パリ国立銀行が入っていた郵船ビルの隣に丸ビルの名で親しまれていた丸の内ビルがあった。 そこには、商店やレストランがたくさん入っていた。 謙治なしには昼食も満足に摂れなかったホンコンからのコンピューターチームのフランス人グリオの除いた3人とは、そこのキャッスルという古ぼけた洋食屋で食べる事が多かった。 1923年に竣工された丸ビルの、おそらくは当初からあったのであろうこのレストランは、どう見てもきれいとは言えなかったが、かつての一流レストランらしく出す料理は全員の喜ぶものであった。 しかし、このレストランを健治たちが好んだのにはもう1つ理由があった。 BGMである。 BGMと言うよりは音楽が流れていると言った方が正しいであろう。 音楽喫茶で流すように、ちゃんと聴かせてくれるのである、それも謙治たち全員が好きなカーペンターズを。 食事の後は、ゆっくりと時間までくつろぐのが通常であった。 1983年のことであった。 悲報が飛び込んできた。 アメリカで2月4日なのだから、東京では2月5日だったのだろう。 朝のニュースでカレン・カーペンターがダウニーの自宅で死んでいるのが発見されたこと知った。 後に心臓発作と言われたりしたが、拒食症と言う事だった。 カレンの歌声を聴きながらの食事は辛いものであった。 李譲は注文したものを前にして手を付けず、ボロボロと流れる涙もそのまま膝の上に落としていた。 「いくらでも薬があるのに」と呟きながら。
ジュリアン氏が三度目の東京勤務になった。 こんどは支店長である。 老眼鏡をかけ一回り太くなったジュリアン氏は、それでも元気一杯張り切っていた。 夫人も老眼鏡のお世話になっていて、謙治に向かって「お前はまだ大丈夫なのか?」「眼鏡は未だですけど、読む時は大分遠くしなければならなくなりました」「あっはっは! すぐ手の長さが足りなくなるよ、そうしたらお前も老眼鏡を掛けるようになる。」 5年と数ヶ月振りである。 謙治は戻って来てくれて大変嬉しいと本心で言った。 ルレー支店長も定年である。 一見すると、呑気者と思える位おっとりしていて、頭取が一緒の時など、びくびくしていた前支店長シャピュー氏と違い、平気で鼻歌を歌ったりしていたが、てきぱきと良く働く人であった。 ルレー氏の離日を待ちかねたように、「きょうからは俺の支店だ」と言ってジュリアン氏は、ばりばり働き始めた。 しかし、以前からそうであったが、決して能率的ではなかった。 会話好きなのか、決断力が足りないのか、自分の机の前に、常に2・3人座らせ、それでも足りずにちょっとした事でも四方八方に長電話をし、資料を取り寄せ長時間かけて決断した。 そして、決まって夕方になると、テレックスや手紙の準備をしだし秘書たちを困らせた。 ジュリアン氏は又、書類を無くす名人でもあった。 整理をする事を知らない彼の大きな机は、常にうずたかい書類の山で、必要な物は全部そこに有ったが、見付けるのは一苦労であった。 瞬時に結論を出し、きちんと整理してあるスールミヤック氏とは余りにも違い過ぎた。 横浜税関の係官が3人、ジュリアン氏に会いたいと言って突然訪ねて来た。ジュリアン氏は勿論、何時ものように自分の前に何人も座らせて、電話と会議と称するもので忙しかった。 「税関なら謙治が相手すればいい」。 税関の係官たちは、謙治に要件を言わず、ただ、ジュリアン氏がどのような人なのかを聴くに止め、要件は直接本人に伝える、何時まででも待つと言った。 係官達をジュリアン氏の部屋に案内した謙治の同席を係官達は拒否したので、部屋のドアーを閉めたが、暫くすると取って付けた様なジュリアン氏の大笑いが聞こえてきた。 パナマに居た時は、ピストルをアタッシュケースに入れて常に持っていた。そのアッタシュケースが、引っ越し荷物に紛れて入ってしまった。 ジュリアン氏は、その様にあとで謙治に説明した。 税関への釈明もそうであったのだろう。 謙治はそれを大変疑わしい釈明であったと今でも思っている。 膨大な引っ越し荷物の中のピストル1丁が、見つかる訳が無いと高を括っていたのだろう。 ともかく、本来なら直ちに連行される所を、翌日、横浜税関へ出頭する事で許してもらった。 横浜税関へ出頭するのは初めてではなかった。1970年頃であったが、香港の某社の貨物船が横浜に停泊していた時、当時の駐在員事務所代表のラボルド氏とジュリアン氏が船上の昼食に招待された。 中国人は接待上手である。 通常言われている事だが、外航船は免税品の山である。 贅沢な物、当時は非常に高価であった酒類もふんだんにあった。 4時間もかかった昼食ですっかりご満悦の2人に、ボトルの土産までくれた。 桟橋を出た所で税関史に車を止められた。 ラボルド氏は急いでボトルを座席の下に押し込んで、申告する物は無いかとの税関史の質問に呆けようとしたが、ボトルを発見されてしまった。 そうなると、もう「税金を払います」では済まされない。 あとを追って来た船主たちの機転で、ジュリアン氏が罪を被る事になり、税関に連行されて行ったのであった。 もし、税関でジュリアン氏の過去を調べでもしたら、面倒な事になったのだろうが、ピストルはパナマへ送り返す事として落着した。
