| 2006年02月28日(火) |
アカイヌクモリ ―――�此檻院宗� |
インターホンの鳴り響く音と共に、来た!と叫びながら、母親はスプリンターのように玄関へ向かった。 十月七日の晩、まるで自分の同級生と話しているかのように、そのスプリンターは四人へ面会を許可する連絡をしていた。精神状態が気にかかるヒトミには、毎日学校で会っている四人が様子を窺いながら少しずつ僕の状況を話し、最終的には対面させる、というのが母親の狙いだったらしい。また、母親曰く四人は思いのほか冷静で、今すぐ行きます、という様子ではなかったという。その中でもシンジは、 「四ヶ月以上、一目だけでも会いたいと思い続けていながらも実際その時が来るとやっぱり恐いっていうか、不安な気持ちが出てきてしまいます。これは僕だけじゃなくて、みんなが感じていることだと思います。シドは僕らを一緒にいた時の気持ちのまま受け入れてくれるでしょうか?」 そう不安そうに言っていたという。けど、それは僕にもわからないことだった。シンジの言う通り、四人を受け入れることができるのか、四人に会うことで自分はどんな気持ちを抱くのか、見当もつかなかった。低速のメトロノームのように心が揺れ動いている状態の中、僕は微かに、いや、確実にあの一癖も二癖もある連中に何かを期待していた。そして、その�牴燭��瓩箸いε�えが絞り出せないまま、十月八日──再会の日を迎えた。
リビングと玄関は壁一枚挿んでいただけだったため、話し声はほとんど筒抜けだった。 「久ぶりー、待ってたよ。──あれっ、でも二人?てゆーか、痩せちゃったね」 「……はい」 シンジ──。四ヶ月ぶりに聞くその声は魂が抜けてしまったような、掠れた小さな声だった。シンジといるもう一人はパターンからしてリョーキだろう、と僕は壁の向こうで話しをしている三人の姿を想像しながら聞き耳を立てていた。二人が訪れたのは、一日のうちで一番家の前の道が下校する生徒の話し声や笑い声で賑やかになる十七時過ぎだった。 二、三分経って戻ってきた母親は自分を急かすように、僕をロッキングチェァから車椅子に乗せて部屋へ移動させた。そして、部屋から出る前、扉に手を当てて首を傾げながら言った。 「今、シンちゃんとリョーキくんが来てる。当然かもしれないけど、二人……全然元気がない。とりあえず呼んでくるから──ね」 部屋の扉がゆっくりと開いた。扉の正面に座っている僕の目に飛び込んできたのは、入り口を潜るように首を曲げて入ってくるリョーキと、その後ろで俯いたまま口元を押さえているシンジの姿だった。リョーキは相変らず巨大というか、厳つさは健在だった。顔つきは前と変わりはなかったけど、母親の言う通り元気がなさそうだった。そんなリョーキに対してシンジは、目を覆いたくなるほど酷かった。誰よりも生き生きとしていた顔は重病人のように血色が悪く、何かにとりつかれているようだった。また、筋肉質でガッチリしていた体も、以前に比べると小さくなっていた。 二人はゆっくり歩み寄ってから、同時に僕の顔に目を向けてきた。そして──顔だけではなく、全身が硬直していく二人を僕は見逃さなかった。 十分以上見つめ合っていただろうか、二人は硬直したまま表情を変えなかった。──というより、変えることも目を逸らすこともできないという感じだった。そんな二人の姿を初めて見る僕も、硬直している気分だった。自分は今、どんな顔をしているのだろう。やっぱり無表情なのか? そんなことを考えていると、突然シンジが跪くように膝と頭を床につけて大声で泣き出した。その声はリビングにいる母親だけでなく、近所にまで響いていただろう。クールな涙とはほど遠いシンジの涙は何もかも失ってしまったような、どうにもならないといった姿だった。そんな彼の姿を見た瞬間、僕の心は驚きといたたまれない気持ちでいっぱいになった。 �爬;.轡鵐検�帰ってくれ……。リョーキも連れて。頼むから……!�� 僕はシンジの涙に耐えることができなかった──。初めて見るシンジの涙。仲間の中で一番感情的なのはシンジ、ということは一目瞭然だったけど、まさかこんなに�猗甅瓩鯱�にするとは考えてもいなかった。──僕を想うシンジの嘆き。それは痛いほど伝わってきたけど、その重圧を僕は受け入れようとはしなかった。それは�狎犬�る�瓩箸いζ擦望茲辰討靴泙Δ海函△修�思ったからだ。泣き続けるシンジを起き上がらせようと、リョーキが肩を持っても激しく体を揺らしてシンジはそれを拒否した。リョーキも無駄だとわかったのか、深い溜息を吐いてからあの�爐舛腓辰箸靴進拔�会�甍瞥茵∨佑料阿埜�を開いた。 「……久ぶりだな。何か、サジとヒロトは後で来るって言ってた。それより悪かった、あの日の夜──ドライブ行けなくて。実は婆さんの調子が悪くてな、ずっと入院してたんだ。あの日も帰ってからすぐ病院行って──」 シンジの姿から目を背けたい気持ちとは裏腹に、身内といえどもリョーキに人の身体を気遣う気持ちがあったのか、と意外性を感じずにはいられなかった。
二人が来て一時間が経とうとしていた。リョーキは何かを喋るわけでもなく、ただ黙って僕を見たり、跪いて尚も泣き続けているシンジの背中を叩いたりしていた。 それからまたしばらくすると、リョーキは再びシンジを抱え上げ、また来る、と静かに言った。今度はシンジも抵抗しなかった。真っ赤になったクシャクシャの顔を手で押さえて、しゃくり上げながら真上を向いていた。結局この日、シンジは泣き声を上げるだけで僕には一言も話しかけてこなかった。部屋を出る直前、リョーキに凭れるようにしていたシンジは、立ち止まり、ほんの二、三秒、歯を食い縛りながら僕の顔を見ていた──何かを伝えたそうに。僕はリョウコのことだと直感した。気にしなくてはいけないことだったけど、この時の僕はただ、シンジの慟哭する姿を何度も思い返すだけでリョウコのことは頭のどこか隅の方に匿っていた。そんな協力性のない気持ちを悟られてしまったのか、シンジは顔を背けた──。そして、二人が部屋から出て行ったのと同時に僕の中で、泣き続けたシンジを慰めることひとつできない怒りと、仲間という大きな存在がこうなってしまったことで薄れていくような、そんなやるせなさが生まれた。
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俺は、あなたのようなパンク・ロッカーにもジャンキーにもなれなかった。それどころか何もできないただの植物人間になってしまった。 こんな俺の姿を見てあなたはどう思う?何て声をかけてくれる?笑い飛ばすか?
シド……
| 2006年02月26日(日) |
アカイヌクモリ ―――�后檻粥宗� |
苦痛で人の一生分くらい永い生活から一ヶ月を迎えた。事件のことで警察は頻繁に来ていたけど、犯人逮捕に繋がる有力な情報はこれといってなかった。そんな警察は帰り際、僕に熱意を込めて言った。 「君をこんな風にした犯人を私たちは総力を上げて必ず逮捕する、約束する。だからもう少しだけ待っていてくれ」 この台詞は僕に一ヶ月、家族には四ヶ月近く繰り返していた。言葉は前向きなものの、逮捕に対する気持ちは情報がないせいか、どうでもいいと思っている僕からですらやる気がないと見えた。検挙率が毎年低下し深刻化しているのにも納得ができた。
一ヶ月が経つということは、母親の話も終わるという意味でもある。 さすがにこの頃になると話す側としても飽きが出てくるのか、話し方も初めのうちから比べると深刻さや緊張感がなくなって、内容も省略されている所が多かった。それでも、この日は最後ということもあり、初めて聞く話もあった。 僕が病院に担ぎ込まれてから間もなく、事件の匂いを嗅ぎつけたマスコミは自宅はもちろんのこと、病院にまで押しかけてきたという。新聞にもそこそこ大きな見出しでとり上げられていた。
【早朝の惨劇──。中二少年、ピッキング師と揉み合い重体】
エスカレートするマスコミの執拗なマイクの向けようにも、家族は一切口を開くことはなかった。その連日押し寄せる大勢の波に三人はノイローゼ寸前。──とうとう抑えきれなくなった親父は四六時中マイクを向けることをやめなかった一人の記者に脅しをかけた。普通ならここで脅した分に相当するバッシングが返ってくるとこだけど親父はただならぬ脅し方をしたらしく、以降マスコミは一斉に家族の前から姿を消したという。どんな脅し方をしたのかは誰一人として未だに聞かされていない。──もうひとつ。 「──それにしてもさ、シドは相当学校側から気嫌いされてたみたいね。入院してすぐに担任と何人かの教員が見えて──まあ、面会謝絶してたから、詳しいことがわかったらお知らせくださいって言ってその時は帰ったんだけど、それ以来時々電話はあるけど、一度も顔見せないわよ」 通常のトーンで母親はそう話したけど、相変らず僕には、 �犇技佞覆鵑討修鵑覆發鵑性� と返す気力もなかった。それでも、この一ヶ月を過ぎようとする頃から僕の中で�犹爐覆擦蹲瓩箸いΦせ�ちと�狎犬�るべきなのか�瓩箸いΦせ�ちが家族のポツリと零す何気ない一言で揺れるようになっていた。ただ、そんな気持ちの変化のようなものがありながらも�狎犬�よう�瓩箸楼貪戮箸靴道廚Δ海箸呂覆�った。
十月七日、十五時を回る前に母親の話がフィナーレを迎えた。 「話を始めて今日で一ヶ月だね。この一ヶ月は、シドを自宅療養するってことに私たちがどうにか慣れて生活リズムを作る一ヶ月でもあったの。実際シドにはこの一ヶ月間がどうだったのかってことはわからないけど、私たちはある程度慣れて落ちつきも出てきてるなって感じ……」 この後、母親の口からは僕が想像もしていなかった──けどどこかで微かに期待していた言葉が発せられた。 「──ということで、長い話も終わったし……口が痛いね。今日で拒否し続けてきた面会を解除する。明日から……会えるよ、みんなに」
| 2006年02月25日(土) |
アカイヌクモリ ―――�后檻魁宗� |
空白だったおよそ三ヶ月半の話を聞かされてから二週間が過ぎようとしていた時、僕は植物人間としての新しい未知の生活リズムに追われていた。もちろん生きることに前向きになっていたわけではない。相変らず拒否し続けていた。 放心状態で毎日を送っていたせいか、気づくと二、三日過ぎていることもあったし、逆に二、三日過ぎていると思っても一時間すら経っていないこともあった。また無意識のうちに立ち上がろうとしたり、何かをとろうとしてしまうことも……。そうすると、当然体が動かないという現実に直面する。そこから失望感が湧き上がり、死にたいという気持ちが僕を浸していくのだった。
朝、目が覚めると必ず母親が僕を覗き込んでいて、 「おはよ」 と声をかけ、そのままベッドの上でオムツと一緒に服も着替えさせられる。時間は決まって八時から九時の間だ。初めてオムツ替えをされた時、僕は放心状態の中でももがけないことをわかっていながら必死に抵抗した。けど、家族に映る僕は抵抗も何もせずにただ黙って天井を見ているだけだ。そう思うと諦めの気持ちも湧いてきた。また、オムツ替え同様、下半身を全裸にさせられた時ジュニアを見られることも確かに屈辱的だったけど、それ以上に機能しないものになってしまったということが辛かった。機能しないというのは排尿ではなく勃起のことだ。自分は性欲とは一切無縁の人間になってしまった。時々オムツ替えや下着を替えている際、鏡に映る萎えたジュニアを見る度に生きていることが嫌になった……。 �爐匹Δ靴董帖弔匹Δ靴堂兇世韻�こんな目に──!�� そう失望感を自ら煽ることだけが唯一、僕の居場所だったのかもしれない──。 車椅子に乗せられてリビングへ。リビングへ行くまでの段差、家の中の車椅子が通る段差は親父の手によって全て傾斜に改良されていた。 リビングにいる時は必ずロッキングチェアに移された。その時、それが当然のように母親は、よいしょ、と僕を持ち上げた。か細い体のどこにそんな力があるのだろう、と僕は意識の片隅で不思議に感じていた。ロッキングチェアに座った状態で顔を温かく湿ったタオルで拭かれ、どこに行くわけでもないのにハードジェルで寝ている髪を毎日逆立たせられた。この顔と髪をいじられている十分から二十分の間、僕の視線の先には二段に積み重ねられた点滴の薬品が入っている段ボールがあった。 �爐△譴�──俺の命を……!�� 母親が僕の髪をセットし終えた後、朝のニュース、昼のバラエティー、ワイドショーを見る(毎日芸能界でのスキャンダルや世間で起こっている事件を多く耳にしている僕は、どこの学生よりもその手の話題の数に関しては長けていただろう。まあ、この時はスキャンダルも事件もどうでもよかったけど……)。この時も、母親はただぼんやりと椅子に座って動かない僕とは対照的に、点滴を始め、オムツ替え、よだれ・鼻水の拭きとりをしていた。その姿はまるで株式市場で働く人のように忙しなかった。 家族が僕を介護をしていく上で命の次に心配していたのは床擦れだった。悪化すると患部に穴が空くと聞いた時はさすがに僕自身も驚いた。家族三人は、何が何でもそんな痛い思いはさせたくない、と言い二、三時間置きに僕の体勢を変えたり、背中やケツの間にクッションを入れたりしていた。それは、本来なら誰でも熟睡しているような時間帯でも交代でやっていた。 十四時から十六時の間に例の僕自身の話を聞かされる。毎日同じ時間帯に同じ話で四、五日経った頃にはまるで般若心経を聞かされているようだった。 母親が夕食を作り終えた頃、カオリが帰宅する。そして、帰宅すると何をするよりも先に僕の前で屈み、 「ただいま、シド」 と言い僕のうなじの辺りを二回、ポンポンと叩くのが日課になっていた。カオリが帰宅してからしばらくすると親父も帰ってくる。親父は不規則だった仕事の時間を僕がこうなってしまったことで、朝から夕方までに変更した。親父は親父らしく僕の頭に手を置き、軽く揺らしながら帰宅を告げた。 親父とカオリが揃うと、母親は冬眠するヘビのようにソファーで体をまるめて眠る。その姿を見る度に、僕がいなければどれほど家族が自分たちの時間を自由に使えるだろう、と思わされた。 母親がソファーに倒れ込んだ瞬間から役割は二人にチェンジされる。親父とカオリが共同でする僕の介護を母親は一人でこなす。慣れもあるだろうけど相当な疲労感があるだろう。そのためか、休日母親は家のことも僕のことも全て二人に任せていた。二人は母親に比べると、点滴、オムツ替え、体拭き、と何においても手際がいいとはいえなかったけど、僕が眠りに落ちる二二時前後の間は懸命だった。 三人は点滴等で僕の体に触れる時、必ず微笑みを向けた。僕はそんな微笑みから力ずくで必死に目を逸らそうとしていた。僕の体に触れるということは、僕を延命させるということだ。申しわけなさや感謝の気持ちを力任せに押し退けて、いい迷惑だ……そう思っていた──。
休日になると、行きたくもない散歩に僕は強制的に車椅子に乗せられ、カゴに入れられた子犬のように外へ連れ出された。 意識が戻って初めて僕を散歩に連れ出したのはカオリだった。家を出る前、誰が僕を連れて行くかで三人は揉めていた。甲高い母親の声に対して、その声を封じてしまうようなカオリの冷静な声。そして、二人の間に割って入る中年なのか若者なのかわからない親父の声──。結局、親である二人は家族で一番知的なカオリに上手くまるめ込まれて堕ちていった。 登下校でいつも通っていた道をカオリに押されてゆっくり進んだ。気力もなく、何も見る気がしないのに、あの日まで僕の目線の下にあった消火ホース入れや、�爛船�ンに注意�甅爛瀬瓠▲璽奪織き瓩隆波弔�今度は逆に見下ろしているかのように僕の視界に入ってきた。そして、木や草、空の色もあの時とは変わっていた。夏を感じさせる季節から冬を感じさせる季節へ。何気なく目に入っていた五月二九日と見ている景色は変わらないものの、三ヶ月以上の時の経過を見落としている僕には、目に映った季節の流れの早さが現実だとは思えなかった。また、すれ違う人や走行している車の中の人は僕と僕を押すカオリの姿を見て何を思っただろうか。�犲岼愡劼魏,靴討觧劼浪搬押帖弔い簇狃�かな?どっちにしても大変だな、障害者を介護するのは。本人よりも周りの人間の方が先にダウンしちまうよ�瓠△箸任盪廚辰討い襪里世蹐Δ�。僕がもしその立場だったら、そう思うに違いない。『障害者と介護人』それを同時に見た時、事情を知らずに障害者に同情する人間はほとんどいない。先に同情を買われるのはいつだってそれにつき添う介護人だ。僕は唾を吐き捨てるように夕焼けでサイレン灯のように染まる空を見つめていた。
いつの間にか、僕とカオリは学校付近の通りまで来ていた。休日で外の部も練習がなかったようで、グラウンドはいつか夜中に忍び込んだ時のように静かだった──。そんな時、カオリが急に足を止めた。 「あっ、煙草が落ちてる。もしかして、シドの友達のじゃないの?ここって人も車も全然通らないでしょ。ちょっと見て」 カオリはそう言いながら煙草を拾うと僕の目の高さまで持ってきた。セブンスター──。しかもまだ長いうちに揉み消されている。これはシンジだ、間違いない。三、四口吸って消してしまうのがシンジの吸い方だったのをこの時思い出した。この煙草がシンジの吸ったものだとカオリが知ったら、ヒルのように吸いついていただろう。 仲間──。そう思った瞬間、あの何をやっても楽しかった日々がフラッシュバックとなって、頭の中だけではなく目の前にも飛び交った。 シンジとリョウコの関係はあれからどうなったのか。進展はあったのだろうか? サジは僕の容態を知って心配を装いながらも、相変らず�爛殴蹐�せー�瓩鯱�発しているのか? リョーキはあの日、何故連絡がつかなかったのか? 無感情のヒロトは、この植物人間という僕をどう思うのだろう? そしてヒトミは──?全て心配だ。ヒトミの身体、精神状態。──僕への気持ち。 僕が退院して自宅療養に変わったことをみんなは知っているのか?知っているのなら会いたい。けど──こんな姿はどんな仲であろうと絶対に見られたくない。僕はこの時、自分は死ぬことを望んでいるのか、それとも仲間たちに励まされて、生きる──生きようと思う気持ちを与えてもらいたいのか、どちらだかわからなくなっていた。そして、無気力の中の葛藤で頭が破裂してしまいそうな時、止まっていた車椅子が動き出しカオリが独り言のように語りかけてきた。 「──大変だったんだよ。シドが入院してる時も、帰ってきてからも……。大体のことはお母さんから聞いてると思うけど、私が引っ叩かれたこととかね……。自分でも何であんなこと言っちゃったんだろうって思うけど、あの時は本気でそう思った。──お母さんが見せたあの時の顔、私は一生忘れない。震えるくらい怖かったけど、それ以上にすごく悲しそうだった……。お母さんじゃないみたいだった……」 ふと気づくと、カオリは声を詰まらせながら泣いていた。 「どうして……どうしてこんなことになっちゃったの。何でシドが──!もっと話したいこととかあったのに、もっと頼ってほしかったのに──。やっと……やっと私たちの溝が埋められたんだよ!なのに……。前にさ、シドに、義理だとか本当だとか関係ないって言われた時あったでしょ……?私……すごく嬉しかったんだよ……」 カオリはその場で十五分くらい僕の肩に顔を埋めて泣き続けた。そして最後に、 「心配しなくていいから。いつでも私が傍についてるからね……」 普通ならずっしり心に響く感動的な言葉だ。けど、僕にはそれが社交辞令の挨拶のように軽く、薄っぺらいものにしか聞こえず、家に戻る頃にはすっかり頭の中から消え去っていた。
カオリとの散歩から数日が経ったある真夜中、ほとんど目を覚ますことのない僕は何故か天井を見つめていた。そこでたまたま僕の部屋にいた親父と目が合った。親父は、おう、起きてたのか?と驚いた様子で覗き込むと何も言わずに僕を車椅子に乗せて外へ出た。 「今、夜中の二時過ぎ。不規則な生活は極力避けてくださいってシラギに言われてんだけど……まあちょっとつき合えよ」 親父は僕を押しながら学校とは逆の方向へ進んだ。道がしっかりと舗装されていないせいか、視界が時々揺れた。 「星が綺麗だな。見えるか?」 僕には遠々と続く暗闇と、群れから逸れた椋鳥の数ほどの星しか見えなかった。多分、親父は真上を見て言ったのだろう。 「マユミもカオリも言ってたと思うけど、お前のいなかった間本当に大変だったんだ。まあ、俺たち以上にお前の方が大変だったろうけど……。この前──カオリと散歩行った時、あいつ何か言ってなかったか?家のこととか……」 �犁磴�じゃくってそれどころじゃねえよ�� 「……俺は正直、家庭が崩壊するのは時間の問題だと思ってた。カオリも同じこと感じてたらしいけど。お前がこうなったことで俺もあいつらも精神状態はボロボロだった。しかも、俺たちがそんな状況だっていうのに、世の中は仕事だの学校だの……平然と動いていやがった。マスコミはうるせえしな。──辛くて、当たり所がなくて、一時は朝が来るのが恐くて震えたこともあった。でも、それを持ち直してくれたのがマユミだったんだ。あいつが�犲�宅療養�瓩辰童斥佞鮟个靴浸�は、俺もカオリもついていけなかった。シラギも無理だって言ってたし、シド自身がそんなことできる状態じゃなかった。でも、必要なんだな……。ああいう状況の時に強引で無鉄砲で一歩も引かない奴──。いいか、マユミのお前への気持ちは生半可なもんじゃねえぞ。多分、自宅療養が通らなかったらあいつ一人、夜中でもお前を病院から連れ出して、俺とカオリを捨ててでもどこか遠くで生きていこうとしただろうな……。とにかく、俺もカオリもあいつの執念みたいなものには息が詰まるくらい感動したんだ。俺の声がお前に聞こえてても、多分、辛い、死にたいって思うかもしれない。でもな、マユミの気持ちだけはしっかり受け止めてやれ……」 �牴兇蓮⊃読磴鵬兇了爐砲燭い辰撞せ�ちを受け止めてもらいたい。母親の気持ちなんかどうでもいい、俺には何の関係もねえ。それに親父の精神状態と俺を比べるんじゃねえよ。仮に俺の気持ちを理解してくれるんなら、管を抜いてここに置いて帰れ──�� 倅観察能力に優れている親父でさえ、僕の気持ちを読みとることはできなかった。親父は落ちつかない様子で煙草に火をつけ、二度煙を吐いた。親父の指に挟まれている煙草の煙が僕の顔の前を過ぎた。久しぶりに吸ってみたいと微かに思った時、煙の匂いすら嗅ぎとれないことですぐにその気は失せていった。 「お前が戻ってきてから、俺とマユミは近所の奴らから直でも電話でも今まで以上に叩かれた」 二人は僕が悪さをする度に近所のタチの悪い夫婦から白い目で見られていた。中には遠回しに嫌味を言ってくる罰当たりもいた。その理由のほとんどが、教育(躾け)が悪い、子供を野放しにしすぎ、両親が若すぎるというものだった。そんな二人は、�犲磴い海箸�悪い教育に繋がるわけがない。それに、その若いことを原因だっていう考え方が理解できない。ただあいつらが萎れてるだけだ�瓠△汎辰傍い砲呂靴討い覆�った。 「そりゃ、多少は同情っていうか、お前のことを心配してくれた人もいたけど、こうなる前にもうちょっとなんとかなったんじゃないの?なんていう奴もいて……。俺たちボロボロだったから、そう言われたことでいっつもイライラしてたよ。──まあ、どうでもいいか、そんなこと。ごめんな、俺の話ばっかりして……。誕生日、もうちょっと早く戻ってこれたらちゃんと祝えたのにな……」 僕はこの時、初めて自分が十四歳になっていたことに気づいた。九月二日、僕は意識不明のまま病院のベッドの上でひとつ年を重ねていた。
| 2006年02月24日(金) |
アカイヌクモリ ―――�后檻押宗� |
