力使うの好きじゃないって、知ってたけど。僕、どうしても……」 「もう終わっただろ」 かわいそうなぐらい落ち込んでいる要に、笑いかける。 「終わったことは、もうどうしようもないから、いいんだよ」 うかがうように、要が上目遣いで同居人を見上げる。 「いいんだ」 押し切るようにくりかえせば、要がこっくりと頷いた。 「あとは、お前がどうにかしないと」 「え?」 「夢は俺が食べてしまったから、神田くんは何も覚えていないんだ。お前がちゃんと、説明してあげないと」 「あ」 たった今思い出した、というような顔をした。 「そっか、そうだね」 自分を納得させるように、何度か頷いて、毅然と顔を上げた。 「ちゃんと話すよ」 力強い目をしていた。 夢の中で、神田勝利が見せた眼差しにも似ていた。 意志の強い眼差し。 「帰るか」 促せば、要はかすかに笑って、しっかり頷いた。
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【続く】
2005年06月08日(水) |
夢喰い 【イレギュラー】 第十八話 |
【第十八話】
ぞっと、全身総毛立つような焦燥におそわれて、駆け出していた。 屋上の端までたどりついて、段差の向こう側を見下ろす。 地面は、まるで薄い膜に覆われてでもいるかのように、赤い水に浸されていた。 柵も金網もない屋上というのは、想像以上に恐怖を掻き立てる。 体を傾けたら落下する。体がそれを知っている。 逞しい人間の想像力が、落ちたあとを考える。 落下の衝撃だとか、人体がつぶれる様だとか。 だから身震いが来る。 「神田くん!」 もう一度、叫んだ。 「あー……まただ」 背後から、声が聞こえた。 振り返れば、悲壮な面持ちの中学生が立っている。 「何度やってもこう。戻ってきちゃうんだよね」 背筋を、つめたいものが落ちていった。 ざわついた胸の内側は、まだおさまらない。動悸だけが早い。 少年は、打ちのめされたようにうな垂れた。 「驚かさないでくれよ」 心底安堵して悪態をつけば、少年がかすかに笑って、「ごめん」と呟いた。 「俺、ここから出られないのかな? やっぱ、卑怯者だから」 「卑怯?」 「英のこと」 重そうに首を持ち上げて、勝利は一馬を見た。 「全然そんなつもりなかったんだ。慶太に言われるまで気がつかなかった。俺、あいつのこと身代わりにしてた。英のことを助けたら、高幡のことがチャラになるような気がしてたんだ。どっかで」 自分のしてたことは、間違っていなかった。 高幡を追い詰めたのは自分ではない。 確かな証拠がほしかったのだ。 同じ行いをして成功をしたら、プラマイゼロに。無にもどるような気がしていた。 無意識のうちに。 「ほっとけなかったのは本当だよ。クラスの雰囲気もいやだったし、今までふつうに転校生に接してたのに、雑誌が出てきた途端よそよそしくなるのも馬鹿馬鹿しいと思ったし、でも……どっかにずっと、高幡のことが引っかかってた」 今度こそ、って。 思ったこともあった。 「ひとりひとり、感じ方が違うってこと、知らなかったからさ。俺は昔、乗り越えたことがあったから、どうとでもなるって思ってたんだ。高幡のときに、それで追い詰められる人間がいるってことも、分かったはずなのに、また同じことしようとしてた」 自己満足の道具にしようとしていた。 傷口を塞ぐバンソウコウにしようと。 「英も、しんどかったかな」 勝利は乱暴に髪を掻き乱した。 「要はね、神田くん」 小さい子どもに言い聞かせるようにゆっくりと、呼んだ。 「要は、うれしかったって言ってたよ」 うすい、涙の膜に覆われた瞳を、勝利は一馬に向けた。 いぶかしむ表情だった。 耳触りのよい慰めやごまかしに聞こえただろうか。 「その、高幡くんの話を耳に挟んで、驚いたんだって。どうしていいか分からなくなって、結局君を避けてしまったって、悔やんでたよ」 複雑そうに、勝利が顔をゆがめた。 「いいことを教えてあげようか」 いまいち素直に受け止められない少年に、秘密を打ち明けるように話し掛けた。 「君を助けてほしいって、要が俺に頼んだんだよ」 勝利は不思議そうな顔をした。 「俺にはこんなふうに、人の意識に邪魔をする力があって、普段はそれを使わないようにしてるんだ。だけど、あいつがどうしてもって」 「英が?」 「あの子が俺に頼み事をしてきたのは、これが初めてだよ」 それがどれだけ、重要なことなのか、君にはわかるかな。 「百人いれば百人、受け止め方が違うってことを君が知ってるんだったら、理解できるだろ。高幡くんには重みになったかもしれないけど、要には違ったんだ」 のしかからずに、ちゃんと、支えになっていたんだから。 「だから君は何も、おそれる必要はないよ」 戸惑ったように、勝利が一馬から視線をはずした。 たった今与えられた事実を、どうやって受け止めようか、困っている様子だった。 「友達に」 そこで言葉を切ったら、促されるように勝利が顔を上げた。 目元がわずかに赤らんでいた。 不安そうに、見つめる瞳だ。 「君と友達になりたいんだって」 そのときだ。 表面張力がとうとう崩れて、目のふちから雫が零れて落ちた。 うん、と掠れた声でうなずいた。 次々、顎に向かって流れる水を、手の甲で拭った。 「俺も……」
そう、なれたら。 いい。
「戻りたい」 濡れた声が、喘ぐように言った。 「俺、戻りたいよ。どうしたらいい?」 ぐっと腕で涙をぬぐって、毅然と勝利は顔をあげた。 強い意志の瞳が、そこにあった。 これがきっと、本来の顔なんだろうな。憂えているよりも、よっぽど似合っている。 ああもう。 もう大丈夫か。 勝利の肩越し、後方を眺めて、一馬は吐息をひとつ、零した。 「ここは君の夢の中だからね。君が心底望んだことは、叶えられるよ」 一馬が自分の肩の向こう側を眺めているのに、つられるようにして勝利も振り返った。 鉛色の空に切れ間が出来て、一条、光が落ちてきていた。 きらきらと、その光に照らし出されて、硝子のようなものが輝いていた。 一定の段差で上方へ向かっている。硝子の板。 支えも骨組もないのに、まるで階段の如くに。 その十数段の階段の先に、扉が浮いていた。 「すげ……」 御伽噺のような、きらきらした情景がそこに広がっていた。 魔法のようにうつくしい。 光が目にしみて、せっかく止まった涙がまた、こぼれそうだった。 こんな非現実的な、こんな漫画じみた光景に、満たされる。 出口だと、誰が示してくれたわけでもないけれど、確信があった。 光の先が、帰る場所だ。