フランスの大統領が社会党のミッテランになった影響で、パリ国立銀行本店の上層部も大幅に入れ替わった。 東京支店長のルレー氏に直接的な影響があったとは思われなかったが、ひとりで残念がっていた。 国有化が進み、個人が所有していたパリ国立銀行の株も国家が買い上げた。 しかし、一般従業員にしてみれば、何の変化も感じ取る事が出来なかったと言っても過言ではない。 そんな中、新頭取トマ氏が東京に来る事になった。 名目上は、大蔵省や日本銀行、その他への挨拶回りであったが、週末を挟んでの数日間を京都、奈良、伊勢志摩で過ごす事になっていた。 その旅行中の世話焼きを謙治が命ぜられたのである。 トマ頭取の年齢は、知る気がなかったので最後まで分からなかった。 謙治は頭取から質問され、年齢、子供の数、勤続年数も答えたが、「あなたはお幾つですか」とは聴けなかった。 肩を幾分丸めた姿勢の影響か、一見小柄な老人のように見える頭取であったが、実に勢力的に活発に動き回る人であった。 水曜日の夕方、京都駅でレンタカーを借り、大阪支店が予約してくれた由緒ある旅館、京都「柊や(ひいらぎや)」へ向かった。 謙治は、緊張で凝り固まっていた。 京都を走るのは初めてでは無かったが、地図のみが頼りであったし、雲の上の人、頭取と二人きりである。 頭取はしきりに時間を気にしていた。 出発前、スールミヤック氏が言っていた事が思い出された。 この旅行は全くの個人的な旅行であり、何があっても臨機応変に対応し、一切報告の必要はない。 頭取は前年に奥さんを亡くしていた。 本能寺近くの柊やに着いたのは、とっぷり日が落ちてからで、頭取は、「明朝九時に」と言ってさっさと自分の部屋へ引き上げてしまった。 夜もいろいろ面倒を見る事があるのではと思っていた謙治は拍子抜けしたが、個人主義の徹底した人達の事だから、夜まで拘束はしないのだろうと解釈する事にした。 謙治の宿はどこでも良かった。 どちらかと言えばホテルの方が気が休まると思われたが、柊やに謙治の分まで用意せれていた。 「由緒ある」と言う事は、「不便な」と言う事であるのがすぐに分かった。 江戸時代に建てられた旅館の、謙治の通された部屋は、もちろん柊やの一番質素な部屋であったのだろう。 トイレも洗面所も無い。 小さな手だけなら洗えそうな設備が有り、一応、水と湯の栓が有った。 全開にした湯の栓からは茶色い細い糸のような水しか出ず、暫く出し放しにしたが一向に温かくならなかった。 しかし、お風呂の準備が出来ましたと通された湯殿は、豪華としか言い様のない大きな総檜の部屋に、総檜の浴槽、お湯も一人一人入れ替えている様であった。 すっかり良い気持ちになって戻ってきた謙治を、もっと驚かせたのは食事であった。 10月の終わりの京都、マツタケのオンパレードである。 謙治は運ばれるたびに受ける説明にただ肯くだけで、それらの料理のほとんどは名前も聞いたことも無く、幾つかは、これがそうかと言うようなのばかりであった。 高価な物なのであろう、これだけのマツタケをかつて食べた事が無いし、これからも食べないであろう。 しかし、それが何だというのだろうか、確かに美味しいと思う、だからと言って数万円を払って食べたい物ではない。 頭取の方がちょっと気になる。 給仕の人によると「お二人ともマツタケをお召し上がりになりませんね」と言う事だ。 やっぱりお二人か! 天気の良い京都の秋というのは実に気持ちが良い。 頭取と奥さん。 謙治は初め何と呼んだら良いものか困ったが、フランス語には良い言葉ガある、「マダム」である。 彼等は、マドモアゼル以上の年令の女性に対しては、未婚であることを知っている場合は別だがマダムと呼ぶ。 頭取とマダムは京都に関して研究済みで、謙治は案内する必要は無く、運転するだけで良かった。 だから、最初の目的地に着いたら、次の目的地を地図上で探し、迷わないようにそこへ行けば良いのであった。 ただ、一通りの観光社寺だけでなく、謙治の耳に新しい寺をフランス語訛りで言われるので、探し当てるのが楽では無いのも有った。 初めは緊張していた謙治も、頭取が唯の元気の良い老人に見えて来た。 マダムも人なつこい笑顔の、機敏に動く年配の女性であった。 予定では、柊やを金曜日の朝チェックアウトし、2日目の京都観光のあと、奈良の旅館に一泊し、土曜日は奈良観光のあと鳥羽へ。 そして、畳の部屋の珍しさにも飽きた二人にくつろいで貰うように、鳥羽国際ホテルを予約してあった。 しかし、金曜日の朝、柊やを出る時、2人の荷物は出来てない。「この旅館は、京都で一番良い旅館なのだろう、奈良に泊まるのは止めにする。今晩も柊やに泊まる」「奈良の旅館も良い旅館です。 それに今からのキャンセルは無理です」何を言って受け付けなかった。 もう頭取が決めた事なのである。 謙治は奈良の旅館に「健康上の理由で旅行を続けることが出来なくなった」と謝りの電話を入れた。 料理を仕込んでしまっていますので、と執拗に迫られたが、謙治にはどうする事も出来なかった。 翌日、その旅館の前を通った。 興福寺近くのその旅館は、少なくとも謙治には立派に見えたし、庭も無いに等しい町中の柊やとは比べ物にならなかった。 そんな訳で、庶民がうらやむ柊やに3泊もして、マツタケ三昧をさせてもらったが、チェックアウトの時、ちょっとしたトラブルがあった。 「個人的な旅行であるから、清算を済ませたい」と言う頭取に対して、柊やは銀行に請求しますと言う。 散々もめた挙げ句、計算してくれたが、30万円を超していた。 頭取には、千ドル分のトラベラーズチェックしか持ち合わせが無かった。 土曜日の京都から奈良への道路は、謙治の不案内で主要道路を行った為かも知れないが、ひどい渋滞に巻き込まれた。 この日は、伊賀を越えて伊勢志摩まで行かなくてはならないのである。 大急ぎで奈良の寺々を回り、法隆寺へと向かった。 またしても渋滞である。 法隆寺駐車場へ着いたのは、2時を過ぎていた。 お昼をまだ済ませてない。 近所には食事の出来そうな所が見当たらなかった。 頭取は、駐車場の土産物店に入り食べ物を物色した。 そこは、食べさせるようにはなってなかったが、どうした訳か小さな鮭缶と菓子パンが有った。 パリ国立銀行頭取他2名のこの日の昼食は、鮭缶と菓子パンであった。 この時に限らず、頭取たちの食事は、これで良いのかと思うくらい少なかった。 夕飯は、「あのきのこは何だ」と言うくらいで、大して食べてないようであったし。 お昼は謙治も一緒であったが、ビール一本と和食を半人前も食べなかった。 それでいて、どこからあんなエネルギーが出るのかと思うほど活発に動いた。 