「──ものすごい叫び声で目が覚めたら、シノブが起き上がって勝手口の方に走って行ったの。私も、ちょっと只事じゃないなって思いながら足下覚束ない状態でシノブを追いかけた。そしたらあいつ……シドの名前大声で叫んで──。まさかと思って駆け足で傍まで行ったら、白目で口開いて動かないシドが倒れてたの……。シノブに、救急車!って怒鳴りつけられたけど、正直……私はあの時、シドはもう死んじゃうんだって思った──。でもね……不思議なのは実感がなさすぎたっていうのもあると思うけど、泣けなかったの。多分、目に映ったあまりにも現実離れしている光景から逃げたいっていう気持ちが強かったんだね……」 �爬;〜漢海舛欧┐茵2兇呂△了�、半分以上意識なかったけど……それでも親父に、久しぶりだな。何か、話そうぜって、確かにそう言ったんだぜ。聞こえてなかったかもしれねえけど、白目で口開けてただ?夢の続きでも見てたんじゃねえのか?まあ、いいや。続けろよ�� 僕は自分が頭で見ていた�爐△了��瓩離咼献腑鵑函∧貎討量椶�ら見た�爐△了��瓩遼佑�あまりにも食い違っていたせいで、抱いていた恐怖感は批判的な怒りに変わった。それでも最早、僕には母親の言っていることを頭ごなしに否定する以外、何も残っていなかった。 「一一九に電話してすぐ救急車は来たけど、救命士の人はシドをその場で少し診てから、『大変危険な状態です!直ちに病院の方へ!それから、警察も呼んでください』って、顔を強張らせながら言ってた。その時改めて、シドは本当にヤバイんだなって気持ちになったんだ。救急車にはシノブとカオリが同乗して……。私も抱きしめて放したくないってくらいシドの傍にいたかったけど、警察が事情聴取に来るからって……已むを得ず……。それから警察の現場検証でわかったことは、シドをやったのはピッキング師だってこと。あの時近所で連続して空巣があったでしょ、だから犯人は同一って可能性が高いってこと。勝手口の鍵穴にはピッキングされた傷跡みたいなものが微かに残っていたわ。──シドはそいつを……とり押さえようとして──。バカ!放っておけばよかったのに──」 母親は、僕の膝に額を押し当て動かしながら�爛丱��瓩鯱�発した。声は微かに震えながらも太く、それは大自然の草原の中で我が子を見失った母親ライオンを思わせた。……そんな�爛丱��瓩蓮∧貎討力辰鯤垢い討い襪Δ舛法�空白になってる過去の自分のことが気になる気持ちから、耳を塞ぎたいという気持ちだけに変わった。母親が全てを話しきっていないということは明らかだったけど、今、言葉に詰まっている状態ならもうこれ以上話してほしくない、話さないでくれ、という心境だった。けど……思いは当然通じることなく、しばらくして顔を上げた母親は僕のふたつの目に入り込むような上目遣いをしながら続けた。 「警察が帰ったのは朝の八時過ぎで、私も即行病院に向かった。シノブとカオリの二人と合流した時、あんたはまだ検査中だった……。私にシノブが最初に言った言葉は、『ちょっと前に看護婦が来て……シドは重体だって……。覚悟はしておいてくれって、そう言われた……』。いきなりだよ……。ついてすぐだよ……。覚悟も何もできないよ!って言いたかったけど……声も出なかった。二人共目を真っ赤にしながら涙流して……。カオリなんて酸欠になりそうなくらいだったけど、私を見たらもっと泣き出しちゃって……。あの子を抱きしめながらも、その時私の目には生意気言ってた時のシドの顔しか見えてなかった。なんとかシドを助けてくださいって、ろくに神も信じてないくせに……あの時はただそう祈ってたわ。──それから何時間か経って、私たち三人は個室へ通された。そこで担当した先生から聞かされたことは、シドは意識不明でいつ目を覚ますのかわからないってことと、いつ心臓が停まってもおかしくない状態だってこと。──私はもう、ショックで失神しそうだった。それでもね……シドはまだ息をしてる、生きてるってことがなんとか支えになってくれてたの。──しばらく室内は沈黙状態になってて、誰も口を開こうとはしなかった。でもそのうち、先生がすごい困惑した顔をして言ってきたの、『とても言い難いことなんですが……』って。その表情を見たら、まだシドのことで何か言い残してることがあるっていうのはすぐわかったわ。何ですか?って訊いたら、その後耐えきれないことを私たちは聞かされたわ。シドの脳を写したレントゲン写真を指されながら……。『シドくんがここに運ばれてすぐに、私はCTで彼の脳を診ました。頭部に三ヶ所、殴られたことでの打撲による痣があったのですが、それ以外に出血のような傷は全く見当たらなかったのです。原因は、殴られた衝撃によって脳挫傷を起こしたものだと考えていたのですが……。結果は、信じ難かったのですが異常なしだったんです。何度も自分の目を疑いました。そんなはずはないと思い、その後今度はMRIというCTよりもっと精密なもので診ました。それでも──結果は同じでした。正直、MRIで異常が見つからないということはないんです。ないというか、有り得ないことなんです。それでもこれから原因を明確にするために私は検査を続けていきます。それと──これは私の推測ですが、殴られた三発のうち一発が致命傷になったのだと考えています。ご家族の皆様も突然の事態で辛いことだと思いますが、原因がわかるまでもう少し私に時間をください。それと、できる限りシドくんの傍にいてあげてください』。──もう私たち三人は頭を抱えてしばらく動けなかった……。犯人逮捕も大切だったけど、まずはシドの症状を知ることが先決だったから。それすらも聞けないなんて……本当に最悪だった──。それから何日も検査は続いて、私たち三人は先生の言う通り、できるだけシドの傍にいたわ。シノブなんか……滅多に使わなかった有給を使えるだけ使ったりして──。私も一日のほとんどを病院で過ごしたわ。でも何より驚いたのはカオリ。多分、一、二週間はずっとシドの隣りにいて全然寝てなかったと思うよ。学校もずっと休んでたし。顔色も悪くてね……私は心配で、あんたが身体壊したらどうすんのって言ったの。そしたらあの子……、シドじゃなくて私だったらよかったのにって。私はお母さんとお父さんの子じゃないからって。それ言われた時、頭の中が真っ白になって思わずシドの容態のことも忘れて──手が出ちゃったの……。カオリを産んだ時、絶対に子供には手を挙げないって、そう決めてたのに……。殴った後、すごい後悔した。その代わりって言うわけじゃないけど、すごく頭にくる言葉だった。私が親として一番聞きたくない言葉だったかもしれない。カオリはすぐに抱きついて謝ってきたけど……。でもね、何て言うのかな、うん……、私とカオリの間がいくら修復されてもそれがシドの身体にいい影響を与えることはなかったんだ。──あの日から当然だけど警察がシドの容態を頻繁に見に来るようになってね。現場検証の調べでシドがどんな状況で揉み合いになって、どんな風にやられたのかを推定だったけど知らされたわ。想像しただけでも全身の震えが止まらなかった……。やるせなくて、すごく悔しかったけどその反面、私には警察が捜査に対してとろいっていうか、いい加減に思えて仕方なかった。犯人逮捕のためには裏づけが大切だって言ってるけど、実際やってることはいつも同じことの繰り返しで展開がない……。パトロールは一応してるみたいだけどただ回ってるだけ。素人が犯人逮捕をできるのかって訊かれたら何も言えないけど、不満は腐るほどあった。でも、シドのことを思うとやたらな口は開けなかった。……それであの日から二ヶ月が過ぎた頃かな。シドはなんとか危険な状態を抜け出して命をとり止めて、その後間もなく──検査結果が出たの。それが結果だっていうことを私は認めてないけど……。医者の診断は、原因不明の全身麻痺──」 血の気が引いた。そんな感覚すらなかったけど──。夢の中にいるようだった。気づいた時には目覚めている夢の中で聞かされているような……。母親の話に聞く耳を持とうとしていなかった僕は、金縛りのために動かないと信じていた体を……指の先を、恐る恐る動かしてみた。ゆっくり、ゆっくり……。 動かない──。今度は腕を……肩を……背中を……首を──!動かない。動くはずがない。僕は�狒歓繁竅祗瓩覆里世�ら……。でも、これは舞台劇。僕はその主役。この全身麻痺という役が終われば、体を動かすことのない退屈な芝居から開放される。──僕は現実逃避というより……完全に狂っていた。狂わなければいられなかった。もがきたくてももがけない。叫びたくても叫べない。恐怖心で泣きたくても涙さえ出てきてくれない。この辛さがわかるだろうか?僕の行動全てを……存在すらも否定されてしまうようなこの絶望感を──。 「先生もお手上げ状態だった。おまけに可能性はほとんど残ってないけど、動けるようになるまでずっと病院のベッドで過ごすことになるって──。シノブもカオリも口を揃えてそれが妥当だって言った。シドの身体を考えたらそれがベストだって。でも、私は断固として反対した。だってそうでしょ……?死ぬほど痛い思いして産んだ大切な子を、やすやすと病院のベッドなんかにずっと寝かせておける?私にはそんなことできなかった。どうにかシドを家に戻れるようにしたかったの。──そこで考えついたのが自宅療養。出張介護もなし。それまで通り家族四人で生活する。シノブとカオリが賛成しなくても、私はひとりで看ていくつもりでいた。当然先生には、無理です。一〇〇パーセント不可能ですって言われたけど、私は一歩も引かなかった。シドを連れて帰りたかった──。何日も何日も交渉っていうより格闘を続けて、呆れちゃったんだね……。シラギっていう中年のオッサンなんだけど、検討してみますって、渋々だったけどそう言ってくれたの。私は嬉しかったけど、実際そうなってみるとやっぱり不安だった。言ってみたもののシドは本当に大丈夫なのかって。私に何ができるのかなって。──何日か経って、信じられなかったけど、自宅療養の許可が下りたの。ただし、シラギの独断、それと条件つきで。自宅療養をするなら病院とのかかわりを一切なくすこと。彼が独断で決めたことだから、もし病院側にばれたらシラギは懲戒免職だけじゃ済まないわ。私も共犯罪でシドの介護どころじゃなくなるし。──それから毎日、シドの生命維持になる点滴から自宅療養をするために必要な知識と技術をシラギから教わったわ。シノブとカオリも一緒に──。過酷で何度も病院にいた方がいいんんじゃないかって思ったけど、八月の下旬にシラギから、『くれぐれもシドくんの負担になることは避けてください。点滴は私が直接業者から卸してお渡しします。それと、彼の定期健診は必ず受けてください。病院の方は私が手配しますので』って。それは自宅療養をスタートさせてもいいっていう言葉だった。その時にね、シラギがどうして不可能なはずだった自宅療養にオッケーを出したのかを話してくれたの。やっぱりシドの身体は原因不明だけあって医学上でも首を傾(かし)げることだらけなんだって。まず、本来目を開いていても視線は鼻の先を見ているのが大半なんだけど、シドは真っ直ぐ前を見ていること。それとシラギが許可を出した最大の決め手。これが不能だったら間違いなく許可は下ろさなかったって言ってた。それは、排泄器官が生きてたこと。つまり、シドは医療機器なしでも排泄ができるの。全身麻痺でこの器官が機能してることはまずないらしいの、当然よね。これは本当に奇跡だって驚いてた。──それから九月六日に最後の検査を受けて、やっと七日にここへ戻ってきたの。帰ってきて、シドに私の声が聞こえているのかなんてわからないけど、とりあえず一ヶ月間は毎日このことを必ず目を開けている今の時間帯に話そうと思ってる。大丈夫だよね、しっかり聞こえてるよね?信じてるから……。あっ、あとサジたち四人とヒトミちゃん、学校には病院に運ばれたその日に連絡しておいたから……。最後に、こんなことに──こんな身体になっちゃったけど、こういう状態だからこそ今まで以上に懸命に生きてほしいの。ふざけんなこのヤローって返されるかもしれないけど、シドがどれだけ友達から、彼女から、家族から愛されているのかを知ってほしいの──。わかって……。悲しくて、やるせなくて、心も体もズタズタだけど私は泣かない。だって一日のうちでシドと一緒にいる時間が一番長いのは私で、そんな私が泣いてばっかりいたらシド嫌気がさすでしょ。──じゃあ、私はすぐそこにいるから、安心してゆっくり休みな」 �燹帖弔佞兇韻鵑福2燭�ゆっくり休めだよ……。殺せよ──!何で全身麻痺って知った時点で殺さなかった!何の意味があって生かしてんだよ!わけわかんねえよ!自宅療養だ?一ヶ月間も毎日こんな話を聞かせるつもりか!?勝手なこと言ってんじゃねえよ!──畜生……!何で動かねえ……クソ!点滴が命繋いでんだろ!?だったら今すぐ抜け!聞いてんのかよ?マ……マユミ──!�� 「えっ?」 母親は後ろから肩を叩かれたように振り返った。何故?僕と母親はテレパシーで通じ合えるような特別な感覚は持っていない。僕は発狂している傍ら、どうして?と疑問を抱いていた。振り返った状態でしばらく僕に珍しいものを見るような視線を送っていた母親は、そうだ、と身を乗り出すように壁際へ向かい何かを両腕で抱えながら再び歩み寄ってきた。そして、僕の三メートルくらい前で抱えていたものを自分の全体重を預けるように置いた。──それは全身鏡だった。母親は僕の姿が映らないようにして鏡の前に立ちながら言った。 「ごめんね……。すごく辛いと思うけど、話だけじゃなくて今、自分がどういう状態なのかってことを見て、それで現実をしっかり受け止めてほしいの。私自身これをするべきかどうか本当に悩んだ。自分がシドの立場だったらどのくらい辛いかってことも──。それでもシドがこれから生きていくためにはしっかり現実を見なきゃいけないって、避けちゃいけないことだなって思ったの……」 �猴蠅爐�らもうやめてくれ……。頼むからそこをどかないでくれ……�� 僕はもう発狂することも叫ぶこともできなかった。それほど�犹僂鮓�る�甅犖充造鮗�け止める�瓩箸いΔ海箸亘佑虜欧鮓造蠅覆�軟弱にし、生きることへの喪失感を強めるということだった。 そして──母親は俯きながら鏡の前から退いた。僕が母親の名前を心の中で叫び、母親が振り返ったのは残念ながらというより、当然テレパシーではなかった。わかっていてもこの時の僕は、そうであってほしいというまるで、疑うことなく全てを信じてしまう幼児のように期待感が薄れることがなかった。母親が退く動きに合わせて、鏡に映る僕の姿がコマ送りのようにゆっくりと見えてきた。そこに映った�爛轡畢瓩箸いγ砲般椶�合った瞬間──僕は全てを失ってしまったことを実感した。ロッキングチェアに座る�爛轡畢瓩亘佑�映ることを拒否しているかのようだった。頬骨がくっきりとわかるまでに衰弱し、Tシャツの袖から露出している腕も、痩せた?と一言で片づけることはできない細さだった。鎖骨の辺りからは半透明の管が見えた。また、ジーンズは、サイズ違いを穿いているような感じだった。無表情のまま僕を見つめ、動かない鏡の中のシド。決してそれが自分自身とは──現実だとは何があっても認めたくなかった。そのシドの隣りでパートナーを気どるように立っている点滴スタンド。僕にはそれがやたらと憎たらしく見えた。 �爛謄瓠爾気┐い覆韻譴于兇蓮帖帖��� 点滴スタンドを睨んでも、鏡に映る目は表情がなく、ただ遠くを見ているだけだ──。 「……ねえシド、私の選択は間違ってたかな……。こんなこと、するべきことじゃなかったかな……」 鏡に再び映る母親は、点滴スタンドから垂れ下がっている管を手にとり、僕の口から流れるよだれをティッシュで拭きとりながら独り言のように呟いた。その後すぐ、今度は鏡に映る�爛轡畢瓩妨�かって言った。 「九月六日の検診の結果はね……まあ、いろいろ測定したんだけど、とりあえず身長と体重だけ知らせておくよ。その前にまず、五月三十日の測定から。身長一七七センチ、体重五七キロ。それで六日の測定──。身長は同じで、体重……四八キロ──。三ヶ月以上ずっと寝っぱなしだったし、筋肉も使ってないから……」 僕にとって体重が九キロ減ったことなんてどうでもよかった。それは何十キロ減ろうと変わらないことで、重大且つ深刻なのは一分一秒ですら永遠に感じてしまう時間(余生)を一体どう過ごしていけばいいのか。二四時間という恐ろしく永い一日を自分は終えることができるのか、できたとしても精神状態はボロボロだろう。それが繰り返し果てしなく続く。考えただけで発狂を超える発作が起こりそうだった。死なせてほしい……。歩くことも、喋ることも、食べることも、意識しないでしていた何気ない仕草も……そうなったことに反論することさえも許されない──。そんなのは死んでいるのと同じだ。だから死にたい。僕を知っている奴でも、面識のない奴でも構わない。誰でもいい。 �犹Δ靴討�れ……�� この日僕は一日中、生きることを拒否する言葉を吐き続けた。伝わらないということはわかっていたけど……。そんな中、母親が新たに僕へ伝えたことがあった。それは僕が僕自身のことを知る以上に大切なことだったかもしれない。 意識不明という突然の事態を、母親の連絡によって知らされた四人は即病院に駆けつけた。それでも僕の立場を最優先に考えた家族は、哀れな姿を見せたくないという理由で面会を無期限に拒否したという。 それからヒトミ。あいつは連絡があったその日から二十日以上、ショックで寝込み学校を休んでいたらしい。そして、周りからの訪問を全て拒否していたという。あの親友リョウコですら……。 ヒトミと仲間のことを聞かされた時、微かながら気持ちに揺らぎがあった。みんなの僕を思う気持ちを受け止め、生きようと前向きになるべきなのか──。けど僕は、その揺らぎをスクラップになるまで叩き潰した。仲間やヒトミが僕をどう思い、どう行動をとったのかなんて自分にはもう関係のないことだ。仮に僕がその気持ちを受け止め、それに答えようと熱い想いを送ったとしても届くことはない。サジ、シンジ、リョーキ、ヒロト、そしてヒトミ。四人と築き上げてきた友情・信頼も、ヒトミと積み重ねてきた愛情も、突如として僕に宿った�犖彊�不明の全身麻痺�瓩�根こそぎ破壊していった──。
| 2006年02月23日(木) |
アカイヌクモリ ―――�后檻院宗� |
目に映るもの全てが歪んで見えた。 永い間眠っていたような感覚で、リビングは破滅した世界のように静まり返っていた。そのあまりの静けさに不気味さを感じ始めた頃、突然リビング全体を煙とも霧ともいえない白く霞む不気味なものが覆った。僕はそれを見て反射的にリビングから脱出しようと体を起こそうとした──が、目覚めてからそれほど時間が経っていないせいか、金縛りのように硬直して動かすことができなかった。そして、白く霞むそれは徐々に濃度を増して瞬く間にリビングを真っ白に染め、僕の方向感覚を完全に狂わせた。また、体が動かないことと真っ白な異次元空間に変わってしまったリビングが、僕の心に焦りと混乱を招き入れた。──何も見えない……。何も聞こえない……。動けない……。すると突然、影も形も見せない何かがゆっくりと僕に迫って来る気配がした。何なのかわからない。ただの虫なのか?それとも鳥のような動物なのか?いや、生き物とは限らない。音波、風、大洪水で浸水し、水嵩を増した雨水──。水……?瞬時的に椅子を後ろからすごい力で引っ張られ、猛スピードで遥か彼方の砂漠地帯まで、いや、幼児期の頃まで引きずられるように記憶が甦ってきた。僕はそれほど遠くない過去に、幻覚によって深海に沈められた記憶がある。けど、その時の記憶があまりない。思い出そうとすると意識が朦朧として体ごとどこかへ吸い込まれそうだった。どうして!?僕は激しく自分に過去を問い質していた。 そんな夢と現実を行き来しているような状態から、ゆっくりと頭の中で半透明に揺れながら浮かび上がってきのは、ヒトミと仲間の顔、それと──一人の見知らぬオッサンの姿だった。僕は朦朧(もうろう)とする意識の中、そのオッサンに言った。 �爬;.謄瓠爾蓮�誰だ……�� オッサンは無言で立ったまま僕を見ていた。顔はぼやけてよく見えなかったけど、小太りで露出が多く、片手に何か持っていた。 何だよ、それ?そうオッサンに近づこうとした時、それまで思い起こすことができなかった�爐△了��瓩竜�憶がはっきりとした光景で甦り、僕を震え上がらせた。同時に、ゆっくり迫っていた何かが、急速に勢いを増してその距離を縮めていた。 �爐發掘帖椎�っているのがオッサンなら、今度は確実に……殺される──!�� 僕は恐怖でもがこうとした、逃げようとした、叫ぼうとした──体は硬直から解けていないことはわかっていたけど──。そして、恐怖心で自分を失いかけた時、顔すれすれまで迫っていた何かが動きを止めた。けど、異次元空間に変わってしまったリビングはそのものの姿を僕の目に写そうとはしてくれなかった。ただ……その姿を見せない何かは僕を懐かしいというか、微かに恋しいという気持ちにさせた。明らかに鉄パイプを握ったあのオッサンではなかった。 気づくとその姿、形も見えていない何かへ僕は抱擁をせがむような感情を抱いていた。その見えない何かがどんなものであろうと──。そうしてくれれば、この夢と現実によって混成されたリアリティのない世界から抜け出せる気がしたからだ──。
「おっす」
その、いつもどこかで聞いていた優しくも憎たらしくも感じる声が聞こえた時、ずっと僕の視界を遮っていた真っ白な異次元空間が嘘のように一瞬にして消え去り、元のリビングへと姿を戻した。何年も見続けてきた当たり前の光景が視界いっぱいに広がった──。そして、顔すれすれまで迫っていた得体の知れない何か──それは、紛れもなく母親だった。母親は正面から僕の目だけを見て微笑んでいた。いつもながら──スッピンだった。僕も正面にあるふたつの目だけを見ていた。二人の距離は鼻の頭が掠るくらい近くて目がみっつに見えた。母親の顔をこんなに傍で見たのは幼い頃だっこをせがんだ時以来だ、と思いながらしばらく見合った。事実、この時もそうせがみたい気持ちだった。そのくらい人恋しくなっていた。存在するもの全てを幻に変えてしまうような、あの不気味な白濁の世界はそれまで座っていた僕の胆を伸び上がらせた。 母親は僕の頬や頭を撫でるように触れ、その度に口を硬く結んで深呼吸をしていた。そして、この時の視線は何故か俯き加減だった。次第に僕はその意味不明な母親の行動にうっとうしさに似た不快感を覚え、顔を背けようとした──が、体は相変わらず硬直したままだった。視界が元に戻ったことで体も当然動くだろう、と思い込んでいた。──微かに嫌な予感がした。母親のテンションも接し方もいつもとは明らかに違い、不自然だった。そんな僕の不安な気持ちを悟ったように母親は首を少し傾げながら一瞬目を閉じ、息を呑んた。 「話すことはいっぱいあるけど……とりあえず始めに。今日は、九月十六日。時間は十四時二四分。シドがこの家に戻ってきて十日目。いきなり何言ってんだって思うかもしれないけど……聞いてて」 戸惑いや怖さ……いろいろあったけど、ここでゴチャゴチャ考えても仕方がない、と僕は何も構えずに母親の話を聞くことにした。 「五月二九日……正確には五月三十日の早朝、あんたサジたちと車で峠に行ったでしょ?それから明け方帰ってきて、勝手口の前で誰かと揉み合いになって頭を三回……鉄みたいな硬い棒で殴られた──までは覚えてるよね?あの日から……今日までの間、シドの身体に何が起きたかってことと、私たち家族とシドの友達、それとヒトミちゃんはその間どうだったのかをこれから話すね……」 ずいぶん渋っているというか、躊躇しているようだった。僕は母親の言おうとしていることが気になる一方、耳を塞いでしまいたいと思うほどの恐怖感に駆り立てられていた。そんな気持ちを抑えるように、言うんなら早く言えよ!と叫ぼうとした時、母親は僕の膝にゆっくり額をつけてから手を握りしめ、それから話し始めた。
国道を下りて一般道に乗った直後から、水分のとりすぎで母親の膀胱は破裂寸前だった。 「もっちゃう、もっちゃう!コンビニどこ!?あーほんと漏れるよ!」 さっきまでの緊張はどこにいってしまったのか、僕は徐々に民家や店がなくなっていく風景を母親の自らを急かすBGMに乗せて眺めている。 しばらくすると、コンビニの看板が見えてきた。 「あったー!助かったぁ……」 母親は、勢いよく車を停めると忙しなく、 「待っててね、お昼もついでに買ってきちゃうから」 と言い、赤のピーコートに身を包んで店に入っていった。 トイレを済ませて昼食を選んでいる母親に視界が当たっていると、車のすぐ外から二人の男の声が聞こえた。 「このアストラあの女のかなー?」 「ほかに停まってないから、多分そうだろ」 「てことは、こいつは彼氏か」 「──おい、あの子……君の彼女?」 サイドガラスを叩きながら男が訊いてきた。男二人は、今風といえる不潔さ満点のヤローだ。 �爐鵑覆錣韻佑┐世蹈丱�!あれは四十近いばあさんだぜ。それに、いくら窓ガラスに軽くスモークかかってたってミイラみてーなこの面に気づかねえテメーらはどうかしてるぜ�� 僕は心の底からあまりにも無能な男たちが哀れましいほどバカに思えた。そして、動きも喋りもしない僕に腹が立ったのか、再び叩きつける手はさっきより力が入っている。 「シカトしてんなこいつ。おい!」 「何してんのよ?」 母親が昼食の入ったビニール袋を手からぶら下げて男たちに近づいた。 「この車、君の?」 「そうだけど……何?」 「……じゃあ、助手席は君の彼?」 「そうよ、いい男でしょ。シド・ヴィシャスっていうの」 「シド・ヴィシャス?誰だそれ。お前知ってるか?」 「知らねえ」 「知らないんだ。残念ね……。知らないんじゃ何もしてあげられないわ。調べて出直しておいで。それじゃあね」 その言葉に男二人が呆然としている隙に、母親は運転席に座ってエンジンをかけた。 「あー!もーちょー気持ち悪い!何であーゆーの最近多いの?あー嫌だ!」 コンビニから出るまでの間、男二人の視線が母親から外れる気配はなかった。 母親は買ったばかりのサンドウィッチを頬張り体を上下に揺らしながら、まるで遠足に行くかのようにはしゃいでいる。 「シノブのお母さんて、どういう顔してんのかな?超ブスだったら笑っちゃうかも。──シノブと似てるのかな?似てたらシドにも似てるってことだよね。んー、それより挨拶──。昨日、寝る前にいろいろ考えたんだけど、ちょっと聞いてて。�狷輿蛙修靴錣韻瓦兇い泙擦鵝�わたくしシノブの妻のマユミでございます�瓩海譴犬磴舛腓辰噺任垢�るか。�牴颪い燭�った、お母さん!�甬泙垢�て通報されちゃうかな……。�爐◆宍廚屬蝓�元気ですか?シノブママの様子を見て──シノブも相変らず元気ですよ�畍紊剖舛�そうだなぁ。あーどうしよ。頭がパンクしそう……。シド、何かいい考えないの?」 ──テメーで考えろっ!
母親は、細く山道のような薄暗い道に入る手前で車を停めて、昨日親父に説明しながら書いてもらった地図をバッグからとり出した。 「うーんそうだなぁ……順調にいけば、あと一時間ちょっとでつくよ。だからもう少し我慢してね。それと、シノブの話ではここから結構道がクネクネしてるらしいから、揺れると思うけど……ね。──あっ、そうだ。ここ車も人の通りもないから、今のうちにとり替えちゃおうか」 母親はそう言うと、助手席のシートを全開に倒して僕のズボンを下ろした。 笑える話だ。五年前まで不良と呼ばれていた�狠豊瓩�、今じゃオムツの世話になっているなんて──。 笑える。でも、本当に情けない……。
| 2006年02月21日(火) |
シドの回想 ―――2――― |
すっごい緊張した。でもお母さん面白いね、あんなこと訊いてくるなんて……
悪かったな。あいつほんと普通じゃねえよ。よく言っとくから
全然いいよ。気にしてないし……楽しかった。──三四には見えないね、十歳は若く見える。サジがベタ惚れするのも理解できるよ。お姉さんは?
母親そっくり。性格換えただけって感じ──クソ真面目なんだ
それってシドが不真面目なだけでしょ。お母さん似ならお姉さんも綺麗だね。お父さんは、どうなの?
俺は親父似だぜ
じゃあいいや
どういう意味だよそれ!?まあいいか。それよりさ、何でヒトミは学校いる時は髪束ねてて、遊ぶ時は垂らしてるんだ?
学校で垂らしてると授業中にノートとる時とか邪魔なの。だから束ねてるだけだよ。どっちが魅力的?
どっちもどっち
何それ?そんなもんなんだ?
そう、そんなもん
もー、怒るよ。どうなの?
──垂らしてる方かな。学校で見てる方がどうしても多いから……。こっちの方が新鮮味がある
そう、じゃあこれからずっと垂らしててあげる。だからってわけじゃないけど、約束してほしいことがあるの
何だよ?急に……
煙草とお酒は程々でいいけど、喧嘩は絶対にしないでほしいの。何かサジとシンちゃんとリョーちゃんに喧嘩の仕方とか教わってるらしいけど、シドにもしものことがあったら私──
用心のためだ。むやみに人を傷つけたりはしない。好きじゃないし。ただ、お前にとばっちりみたいなことがありそうな時は、な……
当然。徹底的にね、頼んだよ
お前はそういう奴?
──さて、話を変えて、将来の話を少ししよう。卒業したらどうするの?高校は行くの?
まだわかんねえよ。でも前にちょっとだけ先の話をしたけど、多分高校へは行かないと思う。進学してまでやりたいことがない。ただの暇潰しで三年間を過ごすんなら、もっと濃くて意味のある時間を過ごしたい
そっか……。でもよく考えなきゃだめだよ。慎重にね、慎重に。私はとりあえず高校出て家を継ごうと思ってるんだ。ほら、うちこっちに新しく建てたでしょ。狙いはね、私を将来女将にするつもりらしいんだ。私もそれは昔から興味があったっていうか、女将やってるお母さんに憧れてたところがあったから……多分そうなると思う。そしたらただで泊めてあげるね
コンパニオンは一人に何人つけてくれるんだ?