よろめくように、硝子の階段に歩み寄った。 一段目に足をかける。壊れたりはしない。大丈夫だ。 足早に数段のぼってから、勝利は振り返った。 夢への侵入者は、相変わらずそこに佇んでいた。 「ありがとう!」 声を張り上げて、叫んだ。 一馬は軽く、右手を挙げて応えた。 階段の先にあるドアに、勝利が手をかけた。 途端、鉛色の空が崩れ、雨のように降ってきた。 雲が割けて、目もくらむ光が、其処此処に降る。 硬く冷たいコンクリートが、光の触れた場所から溶け出した。 光に、すべて飲まれてゆく。 美しい世界だった。
ギブアンドテイクなんだよ。 涙が出そうなほど美しい世界。建物はすべて失われ、後はただ、目を灼くほどの眩しさに包まれてゆく。 満たされるのを感じる。 目が覚めたら君は、こんなあたたかい光も覚えていないだろう。 礼を言われるのは筋違いだな。 魔物にこんな、綺麗なものをあたえたら、駄目だよ。 自分の体すら、光の中に溶け込む錯覚に、一馬は自嘲した。
夢が、溶ける。 指先の感覚までうしなわれる。 あとは真っ白な、光の中へ。
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【続く】
2005年06月07日(火) |
夢喰い 【イレギュラー】 第十七話 |
【第十七話】
指し示されるままに、一馬は振り返った。 息を飲む。 一歩後ろは、断崖絶壁だった。 まるで大地震でもあったかのように、ビルの壁がくずれてしまっている。下の階までも大分距離があり、とても飛び降りることは出来そうに無かった。 「降りられないんだよ。どうやってここにのぼったかも覚えてない」 少年が歩み寄ってきて、一馬の横から絶壁を覗き込んだ。 「帰り道がない、ってさ」 しゃがみこむように地上を見下ろして、ぽつりと勝利が呟いた。 「すげ、怖いことなんだな」 膝をかかえこんで、崩れた退路を見下ろしている。 「俺、ここに来て、どのぐらい経ってんのかな」 自由奔放な黒髪が、絶壁から吹き上がってくる風に揺れる。 「一週間ぐらいかな」 律儀に、一馬は答えた。 「うわ、マジで? 皆勤賞目指してたのに」 最悪だ、とはいうものの、そこまでショックを受けた口ぶりには聞こえなかった。 「それで、お兄さんは? 迷子?」 首だけを持ち上げて、勝利は一馬を見上げる。 「君に会いに来たんだ」 正直に答えた。「要に頼まれてね」 勝利は目を瞠る。 「英? お兄さん、英の知り合いなの?」 「今、一緒に暮らしてる」 「家族とかじゃなくて?」 「あいつは今、家族と離れて暮らしてる」 「”神の子”だから?」 口走って、勝利は慌てて顔をそむけた。 思わず飛び出した単語に、彼自身、驚いたようだった。 「そうだよ」 簡単に、一馬は肯定した。 勝利の体に緊張が走る。 「君たちが見た週刊誌の内容は、大体が本当のことだよ。信じられないだろうけどね」 無情に、突き放しているつもりだった。 「もし君が、そのことで少しでも嫌悪感を抱くんだったら、無理はしないでくれ」 無理をして、触れ合おうとはしないでくれ。 無理はゆがみを生む。今、この現状のように。 膿み、いずれ腐るだろう。 「君のために頼んでいるわけじゃない。要のためなんだ」 一度得た温度が離れる孤独は、辛い。 それが、生まれ持ってしまった力のせいだとしたら、やりきれないだろう。 「興味本位とか、正義感じゃないって」 崩壊した床をぼんやりと眺めて、勝利が口を開く。 「好奇心なんかじゃないって、思ってた」 屈伸した膝をのばすように、勝利は立ち上がる。 ひらりと体を翻して、屋上のはしの方へ歩いてゆく。 「英のことも、高幡の―――ことも。面白がるつもりなんて、全然なかったんだよ。でも……」 淵から、勝利は地上を見下ろした。 はるか下方に、赤黒い水面が広がっている。コンクリートを、うすく覆っていた。 「知らなかったんだもんな、俺。帰れなくなるってことがどういうことか。こんなふうに、身動き取れなくなるのがどんなことなのか、分かってないのに、分かった顔してたんだ」 知らないということは、最も残酷な罪だ。 すがすがしい顔をして笑っていられる。 力づよく励ますことが出来る。 崩れそうな肩を平気で叩き、傷口に指を突っ込む。 知らないから、痛みにも鈍感だ。 知識で知るのと体で知るのとは、意味が全く違う。 指を切ってみるまで包丁の本当の恐ろしさが分からないのと同じ。 清らな顔には、自分でも気づかないような優越が滲んでいたんじゃないだろうか。 「俺、かな」 身を乗り出して、眼下の赤い海を見下ろす。 底知れぬ、深さに見えた。 とろみを持っているような、濃い赤だ。 「俺が、高幡の帰り道、ぶち壊したのかな」 引きつるように、口元が持ち上がった。 笑ってしまった。
引き返すための階段を。 現世につなぎとめる手を、無邪気な顔をして払ったんだろうか。 きれいごとで。 「怖いよ」 赤い海が滲んだ。声が揺れる。 咽喉が鳴った。 「帰りたくっても下りられないんだ。頭が変になりそうだよ。高幡も、こんな気持ちだったのかな。俺、全然知らなかった」 段差に足をかけ、勝利は屋上のへりにのぼった。 肩越しに、一馬を振り返る。 涙をたたえた瞳のあやうさに、一馬は息を飲んだ。 しかし、駆け寄ることも出来なかった。 「だって、普通にこっから下りられないんだったらさ」 ふっと、勝利は微かに笑った。 「だったら、こうするしかないじゃんか」 甲高い悲鳴のように、風が鳴った。 それにあおられるように、少年の体が大きく向こう側へ傾ぐ。 「神田くん!」 絶叫が風に巻き上げられる。 あまりにあっけなく、少年の体は、空の向こうへと消えた。
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【続く】
2005年06月06日(月) |
夢喰い 【イレギュラー】 第十六話 |
【第十六話】
「弟から話を聞いて、まさか勝利くんがそんなことになってるなんて思わなくて」 憂いを帯びた表情で、溜息をついてみせる。 半歩ほど後ろに控えていた要は、相変わらずの同居人の開き直りっぷりに半ば感心し、半ばあきれていた。 神田勝利とは面識もなく、彼に対する予備知識もほとんどないにも関わらず、随分と親しそうな素振りが出来るものだ。