京都の「哲学の小路」を手をつないで歩く2人は、20代の恋人たちのようにはしゃいで見えた。 しかし、法隆寺を見学し終わった二人は、志摩への道も渋滞すると思いうんざりしていて、「東京へ帰る」と言い出した。 言い出す事、すなわち決定なのである。 不思議な事に、法隆寺から京都へ戻る道は渋滞していなかった。 土曜日の夕方の新幹線は混んでいたが、一本待てばグリーンに2席並んで取れた。 謙治は、レンタカーを返さなければならなかったので、もっと後の列車に乗る事にした。 頭取たちは、東京での宿の心配は要らない様であった。 東京のフランス大使館には客用の部屋がある。 マダムがフランス大使夫人に電話をした。 ファースト・ネームで呼び合う中で、東京駅に着く時間と列車番号を言っただけである。 かわいそうな大使の運転手が休日の夜遅くに迎えに出されるのであろう。 鳥羽国際ホテルにキャンセルの電話を入れなければならない。 謙治は、前日に、同じくキャンセルの電話をした奈良の旅館のことを思い出し、嫌な気分になった。 奈良の旅館には、半額の予約金を払ってある。 当日のキャンセルだから返してはもらえない。 それでも電話に出た女将さんは、食事の用意をしてしまっているからと、非常に残念がっていた。 鳥羽国際ホテルには、予約金も入れてない。 もっと早くに電話すべきであった。 多少の嫌みは覚悟で電話した謙治は、「かしこまりました、次回のご利用をお待ち致しております」と言うフロントの応対に安堵し、ぜひ、利用出来る日が来る事を願った。 東京支店長ルレー氏には、予定の変更を伝えるなと言われたが、別れてすぐに電話した。 哀れな支店長の大きな溜め息が聞こえた。 頭取が帰仏して4・5日が過ぎた。 1階店頭からお客様ですとの連絡で下りて行くと、マダムが居た。 「明日フランスへ帰ります、大変お世話になりました」と言って、小さな記念品と手紙をくれた。 フランス大統領府専用の封筒であった。
所悪の根源のモレオン氏が、大阪支店に配転になった。 後任としてシンガポール支店からやって来たチョビ髭を蓄えたスールミヤック氏は、まず、部屋の片隅に立ってぶつぶつ言う事から始まった。 全員の名前を覚えようとしていたのである。 そして、70人の名前を瞬く間に覚えてしまった。 次に彼がしたのは、机に透明ガラスを置き、その下に日本地図を広げて地名と位置を覚える事であった。 これも、大きな成功を修めた事がすぐに分かった。 ほとんどの地方銀行の本店所在地を、地図の上で指せるようになったのである。 どうした訳かこの銀行は、マネージャー達の交代が重なる。 シャントレル氏もモントリオールへ行ってしまった。 謙治は正直で飾らない、それでいて紳士的なシャントレル氏が好きであった。 奥さんに対しても優しすぎた彼は、謙治を困らせた事が一度だけ有った。 娘が可愛がるからと、秘書の家に生まれた子猫を貰って飼っていたが、子猫はいつまでも子猫でいない。 シャントレル夫人は、絨毯を汚すと言って猫を嫌った。 シャントレル氏は、そのことを随分悩んだ挙げ句、謙治に相談した、と言っても結論は出ていたのである。 獣医に頼んで処分して貰う事になった。 おとなしい猫で、食べ物が良かったのだろう、すぐに遺体となるボストンバッグに入ったその猫は随分重かった。 「これを注射すると、苦しまないんですよ」と言って、表参道近くのペット医院の若い男性獣医が涙するのを見て、謙治は自分が恥ずかしかった。 それ以外はとても良い家族で、これまでに見送って来たたくさんの家族の中でも、特に好きな部類である。 奥さんは、日本語の勉強に励んでいたが、上達が早く、モントリオールへ行っても日本語の勉強を続けると言っていた。 又、日本の食文化にも大変なお熱の入れようで、すしの勉強をしたからと彼女なりに握ったりしていた。 豆腐も好きであったが、食べられなくなると困ると言って、豆腐作りの道具を買って行ったほどだ。 マルタン ドゥ ボセ、これ全部が名字なのである。 カタカナで書くとこれだけだが、Martin de Beauceとなる。 フランス語で書くともっと長くなる。 英語のミスターはMr.で済むが、フランス語のムッシュウーは略すとM.だけになる。 そこで間違いを無くすためにフルに書くとMonsieur Martin de Beauce となる。 これにファーストネームだのミドゥルネームだのを付け加えると名刺の名前が2行になってしまう。 ミスター マルタン ドゥ ボセと呼んでみる。 やはり長すぎる。 本人も十分それを承知していて、ドゥボセだけにしてくれと言う。 だから名刺には、それだけしか入れてない。190��90�舛竜霏里蓮�一見優しそうだ。 シャントレル氏の後任の副支店長である。 又しても、ドゥの付く名だ。 必ずしも全部がそうとは言えないが貴族の出なのである。フランス革命で王族が処刑されて久しいが、これ等「ドゥ族」は、未だに家名を大事にしているらしい。 ドゥ族同士だからか以前東京の総務から大阪支店長にもなったドゥ モンティーユ氏の友達だそうで、ブエノスアイレスに居る彼から謙治の事をいろいろ聞いているらしい。 早くも期待をされ過ぎている様だ。ドゥ モンティーユ家もそうであったが、ドゥ ボセ家もフランスには珍しい4人の子持ちである。 シャントレル氏の住んでいた平川町のアパートは、かなり広くはあったが、ドゥボセ氏の気には入らなかった。 彼の希望は一戸建てである。 それも子供達の学校リセー・フランコ・ジャポネーの近くに。 飯田橋付近にハイクラスな貸し家を見つける事は、1983年には難しかったが、やっと神楽坂に建築中の貸し家を見つける事が出来た。 出来上りを待って住む事になったのだが問題が耐えなかった。 ずっと以前、ジュリアン氏が最初に来た1968年に千代田区紀尾井町に借りた一戸建ての家は、高級木材の洋風建築で、堂々とした家であった。 