優雅だった外国銀行

tonton

My追加

21 アキュパンクチャー
2005年05月29日(日)



どこから聞いてきたのか知らないが、シャピュー氏はアキュパンクチャーへ行きたいと言い出した。 謙治はアキュパンクチャーが何であるか知らなかった。 英語に大分自信のついた謙治は、知らない言葉でも前後の関係で大概の言葉は想像ができた。 しかし、シャピュー氏の説明するアキュパンクチャーを謙治は理解できなかったので、めったに無い事であったが辞書を引いた。 「鍼療法」さて困った読めない、何のことか判らないではないか。 身の回りに国語辞典は中々見当たらない。 やっと見つけて引いたら「はり」と読むのが判った。 はり療法、どこへ行けば良いのだ。

このような時頼りになるのが経験豊かな秘書である。 彼女自身は鍼医院を知らなかったが、どこへ聞けば分かるかを知っていた。 そして、松下幸之助氏が上京の折りに良く行っているという自由が丘の鍼医院「クロダ」を見つけてくれた。

シャピュー氏の症状は、肩が凝る、首が痛い、そんなものあったが、クロダの先生には何の説明もいらなかった。 彼は患者を診るだけで、どこが悪いか分かるらしく、さっさと治療に入った。 謙治は、週一回行くことになったその治療に毎回付き合わされたが、実際のところ何もする事はなかった。 「うつ伏せに寝てください」とか「仰向けになってください」「はい、終わりました、洋服を着てください」と言えばよいのであったが、そんな事は先生方も言えたであろう。 謙治は、ただ、5分か10分の不思議な鍼治療を見つめ、先生が部屋を出て行かれると本を取り出して読んでいた。 30分程すると先生が戻って来られ、身体を裏返して鍼を打ち、又、2・30分先生は他の患者さんの所へ行かれる。 謙治は本を読み、シャピュー氏は、ほとんどの場合気持ち良さそうに寝てしまっていた。 1階の大部屋に5・6人が横になって居るのを見たが、シャピュー氏は、特別な料金を払っているとは思えなかったのであるが、いつも2階の個室をあてがわれていて、シャピュー氏には無かったが、謙治にはコーヒーとフルーツが供された。




20 資料漬の新頭取カルベ氏
2005年05月27日(金)

毎年そうだが、季節が良くなるとお偉いさんが来日する。 この年(1979年)初頭に頭取が変わったが、日本に挨拶に来る。 東京支店へではない、大蔵省、日本銀行、その他の主だった所へだ。

前頭取ルドゥー氏は、7年程の在任中に東京へは3回来ている。 いずれも夫人同伴であったが、ルドゥー氏自身よりも夫人の変わり方が甚だしかった。 初めての時、話しの成行きで大宮の盆栽村へ行く事になった。 謙治は行くことが出来なかったので、女性ガイドを付けてハイヤーで行ってもらった。 ところが大渋滞に巻き込まれ、夕方の行事の方が気になって、目的地に着かずに帰って来てしまったのである。 高速道路が無かった時代であるが、片道2時間位を見ていた謙治は、非難される事を覚悟していた。 相手は大銀行の頭取夫人である。 しかし、謝ったのは頭取夫人であった。 「せっかく準備してくれたのに、途中から戻ってしまって申訳ない。でも途中で食べたお蕎麦がとても美味しかった。 もし、時間が有るなら主人にも食べさせて上げたい」。

 板に付いた頭取夫人として来日した2度目、彼女は謙治の名前を覚えていた。 何かにつけて「ミスター・ツムラ」の連発である。 そう言えば、支店長会議でパリに行った東京支店長シャピュー氏がパーティーで夫人に会った時、「ミスター・ツムラは、元気でいるか?」と聴かれたそうだ。 それ以来シャピュー氏は、本店から来た人達に謙治を「ルドゥー夫人の親友のミスター・ツムラ」と紹介するようになった。

高輪に般若苑という料亭が在る、そこで晩餐会を開いた。 招待客は20人位だったと思うが、1人に1台の運転手付きの車が来ていた。 もう少しでお開きとなる頃、頭取夫人は席を立ち、中居さん、板前さん、そして、外に出て運転手全員に、「ありがとう」を言い、握手をして回ったのである。

しかし、3回目は違った。 全くの別人になっていた。
国際空港が羽田から成田に変わった時、マスコミが交通渋滞を問題にして騒ぎまくった影響で、気の小さい支店長シャピュー氏は、車で成田空港へ行く事を嫌った。 成田エキスプレスもまだ無く、京成電車のスカイライナーだけが頼りであった。 それも、スカイライナーは全席指定であった為、乗れなくなると大変だといって、航空機の便名が分かるとすぐに前売り券を買わされた。 飛行機というものは、ほとんど時間通りには着かない。 まして遠いパリからの便である。 定刻に飛び立っても風の影響その他で早く着いたり遅れたりが普通である。 迎えの時は、到着の数時間前に到着時間の確認をするのであるが、ほとんどの場合スカイライナーの指定券は買いなおす事になった。 帰りがもっと大変である。 通関の時間などは予測が難しい。 その様な訳で、前もって買った乗車券のほとんどは無駄になった。 おまけに、スカイライナーは30分毎に発車するとは限らず、昼間は1時間間が開くことも多かったのであるが悪い事に、成田空港反対派に一編成焼き討ちされた京成電鉄は、間引き運転を余儀なくされていた。

大きなスーツケースをたくさん持ったルドゥー氏一行4人とシャピュー氏それに謙治は、そんな訳でスカイライナーに乗れず、急行電車で上野へ向かったことがあった。 平日の夕方で、途中から高校生で満員になってしまった。 ヨーロッパ最大の銀行の頭取が、満員電車に荷物をたくさん持って乗っていたなんて、誰が想像したであろう。

頭取夫人は、神経質で横暴な所の有るおばさんに変身していた。 シャピュー夫人と謙治が世話役になったのであるが、普段から明るい性格のシャピュー夫人も、緊張で顔を強ばせる事が多かった。 又しても謙治は、その地位に慣れてしまった人の、嫌な面を見たような気がして哀しくなった。

新頭取を迎えに行ったのも車ではなかった。まだ、支店長シャピュー氏は渋滞を恐れていた。 謙治は、既に何回も車で新空港へ行き来している。 都心に入る所で少しの渋滞はあるが、スカイライナーよりはずっと早かったし、空港へ行く時はほとんど問題は無かった。 しかし、シャピュー氏は電車を好んだ。 ひとつにはドライバーの問題があった。 シャピュー氏は、彼のドライバーの運転を嫌った。 アクセルペダルの操作が下手なのである。 踏み込む、放すの連続なのだ。 謙治はシャピュー氏に言われて、ドライバーに注意した事があったが効き目は無かった。 長距離の場合は、事情が許す限り謙治が運転したが、正規のドライバーを無視は出来ないし、謙治は、他にする事が多すぎた。

前頭取ルドゥー氏は、どっしりした親分タイプの人であったが、ジスカールデスタン大統領時代の大蔵大臣であった新頭取カルベ氏は、40歳代前半のバリバリの事務屋で、資料に埋まっている事だけが生甲斐の様な人であった。 車でも、電車に乗っていても、外を眺めたり会話をしたりせず、常に書類に首っ引きで、時々顔を上げるのは質問する為だけであった。 週末に横浜の三渓園へ行った。 この日はドライバーを休ませて、謙治が運転手になったのであるが、頭取は観光などどうでも良いのである。 羽田空港も、川崎の煙突群も、遥かに見える鶴見の総持寺も、それらの説明に対して生半可の返事をするだけで、持って来た書類から目を離す事さえしない。 定年を控えたシャピュー氏が、こんなにも緊張するかと思うくらい緊張のし続けであった。 三渓園では、車から降りないのではないかと心配になったほどだ。



19 坊やがボスに
2005年05月25日(水)

未だ少年のあどけなさが残っている25才の青年シュワール氏が、秘書課のチーフとして赴任して来た。 2才になる子供が居たが、父親自身がかわいい坊やなのである。 パリ国立銀行東京支店には、いわゆる外資企業で働く典型的な女性といったタイプの女性は少なかったけれど零では無かった。 シュワール氏は、そういう女性たちの恰好のおもちゃになり本人はご満悦であった。 大分後になって分かったのだが、当時お相手をしていた女性たちの給料が桁外れにその時上がっていた。

謙治は、これまでに来た十数人のフランス人達を、性格の違いはあれ、それぞれ好きであったし尊敬もしていた。 しかし、シュワール氏に対しては尊敬の念を抱く事は難しかった。 それは女性問題とは別のところにあった。 若いシュワール氏は、謙治を召し使い扱いし、クリーニング屋に持っていくものや奥さんの靴の修理まで持って来た。 そして、もっと謙治をおこらせたのは、アパートが狭いと言って引っ越した時の事である。 シュワール氏は、仕事が忙しいという理由で、引っ越しの日も銀行へ行ってしまった。 謙治が総べてを仕切らざるをえなかったのであるが、冷蔵庫、食器棚、トイレも、ベッドルームも、何の準備も無いひどい状態であったため随分遅くなった。 シュワール氏は、5時以降に事務所にいる事はまず無い。 いつも女たちと何処かで、たむろしているのは知っていたが、引っ越しの日ぐらい早く帰って来るものと謙治は片付けをしながら考えていたが、帰って来たのは8時を過ぎていた。 そして、ステレオのセッティングをしていた謙治に言った言葉は「ありがとう」ではなく「何をやっているのだ」であった。

幸いな事に、1年程でシュワール氏は転勤になった。 次に来たベナール氏は、背の高いハンサムな青年であったが、仕事熱心で統率力もあり、シュワール氏によってすっかり乱れてしまった秘書課を上手に引き締めた。 そして暫くは、シュワール氏が溜めていた膨大な量の仕事を片付けるのに大忙しであった。

副支店長パラス氏の後任のドゥ・モンティーユ氏は、名前からも分かるように貴族の出身であり、フランス人には珍しく5人の子持ちであるにも拘らず、奥さんはまだ欲しそうであった。 この2人、ドゥ・モンティーユ氏とベナール氏は、謙治を高く評価し、謙治は働き甲斐を感じていた。

大阪支店を開設する事になった。 どうした訳か今回は1階にこだわらず、たった1日でシャピュー氏は場所を決めて来た。 車寄せが気に入ったのだそうだ。 大阪大林ビル20階である。 初代大阪支店長としてドゥ・モンティーユ氏が赴任した。 独りで奮闘しているドゥ・モンティーユ氏を謙治は手伝いに行きたかったが許可がでなかった。 文具を買う事も出来ないらしく、ノートを送れ、ボールペンを送れと言って来るドゥ・モンティーユ氏が哀れでならなかった。




18 一流銀行は一等地に
2005年05月24日(火)



