極端なつぶやき
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2007年01月31日(水) |
すべての人の中にある孤独 |
すべての人の中にある孤独。 すべての人が自分は理解されないと思っている10%。 すべての人が自分だけは特別だと思っている10%。
自分だけが孤独だと思わないこと。
孤独がその人を他の人と違う人にする。
孤独があるけど、孤立じゃない。
互いが孤独だってところで繋がる。
互いが孤独を抱えているというところで許しあう。
女将先輩「だって、私とbetyさん、入った時期半年しか変わらないじゃん。(私の知っていることはあなたも知っているはずでしょ)」 私「その件には、私ほとんど関わってないですよ。」 女将先輩「ふーん」
女将先輩のその口調。 その声のトーン。 嫌味ったらしいこと。
本当に嫌な感じ。 本当に嫌な気分。
あームカツク。 あー気分悪。
お祓い、お祓い。
女将先輩の嫌味を真に受けなくていいよ。 女将先輩の感情のまき散らしに巻き込まれない。 アサーティブトレーニングで、トレーナーが女将先輩のこと、「会社という公的な場での表現法方法としては、かなりきついわね、子どもっぽい方法。」と言ってたのを思い出して。 私も欠点があるけど、女将先輩も言い方が子どもっぽいし、感情のまき散らしている。 それはbetyさんの責任ではないよ。
会社での荷物の搬入作業。 (うちの会社はエレベーターなし) 社員総出で。
荷物を高く積み上げていく必要があるため、上司(男性)が女将先輩の横の場所に移動する。 嫌われ者の上司。 横にいて、荷物の受け渡しをしたくない先輩。 さっと、私の前に移動して、「私、ここにくるわ」だって。
上司が嫌なのが、みえみえ。 私が同じことやったら、絶対後で私に嫌味言うくせに。
後で指摘してやろうかどうか迷ったが、先輩、眉間に皺寄せてカリカリ仕事余裕なさそうだし、言っても逆ギレされるだけと思って、やめた。
先輩のこういう気分屋のところ、自己正当化が徹底しているところが本当に嫌い。 私と意見が違うことが受け入れられない。 すぐ競争しようとする。
疲れるなー 私、よく交わしてるなー 偉い、偉い。 自画絶賛。
ヨガを12月から習い始める。 面白い。 気持ちいい。
先生が自分を観察することが大事とよく言う。 クラスの最後に死体のポーズをするんだけど、 その時先生が言うには 「無にならなきゃ、他のことを考えちゃいけない」と頑張らなくていい、 湧いてくる気持ちや考えを無理に止めないで、観察する そして、自分はこんなこと考えてるんだなーと自覚する 気持ちにいい悪いはない ただ、観察する そして、その中に入らないようにしてみる すると、通り過ぎていく
これは、普段の生活にも使えるなと思った。
私は、怒りや過去へのこだわりを抑えよう、抑えようとしていたけど、まずはそれがあることを認める。
そう思って生活しだしてから、約2週間ほどたつんだけど、気付いたのは、私って本当昔起こった出来事のことを考えてるってこと。
道歩いてる時、電車乗ってる時、仕事中など、気が付くと、過去に起こった出来事で腹が立ったことを考えている。 そして、その相手が不幸になればいいと想像してみたり、あの時こう言ってやればよかったと思ってみたり。
まあ、知ってたけど。 今まではそういう自分が嫌で、その状態が辛くて、それを変えよう、変えようと焦っていた。 または、怒りの感情が抑えられなくなって、物に当たったり。 最近は、「もう過去は終わったよ」とアファメーションを唱えるようにしてたけど。
でも、まず自分を観察する、そしてどんな自分でもいい、その自分をまず認める。 という考え方をヨガで知って、また少し自分が変わってきたように思う。
なんか、そんなに過去にこだわっちゃう自分を責めないでいいじゃんって。 小さいころから怒りを抑えて抑えて生きてくるしかなかったもんね。 父母が余裕のない人だったから、聴いてくれる人が誰も居なくて、暴れるか、いい子になるかしかなかったよね。 だから、今でもいい子やりすぎちゃって疲れて、人と距離おきたくなったり、真っ闇の誰も信じないという世界に入ったりするんだよね。 そして、過去の嫌な出来事にこだわるのは、一生懸命分析して、それをなんとか理解したい、上手く自分の中で処理したいっていう動機もあるんだよね。
真っ暗闇の世界に入りやすい私の、人とつながろうとする、ひとつの努力かもしれない。
私の中の、私をつくる大事な大事な孤独かもしれない。
でも、もう少し人と上手くコミュニケーションできた方が楽だなー 特に、人と意見が違った時引きすぎちゃうんだよね。
子どもっぽい、無邪気に自分の感情を出す私と、人の顔色を窺い、人に合わせようとするいい子の私。 極端なんだよね。