しかし、建築後何年経っていたのか分からなかったが、かなり古い建物で、暖房、冷房、給湯のことで謙治は常に泣かされていた。 パラス氏が住んでいた時には、「起きたらお湯が出ない、顔が洗えない」と朝の6時頃よく電話で呼び出されたのであったが、それ以後、住宅を借りる時は、管理の行き届いている事を第一条件としていた。ドゥボセ氏の入居した神楽坂の家は、大木材企業の重役が内職で始めた貸し家業で、外人に家を貸す経験が無かった。 加えてドゥボセ氏は、何一つ自分では出来ない人であった。 「戸棚のネジがゆるんだから誰かよこしてくれ。」 言葉の分からない外国に暮らすという事は、経験は無いが謙治自身大変な事であろうと感じている。 だから、忙しい最中に問題を持ち込まれても、嫌な顔をしない様に努めている。 彼等の言って来る事は、実に雑多である。 出入国に関する事、これは謙治の業務の内だと思っている。 住宅の諸問題、自動車の購入から整備。 いずれの民族もそうであろうが、税金と言うと目くじら立てる人達に、何故何種類もの税金が自動車の架かるのかを理解してもらうのは容易な事ではない。 そして、頻繁に起きる自動車事故。 買い物、こんな物が欲しいが何処で手に入るか、どう行くのか。 子供が病気になった、どうしたら良いか。 テレビの映りが悪い。 テープレコーダーが壊れた。 週末には何処へ行ったら良いのか。 屋根から雪が落ちて盆栽を壊してしまった、雪が落ちない様にしてくれ。 そんなのが、いつの間にか9家族になった。 スールミヤックは、本店人事のランクでは高い方では無かったが、仕事は能率的に素早く片付けるタイプの人間であリ、整理整頓を他人に押し付ける事はしなかったが、彼の総ての物はきちんと整理され、何が何処にあるかを完全に把握していた。 彼は又、記憶力が異常と言える程高く、数ヶ月の内に東京の地理を、こんな所までと思うほど精通した。 何よりも謙治を驚かせたのは、彼が京都観光をしたあとであった。 謙治の経験では、「京都は素敵だ」と言って何度も行っている人でも、空ですらすらと神社仏閣の名前を言える外人は少ない。 大多数の外人たちは、神社も寺も区別が付かず、「たくさん同じ様な所へ行った」と、辟易して言うのが関の山である。 スールミヤック氏は、神社の名前を言うだけではなく、すらすらと京都の地図を書き、この辺に光悦寺、素晴らしかった、金閣寺はどうしてあんなに人が行くのだろう、あんまり好きでは無い。 嵯峨野の方は好きだ。 ペンは右へ来て、詩仙堂、銀閣寺、南禅寺と滑らかに出る。 謙治自身そんなには知らない。 仕事を素早く片付けてしまうスールミヤック氏は、銀行内を歩き回るのが日課であった。 誰が何をしているか、何処に無駄が有り、何処に何が必要か、一見ちゃらんぽらんに歩いている様であったが、実に良く気が付いていた。 そして、彼は決して密かに歩き回る事は無かった。 大声で「誰々さん元気?」「何々さん嬉しそうだね」。 だから、彼が隣の部屋に来ても分かるのであった。そんなスールミヤック氏も、上司に対するゴマスリは下手で、本店人事のランクが上がらないと言って、個室に鍵をかけて密かに泣いていた事も有った。
企業には、それぞれの社風と言うようなものがあると謙治は信じていた。 パリ国立銀行のそれは、温か味の有る労使関係であった筈であった。 しかし、そんなものはたった一人の、その時の上層部によって一変してしまうのだろうか。 総務と人事担当のフランス人モレオン氏は、着任後しばらくは、謙治との関係はとても良かった。 しかし、日本の銀行を定年退職して、監査としてやって来た林氏と、アメリカの大学出だと言う藤森氏が総務に加わった頃から、様子が変わって来た。 モレオン氏がどの様な家系の出なのか、謙治は聴いた事は無かったが、彼は人をその家系により価値を決める様なところが有った。 大磯に別荘があるという行員がいたが、モレオン氏はその人を信頼した。 林氏は世田谷に土地があり、庭にアパートを建てて外人に貸していた。 だから、モレオン氏のお眼鏡に叶った。 林氏は密告魔でもあった。 自分の物差し、日本の銀行に居た時の大きな組織での物差し。 何千人もが働いている企業での物差しを当てて、異なっていれば悪とし、すべてをモレオン氏にあやふやな英語で密告した。 該当者への注意も、話し合いも無かった。 モレオン氏は、林氏が悪いと言えば、そのまま受入れた。 藤森氏は、モレオン氏に依ると京都に大きな家を持っている事になっていた(あとで知ったのだが、藤森氏の家は、京都であるが日本海の舞鶴であったし、決して大きくはなかった)だから彼も合格なのである。 真正直でやる気満々の藤森氏は、残念な事に総てが的外れであり、常識から遠くかけ離れていて、モレオン氏意外に彼を支持する者はいなかった。 職場全体が暗くなり、不満がくすぶり始めていた。 パリ国立銀行東京支店が開設されて10年以上になったが、まだ労働組合が無かった。 だれも、その必要性を感じなかったからだ。 だが、ここ1・2年の職場の雰囲気は、決していいものでは無くなっていた。 まず、第一の不満は、ベースアップが一部の人を除いて殆ど無くなっていた。 次に、高圧的な藤森氏の態度に皆は反発していた。 監査の林氏が、彼の職務柄、支店内を歩き回るのは仕方の無い事であったが皆から嫌われた。 忙しい時に、とんちんかんな質問をして回り、ボケの進んでいる林氏は、何回説明されても理解しない事が多く、遂には険悪になる事も珍しくはなかった。 己の非に気付かない林氏のモレオン氏への報告は、ひどいものになった。 モレオン氏は又、秘密主義者であることも職場を暗くした。 大して重要でもない事を秘密にした。 事務所の模様替え、配置替え、間仕切りの移動という様な事が頻繁に行われていて、謙治は、巻き尺を持ってあちこち測り、図面を書いたりしたが、それを秘密裏に行うことは殆んど不可能であった。 しかし、モレオン氏は、自分が発表する前に誰かがそれを知っている事を非常に嫌った。 