支店開店以来3年が過ぎていた。 当初の予定で臨時店舗の積もりでいた9階の店舗は、40人を超える陣容を抱え手狭になってきていた。 店舗用にとビル一階の賃貸情報が時々あったが、シャピュー氏は、あくまでも一等地を欲しがった。 外国銀行というのは、その営業方針にも依るだろうが、必ずしも一階に店舗が無くとも営業に差し障りは無いのである。 勿論、一般の人達が外貨の交換のために訪れはしたが、それは収益の面から見れば重要性は薄く、また邦銀のように預金を欲しい訳でもなかった。 だから、9階であろうが、20階であろうが良かったのである。 しかし、シャピュー氏の考えでは、一流の銀行は、それに相応しい地に相当の品格を持った店を構えなくてはならないのであった。 例えそれが非常に高くつく事であっても。

丸の内地区の美観論争があって久しいが、論争の元祖である東京海上ビルの前、東京駅丸の内中央口を出てまっすぐ、皇居のお濠に面した所の、日本郵船ビルの立て替え工事が進んでいる事は知っていた。 そこは、シャピュー氏の言う一等地なのである。 施工主が日本郵船株式会社である事は分かっていたが、賃貸借の交渉相手が明確では無かった。 建築設計を担当していた三菱地所より、1階の賃貸が可能のような感触を得たのが、竣工を1年後に控えた1977年3月であった。

にわかに忙しくなった。 必要なスペースの確保の交渉、大蔵省への移転の申請、勿論、その前に本店のOKを貰う必要があったが、それはシャピュー氏の仕事である。

根気強い交渉の結果、一等地の一番良い部分、お濠と行幸通りに面した1階の角を獲得した。 しかし、2階に関しては、どうしても希望する面積も位置も取れなかった。 お濠側を欲しかったが、足利銀行が既に確保していた。 その為に後々まで、内部配置に大変な苦労をする事になったのである。

内装工事は、三菱地所の子会社メック・インターナショナルが請け負う事になったが、本店の建築家ローディエ氏が又やって来た。 前回はスリムで女性が振り向くような好男子であったが、5年の歳月は彼をすっかり変えていた。長いホテル暮らしと、何も分からぬ各支店の傲慢なマネージャー達とのマンネリ化したやり取り。 でっぷりと太ったローディエ氏からは、もう覇気を感ずる事は出来なかった。 しかし、謙治とは愉快に楽しく物事を運ぶ事が出来た。
ローディエ氏から得た前総支配人ラボルド氏の近況は嬉しい物ではなかった。東京から戻って半年位は精神的欠陥を疑われ療養生活を送っていたと言う。 その後、本店の屋上に作られた誰もいない小部屋で、秘書を1人あてがわれて、ひっそりしているらしい。 ローディエ氏は「時々会うよ」と言ってから「エレベーターの中で」と付け加えて大笑いした。

何処でもそうかも知れないが、マネージャー達というのは、仕事全体の流れを考える事があっても自分は別格なのである。 まず、自分達が一番良い場所を取る。 仕事の流れはその後になる。 1階の皇居に面した部分をマネージャー達に占領されてしまった。 外から覗かれないために、一日中カーテンを引いて置くのであるから、なんのためのお濠側か分からないが。

引っ越しは3月と決まった。 謙治にとって初めての経験であるが、驚いた事に、引っ越しとは業者だけで出来ると思っている人が多い。 銀行は営業日に引っ越す事はほとんど不可能である。 日曜日1日で済ませるのであるが、誰もが当日出て来るのを嫌がった。 引っ越し前のパッキングですら、業者任せにしようとする。 謙治は、日本企業で働く人と、外資企業で働く日本人の違いを普段から感じていたが、この時ほど強く感じた事はなかった。

説得に説得を重ね、パッキングとラベル貼りは、各セクションで責任をもってやるようにしたが、結局、引っ越し当日の日曜日は、謙治一人しか立ち会わなかった。 たった500メートルの移動であったが、一人きりの立ち会いというのは大変な事である。 電話も移動中で使えない状態になっている。 移転先の図面には明確に「赤色ラベルの1番の机は、ここ」、「黄色ラベルの5番は、ここ」と書いてある。 しかし、物事はそんなに簡単には運ばない。 謙治は500メートルをあっちに、こっちにと何度も走らなければならなかった。

翌日、謙治はシャピュー氏に呼ばれ「ご苦労」と言われ、特別手当をくれると言う事であった。 かなりの金額である。 しかし、それは実行されず、謙治も忙しくしている間に数ヶ月が過ぎ言い出せずに終わってしまった。

郵船ビルは東京駅に近く、雨でも地下通路を抜けて、濡れずに行ける点を大多数は喜んだのだが、昼食や、ちょっとした買い物となると、1階が店舗、地下1、2階がレストランであった国際ビルは良かった。 郵船ビルの1階はパリ国立銀行を含めて銀行が四行、詳しく言えば、都市銀行、信託銀行、地方銀行、それと外国銀行であるパリ国立銀行があるだけで地下は駐車場である。 隣の丸の内ビルは、古色蒼然とした商店が軒を連ね、越して来た1978年には、電話局番が2桁のままの看板が幾つもあった。 後に修繕はしたが大理石の階段も歩きにくい程にすり減っていて、ここには歴史と安らぎの様な物があった。

パリ国立銀行東京支店内の謙治のセクション、秘書課は2階になった。 そして、マネージャー達は1階である。 謙治は日に何十度となく内部に設けられた専用階段を走って登り降りする事になったのであるが、いつも階段を声に出して数える癖があったので「津村さんの階段の上がり下り」と言って皆が笑った。 「何段ありました?」とからかう女子行員も居た。

未だ、人数か40人前後で全員が家族のように、誰かの幸福を喜び、不幸には共に悲しみ励ましあった。 総てが順調で職場は明るかった。




17 ジュリアン氏再来日
2005年05月23日(月)

「また来る」と言って、ラボルド氏と仲違いして去って行ったジュリアン氏が、副支店長として戻って来た。 前回は駐在員事務所の副代表であったから、大きな昇進なのであろう。 メキシコに5年居た事になる。 2番目の娘ドミニクは太りぎみで、ひょうきんな顔の父親似であったが、すっかり変わって美しい女性になっている事に迎えに出た謙治は驚かされた。 長女マリヨンは、フランスの大学へ行っている為、今回は来ないとのことだ。 支店の中の外国人も、いつの間にか6人を数えるようになって、謙治は彼らの世話で結構忙しくなっていた。 査証の取得、延長、再入国手続き、住居探しと保全、家具の問題、引っ越し、外国の自動車運転免許の日本免許への切り替え。 フランスの自動車運転免許には更新というものが無い。 一度取得した免許証が一生更新なしで使えるのである。 だから頭の禿上がった、でっぷりしたおやじさんの、ぼろぼろの免許証の写真が18才の美少年であったりする。 中古車探しも結構時間のとられる仕事である。 それに謙治を非常に困らせたのが交通事故であった。




16 銀行も優雅
2005年05月20日(金)

東京支店のトップになったシャピュー氏には子供がいなかった。 ダイニングルームとリビングルームの広い、管理の行き届いたアパートを赤坂に見つけ優雅な暮らしをしていた。 ゴルフをするフランス人は非常に希なのだそうだが、毎週水曜日は夫妻と友人たちとでゴルフに行き。 1度は友人たちと、もう1度は顧客を招待しての週2回のディナーパーティー。 他に夫人たちの「ブリッジの午後」というのを持ち回りでやっていた。 快活なアメリカ人であるシャピュー夫人には、友人がどんどん増えて行くようであった。 勿論、ほとんどがアメリカ人であり、少数のアメリカンクラブに出入りする日本人もいた。

アフリカのガボンに長く住んでいたシャピュー氏は、あくせく働くような事はなく、9時過ぎに出社し、お昼に帰宅する事はなかったが、取引先とのビジネスランチも好きではないらしく、5人に増えていたフランス人の部下達を引き連れては、帝国ホテルまで10分弱を歩き、食後は銀座から日本橋を回って、小1時間の散歩を楽しむ事を常としていた。 部下のフランス人達が、この昼食の行事をサボると大変な事になると言いながらも、不参加の適当な口実を探す事に戦々恐々している様を端から見ているのは結構楽しいものであった。 シャピュー氏は、そんな部下達の様子を、内心おかしさをこらえて見ているようなところがあり、「若い人は、歩くのが嫌いだ」と言って笑っていた。 そして、5時にはそそくさと帰ってしまっていた。 ゴルフ前日の火曜日の午後になると、落ち着きが無くなり、全く日本語が分からないのにも拘らず177をダイヤルし天気予報を聴き、「トキドキって何だ?」等と言っては秘書たちを笑わせていたものだ。

従業員全員と、その配偶者が参加するクリスマスディナーは、シャピュー氏の演出によった。 常に一流のレストランを心掛け、必ずしも評判が良い訳ではなかったが「本当のフランス料理を」と自分で料理を選んだ。 そればかりか、当時としては高級品であったフランス製のマロングラッセを、手土産用にと自分で出かけて選んだりした。

毎年の社員旅行も、シャピュー氏が制度化したのであった。 これも原則的には配偶者同伴で費用は全額銀行が負担し、行く先、ホテル、コースの選定にまで、シャピュー氏が関った。 その為に、外人好みのコースが選ばれるのは避けられず、多くの日本人スタッフは修学旅行と揶揄したが、シャピュー氏在任の6年間に、京都へ3回、奈良1回、広島、厳島神社から錦帯橋というハードスケジュールが1回、そして仙台へ飛んで松島へも行った。 銀行を休みには出来ないので、何れも土曜の午後からのスケジュールであった為、振り返ってみると、よくあんなに忙しい旅が出来たものだと思う。 いずれの場合も、謙治は幹事役を勤めていた。 やらされたのではなく、自然にそうなってしまったのである。 シャピュー氏は添乗員を嫌った為、集合時間を知らせたり、員数を数えたりを謙治以外の人は我冠せずであった。 人種に民族性が有るとすれば、フランス人は規則で縛られるのが大嫌いである。 コントロールされるのを好まない。 だから、集合時間が守られる事はまずない。 目的地に着き、必要事項を告げ、目的の寺社、博物館等に引率する。 人数分の入場券を買って入り口で待つのであるが来ない。 途中で何かに興味を持てば、そこで止まってしまう。 そんな具合だから謙治はあまり観光は出来なかった。