よく聞こえなかった。もう一回言って
だからコンパニオンは──痛てっ……!
| 2006年02月20日(月) |
アカイヌクモリ ―――�検檻粥宗� |
眠気がピークに達していたせいか、足元がサジ以上にフラついていた。そんな足を引きずるように僕は半開きの目で玄関へ向かった。空は日が昇るまでもう少し時間がかかりそうだった。そして、目を閉じれば即刻寝てしまう状態の中、裏の勝手口から微かに聞こえた物音が僕の鼓膜を揺らした。泥棒?そう思うと夢の中に入り込みそうだったのに、気づくと眠気も疲労も消えて勝手口へ足を向けていた。今思うとあの物音は、来るな、という意味にも聞こえていた。 この頃、近所では空き巣による被害が多発していて警告の回覧がくるほどだった。もしあっちにいるのが空き巣ならぶちのめしてやろう、と僕は忍び足で勝手口へと向かった。 勝手口から五メートルくらい手前の壁の死角になる位置で足を止めた。そこから首だけをゆっくり出した僕は、自分の目に映っている──目の前で起こっている光景に目を疑った。暗くてはっきりとは見えなかったけど、確かに人間のシルエットがあった。相手はこの時まだ僕の存在に気づいていない。目を凝らして見ると、中年太りした小柄なオッサンが勝手口の鍵穴をピッキング用具でガチャガチャと回したり、ピストン運動をさせたりしていた。上がジャージで下が短パン──完璧な泥棒さんだ。僕は生まれて初めて生で見るその光景に目を奪われながら、第一声にどう声をかけて、それからどう始末しようか、と多少の眠気が残る頭を懸命に働かせた。 「おい、そこで何してんだよ?」 「──!?」 オッサンは僕の声に一瞬、ビクッとしてから、とっさに下に転がっていた鉄パイプのような物を手にとって構えた。息遣いが荒い上に肩の揺れが激しい。ピッキングとは、かなり精神的にも肉体的にもやられる職のようだった。 「狙ってるもんが金目の物なら別の家当たれよ、ここには何もねえぞ。わかったらさっさと早朝マラソンでもしてこいよ──クソヤロー」 しばらくオッサンは�爛�ソヤロー�瓩噺世錣譴覆�らもその場で挙動不審になっていた。すると、血迷ったように鉄パイプを振りかざして僕に襲いかかってきた。下が砂利だったせいか、オッサンの踏み出しと同時にジャッジャッという音が耳に響いてきた。オッサンが鉄パイプを振り下ろそうとした時、サジ、シンジ、リョーキから繰り返し言われ続けてきたことを思い出した。 �狒蠎蠅�棒みてえな凶器を使ってきた時は避ける前にその凶器の長さを見るんだ�� 僕はスペシャリストから教わったことをそのまま試した。相手が凶器を持った実戦はこれが初めてだ。オッサンの振り下ろした鉄パイプは長さ五十センチくらいで、避けた僕の少し前をブォーン!という音と共に勢いよく降りていった。鉄パイプが地面についた瞬間、僕は右手で鉄パイプを掴み利き手の左拳でオッサンの顎へ重心を落とし力いっぱいに振りきったフックを入れた。──これ以上にないほど綺麗に入った。オッサンの脳はその一発でグラリと揺れたようで、体脂肪率の高そうな体はよろけて無様にケツから倒れ込んだ。すかさずラッシュを浴びせようとマウントをとり、腕を振りかぶってオッサンの頭部だけに的を絞って殴り続けた。そして、フィニッシュの左腕を上げた時、僕の体が手品の仕掛人のように前屈みに浮いた。左腕を上げた瞬間、オッサンは力いっぱいに膝を立てたのだ。胸部にマウントをとらなかった僕のミスだった。 オッサンの頭側に倒れ込んだ時、僕の背筋は凍りついた。──重大なことに気づいたのだ。けど……もう遅かった。 �狹乾僖ぅ廚蓮帖弔泙凄; �?�� まずい!と振り向いた瞬間、オッサンは目を大きく見開いて微笑み、鼻で激しく息をしていた。そして、スローモーションのように僕の頭に鉄パイプがしなるくらい強烈にヒットした。薄暗かった目の前が一瞬グレーに染まった。それでも鉄パイプを奪おうと腕を懸命に伸ばしたけど、僕の手はオッサンに触れることさえもできなかった。僕の体が崩れるように再び倒れて、オッサンは立ち上がった状態から二発目を今度は後頭部へ振りかざした。鉄と頭部が激しくぶつかる音は表現できるものではない。それは激痛というものを超えていた。自ら頭でアスファルトを割っているような──。そして、三発目を喰らった時にはオッサンの動作だけでどこを殴られたのかわからなかった。荒い鼻息で引き腰になりながらダッシュでオッサンが逃げた途端、全身に脂汗を掻き、頭部は毛穴全てから鮮血が吹き出るほどの激痛が走った。発狂したように声にならない声でのた打ち回っていると、どうした!という親父の叫び声が聞こえてきた。親父は屈んで僕を抱き寄せると、 「何があった、しっかりしろ!」 と怒号を上げた。不思議なことに親父に抱き寄せられた時、激痛が嘘のように和らいでいった。その分、意識は遠退いていたけど……。その後すぐに勝手口から母親が勢いよく飛び出てきた。 「シドー!!しっかりして!どうしたの!」 母親の姿は僕の視界には入ってこなかったけど、これほど気が動転している母親の様子は僕が知る限りでは初めてだった。 「マユミ落ちつけ!救急車呼んで!──早く!!」 親父は抱きかかえている僕を揺らしながら、パニック状態になっている母親に大声で叫んだ。 母親が一一九に通報しに行ったのと入れ替わりに、カオリは僕のすぐ隣りで腰を抜かして倒れ込み泣きながら、シド!と何度も名前を叫んだ。そんなカオリに親父は、大丈夫だ、心配するな、と落ちつかせていた。 僕は朦朧とする意識の中、親父の顔を見つめていた。最後に親父と顔を合わせたのはこの日から実に二週間も前のことで、その時は二人で夜が明けるまで酒を交わした。そして、親父はベロンベロンになりながらもこんな話をしてくれた。 「シド……一パーセントの話聞きてえか?」 「何だよ酔っ払い、一パーセントって?消費税が下がる話か?」 「ハァ……お前の解釈は酔っ払い以下だぞ。──俺はさ、人間の運命は生まれた時から九十九パーセント決まってると思うんだ。そいつがどういう環境に生まれて、育って、どういう道に進んで、どう死ぬかってことが。でもよ、それじゃ面白くねえだろ?だから残りの一パーセントで決められた九十九パーセントを引っくり返すんだ。要は賭けだよ。その一パーセントで大富豪になる奴もいれば、一生牢獄の奴もいる……命を落とす奴もな。でも、噛み合ってる歯車を狂わせるにはそのくらいのリスクがないと、賭けとはいえねえ。そうだろ……?なあシド、お前も一パーセントで決められた運命を変えてみろよ。それをいつ、どこで、どういうタイミングで使うかはお前次第だけど」 「──親父はもう、使ったのか?」 「……使った、と思う。高校中退した時かな?それまで遊び狂ってたけど、辞めた後すぐ、何かしないとって思うようになった。実際、海外行ったりしたけど、もし高校辞めてなかったら当然だけどこの生活は存在しなかった。ベッピンさんにも会えなかっただろうし、クソ生意気なガキも生まれてこなかった」 「それは俺のことか?」 「シド!タイミングを外すととり返しのつかないことになる。だから軽い気持ちで一パーセントに逃げるような真似だけはするな」 僕は二週間ぶりに親父の顔を見た安心感からか、妙に嬉しくなった。こんな状況にもかかわらず笑顔まで零していた──と思う。 「親父……久しぶりだな。何か、話そうぜ……」 その声は空しくも僕の口の中だけでとどまり、親父はただひたすら僕を呼び続けていた。僕の怒号に似た声と、家族の叫び声でヤジウマが集まっているようだった。けど、そんなヤジウマたちの声も僕の耳には入ってこなかった。耐え難い激しい耳鳴りと、親父の嗄れ始めている叫び声、それとカオリの嗚咽だけが響いていた。 「親父……俺、一パーセントをこんなことに──」 出す声は全て吐息のような空気に変わってしまった。僕の頬に親父とカオリの涙が豪雨のように降ってきた。二人の涙が目に入って視界が歪んだ。僕はこの時、不思議と死に対する恐怖心がなかった。このまま気を失って死んでしまえばそれほど苦しまなくても済むだろう。寝たまま死ねるならこれほど楽な死に方はない、そう思っていた。 �爛轡膝; ��� 突然、離れた所から僕の名前を叫ぶ女の声がした。カオリ?それとも母親……?違う。それは紛れもないヒトミの声だった。 �爐鼻△匹海澄帖帖�どこにいるんだよ、ヒトミ�� 僕は自分の声が出ていないことに気づいた。そして、意識がさっきより遠退いていることも──。 �爛轡鼻次▲轡鼻次��� ヒトミの声は一定の間隔を保ちながら僕をさがし続けている。 幻聴?ふざけんなこんな時に……!怒りで声を張り上げようとした時、耳元でシルクのように柔らかく、優しく囁かれた。 �爐佑┘轡鼻帖頂�週末は何しよっか?どっか行く?�� ……!声が出ない。心で答えようとしても思考回路が遮断してしまい激しい頭痛に襲われて、週末どころではなくなっていた。そして、ヒトミの声は僕の返事を待たずに消えていった──。 死んじゃだめだ──!僕は真っ白な霧で覆われる自らの気持ちをなんとか現実へ引き戻した。……そうだ、ヒトミを、あいつ一人を残して逝くわけにはいかない。それに仲間も。僕にはサジ、シンジ、リョーキ、ヒロトという呼べば答えてくれる仲間がいる──。それでも、気持ちと体はすれ違うことすら拒むように離れていった。人間のもろさ、自分の若すぎる未熟さに腹が立った。
幻覚を見た。 僕の体には数百キロもの無数の鉛が巻きつけられていて、息も抵抗すらもできないまま真っ黒い海に投げ込まれ、深海に沈んでいく。深海魚が全身を覆っているせいか、温かかった。そして、水深が深くなるに連れて無音になり体は圧縮され、そのうち跡形もなくなった──。 それから一瞬、深海から高速のように現実という水面へ引き揚げられた。 そこでは親父とカオリ、それに通報を終えて戻ってきた母親が僕の名前を呼んでいた。その叫び声に答えようとした時、僕は再び深海に吸い込まれるように、今度は引き上げられることなく……意識を失っていった。 それは、朝日が顔を出し始めたのとほぼ同時だった──。
| 2006年02月19日(日) |
アカイヌクモリ ―――�検檻魁宗宗� |
夏休みが終わり二学期が始まった直後だった。下校時の校門前に連日、白装束の道着に統一された宗教団体が勧誘を狙いとした演説をしに来ていた。落ちていた聖書らしき物を見ると、その宗教の教えを習得することにより、過去に犯したとり返しのつかない過ちや後悔の現在に残る苦悩を消し去ることができる、といったいかにも胡散臭いことが書かれていた。生徒の大半は貶したり、中には信者の胸倉を掴んで、消えろ、と揉め合う奴もいた。それでも演説を真剣に聞いていた奴も僅かながらいた。僕らはその熱の入った演説を黙って聞いていたり、手を叩いて笑ったりしていた。そして、連日のように来る宗教団体が目障りに感じ始めた頃、事件は起きた。初めの頃に比べるとヤジウマも減ってきて、演説はまるで劇団の練習のような虚しさだったけど、黙々と演説に精を注いでいる教祖様(ただのジジイ)の姿を見ていると、二十人ほどのメンバーが乗ってきた四台の超高級車の一台が、ドーン!という爆音と共に突然炎上した。車からは真っ黒い煙が立ち昇り、近くの電柱や電線、木々に絡みついていた。呆気にとられているとそれまでにない数のヤジウマが続々と現れた。教祖様もその大事態に演説を中断して、消防車を呼んでください!と声を震わせた。車がモクモクと黒煙を上げながら炎上する光景を初めて見た時、僕はハリウッド映画のワンシーンを見ているような錯覚に陥った。ただ、うわー、すげー、マジかよー、という言葉しか出せなかった。 「ハリウッド映画だな、こりゃ……」 サジが口を開けたまま僕の心の中と同じ台詞を言った。シンジもリョーキも声を出さずに、ただその光景を見続けていた。そして、ヒロトは黙っていながらもそれを観察するように腕組みをしていた。 数分後、消防車の登場で火は消されたけど、その後警察による現場検証と宗教団体への職務質問が行われていた。大捜査になることは間違いないと誰もが口を揃えて言っていたけど、相手が宗教団体ということもあってか、現場検証や学校周辺の聞き込み調査は一週間もしないうちに打ちきられた。
ヒロト以外の誰もが固まっていた。あの日の光景が頭に浮かぶ。いつ、どこで、どうやって……? 「邪魔だった。本当は人間ごと消したかった。俺は宗教っていうのが大嫌いだ。綺麗事を並べて、洗脳させて、大金を巻き上げて──。そんなのはクソがつくったクソの集まりにすぎねえ。立派な動機だろ?」 目の前にいる凶悪犯罪者�爛劵蹈鉢瓩録余陲里覆て圧,鯏任い晋紂∋坡甲呂鬟丱奪�にして、ガードレールに腰を下ろした。 「でも、どうやったんだ?全然わかんなかった。お前が車に何か仕掛けたのすら……。一体何を使ったんだよ?」 シンジは眉をひそめながら興味深そうに訊いた。 「お前らがくだらねえ演説に聞き入ってた時だ。車の周りには誰もいなかったし、障害になる物は何もなかった。車の鍵も開いてたんだ。だから吸筒口を開けて導火線とちょっとしたもんを手早く突っ込んで火をつけた。まあ、それだけじゃあんなに綺麗に燃えねえからな、ほかにもいろんな仕掛けがあるんだけど、それは言えねえ。ノッポみてえなバカに悪用されて足がついたらシャレにならねえからな。お、悪い……」 帰りの運転はヒロトがすることになった。峠を下りきった頃、それまで運転をしていたサジの眠気がピークに達して蛇行が激しくなりつつあったからだ。無理もない。時刻は午前四時を回ろうとしていた。助手席に乗り代えたサジは煙草を吸おうとマルボロのソフトケースを何度か振り──溜息交じりの舌打ちと同時にそれを握り潰した。 「シンジ、セッターくれ。煙草がきれた」 サジは窓を開けながら煙草を吸って一時的に眠気を覚ますと、ちょっとコンビニ頼む、とヒロトに告げた。 コンビニには一台も車が停まっていなかった。ヒロトは斜めに三台分の幅をとりサイドブレーキを引いた。 「サジ、俺も煙草きれそうだから行く」 「いいよ来なくて。チビと一緒だと補導されちゃうから」 「そうか……。じゃあ、ここから歩いて帰ってくれ」 「ほんとそれだけは勘弁してください。──で、二人は行かないのか?」 僕は手を横に振った。シンジも、俺もいいや、と言った後、眠いから早くな、とつけ足した。 チャンスが来た。これを逃がすと今度はいつになるかわからない。僕は軽く深呼吸をした後シンジを横目で見た。シンジは眠そうな目で外灯に止まる小さな虫を見つめていた。 「なあシンジ、聞きたいことがあるんだけど……」 「おおっ、何だ?……ちょっと寝そうだった」 「お前さ、リョウコのこと……どう思う?」 「リョウコのこと?ああ、あいつはちょっと……じゃねえか、かなりうるせえけど面白いし、いい奴だと思う。……それが?」 「ズバリ言っていいか?」 「何だよ?」 「リョウコはお前に惚れてる。一年の初めからずっと」 「──!?マジで……?」 「誰にも言えないで、最近その言えない苦しさが限界にきてヒトミに相談を持ちかけた。ヒトミは早く告白しろって言ったみたいだけど、その前に少しでもお前の気持ちを知っておきたいらしい。なるべく二人の時に話してくれって言われたから、なかなか話せなかった」 シンジが赤面しているのかどうかは暗くてわからなかったけど、話題を逸らすことも、はぐらかす気配も感じられなかった。ちゃんと考えているようだった。 「そっか……。話はわかったけど、実感がないな。いつも一緒にいたし、女子じゃ一番仲よかったから。まあ、クラス別になってもそれは変わらないけど。でも、そんな素振り一度も見せなかったよな」 「そうだな。俺もびっくりしたよ。あいつはお前以上にピュアかもな」 シンジは下を向いて僕と同じように逆立てている髪の毛先を触っていた。 ──揺れてる?シンジが突然そう呟いた瞬間、車が激しく揺れた。後ろからくる揺れに反応してバックミラーを見ると、サジがトランクに体重をかけて揺らしていた。ミラー越しにその様子を見ていると、ヒロトが店から出てきてサジに近づき、頭を平手で叩いて怒ったように何か言っていた。サジは反省した顔をして何度もヒロトに頭を下げた。──僕は伝えることができた爽快感で、シンジは恥ずかしさを紛らわすようにチビとノッポのやりとりを見て笑った。 「何コソコソ話してたんだよ?シド、今度ケツ貸してくれって頼まれたのか?」 「そんなんじゃねえよ」 シンジは二人が戻って来たことで動揺し俯いていた。 「怪しいなー。シンジ、ケツ貸してやるから教えろよ」 「シンジ言ってもいいか?」 遅かれ早かれ、いずれ言うことになると思い僕はシンジに訊いた。シンジはしばらく悩んだ後、いいよ、と顔を背けながら言った。 僕が事情を全て話し終えると、意外にも二人は貶すことなくリョウコを絶賛した。同時につき合うことを強く進めた。 「いいと思うけどな。確かにうるせえけどよく見ると結構可愛いし……。そういえば今日、あいつ朝から担任キレさせて一日中、下だけ体操着だったぜ。確か、スカートの丈が短いって注意されたら、中が見たいならもっと短くしてもいいですよ、とか言って……。朝からなかなか面白かった。もしかして、リョウコのそういうとこがシンジは引っかかってるのか?」 コンビニで買った煙草を吸ってすっかり眠気の覚めたサジの口調ははっきりとしていた。 「別に、そういうのはないけど、ただ……急なことで頭が真っ白になってる。これからリョウコにぎこちなく接しそうになる気がする。それで今の関係が崩れるのが心配だ」 「いいんだよ、普通にしてれば。そんな今すぐ答えを出せなんて言ってるわけじゃないし。ゆっくり考えろよ。それにリョウコは今のシンジが好きなんだから、これから変に意識したりそっけなくしたりすると逆効果になるから、それだけは気をつけろよ」 僕は悩むシンジを落ちつかせた。 「いろいろ考えて、それから答えは出すよ。この話が何もなしで消えるようなことは絶対にしないから。ヒトミにもそう伝えてくれ。お前とヒトミにはこれから世話になると思うけど、その時はよろしくな」 「任せろ。できる限りのことはするからよ、俺もあいつも。それよりサジ、絶対にリョウコに感づかれることはするなよ。お前は二人と同じクラスなんだから」 「でもヒトミとは計画立てたりしてもいいんだろ?」 「だめに決まってんだろ!サジっ子はそういうのへたそうだから確実にばれるぜ。そしたらパーになるからな。お前は危険な悪臭がする」 「人のことを寄生虫みてえに言いやがって……。俺はそんなヘマしねえよ。これでも産まれてすぐの頃は、口の堅い奴だって言われてたんだ。まあシンジ、とりあえずがんばれよ。いい方向にいくことを期待してる」 「種の出しすぎで空手を怠らねえようにな」 ヒロトが良質の毒を吐いた時、いつの間にか車は僕の家のすぐ近くまで迫っていた。僕は背中を反り息を詰まらせながら言った。 「明日、つーかもう今日か、学校行く?あと四時間ちょっとで始まるけど」 「行かねえ」 三人が声を合わせて言った。その声に影響されて僕も欠席する方向に決めた。 「じゃあ、寝ていくか?」 何故か三人に優しい言葉をかけてしまった……にもかかわらず、 「俺は車があるから」とヒロト。 「俺もいいや。家で寝る」とシンジ。 「どうすっかな、お前んちで寝てもいいんだけど、マユミさんにフライパンやられるからなー。ヒロトもリョーキもいねえから確立も高くなるし……帰る!」とサジ。 三人に呆気なくフラれた時、車は家の前に到着した。 「それじゃあまたな。気をつけて帰れ、事故るなよ」 僕は軽く手を振って遠ざかって行く三人を乗せた車を見送った。──後部座席のサイドガラスからは親指を立てたシンジの腕が見えなくなるまで伸び続けていた。
| 2006年02月18日(土) |
アカイヌクモリ ―――�検檻押宗宗� |
四人が部屋を出たのは、連ドラが始まる二一時ちょっと前だった。空腹を抱えてリビングを通ると、母親とカオリがテレビを見ていた。 「あれ、みんな帰ったの?」 母親にそう訊かれ、今帰った、と言った途端、カオリに叱りつけられた。 「シド、ご飯くらい一緒に食べるようにしなきゃだめだよ!お母さんの片づけが一回じゃ済まないでしょ」 「テメーで食ったもんはテメーで片づければいい話だろ?あんまりうるせーこと言ってると、シンジに嫌われるぞ」 カオリは顔を赤らめた。すかさず母親に、あら、と突っ込まれていた。シンジはカオリのお気に入りだった。顔と筋肉質の体、それと謙虚なところが気に入っていたらしい。 「今日は……来てたの?シンジくん」 顔を赤らめ俯いたままカオリが訊いてきた。 「大体毎日来てるけど、話したいか?」 「別に、いいよ!恥ずかしいからやめて」 あっそ、と言い僕はドアノブを握った。 「ご飯、テーブルの上に置いてあるからチンして食べて」 「ああ」 僕はドアノブを半回転させてリビングを出た。これが家族と交わした最後の言葉だった。
夕食を食べ終えて、部屋で音楽を聞いたりテレビを見ていると、いつの間にか時間は日づけを変えていて、午前一時三十分を回っていた。風呂に入らなくては、と思いパジャマを持って再びリビングを通ると、静まり返った室内に電話の呼び出し音が鳴り響いた。母親もカオリも既に寝ていて、親父は仕事からまだ帰っていない。僕はパジャマをソファーに投げて受話器をとった。 「もしもし」 「シド?」 「サジか、こんな時間に何だ?」 「今、何やってる?」 「これから風呂入ろうとしてた。何で?」 「今ヒロトんちにいるんだけど、これから峠までドライブ行かねえか?」 「ドライブ?足は、バイク?徒歩ならお断りだ」 「んなわけねえだろバカ。車だ」 「車って誰の?」 「ヒロトだ、あいつの親父の。知ってたか?あのチビ車乗れるんだぜ。俺もさっき知ったんだけど。あー、でも俺も今練習して問題ないって言われたから、運転は俺」 「あいつ車まで乗れんのか?つーか遠慮しとく。お前の運転だろ?まだ死にたくない」 「うるせえヤローだな。で、どうすんだよ、行くよな?」 「ああ、行くよ。あとは、誰がいるんだ?」 「シンジ。リョーキは連絡がつかなかった」 「シンジもいるのか!?オッケー。──サジ、愛してるぜ」 「何だお前、そっちに目覚めたか?まあ、俺も愛してるけど。とりあえず今から出るから……そうだな、十分弱でつくと思う。外出て待っててくれ。あっ、そういえば──」 「何だよ?」 「もうヒトミとはトラックの箱でパコパコしたのか?」 「……関係ねえだろ、ぶん殴るぞテメー。どうでもいいから、気をつけて来いよ」 「ああ」 ヒロトが車を運転できることにも驚いていたけど、そのことよりもシンジが一緒にいるということに僕は胸を躍らせていた。サジに、愛してる、と言ったのもシンジがいたからだ。けどそれは、決してシンジに恋心を抱いていたからではない。僕はシンジに、大事な話をしなければならなかった。誰にも聞かれないように──。 ヒトミがリョウコから聞かされていたのは、恋の悩みだった。リョウコはシンジに片思いをしていた。外見からは想像もできないほど、リョウコは恋に限ってはネガティブだった。一年が始まった直後からシンジに思いを寄せていながら、自分の心の中だけにその気持ちをとどまらせていた。そして、誰にも打ち明けられない辛さが限界に達して親友であるヒトミに相談を持ちかけた。ヒトミは、そんなに長い時間好きでいたんならすぐに告白しなきゃ、とリョウコを後押しした。リョウコも告白することに気持ちを固めたけど、その前にどうしてもシンジが自分をどう思っているのかが少しでも知りたい、ということでヒトミから、できるだけ二人の時に訊いておいて、と頼まれていたのだ。それでもシンジと二人になることは難しくチャンスがなかった。 僕自身もこのことには、電話ではなく直接話をしたかった。だから、今日は絶対にシンジに伝えなければ!と意気込んで外へ出た。
外は、虫の微かな鳴き声と風の流れる音がして僕の気持ちを静粛にさせた。風は涼しいというよりかは少し肌寒く、僕は内腿に両手を挟んだ。空を見上げると星は数えきれないほど姿を現して、明日も晴れるから、と僕に呼びかけているような気がした。 家の前でしゃがんでしばらくシンジにどう話そうかと考えていると、車のエンジン音と共に激しくパッシングを喰らった。サジ御一行だ。僕の前でクレスタが停まり、後部座席のドアを開けるとシンジが、よっ!と煙草の持っている手を軽く上げた。僕も、よっ!と言いながらシンジの隣りに座った。運転席を覗くとサジが楽しそうに、 「おう!パッシング、十五秒前に覚えたばっか!」 と何度もそれを繰り返していた。 「いいから早く出せよ」 助手席のヒロトが何故か冷えているビールを僕とシンジに渡しながら言った。前の二人は既に手に持っていてタブも上げられていた。 車が走り出してすぐヒロトに、いつの間に車なんて覚えたんだ?と僕は訊いた。ヒロトは、二、三週前、と振り返らずにボソっと言った。相変らず無愛想なガキだ! サジの運転は、急ブレーキ、急発進、急ハンドルが多くてぎこちなかったけど、二時間足らずで覚えたとは思えなかった。 車中は意外にも静かだった。疲れと眠気からか、夜中の二時を回ろうとしている中、誰も口を開こうとはしなかった。ただ、レッド・ホット・チリペッパーズの曲が車の流れと共に響いているだけだった。僕も眠かった。目を閉じれば朝まで目覚めることはないというくらい──。けど、それを打ち消したのはサジのある一言だった。 「お前らに質問。もし、世界中の奴らが口々にしている�狎こκ刃足瓩�実際に起こったら……その時世界はどうなると思う?身分、人種、男女差別、貧富の差、戦争、不況、そういうものが一切ない世の中になったとしたら……。当然俺は自分なりに考えはまとめてある。お前らの考えが聞きたい」 しばらく沈黙が続いた。僕も眠気を覚ましながら懸命に考えた。それでも世界を相手にして物事を考えたことのない僕にとってサジの質問は素晴らしく難問だった。そんな出題者のサジは僕らを急かすことなく黙って峠へ向けて車を走らせていた。 「わかんねー。つーか知るかよ、そんなの」 よい子の寝る時間を疾うに過ぎてしまったからだろう。頭が回らなくなったヒロトは投げやりにギブアップした。それからしばらくして、 「俺もわかんねえ。見当がつかない。ただ、そうなるといいなって思うだけ……」 シンジが運転席のシートに頭をつけて言った。シンジがギブアップしたのは意外だった。こういう場合、僕とヒロトが潰れた後にシンジがもっともなことを言ってくれるのがパターンだったからだ。 「シドは?」 サジに答えを急かされた時、まるで一〇〇〇ピースのパズルが一瞬にして完成してしまうかのように、その答えがひらめいた。 「──多分、だめになると思う。世界には今、核兵器を造ってる国もあれば、内戦をしてる国、餓死する奴が絶えない国もある。でも、そういう国があるからこそ世界はバランスをとっていられるんだと思う。助け合うっていうのか。それとは逆に僻(ひが)み合うって言い方もできるな。世界平和がもしきたとしたら、それは世界大戦の始まり。人間は誰でも独占意識をどこかに持っている。世界に差別とか貧富の差がなくなれば必ず独占したいって考える奴が出てくると思う。今までよりも残酷で卑劣な独裁者が。それも同時にいっぱい。ヒトラー、レーニン、ポルポトなんかより身勝手で心を持たない連中が……。そうなったら世界はそいつらを殺すために攻撃する。イコールそれは戦争だ。結局、世界平和がきたとこで世界はまた戦争っていうくだらねえ過ちを繰り返すことになる。人間なんてそんなもんだ。だから、内戦とか飢餓で苦しんでる国はかわいそうだけど、そういう国があるからこそ世界は動いていけるんだ。幸福、不幸の両方があるからこそ世界はバランスがとれる。不幸が全くなくなった時は、その後にもっと残酷で無残なことがあるような気がするけど……」 これ以上言うと逆にボロが出る恐れがあったために僕は言葉をきった。シンジは、なるほどね、有り得るかも、と頷いてくれた。ヒロトはサイドガラスに頭を当てたまま動かなかった。 「シド、これから二人してラブホにでも忍び込むか?俺も全く同じだよ。世界平和なんて一生有り得ねえ。あっちゃいけねえんだ。バカがわんさか出てくる兆候だからな」 「それより、サジは何でそんなこと考えたんだ?」 今度はシンジがサジに訊いた。 