前支店長のシャピュー氏が、謙治を総務オフィサーと成るように手配して行ったし、時々舞い込んで来るシャピュー氏からの手紙には、総務オフィサー津村謙治となっていたが、モレオン氏が、その昇進を握りつぶしてしまった事も知った。 秘密を守れない者は、総務部のオフィサーには相応しくないというのが理由であるらしかった。 全員が、定年は60才だと信じていたのに、多くの社員に慕われていた契約社員の一人が、健康を理由に55才で契約継続がならなかった。 行員の中にくすぶっていた不満が、一挙に爆発した。 ある夕方、突然大勢がぞろぞろと総務部へやって来た。 労働組合を作ったというのである。 謙治は、外人達と近すぎるので、発足に当たっての一切を知らされずにいた。 しかし、総務部員である謙治が組合員になることに、誰も異論を挟まなかった。 どちらかというと火消し役ではあったが、謙治も組合員になった。 血の気が多いのが大勢居た。 普段は、和やかに、愉快に付き合っている連中にとんでもない過激派が居ることに謙治は戸惑った。 ストライキを真剣に考えている者もいた。 1980年代中頃で、まだまだ人手不足の時代であった。 職種に依っては引く手数多なのである。 謙治自身、転職を考え始めていた。 藤森氏は、謙治より2年若いので、定年まで彼の部下である事を考えると憂鬱になっていた。 しかし、謙治は未だ、フランス人を、パリ国立銀行を信じていた。 従業員をないがしろにするような銀行では無いと信じていた。 だから、組合員でありながら、常に経営者的な考え方で組合の会合に挑んだ。 「お前達は要求ばかりするけれど、ちゃんと恥ずかしくないだけの責任は果たしているのか? 長い経験からパリ国立銀行の経営陣が、それ程冷たい連中とは思えない。 短期的に嫌な想いをしているかも知れないが、いま過激な事をすれは、必ず悔いが残る」と説いた。 謙治は、パリ国立銀行を愛していた。 この時期、一部のアメリカや英国の銀行、それにオランダの銀行が労働争議で有名であったが、謙治は、パリ国立銀行をそのような銀行と同類にはしたくなかった。
1982年の夏の終わり。 遅まきながら東京支店もコンピューター化の始まりである。 一足も二足も前からコンピューター化されていた香港支店から、若いフランス人、グリオ氏率いる4人のEDPチームがやって来た。 ポルトガル人のオズモンド氏、香港中国人チャック氏と李嬢。 入国の手続き、住居の手配に始まって、様々な事の面倒を見るのは謙治の役目であったが、グリオ氏を除いた3人は、総ての面に於いて謙治を頼って来た。 昼食、買い物、そして休日の過ごし方。 初めの3ヶ月ほどは、謙治自身も楽しめる面が無かった訳ではないが、6ヶ月が過ぎ、7ヶ月になるともううんざりして来た。 香港中国人の2人は、不思議な事に観光旅行という行為そのものを知らなかった。 限られた地域、香港に生活していると旅行という概念が無いのかも知れない。 彼等はボーリングをやる事と遊園地へ行く事は大好きであった。 しかし、電車に乗って遠くへ行き、景色を見たり、旧所名跡を訪ねたりとなると理解出来ず、泊りがけなんて全く考えが及ばない様子であった。
謙治がマンションを買って2・3年の内に、相次いで何人かが住宅を取得したり建て替えたりした。 貸付期間の最長20年は変わらなかったが、最終返済日が60才まで認められる様になった。 事実上の定年延長である。 あとは退職金規約の改定が残っている。 勤続年数×基本給では、優良企業の退職金としては、ちょっとお寒いのだはないだろうか。
銀行間の通信、特に海外からの通信量が膨大になりつつあり、金融機関専用コンピューター通信「SWIFT」が始まろうとしていた。 1981年夏の終わりである。 テレックスに代り、多用化する銀行業務に対応する為に開発された全く新しい通信システムで、近い将来に銀行内の主コンピューターに接続され、自動化に大いに役立つ筈である。 パリ国立銀行東京支店は、この時点では、まだコンピューター化はされてない。 専用線だのモデムだのと、謙治の耳に新しい物が導入せれ始めた。 謙治は、パソコンの重要さを早くから認識し、パソコン雑誌を買い勉強していた。 上層部にパソコンの重要さを説き、購入の要請をしたが跳ねつけられた。 何に使うのだと。 皆がパソコンに慣れ親しむこと、それが大事なのであるが、そんな物に銀行は金を出さない。 パソコンの魔力に取り付かれた謙治は、大枚をはたいて自宅にパソコンを買ってしまった。 ソフトが市販されるようになるのは、そのずっと後のことであったと謙治は理解している。 ロータスもエクセルもワードも無く、日本語入力など考えも及ばなかった。 従って、したい仕事の為には自分でソフトを組まなくてはならない。 謙治はまず、テレックスのテストキーのプログラムを組む事にして、簡易言語としてのBASICで、連日深夜まで、まだPC98が出る前の、NECのPC88で格闘した。 テストキーというのは、一般の人には馴染みが薄いかも知れないので、簡単に説明しよう。 書類で重要な事を指示する時は、登録してあるサイン、又は印鑑の照合により、その指示が権限を有するものによって発せられた正規のものであるか否かを確認する事が出来る。 しかし、テレックスの場合は、アンサーバックによって発進元の確認は出来るが、サインも印鑑も無いので、そのメッセージが正規のものかどうかの判断は出来なくなる。 そこで考えられたのが、テストキーなのである。 日付、銀行名、支店名、通貨、金額をそれぞれ数字化する。 金額は、1の位の3はxxx、2の位の5はxxx、の様に、10の位ぐらいまであり、全部を合計した数字をテストキーという。 取引先は、それぞれのテストキー表を、予め通信相手と交換しておくことは言うまでもない。 PC88には、ハード・ディスクという贅沢な物は無かった。 ディスケットさえも無かった。 