ゴルフ・テニス大会も年に2度開かれるようになった。 これに参加出来るのは勿論、ゴルフやテニスをやる人だけであるが、賞品を含めて費用は全部銀行が負担した。

土曜日の勤務も交代で隔週休むようになった。 謙治は土曜休みになかなか慣れる事が出来ず、土曜日は遊びに行くのにも背広を着ていたほどだ。

シャピュー氏は、従業員が喜びそうなことで自分も好きな事は進んで取り入れた。  しかし、事務の近代化、機械化という事になると全く関心がなかった。 細長い事務所の片隅にある、分速3枚という小型のコピー機に、行列が出来る事が珍しくなくなっていた。 未だ、総務というセクションは無かったが、シュナール氏の後任で銀行内の様々な事に目を配る役の副支店長パラス氏の了解を得て、謙治はコピー機の入れ替えを行った。 大して負担増になる事でもなかった。 しかし、シャピュー氏はそれをどうしても許さず、業者にペナルティーを払って引き揚げてもらった事があった。 56才を過ぎていたシャピュー氏には、例え1枚目に30秒かかろうと、コピーが出来る事それ事態が素晴らしい事なのであった。 その事があってから、機器の購入はパラス氏の禁句に成ってしまい困る事が多かった。 タイプライターも計算機も足りなくなっていたが、それらを増やすのは大変な事であった。

世間一般がそうであったし、諸物価も上がっていたが、給料がどんどん上がった。 年30パーセント以上上がった事もあった。 全従業員がパリ国立銀行で働く事に幸せを感じ、外資企業と日本企業の違いを感じ、優越感さえ持つ者もいた。

どこかの既製のものに、社名を付け替えただけの就業規則があった。 既に土曜日の勤務が隔週に成っていたが書換えはしなかった。 誰もその存在を気にしている者はいなかったのだ。 ただ、定年年齢や、退職金の規定に付いて、多少の手直しが必要である事に、何人かは気が付いていた。 定年年齢55才、定年退職であっても、退職金の支給額は、勤続年数×基本給プラスアルファーとなっていたからだ。 しかし、皆若く、定年はまだまだ先の事であった。 何よりも全員がトップを信頼していた。 プラスアルファーが有るではないかと。

この時代の外国銀行は、トップがあくせく働かなくても業務は確実に増え、利益も上がる様になっていた。 日本での顧客の接待は、ゴルフが喜ばれるのを知ったシャピュー氏は、早速、ゴルフ会員権探しを始めた。 毎週水曜日にシャピュー夫人とその仲間達とでゴルフを楽しんでいたが、それは厚木か座間の米軍基地内のゴルフ場で、接待ゴルフには向かなかったからだ。 遠くないゴルフ場、それが唯一のゴルフ場選びの条件であり、府中カントリークラブの会員になった。

ゴルフ会員権相場が、目茶苦茶に上がりだす遥か前のことで、800万円程であったが、フランス人の感覚からすれば、途方もない額であったが為に、本店の許可を取るのが大変であったと聞いている。 副支店長のパラス氏ですら「ふん、たかがゴルフの為に、800万円」と陰ではぼやいていた。

毎週土曜日が接待ゴルフ日となった。 同伴者として選ばれた外為部長の谷口氏は、津田沼から新京成電鉄で奥へ入った所に住んでいて、府中カントリークラブへ行くには、東京を横切らなくてはならい。 困る事に早起きが嫌いな人なのである。 そして、問題は未だあった、スタートの予約が取れないのである。 4週間前の土曜日の7時20分から電話受付をするのであるが、全く取れない。 現地で並んでいる人を先に受け付けるのだと言う。 次の週から謙治はゴルフ予約係りになってしまった。 毎週土曜日は、4週間後の土曜日の為に朝早くゴルフ場へ飛んで行ったのである。 6時半に着いたのでは季節によっては十分でない事もあった。 冬場はゴルフの接待は無かったが、3月にプレイするためには、2月に並ばなくてはならない。 未だ真っ暗なクラブハウスの前に並ぶのであったが、謙治は懐炉という物を初めて使うようになった。



15 再雇用
2005年05月18日(水)

ワインの訪問試飲販売をしていた謙治に、シュナール氏から呼び出しがあったのは、11月に入ってからで、パリ国立銀行を退社して7ヶ月が過ぎていた。風の便りでラボルド氏とシャピュー氏の不仲は知っていたが、ラボルド氏は帰国したので戻ってこいと言う。 ラボルド氏とシャピュー氏は、最初の数週間は対立していたが、それが過ぎると話し合う事もなくなり、ついには、弱い方が東京支店を去ったのである。 両雄が反発しながら共存した数ヶ月は、店舗から少し離れた、そのままになっていた元駐在員事務所の部屋にラボルド氏は出勤し、他の人に会う事もなく1日を過ごし、そこから帰宅していたそうだ。

謙治はラボルド氏に、さようならを言うこともなかったことに、申し訳無さのようなものを感じた。 最後の頃の関係は、必ずしも良いものであったとは言えなかったが、5年近い歳月を、最も近い存在として過ごして来たのでは無かったのだろうか。 ラボルド氏は離日の間際に、ふと謙治の事を考えはしなかったろうか。 支店開店の日の夕方、記念写真撮影のために、あれだけ謙治を探したというラボルド氏。 謙治は、とんでもない親不孝をした息子のような気がした。 空港へは、誰も見送りに行かなかったという事を後から聞いた。

支店になって半年余の間に、郵便も、テレックスも桁外れに増え、人員も30人程に膨れ上がっていた。 ドライバーもいた。 アジア民間投資会社から事務所スペースを引き継いだ際にドライバーも一緒に譲り受けたのだ。 謙治もかねてから知っている、自己吹聴型で仲間から爪弾きされている男、アジア民間投資会社は厄介払いが出来て喜んでいた。 英語も出来ると思っているのは本人だけであり、秘書達を毎日のように困らせたいた。




14 限界を超えた我慢
2005年05月17日(火)

シュナール氏が沈痛な面持ちで謙治の机まで来た。 何事が起きたのだ?  新しいドライバーが働き始めて1ヶ月になっていたが、ラボルド氏は気に入らないのだそうだ。 彼を辞めさせろという。 謙治にドライバーに戻れというのであった。 そして、それはすぐに実行された。 謙治の抗議など全く聞こえないようであった。

難題山積のラボルド氏の状態は、謙治も良く分かっていた。 だからラボルド氏が不機嫌であったり横暴であったりしても、ある程度は理解を示す事が出来た。 だが鬱憤のはけ口を謙治にだけ向けているのではないのかと、時々謙治は思う様になった。 邦銀からの出向行員がぼつぼつ来始めていたが、彼等はラボルド氏の部下とは多少ニュアンスが違っていた。 懇願してやっと派遣して貰ったのだ。 彼等に対する不満があっても、おいそれと口に出すことが出来なかった。 ラボルド氏は孤独でもあった。 シュナール氏がアシスタントではあったが、彼を重要視せず、何かを相談している様子はなかった。

陽気で親切であったかつてのラボルド氏を知っている謙治は、辛くはあったが、ラボルド氏の鬱憤のはけ口としての役割に耐える事が出来たかも知れなかった。 しかし、忙しい最中、無意味なラボルド夫人の面倒を見るのには、最早、耐えられる限界を超していた。 謙治は辞表を提出した。 不思議な事に何の反応もなかった。 何日か後に口頭で駐在員事務所の最後の日に退社する旨を告げた。 「誰も私を助けてくれない」とラボルド氏が呟いた。 ラボルド氏を助ける事が出来るのは謙治を除いていない事は知っていた。 しかし、あの怠け者の、生きている価値の無い人間の暇潰しの手伝いは、どうあってもしたくなかった。 そして、それはラボルド氏には言えない事であった。

それでも、工事は順調に進み、3月31日土曜日には総てが整った。 謙治は奇麗に出来上がった店舗を、事務所を見てまわった。 真新しい壁1枚、机1台に何故か愛着を感じた。 謙治が精根傾けて、熟慮に熟慮を重ねて作り上げた店舗なのだ。 だが、謙治の働く場所では無くなっていた。

その日の夕方、新任のマネージャー、シャピュー氏夫妻を迎えに羽田空港へ行った。 ラボルド氏の下、シュナール氏の上司になるのだそうだ。 大柄でチョビ髭を蓄えたシャピュー氏は舌を縺れさせながら、ひどいフランス語訛りの英語をゆっくり喋る人であったが、夫人はアメリカ人であった。 「私は、あなたのドライバーです」と謙治が言うと、大きなジェスチュアーと、優しい笑顔を向けたが「でも、今日迄です」と続けると、大袈裟な落胆の表情をした。

あとで聞いたのだが、4月2日開店日の業務終了後、皆がバンキング・ホールに集まり、些細なパーティーを開いた。 記念写真を撮る事になり、全員が並んだ。 フランス人3人、出向行員5人、それぞれ臨時に各セクションに配置させられた前から居た3人の秘書達、それに新卒の男子1名の計12人であったが、ラボルド氏は何度も何度も数え、1人足りないと言っていたそうだ。



13 東京支店開設
2005年05月16日(月)

大蔵省から、もし支店を開きたいなら申請すれば許可されますよ。 と言って来たのが1972年秋であった。 それまでパリ国立銀行には、明確なる支店開設の意図はなかったが、大蔵省からの内示によってにわかに忙しくなった。 店舗用スペースを確保しなくてはならない。 スタッフはどうするのか。 円転換の規模は?(当時は、外貨の規制が厳しく、銀行を営業するには多額の日本円資金が必要のため、特別に円転換を認めてもらう)等々。

日本の銀行業務に詳しい英語を一応理解するスタッフを揃えると言う事は、非常に困難な時代であった。 ヘッド・ハンター等というのは、ほとんど聞かなかった時代であり、引き抜きが活発に行われる行為ではなかった。 それに銀行員自身も、今よりはるかに愛社精神が厚かったので、例え1・2年の短期間であっても、他行に移ることは昇進レースから逸脱すると考える人や、左遷人事ととられることが多かった。 ラボルド氏は、邦銀各行に中堅行員の出向の依頼をして回ったが、どの銀行も一斉に国際業務に目を向け始めた時期であり、自行の陣容を揃えるのに精一杯の邦銀各行は、他行に人員を貸し出す余裕など無くて当然なのであった。 謙治は三菱銀行の国際部へ何度か訪ねて行ったことがあったが、他の部と一緒の大部屋に10人ほどが居て、それぞれが各地域を担当していた程度であった。 悪条件はまだあった。 支店開設が許可された外国銀行は、謙治が馴染みにしていた銀行だけでも隣組のドイツ銀行、ウエストミンスター銀行、バークレイズ銀行の3行、イタリア商業銀行、米国のマニュファクチャラーズ・ハノーヴァー・トラスト銀行、それにパリ国立銀行と並ぶフランス三大国立銀行であるソシエテ・ジェネラル銀行とクレディ・リヨネ銀行。 それらの通常は仲の良い者達が、互いに凌ぎを削り、支店を開く予定など全く無いような顔をして、場所と人員の奪い合いをしていたのである。