翌日、要は放課後と同時に家に飛んで帰り、一馬を伴って再び一竜を訪れた。 道すがら、やはりあまり乗り気ではない同居人に、一抹の不安すら抱いていた。 勝利に会うためには家の中に入れてもらう必要があり、怪しまれないためには多少の嘘も必要だったのだ。 要は、勝利の母親を前にして、罪悪感に蝕まれているというのに、目の前の男には微塵もそれが感じられない。 たいしたものだと思うし、反面恐ろしいとも感じる。 「英くんのお兄さんなの。わざわざすみません」 勝利の母が深々と頭を下げる。 「その後、経過はどうなんでしょうか」 憂えた一馬の声に、勝利の母は苦そうに笑って、首を横に振った。 「ぴくりとも動かなくって」 「あんなに快活な子が……ひどいですね」 「家が静かになっちゃって」 笑おうとして、彼女は失敗していた。思わず目頭を押さえる。 「こいつが」 一馬の手が、要の頭に乗せられる。 突然のことに、状況が飲み込めず、要は息を飲んだ。 「随分勝利くんによくしてもらっていたみたいだから、やりきれなくって」 左右の目頭を押さえたあと、再び母親は来客に微笑みかけた。 「いつまでも玄関先でごめんなさいね、あがっていって。私はまだ店があるけど、気にしないでね」
「なんていうか……すごいね」 考えた末に、要はそれだけを言った。 褒めているわけではなかった。 先に階段を上っている相手にも、それは十分伝わった様子で。 「……仕方ないじゃないか」 と、溜息が返ってきた。 「怪しまれるのは困るだろう」 それにしたって、肝が据わりすぎだ、と要は思う。 おそろしさすら感じてしまう。 「あまり、気分のいいものではないけどな」 どんな理由があるにせよ、嘘をついているということには変わりはないのだ。 うん、と要は小さくうなずいて返した。
突き当たりの扉を開いたのは、要だった。 昨日訪れたばかりの部屋は、全く何ひとつ変わらない姿のままで、目の前に広がっている。 机の上で開かれたままの教科書も、積み上げられたままの書籍も。 窓際に寄せられたベッドも、その内側で眠る少年も、何ひとつとして変わってはいなかった。 一馬は、ベッドの傍らに歩み寄った。 少年らしさを残した面立ちが、今は微動だにせずに深い寝息を立てている。 枕もとにしゃがみこんで、一馬は、初対面の少年を覗き込んだ。 項のあたりに視線を感じる。見守っている、というよりも祈っているに近い。 気がつかないふりをした。 右腕を持ち上げて、自分と少年との間にかざしてみる。 指の隙間から、生気にとぼしい顔が垣間見えた。 魔の棲むこの右手を、少年の額に押し当てるだけだ。たったそれだけのことに、踏み切れずにいる。 内側からゆさぶり、揺り起こす。覚醒させるといえば聞こえはいいけれど。 不法侵入には違いがない。あまつさえ、糧をせしめるのだ。 そうして永らえるあさましい生き様を、赦せたためしは一度もない。 背中にちりちりと突き刺さる視線が、責めているようだ。ためらうことを。 錐で穴を空けるような。虫眼鏡で紙を焦がすような。熱っぽく、痛みを伴う視線を確かに感じている。 ごめんね、と小さく呟いた。 君を喰らう所業を、どうか見逃してほしい。 掲げた右の掌を、一馬は、勝利の額に押し当てた。
一瞬で、触れた肌と肌とが境界をうしなった。 ぬるりとすべるように融ける。 熱を持った皮膚がうしなわれ、周囲の景色が重みとろみを持った液体のようにぐずぐずと崩れる。 だらだらと、滴る血液のように。 腐り果てた肉のように、上から下へ、色をなくして崩れた。 世界が壊れる錯覚。 何度味わっても、慣れるということを知らない。 これが、乱暴に境界を越える、ということ。 ひとが誰でも持っている、他者と自分とをくぎる線を、大股で跨ぎ越す犬畜生のような所業。 くずれてゆく”壁”に、思わず目を閉じた。 どれぐらいそうしていたのか、分からなくなった頃、頬に風を感じた。 閉ざした目蓋のおもてから、光がしみてくる。 ひょう、と風が耳元で鳴いた。随分、荒れて吹いている。
しみこむ光に促されるように、目蓋をひらく。 灰色の世界が広がっていた。 足元も、四方も、無機質なコンクリートに取り囲まれている。 ずいぶんと、高いところのようだった。 周囲に建物はみえない。くすんだ空がどこまでも広がっている。 ビルの屋上か。 それ以外には見えなかった。 がらんと、何もないまっ平な人工の地平が足元に広がっている。 耳障りなほど、風が鳴る。女の、苦悶の声のようにも聞こえた。 屋上の果ては、階段一段分ぐらい高くなっているだけで、柵などは無かった。 唐突に、一馬は、屋上の縁に座り込む人影を発見した。 柵や金網の無い際から、地上を覗き込んでいるように見える。 制服を着ていた。見慣れたものだ。修恵学園中等部の。 胡座をかくようにして座っていた少年が、肩越しにふりかえった。 黒髪が四方に跳ねている。顔つきは、悪戯好きで活発な少年のようだ。しかし、髪と同じ色の瞳は、利発そうだった。 取り立てて美麗であったり端麗であったりはしないけれど、人懐こい顔立ちに見える。 驚いたように、少年は目を瞠った。 「……誰?」 不自然な体勢に体を捻ったまま、勝利が問うた。 「どうやってここに来たんだ? お兄さんも出られなくなった?」 「出られなくなったのか?」 一馬は問い返した。 勝利は何度かまばたきをしたあと、コンクリートに片手をついて、立ち上がった。 「だって、階段が」 あらためて向き直って、勝利は一馬の後方を指差した。
「階段がどこにもないんだ」
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【続く】
2005年06月05日(日) |
夢喰い 【イレギュラー】 第十五話 |
【第十五話】
「どうしたんだ?」 一馬は聞き返した。 玄関先でぽつねんと立ち尽くしている要は、瞳にいっぱいの涙を溜めている。 振り返って、向き直る。 きらきらと、光を跳ね返す水っぽい目で、一馬を見つめている。 数歩遠ざかった距離を詰めるように、再び玄関先まで引き返した。 唇をかみしめるようにして、要は何かに耐えている。 ニ三度まばたくと、雫が頬に伝って落ちた。 「助けてほしい、ひとがいるんだ」 嗚咽に妨害されて、時折声が途切れる。 右手の甲で、要は目元を拭う。 細い肩がふるえていた。 「神田君、がさ。一週間も目が覚めないんだって。カズマだったら、なんとか出来ない?」 返事はできなかった。 状況が飲み込めていない、ということもある。 が、何よりも、自分が所持している「力」を使うことへの抵抗が大きかった。 「要―――」 「カズマが、自分の力が嫌いなのは、分かってるけど」 なだめすかそうとすると、すぐさま切り返された。 真剣な、縋るような強さを、大きな瞳がたたえている。 「このままじゃ、嫌だ……」 かくん、と糸が切れた人形のように、要がうな垂れた。 ぽつり、と一滴、重力に引きずられて涙が落ちた。 「僕、もっと、いろいろ……話したいことが……」 拳を目に押し当てて、要が肩を震わせてしゃくりあげた。 「あがって」 根が生えたかのように動かない要に、声をかけた。 「話を聞くよ」