「それはな、バカなりに考えられる頭を持たなくちゃいけねえと思ったからだ……よ」 サジは恥ずかしそうに後ろに傾けていた首を前に戻した。 「……ホテル行くのか?どうでもいいけど、この車はホモ乗車禁止だ。テメーら二人、今すぐ降りろ」 寝ていると思っていたヒロトだったけど、しっかり話を聞いていた。 「バカ!ホモは俺じゃねえ、シンジだ。今日だってリョーキのケツを……なあ?」 「俺に振るんじゃねえよ!」 「じゃあシンジ、降りろ」 「テメー……ヒロト!信じんのか!?じゃあ、お前は何だよ?」 「バイセクシュアル」 「チビ、たまにはおもしれえこと言うじゃねえか」 笑いながら左手で肩を叩くサジにヒロトは、バカに褒められた、と小声で言った。聞き逃さなかったサジは、ナメた口利くんじゃねえ、と運転そっちのけでヒロトに絡んだ。 「危ねえバカ!前見ろ前!」 シンジが体を乗り出してハンドルを握った。あと少しで縁石に乗り上げるところだった。ヒロトは落ちついた様子で窓から顔を出し、縁石に接触していないか確認していた。サジは動揺したのか、体を直角にしてハンドルを握っていた。車中はシンジの笑い声が響いていた。僕はそんなシンジを見ながらサジと同じように三人に質問した。 「じゃあ次は俺から質問。この前ヒトミから、周りから野蛮人って思われてるのってどんな気分?って訊かれたんだけど、お前らがそう思われるきっかけみたいなものって何だ?」 僕がそう言った途端、三人は首を傾げながら考えてる様子だった。そして、しばらく経ってからサジが答えた。 「俺は小五だな。初めての調理実習の時だったと思う。何を作ったとか、そういうのは全然覚えてねえけど、クラスに絶対一人はいるだろ、その手の授業になると必ず調子づく奴。まあ、そういう奴がいてよ、確か匙加減の匙と俺の名前をかけやがったんだ。初めは笑って流してたんだけどあまりのしつこさに限界がきて、そいつの喉元に傍にあった包丁突き出して、殺すぞテメーって言ったんだ。もちろん本気だった。本気で突き刺すつもりだった。刃の先は喉についてたしな。でもその時さ、家庭科担当のおばちゃんが止めに入ろうとしたんだけど、衝撃がデカすぎたらしくて失神しちゃったんだなこれが。おまけに包丁突きつけられてる奴は失禁。まあ、その後ボコボコにしてくれたけど──。俺はそれがきっかけだな」 サジは頷きながら言葉を止めた。そして、シンジも続いた。 「俺は──俺はっていうかリョーキも一緒だと思うけど、やっぱり空手かな。人をテメーの力で倒すっていう快感をガキの頃から身につけちゃったからな。それが純粋に格闘家としての方向にいけばよかったんだけど……そうはいかなかった。で、ヒロトは?」 「言う必要あるのか?」 僕ら三人はヒロトの顔を凝視して頷いた。どんな言葉が返ってくるのか?他の奴よりも気になった。サジもシンジも同じだったに違いない。 「──天性だ」 その瞬間、車中には溜息交じりの、意味わかんねー、の声が響いた。 「そういうお前はどうなんだよ?」 運転席から首を少し傾けてサジが訊いてきた。僕は思うがままに言った。 「俺はお前らと会ってから。それと、家族のことを聞かされてからかな。まあ、昔からちょっとしたイタズラはしてたけど、お前らに会って拍車をかけられたって感じだな」 隣りのシンジをちらっと見ると、流し目をするようにビールを口元に傾けながら僕を見ていた。 「あっそう……。じゃあ番外編な。こいつらはどうだか知らねえけど、俺がお前とつるもうと思ったわけ」 サジは照れ臭いのか、今度は首を傾けることなく正面を向いたままだった。 「とりあえず匂いがした。自分と同じ匂いが──。それでなんとなくつるんでるうちにピストルズのこととか、俺がそれまで全然知らなかったこととかを話してくれたから、こいつはちょっとって思った。俺はお前の顔は好きじゃねえけど口から出る言葉は好きだ。もちろん話もな」 俺もそれは思う、とシンジも乗ってきた。 「別に大した話じゃなくても、シドが話すと何か面白く聞こえる」 「俺は何とも思わねえ。ただお前が近づいてきたから仕方なくいるだけ」 ヒロトは乗らなかった。それでも仲間から自分はそんな風に思われていたんだ、と考えると後頭部を掻きたい気持ちになった。また、ふとした拍子で恋愛やこの時と同様、深い話になると仲間からはこう言われた。 �爛轡匹牢超�に恵まれている。できのいいお友達と、バカを尊重してくれる風変わりな親。だからどんなに悩んだりしても、普通の中坊じゃしょうがなく忘れるしかないことでも、どうにかってより軽々打開できるんじゃないかと思うんだ�� 僕は周りの人間からすごく大人で、ある程度は自立できていると思われている、というか言われている。けど、僕自身はそんなこと微塵も思ったことがない。僕はシノブとマユミというちょっと一般的ではない両親。それに頼りなくて弱々しいけど、姉カオリがいなければ何ひとつできないし、自分の考えというものを持つことができなかっただろう。それは仲間という存在も大きく後押ししてくれたと思っている。
「ヒトミは?」 「あっ?」 「あいつは何て言ってんだ?お前のこと」 サジは真夜中だというのに、田舎のタクシー運転手のように喋り続けた。 「言ってもいいのかな?まあ、いいか。僻むなよ。──他の奴には持つことのできない何かを持ってるって、そう言われた……」 「──ユリナさんと一緒じゃねえかよ。なかなかびっくり発言だな。でも、お前には女を惹きつける何かがあるのかもしれねえな」 僕は得意気な顔をして隣りに座るシンジを見たけど、シンジは窓の外に目を向けていた。 家を出て三十分が過ぎた頃、車は峠を登っていた。前にも後ろにも車は見えず、当然対向車も来なかった。また、アスファルトが崩れていたり、真っ暗で細い峠は何に出くわすかわからないということで、ライトを遠目にして進んだ。 しばらく登ると、この辺だ、とヒロトが端に車を停めさせた。一人で勝手に車から降りていくヒロトに僕らも続いた。峠の道は高い岩壁とガードレールに挟まれていて、車がすれ違うのは難しいと思える狭さだった。時々、山中から動物とも虫とも思えない鳴き声が聞こえてきて、僕らはその度に耳を澄ました。 「う〜さむっ!やっぱまだ学蘭だけじゃだめだな。こんなに冷え込んでるとは思ってなかった。──で、ここは何だよ?」 サジが腕を交差させて小刻みに震える体をさすりながらヒロトに訊いた。 「ここはな、市街地が一番よく見える場所なんだ。昔親父によく連れて来られた」 ガードレールから身を乗り出してヒロトは言った。僕らも同じように身を乗り出して市街地を探した。そして、市街地の場所は目で追うまでもなく一目でわかるほど、光が溢れていた。そこはまさに昼と夜が逆転した世界だった。風俗街をメインとする市街地は多数の顔を持っているようだった。それでも、そこから見る景色は絶好でとてもじゃないけどその光溢れる華やかな場で、男たちが快楽に溺れているとは想像もできなかった。 「サジはあの中でアヤさんに会ったのか……」 シンジが呟いた。サジは光を見ながら数回頷いた。 「そういえば、お前に女ができたとか、ヤッたとかって話しか聞いてなかったけど、風俗街って実際どんな感じなんだ?」 僕は遠くに光るそれを見ながら訊いた。 「そうだなー、とりあえず狭い通りにソープ、ヘルス、イメクラ、キャバクラ──風俗って呼ばれるもの全てがギュウギュウに詰まってるって感じだった。歩いてる奴はほとんど男で若いのから中年までいろいろだ。まあ、女も多少はいたけど、そこで商売してるような奴ばっかりだった。時々スーツ着た異様な雰囲気のおいちゃんとすれ違ったりしたけど、あれは多分ヤクザだったと思う。でも、ヤクザなんかよりビビッたのは細い路地で、死んじまうってくらいボコられてる奴がいたり、ヤッてる奴らがいたり、死んでるか寝てるのかわからない奴がいたことだ。ひとつの路地で必ずそういうのを見たよ。お前絶対パスポート持ってねえだろ?って外人も結構いたし、コジキもいたな。とにかくあそこはすげえよ、別世界だ。普通の中坊じゃ見られねえもんが見られる。快感はなしにしても、行ってみる価値はある。いつ厳ついのに声かけられるかわかんねえけど」 サジはそう言うと突然、ガードレールを跨いでその上に座ろうとした。 「危ねえ──!」 叫び声と同時にガードレールにしがみつくサジの体は、下から引っ張られるように伸びきっていた。ガードレールの向こうは傾斜ではなく、絶壁だった。 サジはしがみついてることにホッとした表情を見せ、早く上げてくれー、と言った。逆に僕らの方が動揺して汗だくになりながらサジを引き上げたという状況だった。 「危なかったな。新聞の一面飾るとこだったぜ。�猴Э融或佑料阿覇輿海療蠖伴�殺。少年に一体何が?�瓩辰討福� 「崖になってるのか?」 シンジは転がっていた重さのありそうな石を下に落とした。──耳を澄ましても、音は返ってこなかった。 「落ちたら確実に死んでたな。惜しかったじゃねえか」 ヒロトが薄ら笑いを浮かべた。 「チビ、実はここが崖になってること知ってただろ?白状しやがれ!」 サジとヒロトがじゃれ合っていると、シンジが黄昏るように語りかけてきた。 「綺麗だな、ここ。今度ヒトミ連れて来てやれよ」 「バカ、ここまで何使って来るんだよ?足がねえよ」 チャンス!と思った時、サジが話しに入ってきてしまった。 「ここにヒトミを連れて来るのか?ここよりまずは風俗街に連れて行けよ。崖から落ちそうにならねえ限り向こうの方がスリルあるぜ。それより……もうヒトミを紹介したのか?マユミさんに」 「したよ。つき合ってすぐに。それがよ、あいつを紹介した時のお前の大好きなマユミさんは第一声に何て言ったと思う?もうヤッたの?だぜ。それもヒトミのいる前で──」 「ハハァ!マユミさんらしいな。で、ヒトミの反応は?」 「顔真っ赤にしてたけど、笑ってた。でも何か、紹介するって言った時、あいつすげえ緊張してた。俺は別にそうでもなかったけど……」 「違うな。普通は緊張するんだ、中坊なんていったら特に。でもお前は中一の分際でヤッてるのが親にばれたからその緊張感がねえんだ。いいじゃねえか、気楽で」 ヒロトが弱性の毒を吐いた。そして、急に真顔になって話題を変えた。 「──実は今日、話さなくちゃいけないことがある。お前らにだけには話しておきたいことが。できればリョーキもいてほしかったけど……。だから今日は珍しく俺から誘った」 相変らず無愛想で無表情だったけど、薄暗く見えるヒロトの目はいつにも増して鋭かった。 「──去年の九月、学校で炎上事件があったの覚えてるよな?」 「宗教団体のだろ?」 サジが新しい煙草に火をつけながら言った。 「そう、実はあれ……俺がやったんだ」
| 2006年02月17日(金) |
シドの回想 ―――1――― |
ねえ、前から聞きたかったんだけど、周りから野蛮人って思われてるのってどんな気分?
──別に、どうってことはねえよ。何とも思わねえ。だって自分がそうだって自覚してねえもん。まあ、シンジ抜いたほかの三人はどうだかわかんねえけどな。でも、多分同じだよ
確かにね。シドとシンちゃんは小さい時どんな子だったんだろう、とか考えてもちょっとは想像つくけど、あの三人は全くもって想像できないよね。特にリョーちゃんとヒロトくんなんてオギャーって産まれてきたとも思えないもん。それに、ランドセル背負ってる姿なんて思い浮かぶ?
……リョーキは気持ちわりいけど、ヒロトはまだまだいけるだろ
あーそう考えるとほんと、全然いけるね
それ、あいつ本人の前で言えるか?
……埋められちゃうかも。でも不明だよね、彼は。私は未だに掴めない。まだリョーちゃんの方が喋りやすいし、わかるかも
まあ、嫌でもそのうちわかってくるだろ
そうかな……。ねえ、さっき野蛮人とか言っちゃったけど、どうして周りの子たちはシドたちのことを理解しようとしないのかな?
ん、どういうこと?
みんな五人とは大して話しもしたことないんでしょ?それなのに目を逸らしたり、近づかないようにしたり、軽蔑したり──。私、すごく思うの。五人は普通の中学生よりもいろんなこと考えてるし、遥かに大人だって。確かにそういう目で見られるようなことはいっぱいしてるけど、シドたちから学ぶことって多いし、それって結構大きいことだって思うよ。私はいろいろ教わってるから
風俗街のこととかな
バカ。──多分、セイゴくんも五人の中に入って話したいと思ってるよ。気づいてるんでしょ?みんなあのすごい眼差しには
できれば気づかねえようにしてえよ。でもあの視線はマジで、サジとかシンジ見てキャーキャー言ってる奴らより必要ねえよ
そうなんだ……。でも何で急に違うグループに行っちゃったのかな?
俺たちといるといろんなことに巻き込まれるし、それに喧嘩とかあいつ絶対お断りの奴だったから、つき合いきれなくなって離れていったんだと思うぜ。あいつはシンジの正統派っていうか平和主義とはわけが違うからな。とにかくビビり屋だった。喧嘩に発展するなって時は、いつでも逃げてた
そっか……。でも寂しくなかった?友達が一人減って
そういうのは特になかったけど、そうなってよかったなっていうのは感じた。もしセイゴがずっと俺たちと一緒にいたら、俺たちは確実にあいつを突き放してただろうし。そういう意味じゃ、あいつは自分から離れて正解だったと思う
ふーん
──それよりさ、何でだ?
何が?急に真顔になっちゃって
どうして俺なんだってこと。こういうことは自分から聞くもんじゃないけど……
知りたいんだ?気になるんだ?
知りたい。自分でも考えたけど、性格で選ばれることなんてまずないし、顔ならサジで、性格っていうか優しさならシンジだろ、あと残るものって何もねえじゃん
そうだね。確かにシンちゃんは性格最高だし、顔なら文句なしでサジ。でもね、私はシドにしか持つことのできないもの──それは何なのかわからないけどそれに惹かれたの。個性よりはもっと強力なもの。それは、いくら優しいシンちゃんでも、顔のいいサジにも持つことができないの
ちょっと褒めすぎじゃねえか?
私もそう思った。ねえ、私も
何だ?
私には……ユリナさんにしてたみたいに扱うっていうか、接しないの?
何で、そうしてほしいか?
……わかんない
ユリナの話は──もうするなよ。今考えるといい思い出とは言えない。それに、思い出したくもない
そっか、ごめんね……
──そろそろ、一ヶ月だな
すっごく早いね。それに未だ彼氏って実感がない。まだ片思いしてるみたいだよ
お前もか?実は俺も……つき合ってる感じがしない
失礼ねー、そう思うのは私だけでいいの!──それより、シドって傍で見るとやっぱり大きいね。背、いくつだっけ?
一七七
前に立たれると何も見えなくなっちゃうね。ほら……もう何も見えなくなっちゃった……
──ヒトミ?
煙草臭いぞ
| 2006年02月16日(木) |
アカイヌクモリ ―――�検檻院宗宗� |
我が家の番人、金木犀が迎えてくれる玄関先についた時、先に上がってるからな、という仲間のうち誰かの声が僕の部屋の前辺りから聞こえてきた。僕は、ああ、と空返事をして玄関を開けた。いつもと変わらぬ風景。端に揃えられている何足かの靴、下駄箱上の花瓶から香りを放つヒナギク。 リビングに入ると、母親が好物のハーゲンダッツを食べながらテレビを見ていた。 「ただいま」 帰宅を告げると母親は驚いたようにハーゲンダッツを腕で覆い隠しながら言った。 「あげないよ!絶対にあげないからね!スプーン持ってきても無駄だよ!」 「いらねえよ」 リビングを出ようとする僕に、 「シドー、みんな来てるの?」 とアイスを口に運びながら訊いてきた。僕は、来てるけど、と答えてリビングのドアノブを掴んだ。 「悪い遊びするんじゃないぞ」 母親は微笑みながらそう言うとしばらく僕を見つめていた。その言葉に僕はあえて返事をしないで母親から視線を外し、無言のままリビングを出た。
部屋に入ると、そこはあの世のように真っ白だった。 「お前ら窓開けてから吸えよ。煙くてしょうがねえだろー」 二ヶ所の窓を開けている僕に、四人は目もくれずに煙を立てていた。ヘビースモーカーのリョーキは既に三本目に突入していた。 窓を開け終えて座り、愛しのラッキーストライクをくわえるとヒロトが、ごくろう、と火をつけてくれた。この日はいつもの他愛もない会話で時間が過ぎていくのとは違って、何故か話題がきれることがなかった。 「そういえば今日、実力テストの結果が返ってきただろ?お前ら二人はどうだった?」 二年が始まってすぐに行われた五教科の実力テストの結果をサジは秀才のシンジとリョーキに訊いた。 「俺、今回は五位」 シンジは三、四口しか吸っていない煙草を揉み消しながら言った。リョーキは、手の甲を見せながら無言で指を二本立てた。 「マジでー!?二位って総合点おいくつかしら!?」 サジが突っ込んだ。リョーキは静かに煙を吐きながら言った。 「四九七点。トップが満点だってよ」 「満点かー、すげえな。それよりお前らの二とか五って何だよ?俺なんて二のつく数字は通知表でしかとったことねえぞ。一年の終わりなんて体育以外、全部一だった。笑うしかなかったぜ。──聞くけど、何をどうすればそんな点とれんだよ?」 「教科書に書いてあること覚えりゃいいんだ。それだけだよ」 リョーキはあっさりと言った。 「簡単に言うけどよ……。じゃあさ、今からちょっとした勉強会しようぜ。基本的な問題出してくれよ、何でもいいから」 「そうだな、じゃあ数学っていうか算数の問題。三角形の面積を求める公式は?シドもヒロトも一緒に考えろよ」 僕とヒロトは、面倒くせー、と言いリョーキが講師となる�爐舛腓辰箸靴進拔�会�瓩了臆辰魑馮櫃靴拭� 「ちなみにお前ら今回の結果どうだったんだ?」 シンジもリョーキ講師の助手というような眼差しで僕ら三人を見た。 「俺はー、今回ビリ射程距離だけは逃れたぜ。一五九位。どうだ?」 自信に満ち溢れたようなサジに、シンジは溜息を吐いた。 「俺は一五三」 灰を落としながら僕は言った。 「悪いけど……これから俺はこいつらの方へいく。お前らバカ二人にはもうついていけねえ」 突然のヒロトの言葉に僕は、あ?と訊き返し、サジは笑顔の中で激怒した。 「テメー!何だその俺らをワンランクもツーランクも下に見てるみてえな言い方は!?」 「見てるみてえ……じゃねえよ。見てんだよ」 「どうせ口だけに決まってるぜ。順位は?」 「一三八。レベルの違いがわかったか?」 「何がレベルの違いだよ。所詮は三桁だろ、大して変わんねえよ。天狗になりてーならもっとお勉強しろ」 サジはそんなことを言いながらも内心ホッとしているようだった。 「一三八かー、がんばったなー今回は」 「数学が簡単だったからな。あれは、点をとって下さいって言ってるようなもんだ」 「ああ、確かに」 シンジとヒロトの話に全くついていけない僕とサジは苛立ちを覚え、リョーキ講師の質問に全問正解して、ヒロトを�爐�ゃふん!�瓩噺世錣擦茲Δ函∋鯵儼舛量明僂魑瓩瓩觚�式を懸命に考えた。 しばらくして、ハイハイ!とサジが手を上げた。リョーキは四本目の煙草をくわえながら、言え、と片手で合図した。 「えーっと、底辺×高さ÷2……?」 「素晴らしい、正解だ。まあ、このくらいは常識。次、シドも考えろよ」 「わーったよ!」 「台形の面積を求める公式は?」 「(上底)+(下底)×高さ÷2」 僕は直感で答えた。 「早いな、知ってたのか?」 「バカにすんな。次」 「シド、ちょっと見直したぜ。俺はてっきり公式って意味すら知らねえと思ってた」 サジは僕の逆立てた髪を潰すように撫でた。 「お前はさ、俺より頭わりーのによくそんなこと言えるな……」 「……醜い争いだ。つくづく一緒にいることが恥ずかしい」 僕とサジはヒロトの毒に、チビは黙れ、と言って次の問題を待った。シンジは楽しそうに帰りに買ったファンタを飲み干した。 「これはちょっと難問だ。三角錐の体積」 「ヒロトわかった?」 シンジが空になった缶の縁を片手で潰しながら訊いた。 「余裕だな。ただ、二人の将来を思うとここで答えるわけにはいかねえから。譲る」 「お前ほんと嫌なヤローだな。まあ、いいか。シド、悪いけど答えるぞ。正解は、直径×3・14÷高さだ」 サジは大声で、しかも自信満々で答えた。でも、間違っているのは僕にもわかった。 「サジ、どう考えればそういう公式が出てくるんだ?どこで教わった?」 「え、違うのか?」 「底面×高さ×1/3、だ。バカノッポ」 「チビ、物知りだな。今回は譲ってやる。シドー、マユミさんは?」 「リビングでアイス食ってるよ」 「じゃあ、俺とアイスしませんかって誘っちゃおうかな?ちょっと話してくる。お前ら邪魔すんなよ」 サジは足早にリビングへ向かった。シンジは出て行くサジを目で追いながら僕に訊いてきた。 「マユミさんて今何歳だっけ?」 「俺を産んだのが二十歳の時だから……今年で三四だな」 「若いよな。全然そんな年には見えねえよ」 シンジは不思議そうに頷きながら言った。 四人は僕の家庭事情を知っていた。親父から話を聞いて、言おうか言わないか迷ったけど、四人とは友情を超えるものがあったから話したいという気になった。熱弁した記憶があるけど四人は、別にいいじゃん。今さら何がどうなるわけでもねえだろ、と声を揃えながら予想外の返事を返してきた。 サジは僕の家に寄ると必ず母親に顔を出した。冗談なのか、本当のとこはわからないけど、仮にも僕の母親である�爛泪罐澂瓩帽�れていた。不倫してー、一発ヤリてー、という言葉は毎日のように聞いていた。当の母親はサジのことを、あいつは可愛い奴だね、と一言で片づけていた。それと、仲間の中で母親に唯一サジだけが呼び捨てにされていた。サジはそれだけで十分満足そうに見えた。 部屋を出て二十分近く経って、サジが笑顔というより泥酔したようにフラつきながら戻ってきた。 「何かいいことあったか?」 シンジが訊くと、 「これからマユミって呼んでもいいですか、って訊いたら、いいわよ、だって。それとアイス食わせてもらった。間接キスだ。アイスよりも甘いマユミの味がした。脈ありかも。──シド、近親相姦とか変な気起こすんじゃねえぞ」 サジは仁王立ちで勝ち誇ったように言った。僕は、どんな気だバカ!と返して深入りをせずに次の話題をつくることに精を出した。 「そういえば、宿泊訓練がそろそろあるけど、お前ら行くのか?」 六月中旬に控えている二泊三日による高原学校での宿泊訓練の話題をシンジが出した。 「行かねえ。時間の無駄」 リョーキとヒロトが声を合わせて言った。 「俺は、行かなきゃヒトミに怒られるから、多分行くと思う」 「何が怒られるからだ。ゲロくせーこと言ってんじゃねえよ」 サジが絡んできた。 「そういうお前はどうなんだよ。行くのか?」 「高原学校なんて、かったるいことに時間をかけてる暇はねえな。二泊三日だろ?アヤの部屋でパラダイスな時を過ごすよ、俺は」 アヤとは、サジの人生で記念すべき初めての女だった。 彼氏であるサジ以外の僕ら四人は、そのアヤという女とは面識がなかったけど、話だけは聞いていた。アヤはみっつ年上のキャバクラ嬢でこの月の上旬、サジが一人夜の風俗街をぶらぶら歩いているところを客引きとして声をかけてきたらしい。そして、サジを見るなり一目惚れしてしまったアヤは、サジが中学生だとも知らずに仕事を早退して、一人暮らしの部屋に上げ、サジをその夜にご馳走になって、つき合うことになった、という流れだ。セックスが終わった後にサジが中学生だと知ったアヤは、しばらく放心状態に陥っていたらしい。サジを自分と同じ年だと思い込んでいた、何ともバカな女だ。僕らはサジの前では言わなかったものの、ろくでもねえアバズレだ、と面識のないアヤを大批判していた。それでも僕は、アヤの話が出る度に不思議な気持ちになった。気づくといつも母親とアヤ、親父とサジを重ねていた。四人は立場が逆なだけで同じ出会い方をしていたからだ。別に大したことでもないけどサジは、これは偶然じゃねえな。俺とマユミさんが繋がるまでのシナリオだ、とバカな期待感を持っていた。 「やっぱお前も最後は女かよ。ゲロくせーのはお互い様だな」 僕はパーマで傷んでいるサジの髪を引っ張った。 「イテテ……!一緒にすんじゃねえ。お前のは、行かないと、だろ?俺のは、行くと、なんだよ。『サジはアヤを一人残して行っちゃうの?サジってそういう冷たい男なの?アヤ泣くからね……』。そんなこと言われちゃったらよー、これ行くわけにはいかないっしょ。おわかりかな?」 「虚弱体質みてーなノッポもキャバクラ嬢も、揃って精神病院に行った方がいいんじゃねえのか?」 ヒロトがまた毒を吐いた。絡んでいくと思ったサジは、ヒロトを無視して煙草に火をつけた。 「──じゃあ、行くのはシドと俺だけか……。まあでも、向こうに行ったら二人で楽しもうな」 シンジは三人が行かないことで、少し寂しそうだった。 「いや、お前と楽しむつもりはないよ。俺はヒトミと最高の思い出を作るから。悪いけど邪魔しないでね。シンジくん……」 「裏切りかテメー?もう武道教えてあげねえぞ」 「じゃあ、早く女作れ。モテるんだからよ」 僕はシンジの目を見て半笑いで言った。 「いいよ……俺のことは別に」 シンジは自分の恋愛の話や、女のことを自ら進んで話すタイプではなかった。僕やサジが追及しても赤面しながら上手く逃れていた。この時も既に赤面していた。僕の言った、モテるんだから、という言葉がカウンターパンチのように効いていたのだろう。 「そんなことよりシド、お前ヒトミをもうちょっと�猗狃��瓩辰討いμ椶埜�てやった方がいいんじゃねえのか?」 シンジが得意の話題変えをした。わかっていたけど僕はあえて黙っていた。 「何だよ、それ?」 「こいつ、移動教室の時とかヒトミの手を握って歩いてるんだぜ。ヒトミは呆れながら俺に言ってきたよ。サジをどうにかしてほしいって。お前に言っても全然とり合ってくれないって寂しそうだったぜ」 「そんなの毎日のように言われてるよ。でも、相手はサジだぜ。こんな奴のために嫉妬してどうする?」 「でもよ──」 「心配すんな、所詮はサジ。悪いな、いろいろ間入ってもらっちゃって」 当のサジは、自分とは無関係だと言わんばかりの顔で僕とシンジを交互に見ていた。 ヒトミとサジのことで心配することは何ひとつなかった。サジは僕の親友だ。僕を裏切るようなことは絶対にしない、という信頼があった。ヒトミも、どうにかしてよ、とは言っていたものの、それほど嫌気ではなかった。どちらかというと、やきもちを妬いてほしい、と言っているような感じだった。だから僕はサジのすることに対しては無関心でいることを貫くことにしていた。些細なことでヒトミともサジとも関係が悪くなるようなことはしたくなかった。それとヒトミに�狄�じている�瓩箸いΔ海箸魎兇犬討曚靴�った。今思えばあの時、ヒトミに嫉妬で狂ったようにしていたらどうだったか?と考え込むことがある。どうなっていただろう?ヒトミは僕の嫉妬に、私はこんなにも愛されているんだ、と思い力いっぱいに抱きしめてくれただろうか? そうは思わないけど……。
| 2006年02月15日(水) |
アカイヌクモリ ―――�掘檻魁宗宗� |
「……シドにはキスなんて全然重いものじゃないかもしれない。バカみたいで今更無理なことだけど、シドにとっても私が初めての女がよかった。──ごめん、聞き流して」 二人にしかめっ面を演じさせていた夕陽が沈みかけていた。僕とヒトミは抱き合うことも二度目のキスもすることなくただ黙ってひたすら流れていく雲や熱を失っていくアスファルトを見つめていた。 「正直、言っちゃうとね──」 僕の学蘭の袖を引張りながらヒトミが唐突にきり出してきた。 「ユリナさんのことは、私の方が忘れられないんだ。お前には関係ないってシドは思うかもしれない。でもね、心配なの。シドは本当に忘れられてるのかって……綺麗な人だったから。私にはあの人の代役は務まらない──」 「おい、そのくらいにしとけよ」 ヒトミが抱いている不安、ネガティブな考えが彼女を愛しく思っていた僕の気持ちを苛立たせた。 「お前とユリナを俺が比べてるような言い方だな。しかも代役って何だよ?俺はユリナの代わりになってほしくてお前に告白したんじゃないぜ。お前はユリナの分身か?価値観も全く一緒なのかよ?だったらとことん比べてやる」 ──ちょっと言いすぎたかもしれない。今にも泣き出しそうなヒトミを見て冷静さをとり戻しながら静かに続けた。 「もし今、お前とユリナを比べてたとしたら、最初っから告白なんてしねえであいつのケツを追ってたと思う。これだけは間違いねえ。でもヒトミはユリナじゃない。あいつと比べることなんてできねえし、比べようとも思わねえ。だから代役なんてこと、言ってほしくねえよ……」 ──袖を引張っていた手が腕に巻きついてきた。それから彼女は何度も背伸びをした。見下ろす僕を睨みつけ、背伸びをしたままジャンプした。──二度目のキスは時間にしてコンマ三秒。おまけに唇が強く当たりすぎて二人とも口を押さえて苦い顔をしていた。 この日からヒトミは休日を始め、休み時間に下校時と、二人でいる時間は常に手をさし出してきた。時には唇も。──幸せだった。初めて愛というそれまでは触れることができなかったものに触れた気がした。白くて細い指。しばらく握っていると汗がにじみ出てくる彼女の、あの生暖かさを僕の左手は忘れまいと、眠ることなくただ待ち続けている。