どの銀行が何処へ、いつ開店するかの探り合いが始まった。 どれもが他行より1日でも早くより良い場所で、可能な限り良い陣容で開店しようとしていた。

国際ビル9階に在って、親友が多く居るアジア民間投資会社が移転することになった。 ラボルド氏は支店開設場所として1階を探していたが、一足先に朝日東海ビル24階に開店していたマニュファクチャラーズ・ハノーバー・トラスト銀行が「不満である」という情報が入っていた。 しかし、近々確保出来そうな1階のスペースは、丸の内地区にはとても有りそうになかった。 「臨時店舗で行こう、3年以内に移転するように金を掛けないで店を作ろう」という事になって、広さの点で我慢をせねばならなかったが、アジア民間投資会社の後を引き継いだ。

本店から建築家ロディエ氏がやって来た。 30才代半ばのパリっ子で、都会(パリ)的雰囲気を振りまく彼は、たちまち秘書達のお気に入りになった。 彼はパリ国立銀行勤務の建築家で、年の半分以上を海外出張していると言っていたが、この時もシンガポール支店の建築をほぼ終えて来たのであった。 元々建築家であるロディエ氏は、室内装飾が本来の仕事では無いらしかったが、それでも精力的に働き、ラボルド氏と意見が衝突することが少なくなかった。 しかし、本職が来てしまうと「金を掛けずに」という目標は、いつの間にか吹き飛んでしまった。

家具什器、電話装置、何処でどう嗅ぎつけるのか業者が次から次へとやって来る。 短資会社(外貨売買の仲介業者)が、この当時は4社しか無かったのであるが、何度も何度も挨拶に来る。 それらのほとんどは英語力が十分でなかったり、全く通じなかったりで、その都度謙治が応対をさせられた。 銀行業務に疎い謙治は、短資会社が何なのか、その役割が暫くの間分からなかった。

当然の事ながら、ラボルド氏の息子オリビエを下校時に迎えに行くこととラボルド夫人のデパートのお付き合いは、謙治には困難になって来た。

新聞のドライバー募集を見て応募してきたのは多くはなかったが、募集広告がジャパンタイムスであったにも拘らず、応募者の英語の能力は惨めとしか言い様がなかった。 しかし、謙治の経験から、そのような事は充分理解できた。謙治の知っている外人付きの運転手で、まともな英語を話すのは、ほんの一握りであった。

ハイヤーの運転手だという人を雇った。 謙治は大助かりであった。 何よりもラボルド夫人をデパートへ運ばなくて良くなった事が嬉しかった。 謙治は例えどんなに忙しくても、それが意義のある事なら喜んで献身出来た。 しかし、怠け者夫人の暇潰しのお付き合いには辟易していた。

建築の総ての手配が付くと、ロディエ氏は竣工を待たずに帰ってしまった。一度だけ箱根から伊豆へドライブしたが、彼の感受性の高さに驚かされた。 秋の終わりであった、まだ伊豆には紅葉が残っており、折り良く天候にも恵まれたので、富士山も海も美しかった。 ロディエ氏はワンダフルを連発し、訳の分からぬ事を叫び、時々口を押さえて驚きの表情を押し留めようとしていた。 このコースでラボルド氏の勧める昼食は、スカンディナヴィアンというヨットのレストランであったが、ロディエ氏は日本の食事を希望し、三津浜海岸の旅館での豪華な寄せ鍋と刺し身に大いに満足していた。

開店の日を、4月2日とした。1973年の4月1日は日曜日であったので。

建築は順調に進み、家具什器も期日までに運べる手配が出来た。 金庫は、金庫室が出来る前に入れなくてはならないので、早々と運ばれた。 電話の工事も順調に進んだ。 受話器は、ほとんどが黒と決まっていた時代であったが、アイボリーにした。



12 またもやホンコンから
2005年05月14日(土)

シュナール氏がジュリアン氏の後任としてやって来た。 彼も香港勤務が長い。 日本の企業ではあまり考えられない事かも知れないが、個人が尊重されるフランスでは、転勤の場合でも本人が希望しなければ実行される事がまず無い。 だから相変わらず、例えそれが多額の外地手当が支給されるとあっても、パリから16時間も飛ばなくてはならない1970年の東京、彼らにとっては、未知の国日本に、進んで飛び込む人は少ないのだそうだ。 香港のパリ国立銀行には、多くのフランス人が勤務している。 香港は、英国の統治下にある安心して足を踏みいれる事の出来る地なのである。

シュナール氏は40才を過ぎていたが独身で、そのことが独身揃いの秘書達に大きな期待を持って迎えられたが、彼は女性には興味を持たない種類の人間である事が何処からとはなく伝わって来た。 仕事をバリバリこなす人ではないが温厚な性格で、部下に対する思いやりがあり、謙治は仕事がしやすくなった。

多くのフランス人の例に漏れず、シュナール氏もHの音が出ないばかりか、彼は英語をフランス語発音するのである。 例えば、"ANSWER"をアンズウェールといった具合だ。

ラボルド氏を最初に羽田に迎えてから早くも4年の歳月が流れていた。 謙治はマンネリ化している自分の仕事に嫌気が差し始めていた。 車の運転は大好きである。 入れ代わり立ち代わり訪れる旅行者や、出張や休暇で訪れる人達の世話をするのは嫌では無かった。 しかし、相も変わらずデパート歩きしかしないラボルド夫人には、ほとほと呆れていた。 自分でバスなり地下鉄を使って行ってくれれば良いのにと謙治は思ったが、移動には銀行の車と決めているらしかった。

ラボルド氏はと言えば、彼もこの4年の内に随分変わってしまった。 あの、謙治を送って行くと言っていた、親切で人の良いラボルド氏は、どこにも見当たらなくなっていた。 人はトップに成り立ての時は謙虚でも、次第にそれに成り切り、次いで横暴にさえ成って来るものなのだろうか。 秘書達とラボルド氏との間にも、軋轢が無いではなかった。 若い秘書たちは耐えてしまうのだが、神戸のフランス領事の紹介で来ていた30才代半ばの秘書は、我慢して耐える性格ではなかった。 時々衝突した彼女は、ボーナスを削られ、益々いきり立っていた。



11 駐在員事務所は旅行代理店
2005年05月13日(金)

パリ国立銀行は、世界中に数多くの支店や子会社を持っている。 先進国にはもちろん、発展途上国や紛争国、政情不安定な国々、比較的中南米やアフリカに多くの店舗がある。 アジアや中東も然りである。 謙治の勤務した20数年間に、ラオス、カンボジア、それにイランから撤退し、今は(1969)ホーチミンとハノイに支店があるが、ヴェトナムからも長い間撤退していた。 駐在員事務所が開設され、本店からの通達に発表されると、少しずつではあるが、それらの各店からテレックスや手紙が入るようになって来た。1969年のテレックスは大変な作業であった。 ほとんどは待時コールで、つながるのを待つ時間が大変で、やっとつながっても変形いわゆるギャーブルに悩まされた。 それでも当時としては、メッセージを最も早く安く届ける手段として、他の何よりも有効であった。 電報としてKDDに預ける事は出来たが、とてつもない料金を請求された。

日本がまだ、それ程裕福になった実感はなかったが、手紙の用紙などで苦労はしなくなっていた。 各地から来る手紙、特にボンベイ支店からの手紙は、粗悪なトイレットペーパーを思わすようなものであり、用紙を送ってあげようかと真剣に考えたほどだ。

テレックスは専ら国際用であったが、電話はいかに国際銀行であっても、この当時はまだ海外との通話は非常にまれであった。 しかし、時には架けねばならないこともあり、そんな時は大変であった。 相手の時間を気にしなくてはならないのは、今でもさほど変わってないが、自分の時間も気にしなくてはならない。 ダイヤルで外国と電話が繋がるようになるのはずっと後の事で、KDDの交換手が花形職業の時代であった。 まず、KDDに通話を申し込む、繋がるのは1時間後か2時間後か、時には半日以上待たされることが珍しくはなかった。 そして、その間、極力国内の電話を制限しなくてはならなかったし昼食に出かける事も出来なかったのである。 KDDが呼び返す時、話中や留守だと大変な事になる。

幸いにも、多くの国々からたくさんの通信があった訳ではない。 駐在員事務所の仕事は、かなり限られたことしか出来ない。 日本の企業の信用情況を知りたがったり、東京に進出したい企業が、そのための状況を知らせてくれと言って来たりした。 信用調査などという業務は、当時の駐在員事務所の能力ではとても出来るものではなかったので、調査対象企業の主取引銀行に依頼して資料をもらったのであるが、困るのが大商社もその対象外ではなかったことである。 三菱商事の問い合わせを三菱銀行にすると「何を馬鹿なことを、商事はうちより大きいよ。」などと言われてなかなか資料をくれようとしない、資料など元々無かったのかも知れない。

大商社の信用調査で、銀行に迷惑がられるのとは対象的に、知名度の極めて低い企業で悩まされる事も度々であった。 兵庫県に、指月電機製作所というのがある。 今は、東証二部にも上場している立派な企業であるが、1970年に謙治たちは、この会社を知らなかった。 ローマ字で、"SHIZUKI" と書いてあると、鈴木の間違いではないかと早とちりする。 社名や地名のスペルミスは珍しい事ではなく、判断に苦しむとスペルミスではと思う事が再三あった。

フランスから商品見本が送られて来て「日本で売りたいのだが、適当な会社を紹介してくれ」と言うようなものもたくさんあった。 その商品が、当時の日本が盛んに輸出していたビニール製の財布であったり、プラスチックの玩具だったりして謙治たちを困らせたものだ。

駐在員事務所の本来の業務が何であるのか、謙治は完全には分からなかったが、もっとも多く時間を費やし、もっとも重要(?)だとされたのが、本支店から来日する人達の接待と観光案内であった。 フランス国内の単なる1支店から、「大切な顧客が行くからよろしく」という様なのが頻繁にあった。

長い間閉ざされていたソヴィエトが、観光客のためにシベリアルートを開放したのがこの時期であった。 パリ国立銀行香港支店に、どれだけのフランス人が居たのか知らないが、休暇でフランスへ帰るのに横浜から船でナホトカに渡り、ナホトカから飛行機でハバロウスクへ、そこからシベリア鉄道でモスクワ経由ヨーロッパという旅がはやった。 航空運賃が高く、海外旅行がまだ高嶺の花であった頃で、日本人もこれを利用してヨーロッパへ行った人は多いと思うが、これは今のような短期の旅行では出来ない。 片道に10日間近くかかる旅行なのである。 香港のフランス人連中が、次から次へとソヴィエトへの査証の申請を依頼して来る。 香港にはソヴィエト領事館が無く、東京のソヴィエト領事館が代理申請、代理受領を認めていた。