*
音も立てずに、灰皿に置いた煙草の先から灰がおちる。 吸いもせずに短くなったそれを、あきらめてもみ消した。 とつとつと、要が現状を説明した。 それと同時に、一馬の期待も裏切られることになる。 もしかしたら、身体的な理由で眠りつづけているのかもしれない、という期待があった。 だとしたら、自分が介入できる領域は越えている。 それならばいいと、そうあってほしいと、思っていたのだけれど。 どうやら、うまくことは運んでくれないようだ。
「しんどいものがあったなら、言えよ」 話を聞き終えて、とりあえず、告げた。 要はソファーに沈んで、俯いたまま黙っている。 容易くはないということなど、分かっている。 胸のうちに抱えた重みを、あっけらかんとひとに晒すことなんて、出来はしない。 特に、目の前の少年はそうだ。 他人に重みを預けることが苦手だ。 いい子であろうとする分だけ、心配をかけないように口を閉ざす。 目を配っているつもりだったけれど、さすがに学校の内側までは見透かせない。
おまえ、気づけよ。 押し殺したような低い声が、耳元に蘇った。 要が学校を休んだ朝のことだ。 何事もないかのように居間に下りてきた少年の口から、批難を浴びせられたのだ。
―――ヒカリ、か。 近頃は現れていなかった。 剣呑な気配に、思わず身構える。何が飛んでくるか分からなかった。 ―――何かあるのか。最近様子がおかしいとは思ってたけど。 問えば、さらにきつく睨み返される。 気配を察してるんなら、もっと突っ込んで聞けよ。 要が自分から、ホイホイ喋れるような奴じゃないって、知ってるんだったら。 無理矢理にでも踏み込めよ。そうしないと、何も言わないだろ。 お前が考えているよりも、状況は深刻だぞ。 要には言わなかったが、あの朝、そんなふうに叱られていたのだった。
確かに、想像していた以上に状況は深刻だった。 まさか、当時の週刊誌が校内で出回っていたことまで、考えつかなかった。 「悪かった。全然気がつかなかったよ」 謝罪に、要はゆるく首を横に振って答える。 しばらく、沈黙が降りた。 バスタオルを頭からかぶったまま、要はうな垂れている。 飲み物でも用意しようかと、一馬が腰をあげると。 「うれしかったんだ」 ぽつりと、か細いつぶやきが落ちた。 「神田くんに声かけてもらって、うれしかった。だから、身代わりにされてるんじゃないかって思ったときは、ショックで……だから無視しちゃって」 堤防が決壊したあとは、言葉が溢れてとまらなかった。 頭からかぶったバスタオルが視野をさえぎっているからかもしれない。 「ちゃんと謝って、さ。もっと、色々話がしたいんだ」 体を小さくたたむように、要が、ソファーにのせた膝に額を押し付けた。 「……に」 くぐもって、声は聞こえづらかった。 「友達に、なりたいんだ」 膝を抱く腕に、力を込める。 一馬は黙り込んだ。 「お願い……」 か細い声が、続いた。 お願い、だなんて言葉を、この少年の口から聞いたことなんてほとんどない。特にこの家で暮らすようになってからは、皆無かもしれなかった。 かわいそうなぐらい、体を小さく畳んでいる少年に近づいて、一馬はその肩に手を置いた。 驚いたのか、その肩が大袈裟にふるえる。 夏服であるシャツは、水を吸ったのか、生ぬるかった。 「とりあえず、今日はちゃんと体をあっためて寝なさい」 弾かれたように、要が膝から顔を上げた。 おざなりに、うやむやに流されると思ったのかもしれない。 勢いをつけて顔を上げたからか、頭に乗せていたバスタオルが肩に落ちる。 「今日はもう遅いだろ。明日にしよう」 「……助けてくれる?」 この手を離されたら、深い水の底に沈んでしまうかのようだ。最後の砦を必死に守ろうと、要は縋った。 「明日、その子に会ってみようか」 絶望に沈んでいた要の瞳に、光明がさしたようだった。 驚きに瞠った瞳に、確かに生気が戻っている。 「……ありがとう」 全身を強張らせていた緊張が、大きな吐息と共に抜けてゆくのが分かった。 「お前が風邪を引いたら元も子もないんだから。早くしないと体が冷える」 促せば、恐々と要は折りたたんだ体をひろげるようにして、ソファーから立ち上がった。 ぺたぺたとフローリングを踏んで、居間の外に消えた。 足音は、そのまま浴室のほうへ向かってゆく。
テーブルの上に無造作に投げ出してあった煙草の箱から、一本引きずり出して、唇にはさむ。 行方不明のライターをおざなりに探しながらも、思考の大部分は先程のやりとりのことで占められていた。 これでおそらくは、受諾したことになるんだろう。 会ってみようか、と要には言ってみたものの、一馬はまだ割り切れずにいた。 生まれ持った力を行使するのには躊躇いがある。 しかし、要があんなことを言い出したのは初めてだ。 友達になりたい、なんて。 彼が振り絞るように口にするぐらいだから、よっぽど強い思いなのだろう。 それを察してしまったら、振り払うことが出来なかった。 結局、自分は要に甘いのだと、自覚しなおしてようやく、ライターを探り当てた。 一口深く吸い込むころには、雨音ではない水音が、浴室のほうから聞こえてきた。
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【続く】
2005年06月04日(土) |
夢喰い 【イレギュラー】 第十四話 |
【第十四話】
すっかりと、日は落ちてしまっていた。 駅の裏手側、料理屋などが並ぶ界隈は、内側から漏れてくる明かりでかがやいている。 駅を越えてこちら側に来ることはほとんどない。見慣れぬ景色に、全身が戸惑っているのが分かる。 なれた場所なら、ひとりで歩き回っても何ともないけれど、やはり見知らぬ場所は緊張するのだ。新しく暮らし始めた家のまわりや、同居人の事務所の傍などには顔見知りもいるし、たとえ夜にひとりで出歩いても孤独だとは思わないけれど。 寄る辺もなく、完全に孤立無援だと思うと、胃のあたりが重くなる。 乗り越えなければいけない病だ。いつかは、きっと。