| 2006年02月14日(火) |
アカイヌクモリ ―――�掘檻押宗宗� |
入学して間もなく僕はバスケ部に入った。部活は強制ではなかったもののミニバス時代のコーチに言われた、素質はある、という言葉を少なからず信じていたからだろう。──そして、出会いは突然訪れた。 体育館のステージ前で練習の声出しをしていた時、僕の隣にいた奴がいきなり肩を組んできた。 「おい、知ってるか?お前のことバレー部三年の人が気に入ってるらしいぜ」 声出しはこの上なく退屈で毎日気分が悪かったせいか、あっそ、と言わんばかりの態度で、だからどうした、と吐き捨てた。 「何言ってんだよ、めちゃくちゃ可愛いって話だぜ。背が高くて、モデルみたいなんだってさ。ただ……ヤバイ人らしいけど。一年の女子の間でも怖いっていう噂が広まってる」 どんな奴だよ?そう心の中で呟きながらバレー部との境界線になっている張りのないのネットを透してコートをざっと見渡した。そして見つけた。さがすまでもなく――。目が合った瞬間その女はピクリとも動かずに僕をじっと見ていた。笑顔も手を振る素振りも何もなく、ただ無表情で。それから十秒、十五秒ぐらい経ってから、女は視線を外して練習を再開した。 隣にいた奴が言っていた通り、その女は長身でスタイル抜群、遠見ながらも顔立ちがはっきりしていて僕は距離がありながらも目のやり場に困っていた。その女こそがユリナだった。中学生とは思えないほどの美貌と近づき難い威圧感を持っていた。 どういうわけか、初めて目が合った日から僕とユリナの距離は徐々に狭まっていった。目の合う回数は次第に増え、意識的に互いに目を合わせるようになり、校内ですれ違った時は挨拶代わりに多少の話もした。後輩でユリナと話をするのは僕だけだったけど、周りが騒ぎ立てたり恐れるほど彼女は悪い女ではなかった。確かに校内で火のついた煙草を持って平然と歩いたりしていたけど――。 六月に入りユリナとの距離が急接近した。何の約束もなしに自然とほぼ毎日一緒に下校していた。そして、親父から母親とカオリの話を聞いた数日後だった。僕はユリナに腕を引っ張られるまま、いつもの帰路とは明らかに違う道を歩かされていた。 学校を出て二十分くらい経った時、ユリナはピタッと足を止めて前方を指した。そこは何台もの大型トラックが規則正しく並んでいる古ぼけた運送会社の倉庫だった。行くよ!そう言い再び僕の腕をとり駆足で開いているトラックの荷台へ這い上がり、手早くドアを閉めた。中は当然真っ暗でユリナの顔も全く見えなかった。それに梅雨時期ということもあり、ジメジメしていて木材の臭いと埃の臭いが混ざっていてロマンチックな場所とはほど遠かった。僕は狭い空間で二人きりという状況に緊張していたのか、膝を抱えたまま黙ってシルエットでしか見えないユリナを見つめていた。 ──カチンッ、という音と共にオレンジ色の淡い光が荷台の暗闇に灯った。ユリナがつけたジッポライターの炎は痩せたり太ったりを繰返し、休むことなく彼女の高い鼻、引きしまった顎のラインから全てを美しく映し出していた。 「やっぱ、閉めると暑いね。それにちょっと臭いし……」 ユリナはあちこちを見回しながら言った。思いのほか響く声に僕はただ頷くしかなかった。そんな動揺を隠しきれない気持ちを悟ったのか、ユリナは微笑みながら平然と言った。 「シド……ここで私とヤらない?ちょっとエッチする場所には相応しくないけど」 全く予測していなかった言葉にどう返せばいいのか、戸惑っているうちに胸を打つビートが速くなって背中と膝が震えていた。──しよう、その一言が喉から出ないまま黙り込んでいると、 「どっちぃ……?」 ユリナは耳元で囁き首を両手で絡めてきた。その瞬間、僕の中で真っ白な煙と青い稲光を発して何かが爆発した──。 ゆっくり、それでも力みながらユリナを横に寝かせた。首に両手が絡んでいたから僕も一緒に横たわった。そして、オレンジ色の炎に照らされる埃臭い中でユリナにキスをした。これが僕の初めてのキスだった。聴こえてくるのはユリナと僕の微かな息遣いだけ。そして、彼女の唇は柔らかかったけどすごく薄くて出っ張りがなかった。 唇が重なってからしばらくしてユリナはそっと離してから言った。 「シド、初めてでしょ?私も……初めてなの。だから……ね、優しくして……」 いつも強がっている素振りばかりだったユリナはこの時は控えめというか、少し怯えているようだった。また、意外だったのはユリナの口から�狃蕕瓩騰瓩箸いΩ斥佞�出たことだった。荒れ狂っていた三年の中でも抜群に目を引く存在。そんな彼女がバージンだったとは意外というより、むしろ驚きだった。 しばらく抱き合い互いの舌を絡ませながら、彼女のほどよく弾力のある胸や柔らかく形のいいケツ、綺麗にくびれた腰を愛撫した。そして、それまで聞いたことのない彼女の甘い声に酔わされながら、今度はモザイクの世界でしかなかったもう一人の潤い続ける彼女に何度もキスをして僕は、セックスという未知なる世界へユリナと潜り込んでいった──。 ──天国というものを初めて経験した。埃臭い聖地にはまさに�狹傾颪望困辰臣豊瓩鉢狠蝋�を見た女�瓩�いた。ユリナは全裸で寝そべり、痛かった……と息をきらせていた。そして、互いに一服し終えた時だった。突然何かを思い出したような表情をした彼女の口からは信じられない言葉が発せられた。──ジュニアが萎えていく瞬間でもあった。 「エッチする前に言おうと思ってたんだけど、忘れてた。私あんたとはつき合う気はないから」 これからの二人の幸せを多少というより大いに期待していた分、落胆は隠しきれなかった。この時聖地にいたのは�牋�女�瓩鉢狠蝋�に落とされた男�瓩世辰拭�正直、ユリナの存在に気づいた時から僕は彼女に惚れ込んでいた。無理もない。ユリナに気に入られてそれを蹴るような男は、あのサクラ好きという物好き以外には考えられない。……そう、親密になるに連れて忘れていた。ユリナはそんな澄んだ女じゃない……! 失望感に呑まれ、返す言葉が見つからない僕を尻目に彼女は続けた。 「初めてシドを見たのは入学式の日だった。私は式に出なかったんだけど、校内であんたとすれ違ったの。憶えてないよね?その時かな、何かあんた見て変な気持ちになった。口じゃあ言い表せないような……。私と一緒にいた奴は特に何も言ってなかったけど、何だろう?オーラ……は言いすぎだけど、とにかくほかの男には持てない空気をあんたは持ってた。私はそこが気に入ってあんたに近づいたの。でもふたつも下でしょ、つき合うにはガキすぎるし、けどまあ、エッチぐらいはいいかなって思った。正直あんたの肉体(からだ)が欲しかっただけかもしれない。あんたがいつも一緒にいるサジだっけ?めちゃくちゃかっこいい奴。いいんだけど、あの手のタイプは一回ヤって飽きると思うんだ。私の方がね。あともう一人、シンジって子。あの子は三年にはすごい人気だよ。私は清純気があってあんまり好きじゃないけど。──シドとはこれからもこの関係を続けていこうと思ってるけど、まあエッチ以上の関係にはならないけどね。だから別に彼女もつくっていんだよ。ただ、エッチは続けるよ」 怒りに満ち溢れながらも、僕は怒鳴りたい気持ちを抑えて冷静に考えてみた。中一という若さでこの快感を得られる奴はそうはいない。ユリナとこのまま関係を続けていれば確実にセックスだけでも楽しむことができる。僕はユリナの言う�狷�体だけ�瓩箸いΥ愀犬鮗�け入れることにした。──この選択が後々ヒトミを苦しめることになってしまうものとは考えてもいなかった。 「いいよ、それでも」 「あっ、ちょっと待って。期限がある。私が卒業するまでね。もし嫌ならこの関係は今日で終わりっ」 「あ〜わかったよ!いいよ何でも……ヤれれば!」 この日からユリナとは生理や余程の用事がある時以外、発情期の獣のようにほぼ毎日体を重ねた。場所はトラックの荷台を始め、スクラップ工場の廃バスの中、校内の死角になる場所、体育館倉庫、駅構内のトイレなど、いろいろな場所を試した。さすがに駅のトイレはスリル満点だったけどその分興奮した。時には授業を抜け出して生徒不足で空室になっている教室で隠れながらヤッたりもした。 夏休みと中体連が間近に迫ってきた時、僕は部活中の傷害事件によって部を強制退部させられた。事の発端は三年のユニホーム�爍記瓩鬚弔韻薪曚�僕の頭にボールを投げつけたことから始まった。こいつはセラダと仲がよかったらしく、それをいいことに誰よりも粋がっていた。理由は、僕が喋っていたというだけ。完全にキレてしまった僕はそいつの顔面にボールを思いっきり投げ返した。そしてボールは不恰好な鼻に、カツンッという音をたてながらヒットした。その後、倒れ込んだ時に胸の辺りを五、六発爪先で蹴った。周りで見ていた奴らがすぐに止めに入ったものの�爍記瓩鷲,魎挧弭�折に肋骨を三本折っていた。──ユリナとのセックスが家族にばれたのは丁度この直後だった。 帰宅し、母親とカオリと三人で(親父は仕事の時間が不規則で帰宅するのが深夜ということが多かった。そのために平日の夕食は三人の時がほとんどだった)夕飯を食べていると、 「ちょっとシド、首筋が赤くなってるよ。ニキビ?虫刺され?」 とカオリが首筋に触れながら訊いてきた。すると、見せて、と母親が素早く僕の首を曲げて赤くなっている所を皮膚科の医師のように凝視した。そして、夕飯を食べ終えた母親は茶碗と箸を持って立ち上がり、食べ終わったら寝室に来い、と告げ出て行った。 満腹感で破裂しそうな腹を抱えながら母親の待つ寝室へ向かった僕は、何故首筋の吹き出物くらいのことで呼び出すんだろう?と何度も考えていた。寝室に入ると母親はダブルベッドに腰を下ろし、何か考え込んでいるようだった。 「ごちそうさま。で、何だ?」 「おっ、来たな。座って」 両手で腹を擦りながら僕は母親の隣りに座った。そして座った途端、深刻な話をするように僕の顔をじっと見ながら母親は言った。 「シド、いつからやってんの?」 質問の意味が理解できない僕はただ、何を?と訊き返すしかなかった。 「何を?って、私に言わせるつもり!?まあ……いいけどさ。――いつからエッチしてんの?」 目撃者0、共犯者0のはずなのに何故よりによって母親にばれているんだ!と思った時には既に赤面、顔に出ていた。もう言い逃れはできないと思い僕はザンゲした。 「──六月の末くらい……かな。でも何で知ってんだよ?」 母親は微笑みながら僕の首筋の吹き出物を引っ張って言った。 「これだよ、これ。あんたこんなに堂々とキスマーク見せてたらわかるのに決まってるでしょ。バカね」 「キスマーク?」 ?顔の僕に母親は目を大きく見開いて驚いたように言った。 「ちょっと待って!あんたキスマークも知らないでエッチしてたの!?勘弁してよぉ〜。基本だよ、キ・ホ・ン!カオリも高校生になったのに知らないみたいだけど」 僕は母親に言われるまでキスマークという言葉を本当に知らなかった。当然ユリナは知っててつけて、僕は何も知らずにつけられていた。そう思うとすごく恥ずかしかった。僕はセックスをする上でのほかの知識が全くなかった。ただ濡らして腰を振ればいいものだと思っていた。そして、自分の知識の乏しさとセックスがばれたことに落ち込んでいると、母親は小出しにいろいろと訊いてきた。 「ねえねえ、相手は?」 「バレー部のふたつ上の奴」 「女?」 「当たりめーだろ!!」 「そうだよね〜、ごめんごめん。一瞬、この子ひょっとしてって考えちゃった。で、名前は?」 「名前なんか聞いてどーすんだよ?」 「いいから、な・ま・え!」 「――ユリナ」 「ユリナかー、なんかエッチぽい名前だね」 「……!?」 「可愛いの?」 「まあ……校内じゃ一番かな」 「そうなんだ、いいじゃない」 「でも……彼女じゃねえよ」 「えっ、セックスフレンド!?」 「──そんなとこかな」 「生意気なガキ。まあ、ヤるな、とは言わないけど避妊だけは絶対にしなよ」 母親の顔がそれまでと違って真面目になっていた。 「ゴムなんて一〇〇〇円出せばお釣りが返ってくるんだから。たった一時の快感で地獄を見たくないでしょ?」 思わぬ言葉に、僕は目を大きく開いたまま頷いた。 「何でって思ったでしょ?──それよりもなんて親だ、か……」 母親は口元に微笑みを保ちながら続けた。 「常識的に考えて親だったら、ふざけたことやってんじゃねえって半殺しにするくらい怒んなくちゃいけないとこだけど、私はあえて言わない。──わかってるから。男と女がどんなことよりも抑えがきかないのは性欲だってことをね。頭じゃわかっていてもそれを食い止めるのはすごく大変なことで結果的に不可能だってことも。──したい時にすればいいんだよ。セックスに早いも遅いもない。早漏と遅漏はちょっと問題だけどね。繋がるっていうのは最高に気持ちいいけど、一歩間違えればどうしても傷つくのは相手の子で責められるのはあんただからね。生きた心地しないよ。まあ、セックスをする上で最低限のマナーっていうか、思いやりを持とうよって話。……オッケー?」 僕は小刻みに頷きながら静かに、はい、と答えた。──そして、とんでもない常識外れの母親を誇らしく思った。こんなにも子供の気持ちを理解して同じ視点で物事を見てくれる親はどこにもいないということ。同じカラーの人間を世界中探し回っても絶対にいないということ。それが誰でもない自分の母親だということを。 「物わかりのいいガキだ。わかんなかったらぶん殴ってやろうかと思ったけど。それにしても早い初体験だね。この前小学校卒業したばっかりなのに。私だって中二の秋なんだよ。相手は──」 「誰も訊いてねえよ」 僕が話をきると母親はこの上ないブサイクな顔をして睨んできた。僕はそれを無視して、 「親父にはあんま余計なこと言うなよ」 そう言って部屋を出て行こうとベッドから立ち上がった。 「シノブならもう知ってるよ」 その場で立ったまま、何だって?という顔で母親を見下ろした。母親は上目遣いで僕を見ながら続けた。 「何かねえ、『最近あいつ顔つき変わったなあ』って言ってて。私はほら、例の話聞いたから少し大人になったんじゃないかなって思ってたんだけど、シノブは、『多分あいつはヤッた』って言ってたの。あれはヤッた男の顔つきだって。その時は、何バカなこと言ってんのって笑い流してたんだけど、今思うとあれって六月の中旬から七月の頭にかけて言ってたことだから、ほんと、丁度シドがヤッた時くらいなんだよね。すごいね、シノブの�猥�(せがれ)観察能力�瓩辰討笋弔蓮4郷瓦垢襪茵� 僕も一緒に感心した。 「で、初エッチはどうだった?」 「別に、どうってことねえよ……」 「またー、強がっちゃって。失敗しなかったのー?入ったけど三擦り半だったんじゃないのー?」 「気が済むまで言わせてやるよ」 その夜、日づけが変わってから帰宅した親父に、�犂兒’塾呂砲脇�が下がるな�瓩塙陲欧拭0嫐�がわからないという疲れきった顔の親父にユリナとのことを告げた。親父は、 「やっぱりな。……ませガキ、避妊はしろよ」 と母親と同じことを言い僕の頭を微笑みながら軽く叩いた。 ユリナとの関係が日を重ねるごとにマンネリ化し、飽きがきていた。あれほど気持ちいいセックスにも飽きというものが存在するということを知った。気分が乗らない時もヤッていたし、ジュニアが、ギブギブ!と嘆いているのをわかっていてもヤッていたからだろう。正直、いつでも関係を絶ってもいい、という気持ちもあった。ヒトミにもそれを強要されていることもあった。それでもユリナの卒業の時を考えるとそういうわけにはいかなかった。卒業と共に快楽が終わる――。それは十分に承知していた。だからこそユリナとのセックスはヤれる時にヤッておこう、とフィニッシュの度に思った。ヒトミの心よりもユリナの美貌をとった。 そして卒業式前日。ユリナは進学をしないでしばらくふらふらする、とのことだった。この最後の日、セックスを終えた後に僕を抱きしめながらユリナの口から出た言葉は、忘れろ、と願う奴がいたとしてもわすれてはいけない、そう自分に言い聞かせている。それは彼女とのセックス以上に価値のあるものだと思っているからだ。 「もうさよならだね。──私、好きだったな、この細くて長い足。髪も伸びたね。それにしても何回くらいヤッたかなぁ?ヤりたくなくてもヤッてたもんね。でも……すっごく楽しかった。快感をありがと。最後に、私からちょっと言わせて。──ここで初めてエッチした時、私があんたに言ったこと覚えてる?」 「……つき合う気はないって言ったことか?」 「まあ、それもあったけど……そうじゃなくて。あんたはほかの人間が持つことができない空気を持ってるって話。──これからあんたがどういう生き方をするのか、私には見当もつかないけど……いい?凡人が歩いて行くようなレールになんて絶対に乗っちゃだめだよ。あんたには何か人とは違ったことができる才能があるんだから。そう思ってるのは私だけかもしれないけど……」 「それを本当にさがせることが、俺は才能だと思うけどな」 卒業式当日、僕は式をすっぽかした。というよりも学校にすら行かなかった。ユリナを見たら悲しくなる、名残惜しくなる、ヤりたくなる、そんな理由ではない。 僕とユリナの関係はセックスが終わった時点で既に終わっていた。卒業式前日にもう終わっていたのだ。だから式には初めてセックスをしたあの日から出席する気はなかった。最後にセックスをした日からユリナとは一度も会っていない。何をしているのかもわからない。 彼女の声、言葉、香り、唇、触れ合った肌の感触、そして過ごした日々はやがて年を重ねるごとに薄れていくだろう。けど、あの言葉だけはずっと心の奥で居座り続けるに違いない。
| 2006年02月13日(月) |
アカイヌクモリ ―――�掘檻院宗宗� |
この日の帰り道、サジは僕の家につくまでの大半の時間、三時限目にあった一件を一人で六役(僕らとトミナガ)こなし�爐發里泙諭Ε錺鵐泪鵐轡隋辞瓩搬蠅靴独簣�していた。というより見せつけられた。サジは人の仕草やポイントを見つけるのが得意だった。そのあまりの役者ぶりに僕とシンジは、腹を抱えアスファルトに膝をついて笑った。シンジは涙を流すほどうけていた。リョーキとヒロトは鼻でしか笑っていなかったけど、腹の中ではひっくり返っていただろう。 しばらくするとサジは何もなかったように真顔に戻り、まだゲラゲラ笑っていた僕に訊いてきた。 「シド、今日ヒトミは?」 呼吸をするのもままならない状況の中、僕は声を絞って答えた。 「──ああ、何か……今日はリョウコんちに行くって言ってた。最近悩みを聞いてるらしい」 「あのうるせー女が悩みか……。そういや二人してそそくさ教室から出てったな」 リョウコは僕らと一年の時同じクラスだった奴で、ボーイッシュだけでは満足できずに騒がしく、女バージョンのサジのようだった。たとえば、給食の時に食べることより喋ることに時間を費やし、飯にはほとんど手をつけないまま片づけになって喚いたり、授業中に下ネタ話の一部を教師に聞かれて机の隣に正座させられたり、僕やサジの股間に手を当てては、まだまだ青いね、と言うような女だった。彼女は普通の女ではできないこと、言えないことを悉くやって退けてしまう、よく言えば気どらない楽しい奴、悪く言えばただの○○○○だった。よく見ると可愛い顔をしていたけど、騒がしさと女気のなさが邪魔をしてなかなか�狃��瓩箸いμ椶納�りからは見られていなかった。そして、ヒトミとはリョウコの親友でこの時僕がつき合っていた女だ。──つき合っていた?過去形?今でも継続しているだろ?いや、そう信じたい……。 彼女は別の地方で小学校を卒業するまで生活していて、両親が営んでいる旅館の店舗拡大のために引っ越してきた。そして僕らよりも少し遅れて入学し、偶然にも……いや、そうじゃない、必然だ。必然的に同じクラスになったんだ。 転入生というのはいろいろな意味で騒がれ注目されて、ある程度時期が過ぎれば落ちつくけど、その時にはいい奴か悪い奴かのどちらかでしかない。悪い奴、と断定された奴は卒業するまで、あいつは転入生のくせに……というレッテルを貼られてしまうことが多い。考えただけでも自殺ものだ。ヒトミは旅館の娘ということもあってか、人当たりがよくわりと早く周りとは打ち解けていた。一部では�爛泪疋鵐吻瓩覆鵑童貼�い呼び方をしている奴もいた。僕ら五人は物珍しさと、慣れない環境で戸惑っているのだろう、という勝手な決めつけでヒトミに近づいた。ヒトミも学校では�猊堽畢瓩噺討个譴討い針佑蕕法∧亳�の目を向けずに接してくれた。なかなか好奇心旺盛な彼女に僕らはあらゆることを教え込んだ。その中でもヒトミが好んで聞いた話は、市街地外れの風俗街のことだった。顔を真っ赤にしながら話を聞くヒトミは、恐そうだけど行ってみたいな、と胸を躍らせていた。実際、その願いは叶わなかったものの、僕らとヒトミは互いに想像もしていなかったほど親密な関係になった。 ヒトミとそうなるに連れて、彼女が僕に恋愛感情を抱いていることは薄々気づいていた。みんなで帰っている時も必ずといっていいほど僕の隣に来たり、時々二人で遊んでいる時も気を惹かせるようなことを言ってきた。そして、彼女が僕にとって恋人という存在になったのは三月の末でお互いのことを知り尽くしていた中でつき合ったからか、正直�猗狃��瓩箸い�実感がなかった。ヒトミは僕の全てを知っていた。性格、価値観、名前の由来、家族の事情、僕が仲間と起こした数々の事件──。 僕らが恋人と呼ばれる時間を過ごしたのは、三ヶ月にも満たない果敢ないものだった。それでもヒトミと出会ってからあの日までに積み重ねてきたひとつひとつは、浜辺で無数に光輝く砂や貝殻のようにしっかりと隙間なく心に散らばっている。それはどんなに強く吹き荒れる潮風にも飛ばされることなく輝き続けている。 つき合い始めて間もない頃、僕はヒトミのことを知ろうという気持ちから、いくつも他愛のないことをまるでインタビュアーのように質問したことがあった。そして、彼女の口から出てきた言葉は今でも色褪せることなくしっかりと僕の頭にインプットされている。 ・好きな景色? 「高速道路から見える緑いっぱいの田園とか、日の当たらないじめじめしてそうな森林とか、そういう所の集落を見るのが好き。すごく長閑で、なんかね、車は猛スピードでエンジンを怒らせて走ってるのに優しい気持になれるの」 ・食べ物? 「早くも一番答えたくない質問かも……。笑わない?ていうか、バカにしない?……えーとね、佃煮類」 「…………」 「ねえ、口元震えてるよ。──だから言うのやだったんだよー!」 「あれかな、ヒトミは爺ちゃん婆ちゃん子だったのかなー?」 「何その人をバカにした喋り方は!?もーいい次!」 ・好きな人間、タイプ? 「顔はいいに越したことはないけど、それ以上に個性かな。自分をちゃんと持ってる人。そう考えると私って結構曲者が好きなのかも。嬉しいでしょ?」 「はい次」 ・色? 「くっ〜!腹立ってきた。グレー。──私はビビッドよりパステルの方が好きなんだよね。何となくなんだけど。グレーは服に合わせやすいからかなー。……ちょっとがっかりした?女の子らしくピンクとか言ってほしかった?」 「別に期待してない。次」 「何それさっきから、酷い!本当に聞きたくて質問してんの!?」 ・教科 「もー!……強いていえば、英語かな。リョウコからの影響が大きいね。あの子英語大好きでしょ。いつも一緒にいるから私もいつの間にか好きになっちゃった。シドは?体育と性教育以外は得意科目なんてないか」 「ああ、そうだな……。ただ、学力が乏しいことを誇りに思うことはねえけど、恥ずかしいと思ったこともねえ。この先シンジとリョーキはいい高校に入って、一流大学を出てエリートになっていくような気がするけど、サジにヒロト、もちろん俺も今の状況じゃお先真っ暗だ。多分、俺ら三人のことを見下してる奴らは、中卒で手に職つけてヒーヒー言いながら一生を終える、とでも思ってんじゃねえのか。まあ、そうなる確率も低くはない。でも、もしかしたら俺を含む三人がシンジとリョーキみてえな奴よりも上に立つ人間になるかもしれない。転機っていうのか?当然、そういうもんは自分でつくらなくちゃいけねえと思うけど、いつかは来る気がする。──二十歳になった時はもちろん、卒業後すら何をしてるのかも全くわからねえ。その不安みてえな圧迫感が俺は楽しくて、気持ちよくて堪らねえ。自分の将来がすごく楽しみなんだ」 「今言ったことだけじゃないけど……それだけ自分の気持ちをしっかりと持って人に伝えることができるんなら、絶対に大丈夫だよ。シドの将来は真っ暗なんかじゃない。私が保証する。だからこれから時代に沿っていくために無理に自分を変えようとか、考えを曲げたりだとか、そんなこと思っちゃだめだよ。シドは今自分の持っている考えを、これから先も突き通すべきだよ。それがシドの武器なんから」 「お前に俺の将来を見透かす力があるのか?」 「……あるよ。当然じゃない」 「じゃあ信じる。次」 ・音楽? 「何でも聞くよ。日本のも外国のもクラッシックまで。セックスピストルズの曲は私にはあんまり合わない。歌詞は好きだけど。そうだなー、最近はブラーかな。知ってる?ブラー」 「知らない」 「イギリスのバンドだよ。曲もいいし、メンバーがかっこいいんだー。まあ、今度シドも聞いてみてよ」 「ああ、ブラーね。ブラー」 「発音違うよ。語尾は下げるんだよ」 「ブラォォーブラォォーブラォォーブラォォーブラォォー……」 「うるさい!次!」 ・休日の過ごし方? 「今はシドがいるから予定は埋まるけど──あっでも、つき合う前だってサジとかみんなで遊んでたよね。誰かと遊ぶ以外は、ビデオ借りたり、本読んだり、散歩したり、旅館の手伝いさせられたり……そんなとこかな」 ・前に住んでた所での思い出? 「近くにね、小さい旅館ていうか、民宿があったの。その民宿の前に流れていた河原で遊んだことかな。流れは激しいけどすごく綺麗だったんだ。うちがオフシーズンになって暇ができると、毎年一回は必ず家族旅行として行ってたの。一年で一番待ち遠しくて楽しい時だった。クリスマスとかお正月なんかよりも……」 「お前の言ってる民宿は�獻悉�(そまひで)�瓩辰討いΔ箸海世蹇�女将がリーゼントっぽい」 「ちょっと待って!何で知ってるのー!?」 「行ったことがあるんだ。小五の時かな。俺も家族旅行で。確かに河原がすっげー綺麗だった。みんなはしゃぎまくって全身ずぶ濡れになってた気がしたな──」 平然を装って淡々と話していたけど、内心は有り得ないほどの偶然にガキながらも運命というものを感じずにはいられなかった。 カオリが中二で胸の膨らみを意識し始めていた時期に、僕ら家族御一行は車で十時間以上もかけて小さな島で五日間のバカンスを満喫した。──九一年の夏休みだった。 僕はまだ体もジュニアも小さくて、思い出の河原では流れによってバランスがとれず、母親に手を握られていた。 河原は民宿の前の道を跨ぎ、土手を下りてすぐの所にあった。晴れていれば遠くからでも魚が泳いでいるのがわかるほど水は澄んでいた。その水を見守るように河原を囲う緑という自然に、小学五年の僕は圧倒されていた。そして、どう流れてきたのかわからない巨大な石の上では、釣り用の服に身をまとった中年の男が竿の先端を見つめたまま獲物がかかるのをじっと待ち構えていた。僕と親父はバーベキューの下準備をして、母親とカオリは揃ってTシャツに短パンという姿で飲み物を冷やしながら氷のように冷たい水をかけ合っていた。──日が暮れる頃になると、 「そろそろ夕食の支度ができますけどぉ〜」 と勇ましいドラ声で忘れたくても忘れられない、ポマードを髪全体に塗り手繰ったリーゼント風の厳つい女将がわざわざ呼びに来てくれたのだ。 昼のバーベキューと夕食の支度を告げる女将の声であっという間に過ぎてしまった五日間。帰りの話題はほとんど顔面凶器の女将だった。母親は、 「あと一日延長したいなんて言ったらあの声で、『夕食はあんたらの肉を使ってやろうか〜』なんて言われちゃいそうだね」 と面と向かっては言えなかったことを発散させていた。