シベリア鉄道が開放されたからと言って、ゴルバチョフが大統領になる20年も前のソヴィエトである。 麻布狸穴のソヴィエト大使館の査証室へ行くのは、それ事態、冷たい鉄のカーテンの中へ入るような、寒々としたものであった。 申請した査証を受け取るのに、指定された日時に行って、すぐに受け取れる事は皆無に等しかった。 何時間も待たされるのである。 苦情を言ってもまともな返事を期待するのは間違いであった。 いつ受け取れるのかと聞けば、明確なる事実「まだ出来てない」が返って来た。 外部に連絡したくても公衆電話が無いので、受付の電話を貸してくれるよう頼んだ事があった。 「ここは駄目だ、大使館の受付へ行け」と言われ、そちらへ行くと「壊れている」と言う。  本当に壊れていた。 受取に来ている他の人達は、旅行社の人達が主のようであったが、みな静かに耐えていた。 常に威圧的な2・3人いる担当者は、かなり難しい日本語、例えば「根本的」とか「基本的」と言うような言葉を連発するのだが、あまり理解しているようでは無かったし英語は通じ難かった。

と言うような訳で、ヴァカンス・シーズンの金曜日は毎週のように横浜港大桟橋のソヴィエト船ハバロウスク号にテープを投げていたのである。 しかし、幸いなことに次の年からソヴィエトへの査証の申請要求は1件も無くなった。

パリ国立銀行駐在員事務所の在った国際ビルには、ドイツ銀行、英国のバークレーズ銀行、同じく英国のウエストミンスター銀行が並んでいた。 それぞれが少人数同士だったので、お互い良く行き来し、みんな仲良しであった。 特に副代表ジュリアン氏は、陽気にそれらの事務所を頻繁に行き来し、電話がかかると探すのに苦労したほどだ。 そのジュリアン氏がメキシコへ転勤になった。 ラボルド氏と反りが合わなかった事は謙治も感じていたが、 愉快な男であった。 2年程の東京勤務で代わりの人がまだ決まらぬまま「また来る」と言って去って行ってしまった。

ジュリアン夫人は学研派で、東京中の博物館や絵画館を訪ね回り、社寺仏閣も京都や奈良ばかりではなく、東京の小さな寺まで良く研究していた。 謙治は目黒の羅観寺へ一緒に行った事があったが、薄暗いお堂の中で、一つ一つの羅観を丁寧に見ている様は印象的であった。

ラボルド夫人はと言えば、こちらは相も変わらずデパート巡りをしていた。車の都合が付けば、必ず1日に2軒、時には3軒のデパートを、ただ歩き回っていた。 彼女は他のことには一切興味を示さなかった。 謙治は一度、半ば強制的にラボルド夫人を靖国神社へ連れて行ったことがある。 ラボルド夫人と一緒に息子のオリビエを暁星学園へ迎えにいった時、20分程時間が余ったことがあった。 彼女は「この辺にデパートは無いか」というので、半ば腹を立てた謙治が「デパートは有りませんが、いい所があります」と言って靖国神社へ行ったのである。 社殿の裏には人があまり行かない小奇麗な日本庭園がある。 紅葉の季節で特に奇麗であったが、夫人は何の興味も示さなかった。 フランスからの客などを観光に連れまわる時、明治神宮などへ行くと、必ずラボルド夫人は車に残るのであった。 そして、観光コースの選択の主導権が自分にあれば、嬉々としてデパートだけを、「東京にはたくさんあるから」と言って連れ回るのであった。



10 グルメなフランス人?
2005年05月12日(木)

「アメリカ人は大らかだ」とか「フランス人はけちだ」とか人は言う。 謙治は人を人種によって性格別けするのは正しいことではないと思っている。 日本人だっていろいろ居るではないかと。 しかし謙治は、今までの考えが間違っていたのではないかと時々思えるようになった。 アメリカの会社にいた時、その会社が嫌ではなかったが、アメリカ人と日本人の間には明確な線、壁を感ぜざるを得なかった。 その会社が特別であったのだと思いたいが、そうではなかった。 謙治は多くのアメリカ人と接する機会が有った。 大使館でも、何人かの白人達と、中古事務機や外交官ナンバー落ちの自動車の購入等で交渉する機会が有った。 それは白人対有色人で、親切とか不親切という問題ではなかったが、決して超えることの出来ない一線がはっきりと存在していた。 そこで身に付いた白人に対する身の構え方が、ドイツ人の会社に入って見事に吹き飛んでしまった。 そこでは人間対人間なのであった。 謙治はそれを第二次大戦の同盟国と敵対国の違いであると、その時は考えていた。 しかし、フランス人のそれは、どちらでもないと謙治は感じるようになっていた。 そこには確かに日本の風習と比較すると「けち」と思える面が有るかもしれない。しかし、それは風習の違いであって性格の違いではない。 フランス人の中には、ユダヤ人を嫌ったり、ドイツ人を良く言わない人がいないことはない。 特に北フランスの人は、何度となくドイツに占領された経験から、ドイツ人は危険だと教育されているのかも知れない。 だが、謙治の感じているところによれば、大多数のフランス人は人種など意識していないのである。

フランス人は世界一グルメで、主婦は料理に腕をふるい、フランス人の食生活は中国と並んで他のどの民族より優れていると一般に考えられている。 ラボルド氏はよく他人にラボルド夫人の作る料理は、その中でも群を抜いたものであると自慢している。

ラボルド家のメイドの芳子さんは沖縄出身で、沖縄では米軍将校の家族の為に働き、東京に来てからはドイツ人の商事会社員の為に5年ほどコックメイドとして立派にやって来た。 そのドイツ人の家族は、曜日により、お肉の日、魚の日と食べるものが決まっていて準備がしやすかった。 ラボルド氏の家族は何を作ったら良いのか一向に分からない、冷蔵庫はいつも空っぽだしとよくぼやいていた。

ラボルド夫人は相変わらず午前、午後とデパート巡りをしていた。 家のための買い物はとっくに済んでいた筈だが、10時の開店が待ちきれないようにデパートに飛び込む毎日が続いていた。 好きになってしまったNY

瞬く間に日が過ぎ日曜日になった。 先週の日曜日にニューヨークに着いたのだ。 一週間、ナイヤガラへ行った日以外は毎日3万歩以上を歩いたお蔭で、マンハッタンの地理に随分詳しくなった。 どこでも安心して歩ける。 明日は帰らなければならない。 10日間の旅程であったが、あす月曜日に出発すると東京は火曜日なのだ。 10日間もどうするのかと思っていたが本当に短かった。

五番街のセント・パトリック教会の前を歩いていると、ドラムの音が聞こえて来た。 ニューヨーク市警のパレードである。 時計を見ると10時少し前だ。 太鼓を叩くグループ、4人の旗手達、そして、かなりの数の制服警官達。 身長がばらばらである。 高いの、低いのがばらばらに並んでいる。 足並みもそれ程揃っている訳ではない。 明らかに退官してかなり過ぎた幾分背が丸くなった年長者も制服を着て列に加わっている。 謙治がちょっと手を挙げると、老人も控え目に応えてくれた。 子供も混じっている。 お父さん警官に付いて来たのだろうか手を繋いでいる。 後ろの方に、ぞろぞろと民間人が連なっている。 男も女も子供も、嬉しそうに行進している。 歩道から加わる人がいる。 謙治は嬉しくなって自分も加わろうかと思った。

五番街は、北から南に下る一方通行である。 行進が予定されていた事なのか、毎週の行事なのか知らないが、交通規制はしてなく、行列の後ろには車がひしめいていた。 一般車両は、左右のストリートへ消えて行くが、路線バスはそうは行かない。 5台、6台と次第に溜まって来るバスは、日本のバスの様におとなしく並んではいない。 どうせ前へ行けないのであるが、右往左往している様は滑稽であった。

ブルーミングデール・デパートの帰りにプラザ・ホテルの横を通ると。 又しても警官が大勢居る。 プラザ・ホテル前の広場にデモの準備をしているらしいグループがあった。 プラカードには「人工中絶を認めろ」。

デモ行進が五番街を下り始めた。  湿っぽさも緊張感もない。 気の合う友人達のグループが、たまたまプラカードを掲げて散歩している、そんな風情だ。 歩道を行進している。 警官達はデモの行列が途切れないように、横からの交通を遮断している。 道路の反対側に見事に女装した190センチ以上ありそうな大男が3人現れた。1人はミニスカートをはいている。 彼ら、彼女らと言うのかもしれないも、プラカードを持っていて、「セックスに責任を持とう」みたいな事が書いてある。 そして、デモの行列に向かって、3人が声を揃えて何やら呼び掛けている。 表情はにこやかである。 デモの行列から拍手と歓声が沸き起こった。 警備の警官までもが手を叩く。 謙治は心が和むのを感じた。 デモで自分達の主張を掲げる人達。 それに反対する人達。 しかし、彼らは険悪にはならない。 相手を尊重しつつ、自己を主張する。 決して押し付けない。 彼らはデモを、そして、その反対の主張を楽しんでいる。 政党にや労働組合に動員されたのではない、自分達のデモンストレーションをしている。

自由、初めて自由が何だか分かったような気がした。 日本の多くの政治家は「日本ほど自由な国は無い」と良く言う。 謙治も長い間そう信じていた。 これだけ楽しいデモが日本にあるだろうか。 謙治は、どのようなデモにも参加した事はない。 動員され、「はんたーーい」と叫ぶだけのデモ。 拳を掲げ「アメリカは日本から出て行け」と叫ぶデモ。 引きつった顔で機動隊と睨み合うデモ。 デモに反対の人達は、白い目を向けるだけで、何の意志表示もしない日本人。 拍手も、デモに対する罵倒さえも無い無視された日本のデモ。

ニューヨークの人達は人生を楽しんでいる。 何をするにも楽しく行う。 仕事も、辛い筈の引っ越し作業も、日本人から見ると怠けている様にみえるが、語らい、決して素早くはないがこなしている。 日本人は、何でも完璧を望む。 完全でないのは駄目と決めている。 ニューヨークの地下鉄に駅構内放送はないし、「次の電車は隣の駅を出ました」の表示もない。 次の駅の表示さえもほとんど無かった。 車内放送も最低限で、どちらのドアーが開くかなんて言わない。 エスカレーターで、手すりにお捉まり下さいは言ってなかった。 デパートの案内係は一ヶ所しか無かったし、エレベーターもオペレーターは居なかった。 自由の女神の階段に、あと何段の表示もなかったし、セントラル・パークに木の名前も池の名前もトンネルの名前も書いてない。 エンパイア・ステートビルの展望階へのエレベーターは集中コントロールされていて、オペレーターは乗らない。 そして、エレベーター内では何のアナウンスも無い。 警官は、だらだらしている様に見えるし、パレードで身長順に並べたり、足並みを無理に揃えたりもしてなかった。 日本人から見ると欠陥だらけだ。 だから、どうだと言うのだ。 誰が困るのだ。