Zさんとのコミュニケーションでも、この私の極端さがでてしまった。 彼女に、その場でもう少し自分の気持ちを伝えることができていたら、、、 もう少し早くZさんが全く人を受け止めない、全く人とコミュニケーションしない人だって、見切っていたら、ここまで関係が悪化することはなかっただろうな。
だけど、少しずつ安定してきてる。 思い出し怒りに駆られて、物に当たることも少なくなってきたし、思い出し怒りに駆られても、そういう自分に気付くたびに「あ、今私、私を傷つけた人が不幸になるストーリーを妄想してるな」とか「今、過去の嫌な出来事へのこだわりの中にいるな」とか心の中で言葉化して、観察する自分に戻るだよね。 そうすると、少しだけ思い出し怒りしている自分と距離が取れる。 距離があくことで安定する。 いつもいつもこう上手くはいかないけど、少しずつできるようになってきてる。
自画絶賛だけど、私本当によくやってるなー 自分の気持ちや状況を人のせいにせずに、本当によくやっている。
ヨガ続けてみる。 頭でっかちにならないよう。
Zさんに対して、自分を投影していたと気付く。 気づくと言うより、認めるといった方が正確か。
Zさんに対して、嫌だと思ったところは、全部自分自身に対して嫌だと思っているところだった。 かつ、その自己嫌悪、自責感と向き合わないようにしていたから、余計Zさんのことが嫌になっていたのだ。
Zさん、ここが嫌いというところを感じるままにあげていくと、 *すぐ興奮する。 *人の話を聞かない。 *人の話がまだ終わってないのにさえぎって、自分の話をする。 *人を裁く。(まるで、自分が裁判官のようにこの人はああだ、こうだと断定する) *男性の前と女性の前では態度が全然違う。相手によって、態度がコロコロ変わる。 *自分の話を聞いて欲しがる。 ↓ こういう時、興奮して、早口まくしたてる。 *人とすぐ競争する。誉められると天狗になる。 *権威のある人に認めて欲しがる。 *安心できる、包容力のある人に依存する。
今、あげていった点は全部、私が多かれ少なかれ持っている性質だった。 気が付いて、直そうとしているもの含む。 そして、そういう性質を持っている自分を恥じたり、責めたりしているのであった。 だから、Zさんの言動を真に受けすぎた。 Zさんのやること、なすこと、真正面から受け止めすぎた。 そんで、Zさんに対して、苛立ち、腹を立て、囚われた。
Zさんを許せなかったのは、自分を許せなかったから。 Zさんに腹が立ったのは、自分に腹が立ったから。 Zさんを責めたのは、自分を責めていたから。
Zさんの嫌な性質、欠点を、こんなにも真に受けていたのは、そこに自分を見ていたから。
すぐ興奮する自分を許して、受け入れよう。 認めて欲しがる自分を許して、受け入れよう。 相手によって、態度が変わる自分を許して、受け入れよう。 話を聞いて欲しいと、興奮し、早口になる自分を許して、受け入れよう。 人と競争してしまう自分、誉められると天狗になってしまう自分を許して、受け入れよう。 人を裁判官のように裁いてしまう、断定してしまう自分を許して、受け入れよう。
欠点だらけの自分。 愛されたい、認められたい、話を聞いて欲しい自分を許して、受け入れよう。
そして、それに気付いた自分をたくさん誉めよう。
そのことに気付いて、カウンセリングを受けている自分を誉めよう。
これで、少しZさんへの囚われから自由になれるかもしれない。
まだ、今はZさんのことを思い出して、怒りで頭に血が上ったり、Zさんが不幸になった物語を妄想したりしてしまう。 でも、気が付くと、すぐ 「過去はもうお終い」 「変えられることにだけエネルギーを使う」 「Zさんの人生はZさんのもの。彼女が決めればいい。私はZさんを変える力はない。」 などと自分に言い聞かせるようにしている。
まずは、自分のために祈る。 まず、自分のことを考える。自分の人生を十分に生きることを考える。 まず、自分を助ける。 自分がよくあるよう、自分を許して、肯定していけるよう祈る。
他人ではなく、まず、自分。 まず、自分一人分の人生を十分に生きる。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ ここまで書いてて思ったんだけど、「真に受けない」っていうのが、最近の私の課題だなって。
私は、真に受けやすい。 人と向き合おうとする。 人と自分が違った時、すぐ「どうして?」と聞いたり、自分の意見を主張しようとしたり。 それは、悪いことではないけど、疲れること。
人と自分が違うたびに、そんなことしてたら、人付き合いにエネルギーがいって仕方ない。
ある整体師が、左右の身体感覚が人付き合いにおいて大事ということを言っていた。 左右の身体感覚、つまり、真正面から向き合うのでなく、横に置いておく感覚、距離の取り方、関係の作り方。
それができると、いい意味で人は人、自分は自分って思えるから、人付き合いが楽になるって書いてあった。
今の私が見につけたいものだなー
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