「恐いくらい偶然だね、びっくりしたー。でもどうしてわざわざ杣秀だったの?」 「親父が旅行のパンフレット持ってきて、気づいたらそこに決まってた」 「へーそうなんだ。あの川原は本当に綺麗だったね。水はすっごい冷たくて流れも激しかったけど、私は我慢してずっと入ってた。出てからもしばらく見入ってたよ。──向こうを出る時最後にもう一回見て、できれば入りたかったんだけど時間がなくて……。今でも時々切なくなる」 「残念だったな。……ちょっと距離はあるけどさ、絶対行けないって距離じゃないぜ。いつか行けるよ。それより、ヒトミの住んでた所ってあの島?」 「違うよ。私の家は本州の端だったんだ。でも近かったよ、一人じゃ心細くて行く気にはならなかったけど。──シドはさ、水切り得意?」 「どうだろ、あんまやったことねえからなー」 「今度勝負しようよ。もし私が勝ったら……どうしよう、後で考えとく。──あっ、あの島に一緒に行こ!杣秀には泊まれないと思うけど」 「いいけど……健全な中学生らしくねえ発言だな。いつになるんだか──。まあ、焦らずのんびり考えていきましょうよ」 「……シドがさっき、行けない距離じゃないって言ってくれなかったら私、行こうなんて言わなかったよ。普通に考えたら、行かないってより行けないでしょ?一応私は健全(、、)な中学生だし。でもね、シドとは──」 次の言葉を待てなかった。目の前ではにかみながらも楽しそうに僕に語りかけているヒトミが愛しくて堪らなかった。左手を後頭部に、右手を腰に添えて力いっぱい僕は彼女を抱きしめた。一瞬の動作だったからか、左手にはさらりとした細い髪が絡まって少しくすぐったかった。突然の展開に、彼女はしばらく僕の腕の中で呆然と立ち尽くしていたけど、寝息に似た短い呼吸をするとそっと僕の腰に腕を巻いてきた。四月の夕暮れ時の風は生暖かくて正直抱き合うような気候ではなかったけど、そこには�爛轡畢瓩鉢爛劵肇澂瓩箸いΔ海涼狼緇紊廼�然にして出逢った二人にしかわからない心地よさ、ぬくもりがあった。トマトジュースに染められたような空に見守られながら、この時間が永久に続いてほしい、そう心から願った。そして、ヒトミの抱きしめる力が強くなり僕の背中が反り気味になっていた時だった。�爐海了�間が永久に続いてほしい�瓠△修Υ蠅辰討い燭砲發�かわらず、僕は彼女の顎に軽く手を添え目を閉じたまま静かに唇を寄せた。──無意識の行動だった。唇を合わせ体が震えるほどの緊張に襲われながらも、ヒトミという女を心から愛しています、そう自分自身に誓った。 彼女の唇はすごくふっくらとしていた。目を閉じていてもそれだけは感じとることができた。それと、睫毛と頬骨辺りの筋肉がピクピク動いていることも。腰に巻かれていた手は唇が重なった直後、背中にしがみつくように力んでいた。好きだ、そう言いかけた時、ヒトミは後退りするように唇を離した。そして、俯き唇を指で押さえながら言った。 「シドは、初めてじゃないんだよね……」 じんわりと嫌な汗が滲み出てきた。僕にはほんの数秒前のキスが二人にとって幸せだったのか、それともしてはいけないものだったのか、わからなくなっていた。俯くヒトミを黙って見つめていると頭の中に一人の女の影が浮かび上がってきた。ヒトミの言う通り、僕にとってキスは初めての経験ではなかった。いや、キスだけじゃない。もっと上のことも。あの中学生という域を超越していたユリナという女と──。
| 2006年02月12日(日) |
アカイヌクモリ ―――�供檻魁宗宗� |
僕らのひとつ上の学年の奴らは健全というか、トミナガの言う通りクソ真面目というか、反れた道を歩いているような奴が一人もいなかった。鬱病患者の集まりのようだ、と思いながら見ていたほどだ。 「今年卒業していったセラダたちは、入学した時から数々の問題を起こしていて、好き勝手なことばかりしていた。私たち教師も何もできない荒れようだった。そして、セラダたちが二年になって今の三年生が入学してきた時だ。一人、問題児というか、まあ、君たちみたいに先輩や職員に盾突くような生徒がいた。名前は伏せておく、Aとしよう。Aは入学して早々、激しくセラダの仲間と揉め合っているようだった。セラダは二年に上がる頃から学校へはあまり来なくなっていた。そんな揉め合いが続いていた、確か六月初旬くらいだった。Aの保護者から学校に、『うちの子が昨日から帰って来ないんです』という連絡が入った。私たち職員は全員で市内をさがし回った。そして、やっとの思いでAを発見した。Aはここから少し離れた線路沿いで、顔を血まみれにして倒れていた。学蘭もボロボロで、息も苦しそうだった。即刻Aを病院へ連れて行き、幸い命に別状はなかったものの、体内には覚醒剤が打ち込まれていた……」 「警察は動かなかったのか?」 サジが相槌を打った。 「──当然、Aの保護者は警察に連絡しようとした。しかし、私たちはそれを必死で拒んだ。わかるだろう、セラダたちを敵に回したら我々職員の命も危なかったんだ。──それから、Aは無事に退院したものの、凄まじい暴行を受け覚醒剤を打たれたショックで、数日後、自室で首を吊った──。無力な私たちにAの保護者は、絶対に許さない、うちの子を返せ、と泣いて学校に押しかけてきた。そんな保護者にただ私たちは、申しわけございません。無力な私たちをお許し下さい、と頭を下げるしかなかった……。暴行を加えた犯人はセラダたちだと初めからわかっていた。それでも私たちは知らないふりをし続けた。Aよりも……自分たちの命の方が大切だった──。後悔している。たった一人の生徒すら助けられなかった自分に──」 「ヤクを打たれても警察は出なかったのか?」 ヒロトが頬杖をつきながら訊いた。トミナガは今にも泣きそうな顔だった。 「情けないが……学校と事件は一切関係のないことだと、しらをきり続けた。そして、事件が迷宮入りすることを望んだ──」 トミナガは後悔の念を頭を掻き毟ることにぶつけた。 「最低だ、お前らが死ねばよかったんだ」 シンジが冷めたように言った。そして、�犹爐佑个茲�ったんだ�瓩箸いΕ轡鵐犬慮斥佞�頭の中で何度もこだましていた時、サジが平然と言った。 「へー大変だったね、そりゃ。Aって奴には同情はするけど、自業自得とも言える──いや、言いすぎか。でも、とりあえずセラダは大したことねえし、あんな奴にビビるお前ら教師の気が知れねえ。それに、セラダたちが原因で自殺をするAの気持ちもな。それより、Aの話をしてくれた御礼に、お前にひとつ話をしてやろうか?俺が教師を気嫌いするわけを」 トミナガは一瞬躊躇したようだったけど、ゆっくり頷いてサジの顔を見た。僕らもサジの話しに体ごと傾けて聞き入った。 「それはな、物わかりの悪さと理屈っぽさ、それに固定観念の強さだ。まあ、それがお前に当てはまるかどうかは、その知性豊かな頭と、人間性溢れる心で考えてくれ」 シンプルな言葉だったけど重みがあった。�狠寮�豊かな�瓩筬狄祐崟�溢れる�瓩箸いΩ斥佞漏愬�集会の時、トミナガが頻りに言っていたことだった。トミナガは教師としての自分に何か思い当たる節があったのか、疲れきったように深く考え込んでいた。 「それじゃ、約束だからな。戻るか?」 サジはそう言いながら立ち上がると、僕ら全員の顔を見て、行くぞ、と促した。 僕らが一斉に生徒指導室から出ようとすると、 「まだ授業は終わっていないんだ。ちゃんと教室へ戻るように」 トミナガの気の抜けた声を背中に受けた。そして、返事をしないで出て行こうとする僕らにもう一度繰り返し言った。命令されているような気がして、一瞬頭に血が上った僕は脂の浮いたトミナガの頬を掴んだ。 「指図するな。──ドゥーユーアンダースタンド?」 日常的な英会話を日頃心がけている英語担当のトミナガがこの状況でどんな答え方をするのか、僕は興味深かった。 「──は、はいぃ……」 吐息のように小さく日本語で返したトミナガに、僕はおかしさで顔を真っ赤にして生徒指導室を出た。 「発音悪すぎ」 ドアを閉めた途端、遅れて退室した僕を一人待っていたリョーキにあっさりと指摘された。恥ずかしさを紛らわせるために、うるせー、とケツに蹴りを入れた。そして、トミナガのことを伝えた。 「あいつ、何て答えたと思う?」 リョーキは軽く首を曲げた。 「はいぃ……、だってよ。いつものあいつらしくねえだろ?その場で吹き出しそうになった」 声を出さずに、リョーキは口元だけに微笑みをつくり正面を見つめていた。
| 2006年02月11日(土) |
アカイヌクモリ ―――�供檻押宗宗� |
職員室の向かい側に畳でできた小部屋がある。そこが生徒指導室だ。壁に覆われた薄暗い部屋には窓がなく日当たりは当然ない。あるのは出入り口のドアだけだ。主に生徒指導室に入る生徒は、登校拒否などで教室に入ることができない奴や、何か問題を起こした奴が大半だ。 僕ら五人は生徒指導室に入るなりすぐに胡坐(あぐら)をかいて、過去に多くの問題を起こしながらも初めて入ることになったその部屋を物色した。これといって何もなかったけど、強いていうなら卓袱台、座布団があるくらいだ。そして室内は寒気がするほど静まり返っていた。 胡坐をかいている僕らに対してトミナガは、出入口のドアから一番離れた壁際でビクビクしながら立っていた。 「話って何だよ?」 サジの言葉に一瞬ビクッとして、それから微妙に口元を震わせながら言った。 「一週間ま──」 「とりあえず座れよ」 ヒロトがトミナガの言葉を切った。 そして、無言で頷きながらトミナガは座り僕らに目を合わせずに言った。 「一週前……君たち第三高校の生徒と、喧嘩というか、その……争いみたいなことをした憶えは……あ、あるか?」 第三高校とは市内にある男子高校で、属に�爛錺覘瓩噺討个譴討い誅�中が集まるマンモス学校だ。僕はトミナガに言われて、その日から一週前の記憶を頭の中で辿った。 「あー思い出した。あいつらか……」 シンジがそう言うとすぐに、僕も他の三人も、はいはい、と口にした。 それは、トミナガの言う通りこの日から丁度一週前の下校時の時だった。
僕の家は学校から徒歩十分と五人の中では一番近い場所にあった。そのために四人は帰り道、毎日のように僕の部屋で一服したり、一杯やったりしていた。時々、一杯が酒盛りと化してそのまま翌朝まで飲み続け、目覚めた時には六時限目の授業が終わる頃だったこともよくあった。そんな僕らをフライパンで叩き起こすのが母親の役。狙い所はランダムで、運悪く頭をフルスウィングされたのは意外にもリョーキとヒロトだけだった。普段無口な二人もこの時ばかりは声を上げてのた打ち回っていた。それでも、部屋につくまで煙草が我慢できない時は帰り道の通りに面している高いブロック塀で囲われた広い墓場の裏で吸っていた。そこはだだっ広い砂利が敷かれた空き地になっていて、通りからは全く見えなかった。この日もサジの、休憩、の一言で僕らは墓裏で煙草に火をつけた。サジとヒロトは墓に面しているブロック塀を背凭れにして座り込み、僕、シンジ、リョーキは座っている二人を囲むようにして立っていた。 僕らの肺がニコチンたちに満たされ始めた頃、すぐ傍で人の気配を感じた。振り向くと、紺のブレザーを着た高校生らしきタチの悪そうな男三人組が僕らの様子を監視するように立っていた。そんな三人組を僕らは特に気にする素振りも見せずに視線を外し煙を立て続けた。しばらくすると、 「おい、何シカトしてんだよ?」 三人の中の一人、背はリョーキとほぼ同じで、体がひと回りくらい大きい奴が腹から絞り出しているようなドスの利いた声で言ってきた。顔がリョーキよりもゴツかったから、僕は勝手に�爛献Д優薀覘瓩般礁燭靴拭�ちなみにジェネラルとは、映画<続・猿の惑星>に登場する地球を侵略している悪役のボスザルだ。 「つーかテメーらどこだよ?」 ジェネラルに続いてもう一人のニキビ面の奴が威勢よく身を乗り出してきた。 「失礼な奴らだな。お前らから名乗れば?」 口から出る煙でリングをつくりながらサジが言った。何だこのヤロー!とニキビが大声を上げて怒鳴っていると、 「俺たちは……三高の二年だ」 ジェネラルとニキビの前にいた自分のことを�爛蹈き瓩般松茲訃�柄な男が落ちついた様子で静かに言った。それから、そっちは?と手のひらを僕らに向けて紹介を促した。 ロイは、顔は幼く体も小さかったけど、ものすごいオーラに包まれていた。怖いというよりは誰も知らない世界で生きているような、人を殺しても何も感じないような奴に見えた。また、右瞼にクッキリと斬りつけられたような傷痕が怖さを強調させていた。 「俺たちはすぐそこの中学の二年坊。俺はサジ」 ガキが煙草なんか吸いやがって、とニキビが舌打ちを交えて言ったけどロイはニキビを尻目に僕らに近づきながら言った。 「老けた中坊だな。タメかと思ったぜ。──あ、お前は違うぜ。幼稚園児か?」 ロイはヒロトを指さしながらそう言った。ヒロトは目もくれずに煙草を吸い続けた。 「こいつにあんまり絡むな、危ねえから。それにお前だって高二には見えねえぞ」 サジは、ロイと後ろの二人を見比べながら言った。 「──そうか、まあ、よく言われるけど。それより……今からここで一服したいんだ。俺たちはそのためにここへ来た。だから消えてくれ。それに、ここは前から俺たちが使っていた場所なんだ。島を汚されたくない」 「拒否したら?」 ヒロトが口を挟む。 「それなりのことはする……」 ロイがそう言うと、ジェネラルとニキビも近づいてきた。ニキビは気が短いのか、荒い口調で今にも食いかかる勢いだった。 「俺たちには三年もビビって頭が上がんねんだよ!そいでこのロイさんは二年をまとめてる人なんだぜ。要は三高のヘッド!もう少しまともな態度とれよコラァ!」 「それって、ただお前らの学校の三年が腰のヒン曲がったジジイの集まりだからじゃねえのか?」 サジの言った言葉は僕ら四人を爆笑させたが、ロイを始め三人は、それまでの空気とは違ったものになっていた。キレかけているのがわかった。 「お前……サジだっけ?年上に対する�猯薺鍬瓩辰童斥奸�知ってるか?」 ロイはキレかけながらも冷静さを保とうとしていた。それでもサジは煽り立てるように、 「レイギ?ああ、もちろん知ってるぜ。漢字書けねえけど」 ロイが呆れた様子で溜息を吐いた途端、ジェネラルがしゃがみ込んでいるサジの胸倉を掴んだ。 「テメーいい加減にしろよ!だいたいな──」 「お前らは口喧嘩しに来たのかよ?人の嗜(たしな)み邪魔しやがって……!」 ジェネラルに胸倉を掴まれたことで、サジの目の色が変わり早口になった。そして、立ち上がりジェネラルの胸倉を掴み返した。──キレている証拠だった。サジが早口になってからただで済んだ奴はいない。そして、ジェネラルの胸倉を掴んだままサジは続けた。 「どうすんだよ?やるのか、それとも帰るか?俺らはどっちでもいいぜ。五対三でそっちがかなり不利になるけど。もちろんタイマンでもいい」 ククク、と笑いながらロイはジェネラルにサジから手を離せ、というジェスチャーをした。 「中坊に不利とか言われちゃったぜ……。俺たちもナメられたもんだ。いいよ、そっち五人で。ハンデだ。もっとあげてもいいくらいだけどな。──そのかわり、お前は俺とタイマンだ。どうも口だけじゃなさそうだ」 「ロイちゃん、御目が高いね」 「お前死ぬぞ。少し離れるか、ここじゃ狭すぎる。おい、その四人はお前らで好きなようにやれ」 ジェネラルとニキビは頷き、ロイはサジと奥の方へと歩いて行った。僕らはどういうペアにするのかを少し話し合った。ジェネラルとニキビは、好きなように組め、と言い決定を待っていた。 そして、僕はリョーキとジェネラルを、シンジとヒロトはニキビを、という組み方になった。 シンジとヒロトは元の場所よりも少し離れた所でニキビと距離を置いて向かい合っていた。 こっちもそろそろ始めるか、という状態になった時、リョーキが僕の耳元で呟くように言った。 「あのデカイのは俺一人で十分だ。それよりシドはシンジの方に行け。あのニキビ面は初めから喧嘩なんかする気はねえ。目とあの態度でわかる。ただ、あのロイってヤローと仲間でいてえから金魚の糞になってるだけだ。あーゆーヤローは何を忍ばせてるかわからねえ。多分、ポケットには何かが入ってる。だからもし、凶器を振り回して危険だと思ったらお前も手を貸してやれ。いいか、持ってる方の手の肘から手首の間を狙って蹴り上げるんだ。不用意に頭とか腹を狙うんじゃねえぞ。刺されるからな。──シンジもわかってると思うけど、あの二人でもどうにもならなかったらお前も出て行け。それまでは絶対に手を貸すなよ」 リョーキの相手の心と行動を先読みできる能力に感心しながら、わかった、負けんなよ、と言いシンジとヒロトがいる方へ向かった。実際、ニキビには負ける気はしなかったものの、本当に凶器を振り回されたらどうしようかと考えた。いくらシンジがいるからといっても武器を出されて自分がそれを阻止できる自信は正直なかった。 シンジ、ヒロトよりも少し離れた場所で早くもサジはロイに畳み込みのラッシュを浴びせていた。サジよりも二十センチ以上は背の低いロイは、体を九の字に曲げて攻撃から身を守っていたけど、サジは上からガードがかかっていないあらゆる場所を狙って殴り続けていた。第三高校をまとめる男でさえ、サジからすれば赤ん坊のようなものだったのだろう。 シンジとヒロトのいる傍まで行き僕は立ち止まった。そこではシンジがニキビに向かって何か言っていた。耳を傾けると、 「やる気がねえなら今すぐ消えろ。ケガしたくねえだろ?悪いけどお前には負ける気はしない」 シンジはこの時も平和主義者ぶりを発揮していた。ヒロトはシンジのすぐ隣りで座り込み、煙草を吹かしていた。ニキビはシンジの言葉を受け入れたい気持ちと、ロイについていたいという気持ちとで揺れ動いているように僕には見えた。そして血迷ったのか、叫びながら勢いよくシンジに突進した。力を込めた握り拳がシンジの顔面を捉えようとした時、ニキビは一瞬止まって左膝から崩れるようにゆっくり倒れ込んだ。シンジの得意技、右ハイキックがニキビの脳を揺らしたのだ。丁度その時、後ろの方で、ドサッと人が倒れる音がした。振り返ると、立っているリョーキの下でジェネラルが駄々をこねるガキのように鼻を押さえてのた打ち回っていた。鼻からは多量の血が流れているのがわかった。 「シド」 向き直すとシンジがニキビを指さしていた。 「悪いけど、そいつの後ろに回って両腕掴んでくれ」 僕は言われるままに失神しているニキビの腋に手を通して両腕を押さえ込んだ。するとヒロトがニキビのブレザーのうちポケットから何かをとり出した。それは、リョーキが言っていた通り凶器のナイフだった。キャンプ用の小型ナイフだったけど十分に殺すことのできる武器だ。 「ふざけたヤローだ」 ヒロトはそう言うとニキビの胸や腹をかかとで蹴りだした。時々、爪先で蹴ると顔に皺をいっぱいにして、僕らに激痛のほどを訴えていた。そして、爪先で蹴る回数が多くなっていたヒロトに、 「おい!爪先はやめろ。こいつ本当に死んじまうぞ──」 と少し焦りながらシンジは言った。それでもヒロトは薄ら笑いを浮かべながら、殺すんだよ、と蹴り続けた。僕はシンジと目を合わせて抵抗するヒロトを抱え、ニキビから遠ざけた。あのままヒロトを放っておいたらニキビは確実に死に至り、ヒロトは殺人者、僕らはその共犯者になっていただろう。 ヒロトが冷静さをとり戻した頃、サジとリョーキが僕らの元へ歩み寄って来た。サジは興味津々といった感じでリョーキにジェネラルのことを訊いた。 「──体、お前よりよかったけど、どうだった?強かったか?」 「やたらと組みにきたから多分、武道関係はやってると思う。力はあったけど、戦術がない。スキだらけだった。右フック一発だ。そっちは?」 「そうだな〜、体のわりに力はあったかな。でもまあ、俺の相手じゃねえよ。どっちかっていうと、デカい方とやりたかった」 リョーキはジェネラルに少し手こずったらしく、学蘭には目立つシワがついていた。それに比べてサジは、学蘭どころかパーマのかかった髪すら乱れていなかった。 「サジ、こいつやっぱりナイフ隠し持ってたぜ」 シンジは苦しそうに倒れているニキビを顎で指しながら言った。 「そっか、思ってた通りだ。でもこいつ本当にバカだな。喧嘩する気のねえ奴がここまでやられるのも珍しいぜ。しかも仕掛けてきたのはこいつらなのに。こいつをここまでやったのお前?」 「いや、俺は頭に一発だけ。あとはヒロトがアバラの辺りを爪先で……」 「かわいそうだな、弱い奴なのに。まあ、自業自得か」 僕らはロイ率いる三人を片づけた後、倒れ込んで動かない三人を眺めながら邪魔をされた喫煙タイムを仕切り直した。 「あいつらどうすっか?」 心あるシンジの問いかけに、そのうち起きるよ、とサジは平然と返し、三人を寝かせたまま僕らは墓裏を後にした──。
「だから何だよ?」 静まり返った生徒指導室の中でサジの声が響いた。トミナガは珍しく怒りを露にして言った。 「第三高校の生徒はいずれも重傷だったらしい。鼻、肋骨、腕を折っていると向こうの先生から連絡が入って、うちの生徒にやられたと三人の中の一人が言ったそうだ」 「ぜってーニキビだ。それより、肋骨と鼻はわかるけど腕は誰?」 僕は四人の顔を見回しながら訊いた。すると、 「ああ、腕は俺。変な折れ方したから完治するまで時間かかるぜ、あれは」 サジはあっさりと言った。トミナガは、事の発端を説明しろ、と怒鳴り散らした。僕らは、向こうが吹っかけてきたんだ、と主張した。──普通ならばここで終わるはずだった。それでもトミナガは、もっと細かく話せ、とシワとシミだらけの顔を僕らに近づけた。 「何でそんなに突っかかってくるんだよ?」 いつもの弱気とは明らかに違うトミナガに、シンジが怪訝そうな顔をした。 「第三高校とうちは職員同士の交流が深いから、推薦入学者の人数をある程度確保してもらっている。だから、第三高校と何かトラブルがあることだけは避けたいんだ。推薦入学者の数を削られる恐れがある……」 トミナガの言ったことは僕らを呆れさせた。第三高校の推薦枠数を削られるなら行かなければいい──簡単なことだ。僕らはただ、吹っかけられた喧嘩を──、 「吹っかけられた喧嘩を買っただけだ。何の問題がある?推薦なんか俺らの知ったことじゃねえよ」 サジは僕の思っていたことをそのまま言った。サジと僕は互いにこういうことが時々あった。思って言おうとしたしたことをどっちかが先に言うような。全部ではないけど考えていることが似ていた。だからサジとは仲間の中で一番気が合った。そして、スキンシップをとるために、誰よりも互いを貶し合っていた。 「とにかく第三高校の生徒に限らず、今後暴力沙汰の事件は起こさないように」 場を完結させるようにトミナガは卓袱台に両手を添えた。 「あ?それだけ?お前それだけのために昼休み呼ぼうとしてたのか?──チビ、時間は?」 サジは壁かけ時計に一番近いヒロトを見た。 「えーと、そうだな大体、二分二八秒ってとこか」 「二分二八秒か……。二分二八秒──」 �狷麒�二八秒�瓩魴�り返した後、サジは素早くトミナガの胸倉を掴み力任せに立ち上がらせると、そのまま勢いづけて壁に叩きつけた。叩きつけられた衝撃で頭と背中を強打したのか、トミナガは恐怖心の中で顔をしかめた。 「テメー、三分も満たねえくだらねえ話で俺らの昼潰そうとしたのか?シドの教室でお前を連れ出すのに三分以上かかってるぞ。教室に俺ら五人ともいたんだったら、あそこで話した方が全然早かったんじゃねえのか?どうなんだよ」 サジが初めて教師に対して早口になっていた。そして、トミナガの黒縁メガネを平手で叩き飛ばした。メガネは勢いよく端の壁へ飛んでいった。手を出されたことでトミナガの顔は真っ青になり、異常なほどの汗を掻いていた。それを黙って見ていた僕らだったけど、サジ、と落ちつかせるようにシンジが声をかけた。サジは胸倉を掴んでいない左手で、大丈夫だ、と無言で軽く手を上げてそれから言った。 「俺らは売られた喧嘩以外は買わねえし、自分たちからは手も出さねえ。でも、危害が自分たちに加わりそうになった場合は、その相手をとことん痛めつける。殺すつもりでやる。テメーはそれだけ知ってりゃいい。わかったか?」 けどこの時、トミナガの首が縦に振れることはなかった。 「よくそんなことが私に対してできるな……。学年主任なんだぞ、私は──。君たちを手に負えないという理由で、転校させたいと本気で校長に頼めばどうにかなるかもしれないんだぞ……。大体なんだ、お、お前らのそのふざけた学校生活は──?朝から登校してることは滅多にない。おまけに無断早退、授業放棄、校内喫煙。周りをよく見てみろ、そんな生徒がほかにいるか?お前ら五人のお蔭でこの学校のイメージは最悪なんだ……!父兄からだって抗議の電話が絶えない状況で、中にはお前らがいるから学校に行きたくないって言ってる生徒もいるんだぞ。そういうことを聞いて何も思わないのか?更生しようとか考えないのか?」 「別に。学校来たくねえなら来なきゃいいじゃねえか。俺らは何も関係ねえよ。学校で恐喝とか暴行してるわけじゃねえし。まあ、去年はずいぶん救急車が出動してきたけど。学校来たくねえ理由を俺らのせいにされたんじゃ堪ったもんじゃねえな。それに俺ら五人のお蔭でこの学校のイメージは最悪だって?テメー確かセラダを潰した時、感謝するって言ったよな?じゃあそのセラダはどうだったんだよ!あいつらがやってたのは何なんだよ?」 「うぅっ──!」 サジはトミナガの皮でたるんだ細い首を掴み上げるようにしめていた。今度はシンジさえも止めようとはしなかった。トミナガのとった威圧的な態度は僕らの中で許される行為ではなかった。それは僕らを更生するために言ったことではなく、全て学校の名誉、イメージ、自らの権限の主張だったからだ。そして、トミナガの顎が徐々に上がって顔が真っ赤になり始めた時、ヒロトが口を開いた。 「転校か……おもしれえじゃねえか好きにしろよ、俺には全く興味がねえ。でもまあ、転校させたとこで何かマイナスになるようなことがあった時は──お前の命は保障しねえ。その前に、転校とか手続き面倒くせえから今すぐここで殺してやろうか、なあ?」 トミナガは腰が抜ける寸前という様子だった。けど、そうなるのも仕方がない。それほどヒロトの言葉には実行性と、くだらない話を聞かされるために起こされたという怒りが込められていた。 そんなトミナガが絶体絶命の状況の中、シンジが唐突に言った。 「おい、前にこの学校の生徒で自殺した奴がいるって噂、聞いたことがあるんだけど……教えてくれねえか?教えてくれるんなら、おとなしく教室に戻るけど」 誰もが聞きたいことだった。噂だけで誰も本当のことを知らなかったからだ。それにサジも続いた。 「あっ、俺もその噂聞いたことがある。そうだな、どうする、言うか?言うんならこの手も離すし、もう何もしねえ」 トミナガは俯き、深刻そうに考え込んでいた。この時点で過去に何かがあったことは明らかだった。 「言ったら……本当に教室に戻るか?」 サジは、しつけえなテメー、と言いながらトミナガを卓袱台の前に押しつけ座らせた。トミナガは、数回長い瞬きをした後、腹を決めたように話し始めた。 「君たちが入学してくる前の年のことだ。今の三年生がおとなしく皆真面目なのも、その事件が関係している──」
| 2006年02月10日(金) |
アカイヌクモリ ―――��-1――― |
一九九五年五月二九日 晴れ 三時限目 英語