オリンピック開会式の日本選手団の入場行進は、世界のどの国よりも整然としている。 いろいろ考え方があるだろうが、謙治はそれが素晴らしいことだとは思わない。 入場行進の為に参加しているのではない選手達に、なぜ、あのような事に神経を使わせるのだろう。 スタンドに手を振り、にこやかに行進する多くの国の選手達の方が見ていてずっと気持ちが良い。 高校野球は、入場式の予行演習を前日に行っているらしい。 彼らは、閲兵式の軍隊ではないのだ。 野球をしに来ている彼らに、入場式の練習は馬鹿げた行為に思える。 そして、あの年々長く複雑になって来る選手宣誓。 少しでも良い試合をする為にのみ神経を使わせて上げられないものだろうか。

都市には、物乞いが付き物だと、どこの国の人も言う。 謙治は、外国から来る人達に物乞いのいない東京を自慢したことがあった。 しかし、物乞いのいない都市は、不自然なのではないのかと思い始めた。 数百万人が住む都市に、物乞いが居ないのは人間的ではない。 機械的な都市。 その中に長い間住んでいると、それが当たり前のような気がしていた。 百点満点の都市。 百点にするのには、大変な努力が要るが、90点なら少し努力で足りる。 日本人は百点のために人生を忘れているのではないだろうか。 謙治は夢中で、がむしゃらに長い間百点を心掛けて働いて来た。 気が付いた時自分に何も残っていなかった。自分から仕事を取ったら脱け殻だけが残った。 そうだ、機械ではないのだ、人間なのだ。 ニューヨークには人間が住んでいる。

自動車の間をすり抜けながら歩く路地。 辛うじて在る歩道ですら、無作法な自転車に脅かされなければ歩けない東京。 ベビーカーの通行を許さない、マンハッタンでは一ヶ所もお目に掛からなかった歩道橋。 東京は、人が住むようには作られてない。 アメリカ人は自分に責任を持つ。 だから、赤信号でも車が来なければ渡る。 警官は、それに対して何も言わない。 日本人は、お節介過ぎるのではないか。 エスカレーターは、いつも決まってうるさい。 東京タワーのエレベーターは、スタートから到着までにピッチリの説明が付く。 公園の木に名札が付き、鉄道には親切すぎるアナウンスが。 謙治はJRの駅で何度耳をふさぎたくなったことか。

イースト・リバーを足元に見るグレタ・ガルボが住んでいたアパートの前で写真を撮ろうとすると、歩道に居たそのアパートの住人らしい老人が、カメラの前に出てポーズをとった。 明るいアメリカ人。 楽しいアメリカ人。 このミッド・タウン・イースト地区のカフェで朝食を採っていると、やたらと一人暮らしらしい男の老人が目についた。 老人の一人暮らしなんて嬉しいものではない。 しかし、老人が一人で朝食を食べられるところが在るのが嬉しかった。 決して粗末ではない食事が、気軽に安く食べられる。 謙治は自分が老後に、この地区に住むことが出来ないものかと一瞬考えた。

東京の物価は何とかならないのだろうか。 新聞などに、物価統計と称するものが出ることがある。 東京の物価を100としてロンドンがどうの、パリがどうのというやつだ。 謙治は東京が世界一物価高であること以外、数字的なことは記憶に無い。 だが、東京を100として、ニューヨークが50とはなってなかったと思う。実感としてニューヨークの物価は、物によるとしても50以下のように謙治には感じられた。 謙治は多くの日本からの旅行者がするようには買い物をしなかった。 だが、少ない買い物でも歴然としたその差は感じられる。 第一に食品が安い。食品店でも、レストランでも東京の半分以下だ。 ブランド物のジーンズを、子供達の分も含めて何本か買った。 正規の物が東京の半値だし、バーゲン品は驚くほど安い。 雑貨が、薬品が、半値より遥かに下だ。 フランスの香水は、フランスより安い。 これらを為替のためだ、円高だからだと片付ける事の出来ない何かがあるように思う。 日本製のカメラやフィルムが日本より安い。 日本の誰が儲けすぎているのだろう。

アメリカは安全が問われる国だ。 ニューヨークは特に危険だということになっている。 毎日何人かが銃の犠牲になっていると聞いているが、こちらのテレビ放送には、その様なことは1件も報じられてなかった。 東京の交通事故が報じられないのと同じで、余りにも日常化しているからなのであろうか。 短期間の滞在で、この様な事を言うのは乱暴かもしれないが、謙治の歩き回った地域であるマンハッタンのセントラル・パーク以南では、そのような危険の存在が信じられない程であった。 謙治が東京に帰った10月25日に、京浜急行線・青物横丁駅で医師が撃たれ。 27日には市川で発砲事件があった。 暴力沙汰で名高い北九州では、28日にも銃撃戦と報じられている。 ニューヨークには、危険地帯があると聞いている。 日本には安全地帯しかない。 その安全地帯での銃撃戦は、危険極まりないのではないか。

謙治はすっかりニューヨークびいきになっていた。 人間臭い街ニューヨークが好きになっている事に戸惑いは感じなかった。

ニューアーク空港に日が差して来ていた。 きょうもニューヨークはいい天気だ。搭乗ゲイトに向かうと近くにはプロペラ機しか見えない。 まさか、ワシントンへ向かう便がプロペラ? 搭乗券はDであったから、今度は通路側だと思っていたのに、プロペラ機ならまた窓際だ。
時間になった。 バスに乗せられた。 遠くに止まっているジェットへ行くのだと思ったのも束の間、小さなプロペラ機の横でバスは止まった。 バスの運転手だけがタラップを上がり、乗務員と何やらしばらく話している。 やがてバスの運転手が機上から手招きをした。 これも日本だったら無作法になる。

4人並びの座席が12列、48座席のこのプロペラ機名を謙治は知らなかった。謙治の知っているこのクラスのプロペラ機は、YS11とフレンドシップだけだが、そのどちらでも無いようだ。 動きだしたのに中々飛ばない。 動いては止まり、動いては止まりしている。 30分も経って滑走路に向く為に180度ターンした時、驚いたことに、7・8機が後ろに列を作っているのが見えた。 飛行は順調であった。揺れもほとんど無く快調に田園風景の上を飛んでいた。 あっ!いけない!スーツケースに鍵を掛けるのを忘れた。

ワシントン・ダレス空港は、のどかとしか言い様のない空港である。 ゲイトからターミナルへはシャトルに乗る。 乗り次便のカウンターはすぐに分かった。 いつの間にか回りには日本人が多くなった。 ワシントンの太陽は、ニューヨークよりも明るいのではと感じる程、木々の緑をまぶしくしていた。 今度はワシントンにも来よう。

旅行は好きだし飛行機も嫌いではない。 だが、13時間の飛行は拷問に等しい。 それにしても日本の航空会社の乗務員は、訓練されているとは言え良くあんなに笑顔を保てるものだ。 謙治は今回、USエアーとコンチネンタルエアーに乗った。 スチゥワーデス達は親切であったが、にこにこはしていなかった。 長時間、笑顔を絶やさないで居られる日本の航空会社の乗務員達に、敬意を持ってありがとうと言いたい。

成田空港第二ターミナルのゲイトからメイン・コンコースへ行くのに、空港自慢の空気浮上式のシャトルに乗る。 たった1分間なのに「間もなく到着いたします。お出口は・・・・」下りて少し行くとエスカレーターがあった。 「お子様は中央にお乗せ、手すりに・・・・」あああ! お節介な日本へ戻ってしまった。

1994年10月
ただただワゴンセールや特売場をかき混ぜているらしかった。 10時に高島屋で降ろす。謙治は事務所に戻り、こまごました仕事を片付け、11時に迎えに行く。 高島屋から時には三越へと午前中に二つのデパートへ行く事もあったが、大抵は事務所に寄って昼食と昼寝の為に家に帰るラボルド氏を伴い、麻布十番のスーパーで餃子かシュウマイを買うのが普通であった。




9 開設披露宴
2005年05月11日(水)

駐在員事務所開設披露宴を4月に開くべく準備が始まった。 頭取も来日する。 3人になった秘書たちと謙治、全員が未経験者である。 招待者の人選にまず困った。

発展途上国の援助を目的として、主に日本の大企業により組織された「アジア民間投資会社」というのにパリ国立銀行も参画し、その事務所がパリ国立銀行と同じ国際ビル9階に在ったのでよくお互いに行き来していた。 披露宴への人選はその中から始まった。 アジア民間投資会社に出資している数百の企業の代表者と財務のトップに、次々に電話したのである。

企業にもお付き合いというものがある。 アジア民間投資会社への出資金が、どのくらいの額なのか知らなかったが、多くの企業にとって、それはお付き合いなのである。 トップの秘書達の多くは、自分の勤務している企業が、そのような組織に協力していることすら知らない。 従って、なぜ、縁もゆかりもない外国の銀行から呼ばれなければならないのか不思議がられ、取りあえず招待状だけを送る羽目になったのである。

ほとんど白くなってしまった髪を刈り上げ、ややひょうきんに見えるパリ国立銀行頭取ルドゥー氏とその一行は、春のドカ雪の翌日に羽田に着いた。 急速に解け始めている雪であったが、首都高速道路は、頭取の滞在した4日間乾くことはなかった。 この時のルドゥー氏は、頭取になったばかりであったが、既に大ボスタイプで、どっしりと大局を見極める人であるとの印象を謙治は持った。 それとは対照的に小柄な頭取夫人は、腰が低く実にこまめに動き回り、少しでも世話になった人には、心よりのお礼を述べて回るのであった。

ホテルオークラでの盛大な開設披露と、それに先立つ頭取の記者会見は、成功とは言えなかったかも知れない。 新聞には「公務員頭取だから何も言えない」と言うようなことが書かれ。 披露宴の方は招待者の半分の出席もなかった。 それでも謙治と3人の秘書たちには、給料1ヶ月分の特別ボーナスが支給された。



8 日常茶飯の交通事故
2005年05月10日(火)

正月2日の正午過ぎに、ラボルド氏から電話が入った。 「いま伊豆にいる、交通事故を起こした」恐れていた事なのだ。 ラボルド氏は、自分で運転して出かける事が多かったが、出かければ事故を起こした。 それまでは大きな事故ではなかったが、買ったばかりの日産プレジデントの左右前後を頻繁にこすっていたし、特に左前のフェンダーは、修理やさんが困るほど何度もぶつけていた。 ほとんどの場合、相手は電柱か塀であったため、たいして警察を煩わす事が無かったが、こんどのは軽乗用車が相手だと言う。

海外からの客の週末の観光には、箱根か伊豆に行くことが多かった。 特に西伊豆はラボルド氏のお気に入りのコースで、めったにお目にかかれなかったが、夕日に映える富士山が入り江に映ってでもいたら、彼は有頂天になって日本の美の代弁者になるのであった。 もちろん、いずれの場合も謙治が運転していた。