オーディオテープが記録媒体なのである。 謙治が作成したテストキー用のプログラムは、いちいち数百枚あるテストキー表から1枚を取り出し、計算機でカチャカチャやるよりは、数倍いや数十倍早いと思われた。 これを上司に見てもらわなくてはならない。 パソコン事業を始めたばかりのドッドウエルBMSに無理を言い、デモ用の機械を運んでもらった。 謙治の執拗な要請に、渋々デモンストレーションを見てくれた総務と人事を担当していたフランス人モレオン氏は、パソコンの導入を検討する気は毛頭無かった。 そこに謙治は、大企業に働く者の事無かれ主義を見た。 本店からの指示もないのに、進んで変化を求めたりする事は、危険な行為に他ならないのだ。 ソードコンピューターからBASICより簡単な言語PIPSが発表された。諦めきれない謙治は、しかし、ショールームへ行っても溜め息をつくだけに留めねばならなかった。
1980年のゴールデンウィークに、カルベ頭取夫妻が北京へ行くついでにというより、乗り継ぎの為に東京に寄ることになった。 5月3日の午後に着いて、4日の午後の便で北京へ発つ、たった24時間の滞在である。 しかも、ゴールデンウィークの土曜・日曜に、東京支店としては何が出来るであろう。夜の食事? 日曜日の道路はかなりの混雑が予想されるので、朝から成田に向かわなければならないであろう。 おまけに支店長はパリでの支店長会議の後の数日を故郷で過ごすことになっていて留守であった。 成田山真勝寺とそれに付随する寺々を回れば、3・4時間潰す事が出来るだろう。 参道だって中々面白い。 高級ホテルという訳にはいかないが、成田のホテルだって一泊くらい我慢してくれるだろう。 予定は決まった。 だが準備段階になって困った事が持ち上がった。 いくら探してもフランス語はおろか、成田の寺々に関する英語の説明書が見付からなかったのである。 仕方無しに、日本語の説明文をかき集め英訳したが、謙治の心配は別の所にあった。 前回、カルベ頭取が来日した時の週末、横浜三渓園への小観光をしたが、カルベ頭取はその時、既に立てられていた予定にしかたなしに従った迄で観光には一切の興味を示さず、車の中でも書類に没頭していたのを思い出したからだ。 5月3日、ゴールデンウィーク後半の3連休は快晴であった。 ドライバーさんには休んでもらって、緊張した副支店長シャントレル氏と謙治は、午前の遅くに成田へ向かって都心を車で出た。 もうすぐ昼だというのに首都高速道路の交通麻痺状態は続いていた。 千葉街道も、京葉道路も、歩いた方が早いと思われる混雑である。 謙治たちは、十分な時間的余裕を見ていたが、シャントレル氏は苛々し始めた。 「到着に間に合わなかったら、失業だ」本気で心配している。 おまけに、うっかり閉めてしまった借り物のアタッシュケースのコンビネーション番号が分からなくなり、シャントレル氏の苛々は頂点に達した。 交通渋滞の方は、船橋料金所を過ぎれば、何とかなるという確信のようなものが謙治にはあった。 だから、市川までは一般道を、出来得る限り混雑を避けて進み、市川からはまだ混んでいたが京葉道路に入った。 暫く激しい渋滞が続いたが、船橋料金所を過ぎていくらか動くようになり、習志野を過ぎる辺りから走り出した。 普段の3倍の3時間ほどかかったが、奮闘していたシャントレル氏のアタッシュケースも開き、2人は、やや遅い昼食を採る余裕も出来た。 翌日も快晴であった。 副支店長シャントレル氏と謙治も成田にホテルを取ってあったので交通の心配はなかった。 そして、何よりも謙治を安心させたのは、頭取は書類に没頭してはいなかった。 謙治の準備した、決して上手な英語とは言えないであろう説明書を読みながら、楽しそうに散策し、午後、北京へ向けて機嫌良く発って行った。 鼻歌を歌いながら、シャントレル氏と謙治は帰路に就いた。もう、何時間かかろうが構わなかった。 明日は子供の日だ、一日休めるではないか。3連休の中日の夕方、東京へ向かう道路はがらがらであった。
謙治の住んでいた渋谷区神宮前の都営アパートは、家族5人の住居としては狭すぎた。 長い期間苦労した蓄えは、ある程度の住居を購入する頭金にはなっていた。 少し遠くなってもいい、広い家に住みたかった。 1978年から翌年にかけて、謙治は家探しに翻弄した。 駅から徒歩15分以内なら、何処でも良かった。 女性とは贅沢を言うものなのだろうが、謙治の妻は、杉並区か世田谷区でなければ住みたくないと言い張った。 サラリーマンの亭主に何を期待しているのだろう。 謙治は妻の意見を無視する事にした。 駅から徒歩15分以内で探すと、謙治の予算では一戸建ては無理であったので、広めのマンションを手当たり次第に申し込んだ。 この時期のマンションは、申し込みが多く抽選が当たり前であった。 小田急線、京王線、中央線、常磐線も東上線も行った。 三浦半島へも随分行った。 当時マンションで広いのは非常に少なく、一棟が全部広いのはまず無かった。 一番端だけが広くなっているのが多く、従って戸数が限られ倍率も高かった。 小田急線の玉川学園前からさほど遠くない所に、一棟だけのマンションが建ち、やや広いのが一戸だけあった。 この時も倍率が高いのを承知で申し込んだのだが、後楽園内の抽選所へ行って驚いた事に472倍になっていた。 やっと抽選に当たったのは、丸1年探し回ってからであった。93平米、ベランダが前後に20平米以上あるのが気に入った。 パンフレットには駅から10分となっていた。 問題は場所である。 総武線・下総中山駅。 謙治は妻をどう説得するか頭が痛かった。 まあ、先の事だ、まだ土台も出来てない。 引き渡しは翌年(1980)7月になる。 パリ国立銀行にも、住宅購入資金貸付制度が出来る事になった。 謙治の支払い時期には間に合わなかったが、制度が発足してすぐ、謙治は市中銀行の分を借り替えた。 