教科書で頭を叩かれた衝撃で目が覚めた。 窓際の隣りの席には直射日光をもろに浴びたサクラが僕を睨んでいた。サクラは僕のいた二年A組の中でも最悪な女と謳(うた)われていた奴だった。 名前を聞いただけでは、男は誰でも存在しないほどのいい女を思い描いてしまう。けどそれは、空想を膨らませすぎた自分を惨めに思う気持ちから猛烈な怒りへと変わっていく。サクラは腹黒いといわれているどんな奴よりも黒く、はちきれんばかりのセーラー服に見るも無残な顔が救いようのなさを強調している奴だった。趣味は授業中にブラの位置を整えることだ。 僕の机の上には、この月の頭に買ったセックスピストルズが特集されている音楽雑誌が教科書代わりに載っていた。けどその本にはシド・ヴィシャスのことはあまり書かれてなかった。ほとんどがボーカル�爛献腑法次Ε蹈奪肇鶚瓩瞭叛螢ぅ鵐織咼紂爾世辰拭K佑�そのインタビューで知ったことは、シド・ヴィシャスはメンバーからあまり必要とされていなかったことだった。恋人であったナンシー狂いと過剰なドラッグ摂取がメンバーとの溝を深めた、と書いてあった。僕の机の上にはいつもこの雑誌が載っていた。あまり好ましい内容ではなかったけど、授業を潰すにはいい教材だった。 机に覆い被さっている僕の目を、ジャケットの食ってかかってきそうな目をしているジョニー・ロットンが睨んだ。睨み返そうとしたけど、僕はジョニー・ロットンではなくサクラを睨んだ。 「──イッテーなテメー……。何すんだよ……!」 僕は机に覆い被さったまま脳天を押さえ言った。 「寝息がうるさくて授業に集中できない!あと煙草臭いのも。それにさ、あんたもっとまともな人間になった方がいいんじゃないの?彼女がかわいそうだよ」 「おい、あいつとろくに話もしたことねえくせして、知ったような口叩くな……」 サクラの言葉で気分を悪くした僕は立ち上がり、脱いでいた学蘭に袖を通しボタンを閉めながら、教卓の前にいた学年主任兼英語教科担当、トミナガの前を通り過ぎ、 「休憩」 と告げて教室のドアを開けた。 トミナガは五十代前半で、白髪頭に整髪料が塗り手繰ってある小柄なジジイだった。また、黒縁メガネと安っぽいスーツ姿がイメージとして定着していた。 教室を出ようとした時、おい、と呼び止めるトミナガの弱々しい声がした。何だよ?と逆立たせた髪を手櫛(ぐし)で掻き上げながら近づくと、 「きょ、今日の昼休みに生徒指導室に来てほしい……。聞きたいことがあるんだ」 とどもりだか震えているのかわからない声で言った。 「俺だけか?」 僕は眉間に縦皺を寄せて訊いた。 「いや……そこで寝ているのも一緒に……」 トミナガの視線の先には、机に覆い被さるように熟睡している仲間のヒロトの姿があった。 ヒロトは中学生に見られることがまずないというくらい童顔で小柄だった。けどその反面、目つきが鋭く、冷酷、無感情で何を考えているのかわからない、といった雰囲気を漂わせていた。その目で見られただけで、何もしないうちに逃げ出してしまう奴も少なくなかった。限度を知らずに野放しにしておくと何を仕出かすのかわからない危険な奴だ。 そんなヒロトから僕は視線を外し、トミナガの呼びかけを無視してトイレへ向かった。もちろん、煙とたわむれるためだ。 教室を出るとすぐ水飲み場があって、その上の窓ガラスからは線路を特急列車が猛スピードで走り去るのが見えた。ただ、速すぎて乗客の姿までは見えなかった。電車が通り過ぎると、線路沿いに密集している民家が姿を見せた。 僕の通っていた中学校は市街地からはかなり離れた場所に建っていて、周りにはこれといって楽しめるようなスポットがなかった。コンビニ、ファミレス、VHS・CDのレンタルショップがあるのが唯一の救いだ。買い物をするにも市街地まではとてもじゃないけど歩いて行ける距離ではなかった。そのために市街へ出る時は電車に揺られるか、停めてあるバイクを頂戴して行くしかなかった。 喫煙所のトイレはA組の教室からは端と端、つまり一番離れていた。その間にB、C、D組、それに多目的室というのがある。時々、歩くのが面倒になって一服を我慢して引き返すこともあった。けど、この日は暑かったために日当たりのないトイレで涼めるという考えに後押しされて、トボトボ歩く自分を想像しながら足を踏み出した。 二、三歩進んでから自分の足音のほかにもうひとつの足音がずれて聞こえてきた。足下を見ていた顔を起こすと、前方には見慣れた男が僕の方へ向かって歩いていた。サジだ。 サジは誰もが認める校内トップの美男子だった。身長一八〇センチの細身の長身にピンパーマがかかった髪は肩まで伸び綺麗なブラウンに染まっていた。学蘭は細身の体にフィットしたタイトなものを着ていて、フラつきながら歩く癖があり、薬物依存者を思わせた。けど、そんな歩き方をしていてもすれ違いの女の子が当然のように振り返るサジが、僕は羨ましくてしょうがなかった。そして、サジのもうひとつの魅力は喧嘩の強さだった。空手や柔道、格闘関係は一切経験がないものの、道端での喧嘩だけを積み重ねてきたサジは無敵に近いものがあった。多分、市内の中学でこの男の名前を知らない奴はいないだろう。 入学式の時、僕の前にいたサジは歩き方も座り方も全てにおいて態度がふてぶてしかった。その時の三年は教師が何ひとつ口出しできないほど荒れ狂っていて、恐喝、暴行は日常のことで男子生徒のおよそ八割が暴走族、ギャングチームの構成員だった。殺しは聞かなかったものの、刺傷やバイクによるひき逃げで逮捕され少年院に入っていた奴、または服役中の奴がいる、と聞いたこともあった。女子生徒も半数が売春やキャバクラに出入りしているという話を聞いたり、中には孕(はら)んでいる親不孝者もいた。また、三年が使用するトイレの扉には殴り書きで��WELCOME TO HEMP WORLD�瓩判颪�れていて、実際そのトイレの個室のうちひとつはマリファナ増殖所として使われていた。その為か、トイレの前にはいつも五、六人のナイフや警棒を持った見張り役が立っていた。肝心な教師たちは、三年がしている多くの犯罪に対して見て見ぬ振りをしていた。報復を恐れていたのだ。噂では僕の入学する前、三年の手によって自殺に追い込まれた生徒がいて、その事件も教師たちによって迷宮入りになったという。当然三年の連中がしていることを警察が知ったとしたら逮捕者は後を絶たなかっただろう。でもそれは教師が口を開かなければ起こらないこと。口を開けば報復は間逃れない、というのが教師たちにはわかっていた。だから怯えながら自分の身と学校の名誉を守る為に、三年の起こしている犯罪を外部に洩らそうとはしなかった。 そんなサジが三年には餌食に映ったのか、新入生退場の時に前列にいた三年のひとりが彼の顔に火のついたジッポライターを投げつけてきた。そして、一瞬怯んだような顔を見せたサジはその後、投げつけた三年にライターを手渡しながら顔に唾を吐きかけた。それを見ていた三年は一斉に立ち上がってヤジを飛ばし今にも飛びかかって来そうだった──が、サジは教師に囲まれて何事もなかったように平然とその場を去った。そして、翌日からはサジを潰そうと毎日のように三年が押し寄せてきたけど、サジは向かってきたどんな相手をも悉(ことごと)く倒していった。 そんな状況が続いていた九月のある昼休み、僕はサジや他の仲間と教室で机を囲いながら話していると、そこへ三年全体をまとめている学校には滅多に現われることのないセラダという男が歩み寄ってきた。 「ノッポのロンゲってお前のことか?」 その時初めて見るセラダは、老け顔で背も体も大きく、ふたつ上には全く見えなかった。また、ドラッグのせいで顔は青白く、歯は溶けていて目も喋り方もイッていた。 初めて見るセラダに僕が圧倒されていると、 「だったら何だよ?」 サジは強気な態度で出た。 「俺のお友達……何人も病室のベッドに送っちゃったんだってね。君、悪いけど許さないよ。指とか腕じゃ済まないよ、殺すよ。──タイマンでいいかな?」 口調は不自然なほど優しかったものの、一言で怖かった。すごい威圧感だった。 「あ、やるの?いいよ。場所は?まあ、いいや。とりあえずここを出ようぜ」 サジはセラダに首根っこを掴まれながらも、全く動揺していなかった。けど、教室を出る直前に僕の耳元で微笑を交えながら小さく言った。 「もし、十分以内に戻って来なかったらピンチだと思ってさがしてくれ。──フッ、指と腕も一緒にな、頼んだ」 僕は軽く頷いてサジの背中を見送った。 ──五分後、サジが心配になった僕は仲間と廊下に出てタイムリミットの残り五分を待つことにした。そして、落ち着かない気持ちでサジと五分が過ぎるのを待っていると、左目の辺りを抑えてフラつきながら歩いて来る男が見えた。──サジ。 彼は僕らの所まで来ると、時間は?と微笑みながら訊いてきた。けど、左目尻からは真っ赤な血が流れていた。 「六、七分……。勝ったのか?それよりどした、それ?」 「メリケンだよ。あのヤロー素手だって言ってたのに、いきなり物騒なもんつけてきやがって……。メリケンの厚み分避け切れなかった。でもまあ、その後は問題なしだ。白目で吐血するまで殴り続けてやった。まだ三階の便所で夢見てるだろうな。とりあえず、大したことなかった。一服する余裕があったよ」 そう言いながらもサジの目尻からは止め処なく鮮血が流れ出ていた。結局、学校が終わっても血は固まらずに、サジは目尻を三針縫った――。 三年はセラダが堕ちたことで完全にそれまでの勢いを失い、校内でも小さくなって卒業までの中学校生活を送った。また、ヘンプワールドも知らない間に撤去されていた。おまけに、三年と唯一対立していた僕らはその時三年の学年主任をしていたトミナガから�猗爐蕕糧鷙圓鮖澆瓩討�れたことに感謝する�� という言葉までもらった。 そんなセラダというジャンキーを僅か数分で仕留めてしまったサジを、僕らはいつしかグループのリーダーという目で見るようになった。
サジは僕の姿に気づいたらしく、ふらついている足元を更にふらつかせながら左目尻の古傷を中指で押さえた。これがサジお決まりの挨拶だ。 「よ!何してんだ?」 鼻と喉の間にコインが詰まっているような声で、ボンバー気味の髪を掻き毟りながら訊いてきた。 「煙草吸いに行こうと思って──。お前は?」 「何かよー、さっき授業中、『昼休みに生徒指導室に行きなさい。トミナガ先生から話があるらしい』って世界史の奴に言われて。昼休み潰されたくねえから直接聞きに行こうと思ってさ、職員室であいつの授業振分け見たら丁度お前のクラスだったから、今から向かおうとしてたんだ」 「え、お前も!?俺もそうだよ。あとヒロトも……」 「――ってことは、あの二人もってことだよな?」 「そうだな。何の話だろ?」 「さあ、わかんねえけど……偶然だな。あれ見ろ、ホモ二人がいるぜ」 サジは突き当たりのトイレの方を見ながらニヤついた。僕も視線をそっちに向けるとそこにはシンジと、大男リョーキがいた。 シンジとリョーキは幼馴染みで、幼児期の頃からリョーキの親父が会長となって活動している道場で空手をやっていた。二人の実力は地方大会に出場しても名前が知られているほどだった。 リョーキは顔も体も中学生離れしていてとにかく厳つかった。無表情で笑顔も滅多になく、口数も少ない奴だ。また、�爛螢隋璽�氏には半径五メートル以内に近づいてはいけない�瓠△塙斬Г砲覆辰討發�かしくないくらい、周囲はその威圧感に圧倒され怯えていた。 シンジはリョーキほど格闘家として体は恵まれていなかったけど、胸や腕は学蘭の上からでもわかるほど鍛え上げられていた。もちろん腹筋は綺麗に割れている。またサジには劣るものの、ルックス面でも多数の女子生徒から好意を持たれていた。そして、彼はグループで唯一の平和主義者だった。優しさからか、喧嘩をする時も相手に全力を出すことはまずなかった。どちらかというと、二、三発殴って自分の実力をわからせた後、相手を開放してしまうような奴だった。それでも、もしシンジが本気でやったら、と考えると恐ろしい気もした。もうひとつ、二人には共通していることがあった。それは学力があることだ。中間、期末、実力、テストというテストでは一六三人いる学年の中で、二人とも常に上位十番以内はキープしていた。ちなみに……僕、サジ、ヒロトは勉強に関しては全くオンチだったためにいつも一五〇からビリを彷徨っている状態だった。 しばらくして、僕とサジの姿に気づいたシンジは笑顔で軽く頷いた後、リョーキと早足で駆け寄ってきた。 「おう!何やってんだ?二人して」 「お前らこそ二人してトイレで何してたんだよ?ケツの穴、貸し合ってたのか?」 「ふざけんな!俺は男なんかに興味はねーぞ。しかもリョーキのケツなんか……!煙草吸ってたんだよ」 「あっそ」 サジとシンジのやりとりを僕は笑いながら聞いていた。リョーキはいつもと変わらない無表情で窓の外を見ていた。 それより、とサジが口を開いた。 「お前らトミナガに昼休み呼び出されてねえか?俺らとチビも呼ばれてんだけど」 「ああ、呼ばれたよ。でもダルいからすっぽかす。俺もリョーキも行かないつもりだけど……。え、お前ら行くの?」 「昼潰されたくねえし、授業潰すにはいいと思って、これからトミナガのとこに行こうとしてたんだ。こいつのクラスにいるし。な!」 「ああ。で、どうすんだ二人は?俺は自分のクラスだし──」 「わかった。俺たちも行くよ。いいよな、リョーキ?」 リョーキは窓の外を見たまま頷いた。 「それより、ヒロトどした?」 シンジが訊いてきた。僕は、寝っぱなし、と答えた。すかさずサジが口を挿む。 「あいつはガキだから睡眠をいっぱいとらなきゃいけねんだ。よく言うだろ、�狄欧觧劼楼蕕牒瓩辰董0蕕辰討佑┐韻匹福� シンジは失笑しながら頷いた。 「あ、シドお前煙草吸いに行くんじゃなかったのか?」 サジがそう訊いてきたけど、教室を出て三人と会ったことですっかり忘れていた。 「いいや、後で。ここじゃ落ちつかねえし」 「じゃあ、ちょっと失礼」 サジはそう言うと、壁に凭れながら座り込んで御贔屓のマルボロに火をつけた。 僕ら五人は校内で殺しをする以外は、何をしても問題にならないという自信というか確信を持っていた。セラダたち三年と対立して結果的に黙らせた僕らを教師たちは避けて歩くほど恐れていたからだ。だから煙草を吸っている現場を見られても何も言われはしなかった。特にサジ、シンジ、リョーキの三人に対しては僕やヒロト以上に避けていた。三人は喧嘩のスペシャリストで、どんな相手でも倒していまうという信頼があった。実際、あの三年の中で幹部と呼ばれていた奴らを倒したのもこの三人だった。そのことを知っていた教師は一年の時同じクラスだった僕ら五人を二年に上がって別のクラスに分けた。サジ<B>、シンジ<C>、リョーキ<D>をどうにか分けようとした教師の考えは筒抜けだった。 僕が喧嘩の仕方を教わったのもこの三人だ。実戦を踏まえた時は、痣、出血、失神は当たり前のことで、あまりの強さに僕は、三人の中で誰が一番強いのかと、訊いたことがある。 サジは、�牴兇呂燭瀬�ムシャラに道端の喧嘩をしてきただけで武道を極めてない。だから基礎から積み上げてきた二人には絶対に敵わない�瓠△噺世辰討い拭� シンジは、�爛螢隋璽�とは体が違いすぎる。サジには喧嘩に関して天才的なものがあると思う。まともにやりあったら多分負けるよ�瓠△噺世辰討い董▲螢隋璽�には、�爐笋辰討澆覆韻蠅磴錣�るわけねえだろ�瓠△醗豸世琶屬気譴拭E椶蕕譴討い覽な�だった……。 「それじゃ、行こうか」 サジは立ち上がり、火のついたままの煙草を水飲み場に投げつけた。そして、ジュッ、という音がした時には教室のドアは開いていた。 「失礼しまーす」 サジに続いて、シンジ、僕、リョーキの順に教室に入った。サジはトミナガに近づくなり、 「話あるんだってな。昼なんてゲロくせーこと言ってねえで今すぐ話せよ」 とトミナガを見下ろしながら言った。教室の空気は一瞬に張り詰めて教科書を捲る音すらたてられないほど静まり返り、教卓から後ろは別世界のようだった。それまで喋っていた奴らも寝たふりや教科書を読んでる振りをし、男子はほとんど正面を向けずにいたけど女子はサジとシンジがいるせいか、強張った顔をしながらもどこか目をキラキラさせていた。あのサクラさえも……。トミナガはサジにそう言われた時点で、額に脂汗を掻いていた。ちなみに�爛殴蹐�せー�瓩魯汽犬慮�癖だ。そして、ビクビクしながらもトミナガは、昼休みだ、と無意味な抵抗をした。そんな様子を眺めていると、シンジが僕の脇腹を軽く叩いてきた。 「おい、ヒロト早く起こしてこいよ」 「ぜってー嫌だ!あいつの寝起きは最悪だ」 僕は声を張り上げた。寝ている時も机を離しておきたいほど、ヒロトの寝起きは最悪だった。給食だから起きろ、と言って揺さぶった時も僕は下腹部にパンチを食らった。シンジは、しょうがねえなー、と言いながらヒロトの席に近づいた。 「おーいヒロト、おい、起きろ……」 ヒロトは微妙に体を動かしながらも、顔を上げるような気配は全くなかった。シンジはもう一度、静かにヒロトを起こし始めた。 「ヒロト、起きてくれ。おい」 「……んだよ、うっせーな……!誰……シンジ?お前何でここにいるんだ……?」 「トミナガが俺ら五人を呼び出したんだ、今じゃねえよ、昼休みに。でも昼潰されたくねえだろ?だから今聞いちまおうって話」 シンジは寝起きのヒロトにわかりやすく説明した。ヒロトはようやく顔を上げて深い吐息を吐いた後、机の中に入っていた数学の教科書をトミナガに投げつけた。 「──ったく面倒くせえなー!何だよテメーは!」 それまでビクビクしながらもサジと言い合っていたトミナガは、ヒロトの怒声によって完全に血の気が引いてしまったらしく真っ青になってしまった。教室中も、一番怒らせてはいけない奴を怒らせてしまった、というこれ以上にない張り詰めた空気に変わった。サジは、ヒロトが席から立ち上がったのを確認すると、 「生徒指導室だろ?」 と行くことが決まっているかのような口調でトミナガに言った。それでも尚トミナガは、昼休みだ、と小声で抵抗した。サジは少し目をギョロつかせてトミナガの髪を掴み突き飛ばした。よろけたトミナガをリョーキは押さえつけながら教室から出て行った。 「あのヤロー、大した話じゃなかったら窒息死させてやる」 ヒロトはそう呟いた。僕らはその言葉に薄ら笑いをしながら生徒指導室へ足を向けた。
| 2006年02月09日(木) |
アカイヌクモリ ―――�機檻押宗宗� |
「それと、これからはお前の生きたいように生きろ。やりたいことをやれ。それには責任とかいろんなもんがついて回るけど……。勉強なんかできなくってもいい。そんなことよりも大事なことは腐るほどあるから。それをお前にはできる限り見つけてほしいんだ。この話を聞いたお前を俺は、もう大人だって考えることにするから。一人でも生きていけるように強くなれ。そのためには自立心をつけろ。つってもまだ中一だしな、これからいろんなことがあると思う。息詰まった時とか、争い事でガキ同士じゃ収まらなくなった時はいつでも手助けしてやるから遠慮しないで使え。お前がどんなにクソになっても俺はお前の親だし、お前は俺のガキだ。見捨てるようなことは絶対にしないから……」 ──嬉しかった。親父のその言葉は耐え難かった話の辛さを帳消しにしてもいいと思うくらい嬉しかった。それでも素直になれなかった僕は……ただ頷くだけだった。 「……あれ、もう二時半回ってるんだな。それじゃ俺もう寝るから。そのプレゼント絶対捨てんなよ。それと、もしレコード聞くんだったらそこのプレーヤー、部屋に持ってっていいから」 親父はリビングの隅にあったレコードプレーヤーを指さした後、首を左右に曲げ骨を鳴らしながら寝室に向かった。 親父が出て行ってからもしばらくの間、僕は動けなかった。それでも遠くから聞こえてくる車の騒音が徐々に僕の体の呪縛を解いていった。 気づくとプレゼントのひとつ、��History Of The UK 1977�瓩魴�っていた。その本にはセックスピストルズの沢山の雑誌や新聞の切り抜き写真や情報が貼り込まれていた。 そして、一〇〇枚近くに及ぶ写真の中で僕が一番惹かれたのは、ベッドの上でガリガリに痩せた上半身裸の髪を逆立てたシド・ヴィシャスがマリファナを吸っている写真だった。シド・ヴィシャスはただ一言でかっこよかった。この男が自分と同じ名前だと思うと嬉しくて堪らなかった。 それから僕は、夜が明けるまで何度も何度も繰り返し��History Of The UK 1977�瓩鮓�続けていた。
正午前、僕はほとんど寝ていなかったけど、リビングからレコードプレーヤーを持ち出し自分の部屋に運んでいた。親父から聞かされた母親とカオリのことはしっかりと心に引っかかっていたけど、僕の体は心の沈みに逆らいながら前進していた。そして、コンポにレコードプレーヤーを接続しているとノックと同時に母親が洗濯籠を抱えながら部屋に入ってきた。妙にニコニコしていた。僕は一瞬目を合わせたけど、その後すぐコンポに戻した。気まずさと恥ずかしさが交錯していたからだ。髪を太いヘアーゴムで束ねた母親はスウェットパンツにTシャツというパジャマ姿だった。 そして、床に置いてあった親父からのプレゼントに気づき、それを手にとった。 「これがここにあるってことは昨日シノブから聞いたんだね。とうとう聞いちゃったか……。シドもそんな年になったか。まあ、あんたがどう思うかは勝手だけど、私は全然過去のこと、後悔してないから。だって、あの仕事やってなかったらシノブにだって会ってなかっただろうし、あんたもカオリも生まれてきてなかったと思うの。だから、後悔はしない。したくない……。──それよりさ、このレコードとTシャツは大切にしなよ。福沢諭吉一枚じゃ買えないくらい値打ちあると思うから。多分、同年代であんただけだよ、このレコードとTシャツ持ってるのは。それにシノブがこれまでずーっと大切にしていたものだから。ね、大事にするんだよ──」 「接続の仕方わかるか?」 母親の背後から親父の声が聞こえた。ああ、と無愛想な返事をして親父の顔を見ると生える気配すらない顎髭を撫でるようにしながら微笑んでいた。それでも僕は、その表情に素直に応えることはできず、昨晩の話を全て呑み込んで親父と微笑みを交わすか、それとも親父と母親を憎悪して大声で怒り狂うか、激しく気持ちを格闘させていた。赤と白の接続コードを持った手に汗が滲んでいるのもわかった。 そして、ほんの数秒足らずだったと思うけどその間に僕は頭をフル回転させ、ドアの前に立っている二人に向かって言った。 「俺は……最低な奴らから、最悪な環境に生まれてきたと思ってる。それでも�爛轡畢瓩辰凸樵阿鬚弔韻討�れたことは感謝する……」 そう言い終えた後すぐ、最低やら最悪やら言ってしまったことに後悔した。母親はタコのように頬を膨らませヘソを曲げている程度だったけど、親父は追跡ミサイルも方向転換してしまうのではないかというくらい鋭い眼光で僕を見ていたからだ。殺される……!そう思った瞬間、親父は二、三回頷き再び微笑んで、 「なかなか言ってくれるじゃねえかよ。まあ、喜んでもらえてなによりだ」 と言った。その言葉にホッとした僕は、少し興奮した様子で訊いた。 「シド・ヴィシャスって今、何歳だよ?」 親父は目をまるくし、え?という顔をしながら答えた。 「おいおい、ちゃんとそれ読んだのか?ちょっと貸してみろ」 親父はパラパラと過去に自ら作った��History Of The UK 1977�瓩魴�り、ここだ、と指で押さえながら僕に返した。そこにはページいっぱいに使ったシド・ヴィシャスの写真があった。そして、視線を写真の下に移すと、【1979年2月2日、ヘロイン過剰摂取によりシド・ヴィシャス死亡(21)】、と書かれていた。 これから崇めていこうと思っていた男は、既に僕の生まれてくる前に死んでいた──。僕はしばらくその事実を受け入れられずにただ立ちすくんでいた。昨晩知った僕と同じ名前の男。会ったことも話したこともないのに仲間を亡くすことと同じくらい胸が痛んだ。それでも、この時シド・ヴィシャスの死を悲しんでいたのは多分、世界で僕一人だけだったに違いない。この時でもう十五年も前の出来事なのだから――。 「おい、大丈夫か?止まってんぞ。シドはな、死ぬちょっと前にテメーの女を刺し殺したんだ。殺してねえって言い続けてたけどな。──まあ、がっかりするのはわかるけどよ、しょうがねえだろ。でも、いいと思うけどな。もしシド・ヴィシャスが今も生きてたら、え〜と……三六だろ、オッサンじゃねえかよ。中年のシド・ヴィシャスなんて見たくねえだろ?本人には悪いけど俺はジジイになって死ぬよりも早死にの方がかっこいいと思う。だって記憶に残るのはずっと二一歳のシド・ヴィシャスだからな」 親父の言っていたことはすごく残酷に聞こえたけど、それを共感できる自分がいた。落胆は隠しきれなかったけど──。シド・ヴィシャスは愛する女(ひと)を殺して自分も死んでいった。けど、絶対に彼のような男になろう、と僕はその時改めて気持ちを固めた。 「俺はシド・ヴィシャスになるよ」 僕は微笑みを浮かべながら二人に言った。 「おもしれえ、なってくれよ」と親父。 「無理だよ。だってあんた日本人だもん」と母親。 親父と母親の顔を見ては視線を下に逸らす仕草を多少の恥ずかしさがあってか、僕は何度も繰り返した。部屋にはしばらく和やかなのか、それとも気まずいのか、どちらともいえない空気が漂っていた。そして、いつの間にか親父から聞かされた話の悲しみや落ち込みはどこかにいってしまった。もうどうでもよくなっていた。聞いたとしても何も変わらないとわかっていたから――。 「――それじゃマユミ、洗濯物干すの手伝うから行こうか」 ぎこちない空気に耐えられなくなったのは親父だった。母親は拍子抜けした顔をして親父の顔を見た。 「え〜手伝ってくれるのはいいけど、その前にこのバカぶっ飛ばそうよ!だって親に向かって最低とか最悪とか言ってるんだよ!も〜ゆるせない!」 「いつの話してんだ?」 「さっきだよーさっき!何知らないふりしてんの!?」 「いいから行くぞ。ほら、洗濯籠持ってやるから」 親父は籠を右腕で抱えながら左手で母親の腕をグイグイ引っ張った。 「シドー!覚えてな!もうあんたのご飯だけつくってあげないからね!」 僕はバカを見る目で叫ぶ母親を見た。 「うわっ、その目ムカつく〜!」 その言葉が聞こえた時には二人の姿は僕の前から見えなくなった。母親の何かを叫んでいる声はしばらく響いていたけど──。 二人が部屋から出て行って間もなく、レコードプレーヤーの接続が完了した。 別に大した接続でもなかったし疲れていたわけでもなかったけど、僕の口からは親父が仕事を終えて帰ってきた時に吐くような、ハァ……、という息が洩れていた。 早速レコードをプレーヤーの上に載せて針を落とした。スピーカーからは針とレコードが擦れる雑音が聞こえてきた。そして、その雑音とともに突然、大勢の足踏みと拍手が重なったような音が響いた。そう、これがセックスピストルズ唯一のオリジナルアルバム�爛優弌璽泪ぅ鵐畢瓩離�ープニングだった。僕は思わず部屋が揺れるぐらいボリュームを上げてその流れてくる全ての音を逃さないように全身で受け止めた。Aサイド、Bサイド……どんなに繰り返し聞いても冷めなかった。それどころかどんどん曲の中に入り込んでいった。それまで聞いていた日本の歌がまるで週末の早朝にやっているヒーローもののテーマソングのように聞こえた。 夜になっても相変らず部屋でレコードを聞き続けている僕の元にカオリがゆっくりとドアを開けて入ってきた。突然のカオリの登場に驚いた僕は、慌ただしく針を上げてから何食わぬ顔で、どうした?と訊いた。針を上げた瞬間、部屋は一気に静まり返りリビングにいる親父と母親の話し声が微かに聞こえてきた。 「話……聞いたんだってね。お母さんが昼間言ってた」 カオリは前触れなくダイレクトにそう言ってきた。僕は何て答えたらいいのか考えたけど、やたらなことを言って傷つけてしまうのを恐れ、話の展開をつくるのはカオリに任せようと決めた。 「ああ、昨日の夜中。親父から急に聞かされた」 カオリは頷きながら続けた。 「どう思った?」 言葉を選んでる余裕はなかった。 「どうって……びっくりした。信じられなかった。もちろん信じたくなかったけど……」 僕が言葉を切ると、カオリは床に座っている僕の隣にゆっくりと腰を下ろした。肩がぶつかるくらい近かった。横をちらっと見ると母親そっくりなカオリがいた。でも、そこにいるのは姉だとしても腹違いの――。そう思うと、僕はその現実の辛さを再び実感させられた。近くにいればいるほどその辛さは増す。カオリは無言のまま膝を抱え込んでいた。そして、何か話をきり出そうかと迷っていると、カオリが正面を向いたまま静かに言った。 「信じられないよね……。今まで当たり前のように一緒に生活してきて急にそんなこと言われても……。私も丁度、今のシドと同じくらいの時にお母さんから聞かされたんだけど……辛かった。でもね、それ以上に何も知らずにカオリ、カオリって呼んでくるシドを見てる方がもっと辛かった──。何だか不思議だね。私たちって……本当の姉弟じゃな――」 「やめろよ!」 僕は大声でカオリの言葉を遮った。カオリは小さく、ごめん、と呟き俯いてしまった。 大声を出すしかなかった。カオリの口から零れる悲惨な現実に耐えきれなくなっていた。俯くカオリに僕は何も考えずに、ただ口から出てくる言葉たちに任せて言った。 「腹違いだとか、本当だとか、そんなのどーでもいいじゃねえかよ、関係ねえよ。俺たちは姉弟(きょうだい)だろ?中にはちゃんと血が繋がってるのに絶縁とかしてる奴らは腐るほどいるし、俺たちはそんな奴らに比べれば親父が違くたって──。そうだろ?カオリは俺の姉貴で俺はカオリの弟。それは何があっても変わらねえよ。変わるわけがない──。だから、もう難しく考えるのはやめよう」 熱弁したせいか、体からはシャワーのように汗が噴き出てくるようだった。 しばらくしてカオリは俯いていた顔を上げ、僕に微かな笑顔を向けた。 「本当?本当に……そう思ってくれるの?」 「あたりめえだろ」 熱弁は無駄じゃなかった……。僕は肩を撫で下ろした。 「ありがとう……。今まで通り?」 「そう、今まで通り。何も変わらない」 「絶対だよ……。もし、おはようございますとか、すいませんでしたとか、そういう他人行儀みたいなこと言ったらグーでパンチだからね」 「わかってるよ」 「――うん。それじゃ……今日はいろいろ疲れたから、もう寝る。シドも早く寝るんだよ」 「わかりました。おやすみなさい」 ぎこちなさを解消しようとした僕の優しさが裏目に出た。カオリは他人行儀の僕の言葉を聞き逃さなかった。そして警告通りにグーで三発、可愛い弟の頭にパンチをお見舞いし、軽い足どりで部屋を出て行った。