電柱に記された番地をたどり、要は一軒の店の前に出た。 引き戸の上に、紺の暖簾がかかっている。 暖簾のさらに上には、木で作られた看板が掲げてあった。 一竜、と。 神田勝利の家は蕎麦屋だと小耳に挟んだことがあったから、おそらくここがそうなのだろう。 ここまで来たのはいいんだけど、どうしようもないよね。 片手に下げた鞄が重い。 ほんのり明るい光が、店の内側から漏れてきて、黒いアスファルトを照らし出している。 随分と突っ立ったままでいた。 湿度の高い風は、肌に張り付くように生ぬるい。 こうしていても仕方がない。神田勝利の家を確かめたところで、自分に何が出来るわけでもなかった。 踵を返そうとしたところで、引き戸がひらく、からりとした音に立ち止まる。 開いた扉から、眩しいぐらいに白い割烹着を着た四十がらみの女の人が出てくるところだった。 目が合ってしまった。 「あら」 恰幅のいい女の人が、目を丸くした。 まるで金縛りに遭ってしまったかのように、要は動けなかった。 割烹着姿のひとは、疲れたように笑った。 「勝利のおともだち?」 足がすくんで、動けなかった。 「円藤くんに、聞いて」 それほど道幅の広くない道路をはさんで、少し遠くから要は言った。 「慶太くんに? まぁ、わざわざ悪いわねぇ」 口元に手をあててすこしだけ笑うと、彼女はひらひらと要を手招きした。 魔法にでもかかったかのように、要は一竜の入り口に、ふらふらと歩み寄った。 「せっかく来てくれたんだし、入っていかない? それとも、もう遅いかしら」 「あの、……いいんですか?」 おともだち、というほど仲がよいわけではない。 うまく説明が出来ずにそれだけ言うと、勝利の母が笑う。 「全然構わないわよ。どうぞどうぞ」 手招かれるまま、要は勝利の母のうしろについていった。 店の扉からは戻らず、横道から店の裏側に回る。 建物の横っ腹に、店の入り口とは違う、明らかな家屋の玄関がある。かまぼこ板のような表札に、神田、と彫りこまれている。 横滑りの扉を開き、勝利の母は玄関に要を導きいれた。 明かりのついていない玄関は薄暗かった。すぐに、勝利の母が壁を弄るようにしてスイッチを入れる。 オレンジっぽい、ぬくもりのある光が一気に闇を消し去った。 目の前に、二階へと続く階段が現れた。 「階段を上って、突き当たりの部屋がそうだから。どうぞ。何か飲み物持っていくわね」 「あの、気にしないで下さい」 いいのよ、と身振りで示して、母親は玄関をあがってすぐの部屋に消えた。居間なのだろう。 ぽつんと玄関に取り残された要は、腹をくくって玄関にあがる。 目の前に聳え立つ階段に、足をかけた。 ぎぃ、と軋む。 大分古い階段だった。 一歩進むごとに耳障りな音を立てる。 二階部分の照明が消えているせいか、階段半ばからは再び闇に飲まれている。 暗い場所に踏み込んでゆく恐怖感に、胃がきゅっと絞られる心もちがした。 手すりを掴む手に力が入る。 犬が水を払うように首を振って、闇に進む恐怖を振り払った。 残り数段を勢いをつけて上った。 闇のわだかまる廊下の突き当たり。左手側にへばりついた扉のノブを握る。 掌に、冷たさが染みた。 回して、押し開いた。 扉の先も、また闇だった。 しかし、窓の隙間から零れ落ちてくる街灯の、青白い光が僅かに部屋の中を照らしている。 部屋の突き当たりに机がひとつ。雑誌やら教科書やらが雑多に重ねて置かれていた。 床にも、漫画などが積み重ねられ、雑然とはしていたが、荒れ果ててはいなかった。 窓際に寄せて、ベッドが置かれている。 そこにいた。 仰向けに、微動だにせずに、クラスメートは寝息を立てていた。 呼吸は深い。 ゆるやかに胸が上下しているが、それ以外の変化は全くなかった。身じろぎも、寝返りも。 死んだように、とはこのようなことを言うのかもしれない。 頭の隅で、要はそんなことを思った。 ドアのすぐ傍に、室内照明のスイッチはあっけなく見つかった。 指を伸ばして、躊躇って、やめる。 一週間も目覚めないというのだから、今更電気をつけたぐらいで起きだしたりはしないと思うが、眩しいのではないかな、と思ったのだ。 ベッドに近寄ることも出来ずに、戸口で立ち尽くしていると、階段を上ってくる足音。 「本当、どうしちゃったのかしらね」 疲れの滲んだ声が、背中にかかった。 先ほどまで頭に巻いていた三角巾を解いた、勝利の母が立っている。 「今までこんなこと、一度もなかったのにねぇ」 母親の顔にも、疲労が滲んでいた。目のあたりが落ち窪んでいるような気がする。 「いっつも騒がしい子なんだけど、その分悩みとか、全然人に言わない子だから」 母親が、照明のスイッチを入れる。 蛍光灯の鋭い光が、一瞬にして部屋を照らし出した。 眩しさに、要のほうが目を細めるが、ベッドの住人はその素振りすら見せなかった。 要の横をすり抜けて、勝利の母は室内に踏み入れる。 教科書が広げられたままの机に、持ってきた盆を置いた。 「お医者さんにも見てもらったんだけど、体に悪いところは全然ないっていうから」 要も、数歩踏み込んで、扉を閉めた。 さああ、と窓を叩く音に気づく。 雨が降り出したようだ。水滴が硝子を伝って、落ちてゆく。 「本当は、ずっと落ち込んでたみたいなのよ。高幡、くん? が亡くなってから。この間、慶太くんから聞くまで全然気がつかなくって」 寂しそうに、口元で笑う。 痛々しい笑顔を見ていられずに、要は勝利に視線を移した。 先程と何も変わらずに、そこにいる。 「あら、そうだ。そう言えばまだお名前聞いてなかったわよね」 「え?」 「同じクラス?」 「あ、ハイ。転校してきて……」 「ああ、君がそうなのね」 得心がいったように、母親が笑った。 自分について、勝利と彼の母がどんな会話をしていたのかは分からない。だが、勝利は家庭で要のことを話題にしたこともあったらしい。 なんだか、くすぐったい気持ちになる。 「いっつもドタバタ煩い子だけど」 勝利の母が、慈しむような目でベッドを見た。 「今は、いつもみたいに煩く騒いでくれたらいいのにって、思っちゃうのよね」 急に、錘を飲み込んだような気分になって、要は黙り込んだ。 何も言えなかった。
*