この制度利用第一号である。 利率年3パーセント、期間は15年。 就業規則上、定年が55才となっていたので、40才の謙治は15年以上の契約は出来なかった。 そこで、定年年令が問題になり始めた。 パリ国立銀行東京支店の従業員も60人を超していた。 謙治の所属部署名も秘書課から総務部に変わり、謙治の上司は日本人になった。 それも二人もである。 一人は、日本の銀行を定年退職した人で、一流大学を出た人だそうだが、謙治にはただのボケ老人にしか見えなかった。 もう一人は、アメリカの大学を出た人で、猛烈にやる気が有るのだが常識を何処かへ置き忘れていた。 謙治は、日本人を上司に持った事が無かったので、どう対処したら良いのか見当が付かなかった。 それまで謙治は、こまごました事は謙治自身で判断し決定していた。 しかし、それは越権行為になるらしい。 単に、お歳暮に頂いたリンゴを、毎年しているように各部課に人数割りで配る、そんな事までも越権行為と見なされ、上層部に「悪い事」として報告された。 津村は勝手な事をすると。
1974年8月30日、この日の昼も謙治たちはいつものように昼食の為に日比谷東宝ツインタワー9階のレストランにいた。 食事も終わりに近づいた時、ズシンと低いが大きく建物に響くような音を聞いた。 ビルにトラックが突っ込んだような。 皆は顔を見合わせたが何も言わなかった。 間もなく、救急車や消防車が数多く行き交う気配を感じ始めた。 外へ出て皆は、又無言で顔を見合わせた。 大きな恐ろしい事件が勃発した事を誰もが感じていた。 国際ビルの方を覗うまでも無く、丸の内仲通りには煙が立ち込めていて、消防車、救急車と警察車両に埋め尽くされていた。 途中、交通が遮断されていて困難を極めたが事務所に戻って来ると、まだ、当時はダイレクトインになっていなかったボタン電話の外線が全部点滅していた。 どれを取ってもみんな行員の家族からのものであった。 当時、銀行にテレビは置いていなかった。 ラジオを聴くようなことも、仕事中はまず無かった。 電話は、テレビニュースを観ていた人たちから家族の安否を気遣うものであった。 三菱重工ビルで爆破があったというのである。 国際ビルからは100メートル位しか離れていない。 謙治たちは、多くの緊急車両と煙、音も聞いたが、何があったのかは分からなかった。 これが8名の死者と376人の重軽傷者を出した、あの三菱重工ビル爆破事件であった。 この時まで一般のビルに警護が付くことは無かった。 銀行でも大企業でも一般人をチェックするような警備は無かったし、警備会社等というものがなかったような気がする。 いい時代であった。
支店長のシャピュー氏が定年になる。60才だ。 日本人と違って彼らは定年を喜ぶ人の方が多いと聞いている。 本来、フランスに於けるパリ国立銀行の定年は65才なのだが、国外勤務者には4年に1年のおまけが付く、20年外国に居ると5年定年が早くなる。 定年後は最終賃金の60パーセントの年金が支給されると来日したばかりのラボルド氏が自慢していたのを思い出した。 イランで革命が起こった。 パーレビー国王が追放され、ホメイニ氏の時代となった。 これはパリ国立銀行だけでなく、世界の金融機関にとって影響は大きい。 通貨が否定されたのである。 元々イランでは、宗教的な理由で金を貸しても利子を取る事は許されてないのだそうだ。 だから銀行は、金を貸すと「お礼」をもらう。 しかし、ホメイニ氏は通貨を否定したのである。 イランから銀行が無くなった。 テヘランに在ったパリ国立銀行の関連銀行バンク・エテバラット・イランも、他の多くの外国銀行と共に撤去を余儀なくされてしまった。 テヘラン支店の支店長であったルレー氏が、その一の子分シャントレル氏を伴って東京支店に来る事になった。 パリ国立銀行の内規で、親子が同一支店で勤務してはならない事になっているそうで。 謙治にとって運の悪い事に、仲良しの上司ベナール氏はルレー氏の娘婿である。 ベナール氏は大勢に惜しまれてサンフランシスコへ去ってしまった。 2度目の東京支店勤務で、副支店長の地位を楽しんでいもジュリアン氏も、シャントレル氏に席を明け渡して、今度はパナマへ行った。 一時期にたくさんの人が入変わった。 ドゥモンティーユ氏が大阪へ行ってしまったため、後任にモントリオール支店からやって来たモレオン氏は、頭は禿げ上がっていたが、その分を髭に蓄え髭の中に口が半分ほど見えているといった風情の人で、ゆっくり話す英語は分かりやすく、フランス人特有のHの音も出す事が出来た。 しかし、これも多くのフランス人にありがちな事だが、SとCが難しく、港区千葉(芝)になったり、芝県石川市(千葉県市川市)になったりした。 ルレー氏より一足早く着任した赤ら顔のシャントレル氏は、禁酒の国イランに暮らしていたとは思えない酒豪で、日本酒が飲めるのを楽しみにしていたという。 一升瓶が2本目になる頃から能弁になり、平気で朝まで愉快に話し続けることが出来る強兵である。 それでいて、シャントレル氏は紳士であり、常に誰に対しても丁寧であった。 お茶を汲んでくれる中年を過ぎた女性を、外人達を含めて皆は「おばさん」と呼んでいた。 シャントレル氏は、何度説明しても「ミセスおばさん」と呼ぶのを止めなかった。 皆に慕われていたベナール氏の後を引き継いで、秘書課のチーフとしてやって来た運の悪い男がトリポン氏である。 彼は、まず、容貌の点で損をしていた。 BNP本店のラグビーチームに所属していたという彼は、早速自分の参加出来るチームを探し、在日外国人ラグビーチームに参加した。 毎週末に横浜の方のグランドへ出かけ、米軍や日本の大学生チームとぶつかり合い、足を引きずったり、顔にバンドエイドを貼ったりしていた。 しかし、彼も勤勉さに於いてはベナール氏に引けを取らず、共に働く事を謙治は嬉しかった。 支店長シャピュー氏とドライバーが、後任の支店長ルレー氏が到着する朝、迎えのために成田へ向かった。 