この日を期に僕はボーズだった髪を伸ばし始めた。そう……彼、シド・ヴィシャスになるために――。
| 2006年02月08日(水) |
アカイヌlクモリ ―――�機檻院宗宗� |
親父から衝撃的な話を聞かされたのは一九九四年の六月上旬、僕が中学一年の時だった。 確かその日は土曜日で既に深夜一時を回っていた。僕は一人部室でテレビを見ていて、ブラウン管の中では司会者の男女数人の後ろに水着を着た若手グラビアアイドルが十五人ほど座り、自分の顔がアップになるとここぞとばかりにわざとらしい笑顔を振り撒いていた。 トーク番組と題されていたけど内容は全くないに等しく、ただくだらないとしか言いようのない番組だった──が、この手の番組は土曜の深夜には持ってこいの企画なのだろう。 僕がボケーッとうつ伏せになりながらチャンネルを回していると、 「シド、ちょっといいか?」 突然親父がノックもせずに僕の部屋の扉を開けた。 「何だよ、急に」 僕は怪訝そうな顔をして上目遣いで親父を見た。親父は口を噤みながら頷いた。 「大事な話がある。ちょっとリビングに来てくれ」 わけ有り気な表情だった。それに、どことなく落ちつかない様子だったし――。僕は渋々といった感じで起き上がり、リビングに向かう親父の後を歩いた。 親父は僕が物心ついた頃から万年短髪で、ハードジェルは毎日欠かしたことがない。おまけに左耳軟骨に開いているむっつの穴からピアスが外れている時も見たことがない。 この日の夜は確か肌寒かったような気がしたけど、親父はノースリーブにジーンズという寒々しい姿だった。大事な話といってもすぐに終わるだろう、と僕は部屋の電気もテレビもつけっぱなしで出てきてしまった。 リビングに足を入れた途端、蛍光灯の光によって真っ白な壁が銀世界のように眩しく感じて、僕は慣れるまでしばらく目を細めていた。そして、そこには母親とみっつ年上の姉、カオリの姿はなく、テレビも消されていて人気の失せた体育館のように静まり返っていた。親父は相変らず落ち着かない様子で立ったまま煙草に火をつけると、まあ……座れよ、と壁際のソファーを顎で指した。けど僕はソファーには座らずにソファーを背凭れにして床に腰を下ろした。しばらくして親父も煙草を消し、僕と向かい合うように床に座った。 そして妙な沈黙が数分流れた後、親父は立ち上がり壁際のクローゼットからベージュの紙袋を取り出し僕に手渡した。 「これ、お前にやる」 突然渡された親父からのプレゼントに戸惑いながらも、僕は紙袋の中身を手探りで出した。 中に入っていたのは、レコード一枚にプリントTシャツ二枚、それと道徳の教科書くらいの厚みで、いかにも手作りっぽい本が入っていた。本のジャッケットには、【History Of The UK 1977】、と書かれていた。 僕はこのレコード、Tシャツ、本とはこの時が初めての対面だった。十年以上も住んでいて一度も見たことがなかった。不思議に思いながら僕がそれらを手にとって見ていると、 「シドが大人になったら話そうと思ってたことがあるんだ。まあ、大人っていっても二十歳になってからじゃちょっと遅いから、いろいろ考えて変声期、まあ声だけでも大人になったら話そうって決めてたんだ。でもお前、小学校出るまでサルみてえに声高かったのに中学入ってすぐ変わっただろ、だから気持ちの整理が着かないうちに日が延びちゃって。ごめんな。とりあえずこれから話すから」 僕は親父の目を見て黙って頷いた。 「まずは俺のことから少し話すけど、今まで話したこと――ないよな?」 何故かドキドキしていた。ないよ、という言葉すら喉でとどまってしまい、ただ頷くのが精一杯だった。親父も緊張していたようで大きな溜息を二度吐き、それからようやく口を開いた。 「実は俺、高二で中退して家を出てさ、それからもう十七年か、一度も帰ってないんだ。丁度今のお前くらいの時からだと思う、悪いことばっかりして、警察によく世話んなって、その度に親に半殺しにされてた。でもそのうち見放されちゃってな、高校は入れてもらったものの辞めて、居場所がなくなって、家を出たんだ。それでもしばらくは仲間の家を転々としてた。でもよ、辞めたんだったらそれなりに何かをしなくちゃ辞めた意味がねえだろ。で、そこで考えたのが、外へ出ることだった。目的はともかくとして自分の目で──肌で国外を感じておく必要があるんじゃないかって、そう思った。それで迷った末にイギリスへ行くことに決めた。もちろん独りで……。行きたい理由なんて特になかったけど……まあ強いて言うならあのビートルズを生んだ国ってことと、王室の魅力ってやつか……」 両祖父母の家はとても遠く離れているからなかなか行く機会がない、と親父からも母親からも幼い頃からそう聞かされていた。だから、祖父母に会うことができなくてもそれが当たり前のようになっていたせいか、寂しいとも感じなかった。それでも仲間との会話の中で祖父母の話題が出てくると、その度にとり残されている気分になった。 「──で、七七年の十一月中旬頃か、イギリスに飛んだ。半年くらいだったな……」 僕がそれまで持っていた親父のイメージが一変した。確かに頭は悪かった。勉強も教わった記憶がない。けど十七歳にして独り海外に行ってしまう親父に尊敬の目を持ってしまっていた。これから親父をそういう目で見ていくのだろうか、と思うと少し照れ臭かった。 「でも向こうについてしばらく動けなかった。一応いろいろ調べたり、ガイドブックみたいなものは持ってったけど道はわからねえ、言葉は通じねえ、そいで周り見渡しても日本人なんか一人もいねえ。でも俺は、その半年っていう滞在期間でメチャメチャ価値のあるものを持って帰ってきた。それは短くも独り海外で過ごしたっていう経験と、今お前が手に持ってるレコードとTシャツだ」 僕は手にしているそれと��History Of The UK 1977�瓩鮨読磴隆蕕噺鮓澆妨�比べ、写真でも見たことのない当時十七歳だった親父の顔を思い描いた。 「シド、お前セックスピストルズって知ってるか?」 親父の問いかけに僕は一瞬、いかがわしいビデオのタイトルかと思い込み素早く首を横に振った。もちろんセックスピストルズも知らなかった。 「今、変なこと考えてただろ」 ──ばれてた。親父はクスクスと笑いながら僕を見ていた。 「そんなことどーでもいいから早く続き話せよ!」 僕は荒っぽい口調で親父を促した。親父は、はいはい、という感じで続けた。 「セックスピストルズはイギリスから生まれたバンドで、パンクロックの火づけ役みたいなもんだった。俺が向こうにいた時も国中このバンドのスキャンダルで話題は持ちきりだった。デモとか暴動がいろんなとこで起こってたし。そのレコードはセックスピストルズが出した最初で最後のオリジナルアルバムで、Tシャツはメンバーが着ていた�爛札妊�ショナリーズ�瓩辰討いΕ屮薀鵐鼻�たしかチェルシーのキングスロードって通りに店があった気がする。まあ、詳しいことはその本に書いてあるから後で読んでくれ。それからもうひとつ、セックスピストルズのメンバーの中でルックスから全て、一際目立つ奴がいた。そいつはベーシストで、名前は�爛轡鼻Ε凜�シャス�瓩修Α△�前の名前はそいつからとったんだ」 自分の名前の由来を初めて聞いた瞬間だった。正直、�爛轡畢瓩箸いμ樵阿蝋イ�じゃなかった……。親父は嬉しそうに語ってはいたものの、僕には嬉しくも何ともなかった。 小学生の頃、その名前が原因でイジメられたこともあった。ほとんどが、おまえ変な名前だな、とか、おまえ日本人じゃねえだろ、というものだった。さすがに日本人じゃねえだろと言われた時は、すごく傷ついた。その度に自分の名前を憎み、名前をつけた親を恨んだ。年齢が上がるごとにそういうイジメはなくなったけど、もっとまともな名前がよかった、そう何度も思っていた。 僕が当時のことを少し思い出していると、親父は両手を、パンッ、と叩き僕を現実に引き戻した。 「お前がシド・ヴィシャスのことを知って、これからどう思うか俺にはわからないけど、とりあえずお前には何が起きてもビビらないでいつでも大声で笑っていられるような奴──まあ、シド・ヴィシャスみたいになって欲しいと思ったからその名前をつけたんだ」 僕はこの時シド・ヴィシャスのことなんて全く知らなかったけど、それでも親父がどういう気持ちで僕にこの�爛轡畢瓩箸いμ樵阿鯡震召靴燭里�は少しだけ理解できた。僕は俯きながら、そっと親父の気持ちと言葉を心の奥底にしまった。 「それじゃ、俺の話はここまで……。これから話すことは、お前のこれからを変えちゃうかもしれないってぐらい辛くて、信じ難いことだと思うけど事実だからしっかり受け止めて聞いてくれ」 親父の顔が自分の話をしていた時よりも更に硬直し眼光も鋭くなっていた。僕の胸にもしめつけられるような緊張が走った。親父の顔を見てこれから話すことは尋常なことではない、というのが読みとれた。 背凭れにしていたソファーから体を離し、僕は前屈みになって親父に、話せ、と目で訴えた。親父はそれに答えるように口を尖らせ頷き、話を始めた。 「日本に帰ってきてからしばらくふらふらしてて、何もかもが底を尽きそうだった。それで十八の時に流れ着いたのがここだった。当時は今と違って仕事もいっぱいあって、半分コジキみてえな生活をしていた俺を今の会社は雇ってくれた。電気工事の仕事っていっても知識なんか全くなくって何度も辞めようと思った。それでもな、仕事上でいろんな経験をしていくうちに嫌でも知識はついてきていつの間にか人並みに働けるようになってた。生活は寮があったからそこでしてたんだ。……話が少し過ぎたな。十九の時か、市街の外れに風俗街があるだろ。わかるか?」 「ああ、買い物しながらブラブラしてれば嫌でも目に入るから」 �猊�俗街入口�瓩覆鵑篤押垢燭覺波弔澆燭い覆發里賄�然なかったけど、あってもおかしくないくらい華やかで、また、それなりのいかがわしさを漂わせていた。そして狭苦しい一本道の両端にはそういった店が所狭しと建ち並んでいて、いやらしいほど無数のネオンサインが輝きを放っていた。それと、風俗街に出入りしているのは欲望を背負った奴らばかりではなく、ヤクザ、海外マフィア・密売人、密入国者もうろついていて、警察も不用意に立ち入ることができないという噂をよく聞いた。 「そう……あそこでさ、店の名前はもうすっかり忘れたけど、入って、個室まで案内されてドア開けた瞬間、頭の中が真っ白になったんだ。目に飛び込んできたのは、今まで見たことないってくらい綺麗な女でさ、俺は何を考えたのか、話もしないうちにその女の手を引っ張って店から飛び出したんだ。もちろん店の中は騒然として外に出てからも客引きの奴らが、待てコラァ!とか言いながら追いかけてきて、何度も捕まりそうになったけどどうにか逃げ切って──。走ってる間、女は抵抗してたけど逃げてるうちに俺の足に必死でついて来ようとしてるのがわかった。それから人気のない所まで行ってやっと自分がとんでもないことをしたって気づいたんだけど、もうそこまでしたら後には引けねえだろ?だから一目惚れだって言った。女はびっくりした顔をしてたけど、その後ゲラゲラ腹抱えて笑ってさ、あんた面白いねってずっとそればっか繰り返してた。俺もつられちゃって笑い転げてさ。まあ、それがきっかけでその女とつき合うようになったんだ。その女の名前っていうのはさ……マユミっていうんだ。つまり、お前の母親だ。──あいつは……娼婦だった。食っていくためにテメーの体を売りもんにしてたんだ」 母親の顔が何度も思い浮かんだ。笑顔だった――。この時、僕の中にあった風俗嬢のイメージは�猜兮崕��瓩修譴世韻世辰拭�自分の住んでいる世界とは全く別世界の人間で一生かかわることのない人種だと思っていた。それにしても、まさかよりによってそれが自分の母親だったとは……信じ難かった。 けど、母親が娼婦だったことには心当たりが全くないわけではなかった。たとえば下着のパンツにTシャツ一枚という姿で届け物を配達人の待つ玄関までとりに行こうとしたり、子供といえども僕の友達の前で平然と着替えをしようとしたりする時があった。いずれも家族の誰かに止められたけど、母親は自分の体を誰かに見られるということに対する抵抗意識が普通の人間よりも遥かに少なかった。やっぱり娼婦だったから人に体を見られるのには慣れているのだろうか、と母親の顔を思い浮かべながら思っていた。 「それともうひとつ……」 左右の中指と人差し指で両目瞼を擦るようにして親父は続けた。 「マユミと俺は同じ年だけど、あいつは既にバツイチで二歳になるガキがいた……」 一瞬、頭の中に細い針みたいなものが刺さったような、そんな痛みが走った。嫌な予感がした。この空気の中で次に親父の口から放たれる言葉は……そうに決まってる――! 僕はこの時、突きつけられそうになっている現実に耐えられなくなり親父の目から視線を外し、その場から立ち去ろうとした。けど体が言うことを聞かず、立ち上がることができなかった。親父は忙(せわ)しない僕の行動に気づいたのか、静かに深呼吸をして僕の恐れていた言葉を吐いた。 「……カオリだ。そのガキっていうのは……カオリなんだ」 予測通りのことを言われたものの、わからなかった──。爪先には氷のような冷たい空気が漂い、脳天には真夏の照りつく太陽にも勝るほどの熱いものが集まって僕を痺れさせた。そして胸のあたりは全速力でタックルされたような衝撃が走った。一生余韻が続くほどの痛みだった。それは紛れもない心の痛みというやつだった。 もう何も考えられなかったし、むしろ考えたくもなかった。気力というものは全てなくなり僕は完全な放心状態になっていた。視界は親父の膝一点を見つめたまま。動かそうとしても気力がないためにびくともしない。その時真っ白な頭の中を過ぎっていたのは、�爛�オリは腹違いの姉�甅猜貎討聾犠�婦�瓩海里佞燭弔世韻世辰拭�そしてリビングに来て親父から話を聞いてしまったことをすごく後悔した。話を聞いてしまった自分がとても惨めで、とても小さくて醜くて──とても腹立たしかった……。 「ショック……だよな」 親父の言葉は僕の耳を簡単に通り抜けていった。つまり、その時の僕には何も届いてなかった。 母親のこともショックだったけど、それ以上にカオリのことの方が数十倍もショックだった。今まで当たり前のようにカオリと生活をし、当たり前のように喧嘩もした。でもそれは姉弟だったからできたこと。生まれた時から積み重ねてきたカオリとの生活は僕の中で、ものすごい爆音と共に崩れていった。怒りというよりは情けなさの方が強かった。そして、裏切られたという気持ちが次第に大きくなっていった。辛い、辛すぎる――。中学一年の僕にはとても耐え難かった。でも、辛いのは僕だけではない。親父も辛そうだった。左の手のひらで額を押さえて何度も溜息のような呼吸をしていた。 しばらく沈黙が続いた後、親父は額から手のひらを外し最後の力を振り絞るように再び口を開いた。 「マユミは……ガキの頃に母親と離れ離れになって、それからは親父に育てられたらしいんだ。母親の顔は、もう全然覚えてねえって。親父に面倒見てもらってたもののすっげー飲んだくれだったらしくて暴力も絶えなかったって言ってた。それで嫌気がさして中学卒業と同時に家を出て娼婦として働き始めたらしい。それからしばらくして十六の時、自分の客としてついた十四歳年上の客の男に惚れ込んで、身籠って、結婚、十七でカオリを出産した。でも結婚生活はうまくいかなかったらしくて、一年もしないうちに離婚。カオリを一人で育てていくためにまた娼婦に逆戻りしたんだ。それで十九の時に俺と──。これはマユミから聞いたあいつ自身の話」 ――あいつ自身の話。親父はそれだけで片づけたけど、僕にとっては初めて聞く母親の話だったし心の準備というやつも当然できていなかった。けどこの時、僕は母親を哀れに思うのと同時にすごく恋しく思った。既に眠りに着いていた母親を揺さぶり起こしてでも抱きしめたかった。どんな時でも明るく振舞っている母親にそんな辛い過去があったなんて気づきもしなかったし考えもしなかった。それまでの数多くの親子喧嘩の際、母親にぶつけた暴言が次々と頭に浮かんで、僕は後悔の溜息を心の中で何度も吐いた。 二十回くらい吐いた頃か、親父はまだ終わっていない母親の話を続けた。 「それと、俺はカオリがいることをつき合ってしばらく経ってから知ったんだ。思えばそれなりに不自然なこともあった。あいつはつき合ってすぐ店を辞めたんだけど、会うのがいつも夜中だった。あの時は、何でこんな時間にしか会わないんだろうって思ってたけどそんなに深く考えなかった。カオリのことを知って、寝かせてから会ってたんだってわかった。でも初めてカオリのことを聞いた時はビビッたってより正直引いたよ。十七で産んで、すぐ離婚だからな。驚くとかそういう次元じゃねえだろ?それでも俺はマユミが本当に好きだったからカオリの父親になろうと思った。その気持ちがカオリに伝わったんだかわからねえけど、あいつは俺をすぐに父親として受け入れてくれた。初めてパパって言われた時は涙もんだったな。それからマユミと俺の間にお前ができたってわけ。とりあえず、これでお前に話そうとしていたことは全部なんだけど……長話になって悪かったな。でも話せてよかったよ」 辛い話は聞き終わったものの、聞いてしまったことの辛さが二乗も三乗も増していった。そして、放心状態と定まらぬ視線の中、僕は無意識のうちに親父に問いかけていた。 「カオリは……知ってる……のか?」 「ああ……カオリも今のお前くらいの時に。あいつにはマユミが話した」 「で、どうだったんだよ……?」 「泣いてたよ、何日も、何日も……部屋に閉じ籠もったまま。俺もマユミもどうしたらいいかわかんなくて……。でもカオリはわかってくれた。全部呑んでくれた。こっちが戸惑ってる時にあいつから笑いかけてくれたんだ」 カオリの方が僕なんかよりも断然辛かっただろう。�爛轡離岫瓩箸いι秧討楼蕕討凌討如⊆造良秧討魄貪戮箸靴童�た記憶がないのだから──。どうやってその辛さから這い上がったのだろう?僕はカオリの顔を思い浮かべながら同情していた。すると、親父が静かに囁いた。 「シド……」 親父は睨みつけるようにしばらく僕を見つめ言った。 「今話したことを聞いて、ずっと黙っていたことに対して多少なりともムカついたり軽蔑したりしたと思う。お前もすごく傷ついただろうし。でもいいか、そのことで俺に何を言っても構わないけど、マユミとカオリには絶対に振るな。あいつら二人、立場は違っても傷ついてることには変わりはないんだから。それだけは約束してほしい。……理由はともあれ、もしお前が何か言ったことでマユミとカオリが傷つくようなことがあるとしたら、俺はお前を許さないかもしれない……。勝手なことばっかり言ってるけど……」 親父がすごく大きい人間に見えた。さすがはあの母親がついていく男だけのことはあるな、と思った。放心状態の中、深呼吸と視線を変えられる余裕ができていた。ただ、親父の言葉に納得はしたものの、声を出すことも頷くこともできなかったけど……。親父も全て話したことで多少気持ちが軽くなったのか、体を少し後ろに傾けた。
| 2006年02月07日(火) |
アカイヌクモリ プロローグ |
「晴れたね」 助手席に座る僕の顔を覗き込むようにして母親が言った。僕は前方の大型トラックのブレーキランプを見つめている。今日は休日ということもあってか、道が混んでいて流れが悪く、時々クラクションが激しく鳴り響く。そして、カーステレオからは一年半くらい前から母親がはまり続けている英国アーティスト・ベックの曲が流れている。 早朝に家を出てから既に二時間以上も運転している母親の顔は、曲を口ずさみながらも何だか硬直しているようだった。それもそのはず。結婚十八年目にして今日初めて、夫の親に何の前触れもなく会いに行くのだから――。 一直線に延びる国道を走るこの二時間ちょっとの間に母親は、コーヒー、紅茶といったカフェイン入りの飲みものを引っきりなしに飲み続けている。 「落ちつかないんだよねー。それに、今日会ったらもう二度と会わないかもしれないし、今のうちにカフェインいっぱいとって、眠気覚まして、シノブの親、まあ私の�狄騰瓩任發△襪韻鼻帖沈簑个亡蕁∨困譴覆い茲Δ砲靴覆�ゃっ」 母親は張りきったようにそう言うと再びハンドルを握っていない左手でゴクゴクとパックコーヒーを手にとりストローで飲み始めた。 国道が二車線から三車線に変わり、僕と母親の乗る車は直進の中央車線で信号待ちのために一時停止した。すると、僕たちよりも少し前の左折車線でシルバーのセダンに乗った若い男二人がこっちに向かって手を振っている。運転席にいるのは金髪の坊主頭で、その隣はモミアゲと髭が繋がっている不潔そうな奴だ。しかも、二人ともやたらと笑顔でアホ気な面をしている。もちろん手を振っているのは僕にではない、母親だ。 母親は僕を二十歳で産んだ。そして今現在三八歳だけど、実年齢には見えないほど若づくりだった。息子の僕から見ても三十前半、無理すれば二十代でも通ってしまうくらいだ。とにかく、そこらにいる同年代とはわけが違った。キリッとした少し意地の悪そうな目に、日本人とは思えないほど鼻筋が綺麗に通っている。それと何より今尚スッピンでも外出できるほどの肌を持っていた。自分でも時々、�爛瀬ぅ▲鵝Ε譽ぅ鵑澆燭い任靴膈瓠△繁佑箍搬欧料阿妊皀妊覺乕蕕韻離檗璽困鬚箸辰討い拭�それでも今日は特別な日ということなのだろう、しっかりと化粧が塗られている。自分の母親をこれほど絶賛するのはどうかと思うけど、そう思わせるものは持っていた。それと、あれは確か中学一年の三者面談の時だった。僕の担任だった中年のオッサン教師は母親を見るなり、年の離れた姉弟ですか?と驚いたように訊いていた。そして、その言葉で気をよくした母親は、先生……私すごく嬉しいわ、と呆れるほどの色気を出し担任を欲情させていた。担任もその言葉だけで既にイッてしまったのか、ただ鼻の穴を大きく広げて頷いているだけだった。 その時の三者面談は、僕の勉強へのとり組み方がメインだったけど、担任は僕の勉強のことより母親に意識がいっているように見えた。いや、絶対にそうだったはず。母親が担任に何か質問をしても訊き直したり、曖昧な返答くらいしかできずに、担任は教師としての平常心、堅実さを失っていた。──思えばそんなこともあった。だから今、母親に手を振っている男たちにはおそらく自分たちと同年代に見えているのだろう。そんな男たちに母親は笑顔で手を振り返す……わけがなかった。母親は微笑みを浮かべながら左手中指を突き立てた。 「あーゆーの見ているとほんっと寒気する。あいつら多分どこ行っても、誰にでもあんなことやってるんだよ、ばっかみたい。何か私、すっごくナメられてる気分だよ」 しばらくして二人は母親の御立腹の様子に気づいたのか、それとも中指を見たからなのか、万遍のない笑顔は苦笑いに変わった。それから気まずそうに顔を前に戻すと、二度と振り返ることはなかった。 そもそも何故、僕と母親が二人して親父の両親に会いに行くのか。それには僕自身が深くかかわっていた。僕が、僕の身体が……。動くことも、話すことも、食べることもできない僕の身体が――。
「ちょっと失礼」 母親が僕の座っている助手席のダッシュボードに手を伸ばし、そこから煙草をとり出した。�犖耄梢討鵬颪Δ里鳳豼陲僚�いなんかさせてたら失礼でしょ。だからちょっとの間禁煙する�瓠△蛤鯑�気を吐いていたばかりだというのに……。 「ごめんシド。ちょっとの間煙いかもしれないけど我慢ね。やっぱ禁煙は無理だわ。まあ、こんな状況だからね。でもなーんでこんなに落ちつかないんだろ?めちゃめちゃ緊張してるみたい。久しぶりだよ、私がこんなにも緊張するの……。と!いうわけで禁煙宣言解除するから、よろしくね」 どういうわけだ!? 運転席と助手席のサイドガラスを少しだけ開けて、母親は煙草に火をつけた。 「う〜さっぷい……。でも落ちつくねー……」 深い吐息と共に、母親の肺に一度送られた煙が勢いよく口から湧き出ている。その煙が僕の顔の前をよぎる。更にその後寒さからか、母親の口からはへたクソなビブラートが利いていた。 二月というだけあって外の空気はとても冷たいらしく、歩道を歩くほとんどの人がマフラーやニット帽、それに厚手のコートを身にまとっている。 だけど、そんな防寒具も今の僕には関係のないこと。何故なら僕の身体は完全に麻痺しているために温度を感じとることすらできないのだ。おまけに臭覚もやられていることで、開けたサイドガラスから逃げ遅れ、僕の顔にまとわりつく煙の臭いも嗅ぎとることができない。 僕の身体でまともに機能を果たしている器官は、視覚、聴覚、呼吸器官、それから排泄器官だけだ(属に植物人間といわれている中で、医療機器を一切使わずに排泄することができるというのは極めて稀なことで奇跡に近いともいわれている)。 ほかの、機能を果たすことができない器官は全てあの時に失った。 そう……あの時、一瞬にして――。 僕は相変わらず前方の大型トラックのブレーキランプを見続けている。時々、猛毒と思えるほどの真っ黒な排気ガスが勢いよくマフラーから吹き出ては青い空へ昇っていった。 母親は溜息と煙を同時に吐き出している。――そして、母親が吐き出した煙に紛れ込み、その煙と共にどこかへ消え行くように僕は忘れることのない�爐△了��瓩函∀伺�前の親父から聞かされた話を思い返した――。
この世で俺が唯一�狄喚瓩�ら愛した女──ヒトミに捧げる
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