「遅かったじゃないか」 ただいま、と小声で告げると、同居人が出てきた。 うつむいたまま、要はうん、とだけ答えた。 普段はそこまで干渉をする人間ではないのだが、やはり平素と違って帰宅があまりにも遅すぎたからだろう。 「何かあったのか?」 怪訝そうに眉をひそめる。その顔も、要は見上げることが出来なかった。 霧雨が降っていて、しっとりと髪と服とが濡れている。 額から、じわりと水滴が鼻のほうへ流れてきた。 「ちょっと、色々」 か細い声で、それだけ答える。 頭の中がぐちゃぐちゃと、まとまらなかった。 どの道を歩いて、勝利の家からここに戻ってきたのかも、よく覚えていない。 「やっぱり最近、おまえ、変だぞ」 伺うような声に、要はようやく咽喉を反らすように顔を上げた。 気遣うような眼差しと、目が合った。 「僕……」 何を言えばいいのか分からなくなって、口を噤んでしまう。 いたわりを込めた視線を受けてしまったら、急に泣きたくなってしまった。 心配を掛けたくないと思っているのに。 目のふちが熱くなった。水分が盛り上がるのを感じる。 「焦らなくていい。とりあえずあがって、風呂にでも入っておいで」 促すように、一馬が踵を返す。 「カズマ」 その背を―――呼び止めた。 肩越しに、一馬が振り返る。伺うように、僅かに首を傾げて見せた。 「お願い」 ふるえる声で言えば、相手は目を瞠る。 目のふちで盛り上がった水分が、目じりから頬に落ちた。 「助けてほしいんだ」
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【続く】
2005年06月03日(金) |
夢喰い 【イレギュラー】 第十三話 |
【第十三話】
がらん、と。 隣の席が空いている。 見晴らしが良かった。久しぶりに晴れた空が、よく見える。 要はぼんやりと、主のいない机を眺めていた。
結果的に学校を休んでしまった次の日、教室の扉を開くのは想像以上に気力のいる作業だった。 覚悟を決めて、後ろ側の扉を開く。 ざわめきが一瞬静まり、しばらくしてまた復活する。 吸い寄せられるように、自分の席のほうを見ていた。 大会が近いから、朝練が多いという陸上部員は、この時間にはもう来ているはずだった。 席は空だった。 担任は、元気で調子のいいクラスメートがいないのは、風邪をこじらせたからだと説明した。 それからもう、五日が過ぎている。 隣の席は、がらんと温度を失ったままだ。 クラスメートたちも次第に不審に思い始めていた。 風邪をこじらせたって、本当だろうか? それが嘘だからと言って、神田勝利が学校を休みつづける理由も分からず、クラス中が困惑していた。 神田君は今日もお休みで、と担任は言っていた。彼女自身、顔にありありと困惑を刻んでいるものだから世話は要らない。 よけい不安になる。 宿題、と急かす手がない。 自分から振り払ったくせに、むなしかった。
顔を覚えている程度の、他クラスの生徒に呼び出されたのは、昼休みのことだった。 身長は低いほうである要と、そう変わらない。眼鏡をかけている。 「隣のクラスの、円藤っていうんだけどさ、ちょっといい?」 彼の姿は、何度か体育館の舞台の上で見たことがある。 彼は陸上部で、幅跳びの都内有数の選手だった。優勝なり入賞なりの賞状を、全校生徒の前で授与されていたと思う。 勝利とも仲が良かった。 要はきょとんとまばたきをした。 何故、円藤に声を掛けられたのかが分からなかった。 「勝利のことなんだけど」 動きのにぶい要に、円藤慶太は少し声を低めて、つけくわえた。 「英に、教えておきたいことがあるんだ」 抵抗は出来なかった。勝利、という名前は有効な餌だった。何が起こったのか知りたくてたまらなかったのだから。
呼び出されたのは、中庭だった。 昼休みということもあって、たくさんの生徒が溢れている。その分、要たちに注意を払うものもなかった。 「あいつ、さ」 中央に据えられた池の横を通り過ぎ、円藤はどんどん校舎から離れる。 深い緑の葉を繁らせている桜の木の、下に設置されたベンチに腰掛けた。 「風邪じゃないんだってさ」 少し躊躇ってから、要は円藤の隣に腰を下ろす。 「眠ったまま、……目が覚めないんだって」 要は幾度か、まばたきを繰り返した。言葉が意味をむすぶまでに、すこし時間がかかった。 「風邪だっていうから、俺、家まで見舞いに行ったんだ。そしたらさ、おばさんがすげぇ気落ちした顔で出てきて。学校早退して帰り道の途中で倒れたんだって」 円藤は、膝の上に置いた腕の先で指をからめて、要のほうも見ずに続けた。 「倒れてたの、家の方向じゃなくってさ、高幡が飛び降りたビルの前だったって、いうんだ」 反射で、肩が震えたのをまるで他人事のように要は感じていた。 眼鏡の奥に憂いをたたえて、円藤が要をうかがうように見た。 「高幡のこと、知ってる?」 「自殺、したって。神田君が気に掛けてたって、ことは」 聞きかじった情報だけを伝えると、うん、と円藤がうなずいた。 「いじめられてたんだ。高幡千晶っていうんだけどさ」 再び、円藤はからめた指先に視線を落とした。 「勝利、話し掛けたり励ましたりしてたんだ。ここ、金持ちの学校だから、俺もあいつもふくめて庶民ってのは結構肩身がせまくって。勝利も昔、いじめみたいな目に遭っててさ。あいつはそれを克服したから、自信があったんじゃね? 立ち向かえば、解決できるって」 円藤は、皮肉めいた笑みを口元に浮かべている。 「けど、高幡はちがったんだ。勇気ふりしぼって抵抗したら、袋叩きに遭ってさ。そのあと、廃ビルに登って、飛び降りちまったんだ」 さらり、と風が流れた。 髪を撫でて過ぎてゆくそれは、水っぽかった。また雨が降るかもしれない。 「俺、あいつに酷いことしたかもしれない」 懺悔をするようにうな垂れて、円藤がつぶやいた。 「勝利は強いもんだと思ってたんだ。高幡が自殺してからあいつ、だいぶへこんでたけど、こんなだとは思わなかった。真っ向から色々言うんじゃなかった。気づかせちまったのかもしれない。あいつ、自分が傷ついてるってこと、分かってなかったんだ」 円藤の言葉は、ひとり言のようで分かり難かった。 彼も大分、参っているように思える。 「あいつ、多分本当にただ、ほっとけなかったんだと思う」 不意に顔を持ち上げて、円藤は要を見た。 「悪気とか、正義感とか全然関係なくて、黙ってられなかったんだ。そういうやつだよ。計算とか出来ないんだ。英にとっては余計な世話だったかもしれないけど、分かってやってよ」 返事が出来ずに、要はただ、円藤の顔を見つめ返す。 「悪いことした、って。言ってたよ。こないだ」 「僕、に?」 円藤はうなずいた。 「自分勝手なことした、って。英の気持ち考えてなかったって」 胸の内側で、言いようのない鈍い痛みが広がった。じりじりと咽喉を伝いせりあがって、目元を熱くさせる。 「これからあいつ、どうなっちゃうんだろ」 呟いて、円藤は沈黙した。
*