みんな何となく落ち着きが無く、秘書課員たちの机の上は普段よりは整頓されていた。 9時半頃に着くエール・フランスの便である。 通常であれば昼前に丸の内の事務所に到着する。 お昼になったが未だ来ない。 1時になった、未だ連絡が無い。 飛行機は定刻に着いていた。 交通渋滞だろうか。 何処かへ回ってしまったのだろうか。 昼食に出そびれた秘書たちが、どうしたものか迷い始めた。 「ルレーさんとおっしゃる方が、お見えです」キャッシュ・カウンターからの連絡である、時を過ぎていた。 鼻筋の通った、ややおっとりした大柄な男が、にこにこして立っている。 「君がミスター津村か、アランから君の事は良く聞いている。 空港では誰にも会えなかったのでタクシーで来た。 タクシー運転手は、パリ国立銀行を知らなくて来るのに手間取ったよ。」大きな手でゆっくり、長い握手をし。 「ところで、お金が無いのでタクシー代が払えない」。 謙治は、この大男を好きになった。 アランとは、サンフランシスコに転勤になった謙治の上司だったベレール氏のファースト・ネームで、ルレー氏の娘婿である。 成田空港は、迎えに出る人に親切には出来てない。 通関ロビーと出迎えロビーの間のガラスは、何故か濃い色になっていて中の様子は見えにくい。 おまけに出口は二ヶ所ある。 旅行者がどちらから出るかの特定は難しい。 だから会えない事が有っても不思議はないかも知れないが、シャピュー氏もルレー氏も、お互い顔見知りなのである。 申し訳無いと思いながらも、新旧両支店長が到着ロビー付近を、血眼になってお互いを探しまわっている様を想像すると滑稽であった。 その間、ドライバーは何をしていたのだろう。 謙治が空港へ迎えに出たのは、羽田の時から数えると何回になるだろう。 恐らく数百回を数えるであろう。 ほとんどの場合、初対面の人を迎えに行った。 「会いそびれたかな」と思った事が何度もあったが、幸いな事にまだ失敗は一度もなかった。 エール・フランスの人に無理を言ってシャピュー氏を探してもらった。 2時半を回っていたが、シャピュー支店長は未だ空港ロビーに居た。 遅くとも10時半には通関が終わっていたと思われるので、4時間も探し回っていた事になる。 何と辛抱強い人よ。 機転が利かないと言ったら失礼になるのだろうか。 シャピュー氏は謙治に、「お前は、来年1月から総務のオフィサーになる、がんばるように」と言って、6年8ヶ月の東京での、そして40年近いBNPでの勤務を終えて、ひとまずパリへ帰って行った。 謙治は、定年退職者の気持ちを推し量る事が出来なかった。 寂しいのか嬉しいのか。 少なくともシャピュー氏夫妻は、第二の就職の事や生活費の事を心配する必要はないのである。 最後に空港へ向かう車の運転を、シャピュー氏は謙治に頼んだ。 彼のドライバーは、普段は夜の勤務をいさぎよしとしないのであったが、さすがにこの夜は、自分が運転して空港でさようならを言いたかった様だ。 確かな理由は分からなかったが、謙治は、最後の運転を依頼された事に感謝し、会話は少なかったが、空港への慣れた道を、複雑に幸福と哀しみとで満たされた気持ちで、心持ちゆっくり走った。 謙治は、シャピュー氏との数年間をゆっくり振り返っていた。 人は、経験によって学び、人格形成にも大きく影響する。 シャピュー氏には、一般的日本人から見ると、奇妙と思われるくらい鍵にこだわる所があった。 アフリカでの長い生活がその様にさせたのであろうが、電話にも、冷蔵庫にも鍵を掛けたがった。 銀行の彼の部屋には、ソフト・ドリンクを冷やしておく為の冷蔵庫が置いてあった。 鍵付きの冷蔵庫が彼の望みであったが、東京中探しても見つからなかった。 そこで、冷蔵庫を木のキャビネットで覆うことになった。熱抜きを考えたチークウッドの特製キャビネットは、ソフト・ドリンクの缶千本分以上になった。 電話に鍵というのも不思議であった。 電話は、当たり前の事であるが、銀行内どこにでも、誰の机にもあった。 だが、シャピュー氏は、銀行の交換機を通さない彼専用の電話に鍵を欲しがった。 ダイヤル式の電話のダイヤルに鍵を掛けて回らなくするのを、ヒルトンホテル・アーケードの旅行社のカウンターで見た事がある。 そこは、オープン・カウンターで、旅行社員が居なくなると、宿泊者が誰でも電話に手が届く位置にあった。 だから、そこでは鍵は有効なのであろう。 その鍵も、余り真剣に探さなかったが見つける事が出来なかった。 海外で買ってこなくてはならないようであった。 そこで、電話も鍵付きキャビネットに収納される事になったのである。 それも、これも、楽しい思い出である。 6年後の9月、シャピュー氏が他界したと夫人から連絡があった。 気候が良いからとフロリダに住んでいたが、余りにも短い余生では無かったろうか。死因は事故ではないと言うだけで分からなかった。 糖分の取り過ぎが原因では? ふと、謙治の脳裏をかすめた。 一般的にフランス人は甘いものが好きであるが、シャピュー氏は糖分をかなり多量に摂る人であった。 何でも誇張するメイドの話しだから、百パーセント信用する訳には行かないかも知れないが、毎朝2センチジャムを塗った食パン2枚を、角砂糖を四個入れたミルクで食べていたという。 事務所でも、彼の部屋の冷蔵庫には、あのどろどろした森永のピーチネクターの缶がたくさん入っていた。 シャピュー夫妻は双方とも再婚であった。 再婚前のシャピュー氏は、ヘビー・スモーカーであったらしい。 2人は、ガボンのゴルフ場で知り合い、中年は過ぎていたが熱烈な恋愛の末結婚したのであったが、「私を取るか、たばこを取るか」と言って、たばこを止めさせたシャピュー夫人が、糖分の取り過ぎを押さえようとはしなかったのだろうか。
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