道路がまだ整備されてなかった時代の西伊豆である。 そこへ家族サービスの危険極まりない運転者が、しかも交通量の特に多い正月に行ったのだから、事故が起きても不思議はない。 場所は、大瀬崎の近くの細い路で片方が断崖、もう少しで軽乗用車を海に突き落とすところであったという。 正月は、賠償交渉で始まった。

これを皮切りに、謙治は、代わる代わるやって来る外国人派遣員たちが起こした交通事故の後始末を頻繁にやる事になったのだが、欧米人の交通事故に対する考え方は一般的な日本人のとは少し違っていて、自分は保険会社に通報するだけでいっさい相手方との交渉には応ぜず、相手が負傷していても、見舞いにさえ行かないのである。 そのことが交渉を一層困難なものにしたと謙治は思っている。




7 パリ国立銀行と命名
2005年05月09日(月)

バンク・ナショナル・ドゥ・パリ東京駐在員事務所も、少しずつ事務所らしくなり、秘書も2人になった。 銀行名を日本語にする事になり、女性2人が大張り切りで、ああでもない、こうでもない。 日本語の解らないラボルド氏もジュリアン氏も、これには参加できない。 結局、女性陣に押されて「パリ国立銀行」としたが、多少問題があると謙治は当時から思い、25年過ぎた今でも思っている。 ナショナルには、この場合あまり「国立」の意味はなく、国民とか民衆の意味合いが強いのだと聞いている。 「パリ国民銀行」という案もあったのだが、国立の方が見栄えがするという事になった。 もちろん間違えではない、国の政策により誕生した銀行であり、出資金の大半はフランス国が持ち、フランス大蔵省の管轄下にあった。 しかし、それは、ほとんど同時期に東京駐在員事務所を開設したソシエテ・ジェネラル銀行、クレディ・リヨネ銀行も同じであり、これら3行をフランス三大国立銀行と称していた。

慌ただしく過ごしている間に、クリスマスが近づいていた。 元麻布のラボルド氏邸でパーティをやることになった。 ジュリアン氏、謙治、それに2人の秘書、それらが家族かボーイフレンドを連れて来ても良いのであるが、独身者を除く全員は、家族を連れて行くのは義務であった。

ジュリアン夫妻には、14才、11才、9才の3人のお嬢さんがいて、長女のマリヨンと三女のベアトリスは、お母さん似のブロンドで、将来美人になる片りんを既に見せていたが、 次女のドミニクは残念ながらお父さん似であった。香港にはフランスの学校は無い、子供達はいずれも英国系の学校へ行っていたからだろう、英語を母国語のように話す。 夫人の英語も本物で、ウイットに富んだ会話は、好感の持てる楽しいものであった。

クリスマスパーティーは専ら子供達のためで、ラボルド夫人と謙治が、何日もかけて買い集めた玩具を、それぞれに渡し、ふんだんにケーキを食べる、それだけである。 ホテルオークラにコックとしてフランスから招請されていたミスター ・ルコントが、独立して六本木に小さなケーキ店を出して張り切っていた頃で、彼のケーキはさすがであったが、食べきれないほど用意されていた。

フランス人という民族は、最も人種を気にしない人種で、国際結婚がまだ珍しい時代であったが、フランス人の国際結婚は、フランス人が男の場合も女の場合も盛んに行われていた。 ルコント氏の奥さんも日本人であったが、奥さんは、英語ともちろん日本語を話し、ルコント氏はフランス語しか話さない、「喧嘩が出来なくて良い」というのが、フランス人仲間の専らな噂であった。

日本の正月を理解させるのは容易な事ではない。 ラボルド氏達は、短い日本での経験から、全部の商店が閉まる事など想像出来ないのである。 「フランスのデパートは日曜日には全部閉まるのに、東京のデパートは、月、火、水、木と順番に休む、幾ら正月だからと言って何日間も全部が閉まる訳が無い」と言ってなかなか信じてもらえない。 謙治の心配は、彼らの食料の事であった。 買い置きはしない人達なのだ。30日になって、丸の内のオフィスがほとんど閉まっても、まだ心配はしてないようであった。 青山に「ユアーズ」という平常は午前4時まで開いているスーパー・マーケットがあった。 そこは正月2日から営業する。 必要なものは、そこで買うようにと説明して謙治も正月休みに入った。




6 最初の3人
2005年05月08日(日)

香港支店勤務が長いジュリアン氏がアシスタントとしてやって来た。 やはりフランス人は、極東にはなかなか来たがらないらしい。 香港在住のフランス人達は、さすがに日本がどの程度かを知っている。 37才の少々太りぎみで、黒髪、悪戯っぽい大きな目、話す時の身振り手振りは、ラボルド氏以上であった。 東洋語学校で中国語を学んだとかで、読み方は違ったが、漢字をかなり理解していた。 若い頃、演劇の勉強もしていたそうで、フランソワーズ・モレシャンとクラスが一緒だったと言って、一見して目立ちがり屋と分かる10代のモレシャン嬢との演劇部の写真を見せてくれた。

中国人の訪問者が急に増えた、香港で世話になったと言って、入れ代わり立ち代わり訪ねて来る。 俄然、夜のお付き合いも増える、毎晩のように田村町(現西新橋)の日比谷通り沿いに2・3軒ある、大きな中国料理店へ行くようになった。 中国料理は胃にもたれる事が少なく好きであったが、何よりも良い点は閉店が早い事である。 朝が早い身には、それが一番のご馳走であった。

バンク・ナショナル・ドゥ・パリの香港支店は、長い歴史があり、金融市場で重要な役割を演じていて、従業員も、600人を擁しているとのことだ。 ジュリアン氏は、「我々は、バンク・ナショナル・ドゥ・パリ東京の最初の3人だ」と言って、ラボルド氏、謙治と3人で肩を組んだ。






5 外銀村
2005年05月07日(土)

三菱地所から30坪貸しても良いと言う返事が来た。 この時期、バンク・ナショナル・ドゥ・パリだけでなく、何行かの外国銀行が東京に駐在員事務所を開設しようとしているのが分かった。 それらに、1年ほど前に竣工している国際ビルの9階を割り当てるというのである。 この年、1968年の国際ビルは三菱地所の看板ビルであった。 帝国劇場と出光興産の協力を得て、三菱地所が総力を挙げて建設した、地上9階、地下6階建て、1・2階が店舗、地下1・2階がレストラン街、地下3・4階が駐車場、その下が機械室になっている。 帝国劇場が一角を占め、9階には出光美術館を擁している。 かくしてドイツ銀行、英国のバークレイズ銀行、同じく英国のウエストミンスター銀行とバンク・ナショナル・ドゥ・パリが軒を並べる外銀村が、真新しい国際ビルの9階、皇居を見下ろすお濠側に出現したのであった。

ラボルド氏がフランスから家族を連れて戻って来た。 モンテビデオを引き揚げていた奥さんと2人のお子さん達は、フランスの家族のもとで休暇を楽しんでいたのだ。 9才の男の子オリヴィエと2才の女の子ジョエル、奥さんは謙治と同じ29才であった。

ラボルド氏とは、言葉の問題はあまりなかった謙治であったが、ラボルド夫人は、ほんの少ししか英語を話さなかったし、オリヴィエは全く英語が通じなかった。 もちろん2才の子ジョエルは万国共通語が通じた。

ドライバーとしての謙治は、急に忙しくなった。 朝、元麻布の家からオリヴィエとラボルド氏を乗せて、先ず九段のリセ・フランコ・ジャポネ(暁星学園国際部、フランスの学校)。それから丸の内の事務所。 そして、すぐに元麻布に戻り、奥さんを連れてのデパートめぐりが始まった。 もちろん、最初はその必要があった。  入居した家には、たくさんの物を買う必要があっただろう。

フランス語を話す秘書が決まった。 決まったと言うより、正規の人が決まるまでの臨時である。 目の大きな襟足の長い、一見すると美人かなという40才ぐらいのご婦人で、彼女はしかし、朝は10時過ぎまで出勤せず。 謙治も事務所にいられる時間は極端に少なくなっていた。 しかたなくラボルド氏はローマ字で書いた、「今は日本人が居りません、10時過ぎにおかけ下さい」を読み上げて電話に対応していた。
この秘書には、一風変わった習慣があった。 当時はフランスパンと言えば「ドンク」と決まっていた。 そして、そのドンクのフランスパンはフランスの三色旗の青・白・赤をあしらった袋に入れてくれていた。 彼女は出勤時に、そごうデパートでそれを買い、必ず机の上に置いていたのである。 一人しかいない秘書は、もちろん受付も兼ねていた。 従って、バンク・ナショナル・ドゥ・パリ東京駐在員事務所に訪ねて来た人の目に、最初に飛び込むのが、ドンクの派手な袋なのであった。 彼女が、ジャーマンベーカリーのパンが好きだったら、ラボルド氏は、文句を言っただろうか。



4 極東の国、日本
2005年05月06日(金)

大型トラックに満載された引っ越し荷物が届いた、モンテヴィデオからである。 モンテヴィデオがウルグアイの首都であることは、調べて知っていたが、そこで使っていたという家具や寝具は、この家に前から住み込みで働いていたメイドの芳子さんも驚く程お粗末なもので、自衛隊か刑務所で使うようなベッド、汚れた毛布、食器類は良さそうなものが無くはなかったが揃ってなかった。 ラボルド氏は、日本がどのような国か分からず、家具が買えないと困るので全部持って来たのだと言って、彼の口癖になっていた「日本は極東だから」を連発した。

東京オリンピックが過ぎて4年。 世界は少しは日本のことを知り始めたと自負していた謙治であったが、フランスから見ると日本はまだまだ遠い未知の国であり、日本を中国の一地方と思っているフランス人がたくさんいるということであった。 ラボルド氏のアシスタントがなかなか決まらないでいたが、原因はその辺にあったのだろうか。

赴任したての46才のフランス人ラボルド氏は、明るく陽気で人懐こく、彼は謙治を「私のアシスタント」と誰にでも紹介していた。 引っ越し荷物の整理中、5時を過ぎると、「帰る時間だ」と言い、未だ運送業者が働いているのに、謙治を帰そうとした。 やっと業者たちの限りを付け、帰ってもらってから謙治が帰ろうとすると、「送って行く」と言う。 日本では、部下や使用人を送って行くようなことはあまり無いと断ったが、どうしてもと言うので、謙治は妻を紹介する良いチャンスだと思い送って貰うことにした。

ラボルド氏が、日本へ着て最初にしたのが、自動車運転免許の切り替えであった。 牛乳瓶の底のような眼鏡をもってしても、彼が目の検査を通るのは容易では無かった。 読めないのである。 もちろん、ひらがなやカタカナを読むのではなく、上下左右の一ヶ所が開いている輪の、開いている方を示せばよいので、日本語は不要なのである。 ラボルド氏は、分からないのに指されると何かをわめいた。 何度か繰り返すうちに、根負けした検査官は「合格」の判を押し、謙治は安堵の胸を撫で下ろしたのであったが、それが間違いであったことにすぐに気が付いた。