芯の強い人間だと思っていた。 授業を終えて、帰途を辿りながら、考える。 周囲の大多数に流されたりしないで、でも孤立しているわけでもなく朗らかだ。 柔軟で、凛としている。 強くて、揺らいだりしないもの。神田勝利は、そういう人間だと思っていた。 弱ったり、傷ついたりなんて想像できなかった。 (だけどそれって、おかしいよね) 彼もひとで、中学生で、たくさんの人間の中で生活しているんだったら、ただの一度も傷つかないなんて、あるはずがない。 住宅地につづく坂を、下る足取りは重い。 傷つかないなんて、ありえない。 今更気づいたことを、胸中でもう一度繰り返す。 (だったら僕も、ひどいことをした) あからさまに避けたりして。 そんなことをされて、いい気分がする人間なんていないってことは、分かっているはずなのに。 自分のその場の気分だけで行動するなんて、本当に子どもだ。 「謝りたいな」 転がり落ちた。 自分の、わがままを。 面と向かって言えたらいいのに。
―――眠ったまま、……目が覚めないんだって。 円藤の言葉を思い出す。 一体、どういうことなのだろう。
鉛のように重い空を見上げ、深く呼吸をした。 重い体を引きずるようにして坂を下り、いつもとは違う道を折れる。 住所を聞いただけではたどり着けないかもしれないけれど、とりあえず、その番地の方へ足を向ける。 どうしたんだろう、と自問した。 自分から行動することなんて、怖くて出来なかったはずなのに。 戸惑いながらも、体は勝手に動いていた。
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【続く】
2005年06月01日(水) |
夢喰い 【イレギュラー】 第十ニ話 |
【第十二話】
隣の席を何度うかがっても、結果は同じだ。 がらんと、空洞。 左腕の頬杖に顎を預けて、ちらりと隣を盗み見る。 誰もいない。 無人の机と椅子が一組、陣取っているだけだ。 目元をこすった。目蓋が腫れぼったい。だから、泣くのは嫌なのだ。 隣の席が無人である理由を、担任は、体調が悪いからだと簡潔に説明した。 本当にそうなのか? 疑問符が腹の内側で暴れまわる。 紛うことなく、体の不調なのだろうか。 勝利には、そうは思えなかった。 ぼんやりと、白い机のおもてを見ていると、油性のマジックペンで書かれた文字が浮かび上がってくるような気がした。
『キモイ』 『死ネ』 『高幡くんの命日は○月×日』
所狭しと書きなぐられた下世話な文字を前に、ぼんやりと立ち尽くす幻影まで見えた。 何か、別世界のものでも見るような、遠い目をして汚れきった机を見下ろしている。 (高幡、何でおまえ黙ってんだよ) 明るい、ぱりっとした声がその幻に語りかけた。 (嫌なことはちゃんと嫌だって、言えよな) いつのまにか、その幻の隣に自分が立っていた。今よりも少しばかり背の低い、半年前の自分。 すがすがしい顔をしていた。正義感に溢れていた。 自分の考えたことがすべて正しくて、何もかもに適応する道理だと思っていた。 キショイのはおまえだ。 左腕の頬杖に顎を預けて、勝利は半年前の自分を睨みつける。 不快感で吐きそうだ。 自信を背負った半年前の自分は、はきはきと、机を汚されたクラスメートに語りかけた。 (俺も、小学校の頃色々あったんだ。修恵って金持ちの学校だろ? 例外いないわけじゃないけど、周りはみん金持ちだし。俺、別に金持ちの家の生まれじゃないからさ、嫌がらせとか、イジメみたいのとか、あったんだ) それは事実だ。 陰湿な嫌がらせのようなものを受けたことがある。 靴がないだとか、教科書がトイレに捨ててあるだとか、基本に忠実なやつだった。 (ハッキリ言ってやったらさ、俺のもおさまったから。高幡だって、こんなのヤだろ?) 半年前の自分は笑っている。平然と、悩みなんてないような顔で笑っている。 唇を噛んだ。甘しょっぱい鉄分の味が、僅かに舌先に触る。 自分に出来たことは、他のみんなも出来て当然なんだと思ってる。 ゆるりと、高幡は折れそうに細い首をめぐらせて、無惨に汚された机から勝利のほうへ顔を向ける。 うつろな、力のない瞳を細めるようにして、少し笑った。 (無理だよ) (なんでだよ) 半年前の自分は、まだ笑っている。しょうがないなぁ、と笑って、高幡の肩を叩いている。 あんなに、疲れて打ちひしがれた、絶望の顔をしているクラスメートを前に、平然と、きらきらと、笑っている。 バカじゃないのか。死んじまえ。 今、目の前の幻に触れられるのならば、その奇麗事ばかりを吐き出す口を後ろから塞いでガムテープでも貼り付けてしまいたい。 (大丈夫だって。高幡だってできるって) 一片の曇りもない顔を、きっとしていただろう。 だって、何ひとつ間違っているとは思わなかったもの。 唯一絶対の解決策だと、信じていたもの。 だれでも、きっぱりとした態度で対応できたら、現状は打開できると思っていた。 (そう、かな) 気恥ずかしそうに、困ったように、高幡が少しだけ笑った。 (おう) 力強く頷いて、あの日の自分は高幡の肩を叩いた。 何もかもこれでうまくいくと、簡単に信じていた。 味方になってやれる。励ましてやれる。ヒロイズムに酔っていた。 真っ直ぐ一本伸びた芯で。正論で、誰も彼もが励まされると―――無邪気に思っていたあの頃。 それが人を追い込むことがあるのだなんて、考えもしなかった。 かけらも。一瞬も。心の隅にも。
「神田」 だみ声に呼ばれて、我に返った。 気づけば、数学のだるまのような教師がすぐ横に立っている。 丸い眼鏡の奥で人の良さそうな小さな目が渋いものでも口に放り込んだときのようにゆがめられている。 「どうした。真っ青だぞ」 「先生、俺……」 椅子を引いて、席を立った。 どうしてそんな行動に出たのかは、よく分からない。 立ちくらみがした。脚の感覚がなかった。 「具合悪いんで、早退します」 白い机のおもてを見下ろしたまま、掠れた声が言ったのを聞いた。自分の声には聞こえなかった。 「神―――」 がらんと空いた隣の席をとおりすぎ、数学教師を押しのけて、後ろ側の扉から出た。 とりあえず引きずってきた鞄が、まるで鉛で出来ているかのように重くて、肩が抜けそうになる。 授業中の廊下はひっそりと静まり返っていた。まるで長距離を走り終えたときのように内側から噴きだしてくる汗を不快に思いながら、玄関へ近い階段へ向かう。 一階に下りたあたりで、玄関へ続く長い一本道の向こう側から、人影がこちらに歩いてくるのが見えた。 目は悪くないはずなのに、視界がぼんやりと霞む。同じ制服を着ているから、誰が誰かなんて分からない。 ただ、空気が締まっていると、そう感じた。 最近は梅雨空が続いていて、今日も例外なく曇り空だ。肌に湿気がまとわりついて、鬱陶しいはずなのに、延々と直線に伸びるその廊下だけ、空気が澄んでいる。 