日本の運転免許を手に入れると、暇を持て余しているラボルド氏と謙治は、左側通行に慣れるためと、地理の勉強と称して、あちこち走り回った。 まだ、車を買ってなかったので、友人の会社のを借りっぱなしになっていたオペル・キャピタンは、当時の日本の車に比べれば大きくはあったが、アメリカ車程ではなく、走り易い方の車であった。 しかし、ラボルド氏の運転はメチャクチャであった。 左ハンドルなので謙治は当然右側、つまり道路の中央寄りに座った訳だが、数分の内に何度対向車とぶつかりそうになったことか、謙治は「わあ」とか「ウオッチアウト」とか、覚えたてのフランス語「アタンション」を叫び通しであった。

謙治は神宮前に住んでいた。 元麻布からは遠くなく、道順も複雑と言うほどではなかったが、ラボルド氏を独りで帰すのは忍びがたいので送ってもらいたくなかった。 帰り道を説明しながら、そして、何度か「危ない」と叫びながら、それでも10分程のドライブは無事に済んだ。

謙治の住んでいた都営アパートは、竣工して未だ日が浅く、狭くはあったが、少なくとも外観は薄汚れてはなかった。 夕暮れ時のそれは、美しくさえ見えた。 「何だこれは、シャトーではないか、フランスのアパートは百年以上の建物が多い、こんな奇麗なアパートとは思わなかった」と本気かお世辞か分からぬ事を言いながら4階への階段を上った。

少し前のことになるが、謙治が何かの時の連絡用にとアパートの電話番号を渡した。 ラボルド氏は「これはお前の家の電話か、本当に電話が家にあるのか、どこかから取り次いで貰うのではないのか」と驚いていた。 フランスには、パリにもそれ程電話は普及してなく、ラボルド氏の出身地の南仏ビアリッツには、町役場に一本あるぐらいだという。

謙治の妻は外出中であった。 それを知ってラボルド氏は安心したようであった。 引っ越し荷物を整理していたそのままの格好で来てしまったので、いくら使用人の妻とはいえ、そのままでは会いたくないのが本心であったろう。

翌朝車を点検すると、案の定、右側面に一本長い引っ掻き線が入っていた。




3 バンク・ナショナル・ドゥ・パリ
2005年05月05日(木)

事務所探しが始まった。 三井不動産、三菱地所、何処で仕入れた情報か分からなかったが、それ以外の物件にラボルド氏は興味を示さなかった。 竣工して間が無い、東京での最初の超高層ビルである霞ヶ関ビルへも行った。 36階建ての、空いていたのは中層階であったが、それでも眺めは素晴らしく、ラボルド氏もすっかり気に入っていた。

この頃(1968年)、世界はそれ程日本に注目してなかったので、日本で活躍している外国銀行は非常に限られていた。 それに、ある程度知名度があったのはアメリカの三行位で、フランスの銀行は存在こそしていたが、ごく一部の人が知る程度であった。 ラボルド氏は不動産屋に、「バンク・ナショナル・ドゥ・パリが、フランス国の政策によりフランスの大銀行二行の合併によって誕生した三大国立銀行の一つであり、ヨーロッパで一・二を争う大銀行である」と言う説明から始めなければならなかった。

バンク・ナショナル・ドゥ・パリが意図していたのは、いきなり支店の開設ではなく、駐在員事務所の開設であったので、それ程広いスペースは必要としてなかった。 しかし、天下の三菱地所や三井不動産は、得体の知れない外国の銀行に対して、それ程好意的ではなく、ラボルド氏の欲する30坪程の細切れは出来ないというのであった。

毎日やることがたくさんある訳ではなかったので、ラボルド氏は、良く昼寝をした。 10時頃から動き始め、やがて来るであろう子供達の為の学校の手続きに行ったり、事務所と住宅探しをしたりで終わり、12時から3時、時には4時ごろ迄、昼食の後寝ていた。

謙治は、かなり東京の地理に詳しかったが、私立学校の名前を聞いて、「はい、かしこまりました」と行けるようではもちろん無かった。 増して、日本語の学校名がフランス語になっていたら。 「リセ・エトワール・ドゥ・マタン」がそれであった。 リセが学校であり、エトワールが星であり、マタンが朝であることが分かるのには、ラボルド氏の身体全体を使った説明で、それ程時間はかからなかったが、それが、暁星学園であると分かるのには当時の謙治には難しい事であった。

家は結局、謙治が短期間ドライバーをしていたドイツ人が去った後を引き継ぐことになった。 元麻布にガマ池という小さな池があったが、その傍らの、庭の広い、日当たりの良いのが取り柄の一軒家で、まもなくその著書「みにくい日本人」で話題を醸したスイス赴任の日本大使の家であった。



2 コモタレブー
2005年05月02日(月)

「ヨーロッパの大きな銀行が、東京に事務所を開くから働いてみないか」友人に言われるまま、その友人の会社に埃まみれになっていた、オペル・キャピタンという少し大きい、しかし、ポンコツ車を借りて、羽田空港へ不安と期待とで入り交じった心を落ち着かせながら、着任するラボルド氏を迎えに行ったのは、1968年8月の幾分秋めいて来た夕暮れで、謙治は29才であった。

家庭の都合で上級進学をあきらめざるを得なかった謙治は、中学校を出てすぐ、蔵前の文房具店に丁稚奉公に入ったが、向学心旺盛で、特に好きな英語の勉強は、日に16時間以上に及ぶ厳しい労働環境の中でも、ほんの少しの時間を見つけては続けていた。 その後、英語学習のために何度か職場を変えたりしながら、辛うじて使える英語を身に付けることができていた。

いつもそうであったが、人でごった返している狭い国際便到着ロビーは、身長160�僂慮�治には決して居心地の良い場所ではなかった。 増してこの日は、これからの主人となるかも知れない人に、粗相があってはいけないのである。"Mr. LABORDE"と書いた札を一段と高く掲げた。

半分以上頭が禿げ、度の強い眼鏡を掛けた、太ってはないがお腹の出た中年の男性が近づいて来て、謙治の掲げている札に目を凝らしている。"Excuse me, sir but aren't you Mr. Laborde?" 大袈裟に安堵の表情を浮かべた彼は、「コモタレブー」と言いつつ、大きな手でぎゅうぎゅう謙治の手を握った。 あとで車のハンドルに置いた手が腫れぼったく感じた程であった。

ある程度英語に自信がついてから、謙治はアメリカの中堅の商事会社に2年程在籍した。その後、ドイツ人の家庭のドライバーを少しの間やっていた。 だから、10や20のドイツ語は分かる。これからはフランス語を勉強しなくてはと謙治は思った。

ラボルド氏は良く喋った、「モンテヴィデオに3年間いた。 日本は初めてであり、非常に興奮している。 ワイフと2人の子供がいる、住む家が決まったら呼びに行く。 おまえは英語が上手なのに驚いた、Banque Nationale de Paris はヨーロッパ最大の銀行であり、従業員を非常に大切にする。学歴なんか気にする事はない、実力第一だ。 だから、ぜひ、お前も私といっしょに働いたらどうか」謙治は、モンテヴィデオがどこに在るのか知らなかった。

帝国ホテルは工事中であった。 ライトの設計で有名な旧館を取り壊し、新館の建築中であったので、駐車スペースが無かった。 謙治はラボルド氏に、駐車スペースのあるホテルに移ってはどうかと申し出たが、彼の答えは簡単明瞭、「私は、一流ホテルに滞在しなくてはならない。 誰かが訪ねて来たり、又、人に滞在先を言う時、それは一流ホテルでなければならない」
近くにパレスホテルがあり、ちょっと離れれば、ずっと落ち着いたホテルオークラがある、と説明したものの、それが直ちに取り入れられる程、謙治はまだ信頼されてなかった。




1 無音のH
2005年05月01日(日)

「オンダのタカアシさんに電話したい」多くのフランス人は、Hの音を出すのが非常に苦手である。 それは、一般的な日本人が、英語やフランス語でLとRが難しいのと似ているかも知れない。 「本田」が「オンダ」になり「高橋」は「タカアシ」になってしまう。「週末にアコネへ行った」と聞けば、ははあ、箱根へ行ったのだなと、フランス人に慣れると解るようになる。 時にはH音を気にし過ぎて、無い所に付けてしまう事もある。「ハタミのMOA美術館は素晴らしい」一瞬まごつくが、MOA美術館は熱海に在ったなと思い、H音を出そうとする意欲に敬意をはらい、微笑んで上げることにしている。

津村謙治は、ひょんな事からフランスの銀行に職を得て25年になる。 初めは難解であったフランス人の英語にすっかり慣れ、最近ではアメリカ人の英語の方が分かり難いと思うようになってしまった。 例えば、こんなのはどうであろう「イー・アズ・イズ・アット・イン・イズ・アンド」謙治はこれを He has his hat in his hand. であると容易に判断するようにいつしかなった。 それでも、未だに多くの固有名詞、特に人名、尾高さんと穂高さん、石田さんと菱田さんの様に、両方存在する名前には泣かされる事が時としてある。

フランスから保険会社の重役だというご夫妻が、観光旅行で来たことがあった。 感じの良い人達で、謙治も喜んで箱根、伊豆、日光へとサービスした。 御殿場インターを出て、箱根へ向かう左側のすえひろで、すき焼きを食べながら箸の持ち方を教えるのが恒例になっていたが、二人とも良い生徒で、喜んで習い、すぐに上手に使えるようになった。 離日が近くなって来た日、「息子への土産に医療器具を買いたい」と言い出した。

1970年代初めである。誰もが日本からの土産といえば、ラジオ、カメラ、真珠、ゆかたの様なものを選んでいた。 日本の楽器という人もいた。 医者嫌いの謙治は、医療器具には何の知識もなかった。 ともかく、外科医の手術用だと言うので、電話帳で探した文京区湯島の医療器具問屋へ行き、いろいろ見せてもらった。 どれも立派なもので値の張る物ばかりである。 その内に、"My son is only eye school student."という。不定冠詞が省かれているし、眼科医の学校なら他に単語があるのだがと思いながらも、英語を母国語としない人達の英語である、この位の事はお互い様だ。 眼科医の道具を見せてもらう。 しかし、まだ不満であるらしい「アイ スクール」を盛んに繰り返す。 「これらは、眼科医の道具である、見れば分かるではないか。」遂には手のひらを下にして高くかざし「アイ スクール」を繰り返す。 ああそうだ、アイ スクールではなくハイ スクール(high school student)だったのだ。

失敗も嫌な事もたくさんあった。 しかし、25年を振り返る時、謙治は、愛すべき民族、フランス人達と過ごせた事を、そのおおむねに於いて幸せであったと思っている。





BACK   NEXT
目次ページ