金縛りに遭ったかのように、脚がすくんで動かなくなった。 違和感の塊は、向こう側からこちらに歩いてくる。しんと静まり返った廊下に、足音はよく響いた。 どんなに光を透かしても、黒以外には見えないだろう髪は、白い肌に良く映える。 勝利の近くまで来て、ようやく”彼”はこちらに気づいたようだった。 一瞬だけ歩みを止めて、また何事もなかったかのように歩き始める。距離がつまる。 息が出来なかった。 雰囲気に呑まれて、圧されていたのだ。 「君が一体、どんなつもりかは知らないけど」 擦れ違い様に、隣のクラスの御曹司が口を開いた。 はりつめた、冷たさを含んだ声だった。 「好奇心だけで要に構わないでくれ」 鋭い針で心臓を一突きにされたら、こんな気持ちになるのだろうか。 胸のあたりから体全身に、激痛が走ったような気がした。 勝利の横を通り抜けて、銀都佳沙は階段を上り始める。 「俺は別にっ―――」 大声をあげて、階段のほうを振り返った。 都佳沙は肩越しに、勝利を見下ろしていた。 髪の色と同じ、漆黒の瞳がまるで、すべてを丸裸にするかのように鋭く勝利に注がれている。 「好奇心、なんかじゃ……」 蛇に睨まれた蛙の心地で、勝利の言葉は尻つぼみに消える。 しばらく温度の感じられない視線で勝利を串刺しにしてから、都佳沙は唇をひらく。 「もし、何かの身代わりにしているつもりなら、それは好奇心なんかよりもよっぽど、悪質だと思うけどね。君は彼の何を知って、何を分かって、励まそうとしているのかな」 言葉が何も出てこなかった。 まるで断罪するかのような都佳沙の視線に耐えられず、うつむく。 階段を上る靴音が、徐々に遠のいていった。廊下は再び、静寂に満たされる。 重い足を引きずりながら、勝利は玄関に向かって歩き始めた。
*
その日、高幡は。 勝利に励まされたとおり、勇気を振り絞り抵抗し、その結果袋叩きにされた。 ぼろぼろの姿で重そうに体を引きずって家に帰り、心配する家族とはひとことも言葉を交わさず、部屋に閉じこもり、必死に机に向かっていたのだという。 ひっそりと家中が寝静まった頃に家を出て、―――二度と帰らなかった。
家とは別の方向に、足が向いた。 鉛のような足と鞄とを引きずって、駅の向こう側、雑居ビルが立ち並ぶ通りに出た。
『ぼくはまるで、幽霊のように見えるのだそうです』
ガードレールを挟んだ向こう側を、ひっきりなしに車が通り過ぎる。 排気ガスを吐き出して、大型トラックが通過していった。風に、髪が舞い上がる。 いじめは本当にあったのかなかったのか。 それを検証するために立ち上がった大人たちが、高幡の遺書を勝利に突きつけた。 勝利の名前が、そこに綴られていたからだった。 幸い、クラスで傍観していたおとなしめのクラスメートたちが、「神田は高幡を励ましてただけだから」と弁護をしてくれて解放された。
『幽霊なら幽霊らしく、この窓から飛んで見せろという。それが出来ないなら、床に這いつくばって謝れという。ぼくの何がいけないって言うんだろうか』
励ましていた、って。なんだよ。 本当に俺のせいじゃないと言えるのか。
『ぼくはただ、そこにいただけだ。そこで、本を読んでただけだ』
笑って肩を叩いて、がんばれ、なんて言って。 それは、いじめじゃないのか?
遺書には切々と、今まで受けた仕打ちのことが綴られていた。 勝利は確かに、それを目の当たりにしていた。高幡は何ひとつ嘘も誇張もしていなかった。 止めに入らなかったのは、傍観していたのは、見過ごしたのは。 罪ではないのか?
『神田君へ』
無邪気に、相手のことを分かったフリをして慰めたり励ましたり、せっついたりするのは。
『ぼくはやっぱり、君みたいにはできませんでした。君とぼくは違うよ。色々言ってくれて嬉しかったけどそれと同じぐらい―――』
それは、罪じゃないのか。
勝利は、顔をあげて、聳え立つ廃ビルを見上げた。 駅から大分離れたところにあるこのビルは、勝利が物心がついた頃にはもう廃ビルだった。 地面から、なぞるように見上げてゆく。 くすんだ灰色の壁にはめ込まれたガラス窓はほとんどが割れてなくなっている。 全部で七階建て。 大通りに面した、立地条件に恵まれているビルがずっと放置されていることについては、たくさんの噂があった。 呪われているだとか、人が死んだのだとか。取り壊そうとすると必ず何かが起こるらしい。 屋上には、フェンスも何もない。膝のあたりまでしか、段差もない。 踏み台にのぼるように簡単に足を掛けて、身を乗り出すことが出来る。 今でこそ、入り口は板でふさがれているけれど、当時は入ろうと思えば簡単に入れた。 屋上まで見上げて、勝利は息を飲んだ。 人が立っていた。 曇天を背にして、ブレザーの制服姿で、線の細い少年が立っていた。 制服も顔も埃で汚れている。吹きすさぶ風に、髪が、服の裾が揺れていた。 「高幡―――」 彼の名を、勝利は呼んだ。 高幡千晶が、そこに立っていた。 あの日のままの姿でそこにいた。 静かな笑みを浮かべて、地上を見下ろしていた。 七階分も離れていて表情など見えるはずもないのに、何故かそれが分かった。 咽喉がからからに渇いて、叫ぼうと思って開いた口からは何も出てこない。砂を詰め込まれたような気分になった。
やめてくれ! 叫びたかった。
ふわりと、高幡は笑った。 両手を広げて、体を前に倒す。 ぐらりと体が傾いで、そのまま重力に引きずられて、落下する。 見上げる勝利の上に、落ちてくる。 まばたきもできずに、勝利はそれを見上げていた。 一瞬でぐっと迫った高幡の体は、勝利の体をすり抜けて、地面に落下した。 どん、という鈍い衝撃音すら、聞こえたような気がした。 指先から力が抜けて、鞄がアスファルトに落下した。 膝が崩れ、往来にぺったりとへたり込んだ。
『神田君、僕は―――』
「俺の」 せいだ。 声にはならなかった。
追い詰めるつもりはなかった。苦しめるつもりなんてなかった。 ただ純粋に、正しいことをしていると思っていた。
「ごめん……」 曇天を見上げる。 屋上に人影はない。だけどまだそこに、高幡がいるような気がした。 「ごめん、高幡」 反らした咽喉が痛くなって、がくりとうな垂れて、勝利は見た。
『君がうらやましくて、ねたましくて、真っ向から励まされるたびに、苦しかったんだ』
アスファルトは血の海だった。
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【続く】
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