本日はご多忙の中、息子シドの葬儀ならびに告別式にご参列いただきまして、誠にありがとうございます。まず、あらかじめ言葉を選び用意しておくことは、シドの性格上、失礼に値することだと思ったので書留めのようなものは一切用意しておりません。九五年の五月三十日早朝、彼はピッキングで我が家に侵入しようとした何者かをとり押さえようとしたところ、凶器によって頭を殴られ、それ以降言葉も反応もない植物状態となってしまいました。一時は死と隣合わせになりながらも何とか生き続けましたが、原因不明のまま犯人も捕まらずにシドは一昨日、息を引きとりました。姿、形もわからない犯人への怒りは治まりませんが、彼は私たち家族に�狎犬�る�瓩箸いΔ修遼榲�の意味を教えてくれた気がします。正直なところ、介護を始めシドにかかわること全てにストレスを感じ、投げ出したくなる時も多々ありました。ですがそんな時、彼の──シドの目が私たちに気づかせてくれたんです。それまで意識することなんてなかった、ごく当たり前な毎日を送ることができる幸せ、生きていくことの大切さを。私はシドを母親としても女としても心から愛していました。当然、今もこれからもその気持ちは変わりません。────結局……結局私は、お腹を痛めて────産んだ子を、自分の身勝手な生き方によってシドのお爺ちゃん、つまり私の親に一度も抱かせてあげることができなかった……。この悲しみはシドが逝ってしまった悲しみと同様、一生私の心から消えることはないでしょう。シラギ先生、ヒトミちゃん、リョウコちゃん、サジ、シンちゃん、リョーキくん、ヒロトくん、今までシドを支えてくれて本当にありがとうございました。今こうしてみなさんがシドのために涙を流してくれていることに私たち家族は感謝と感動の気持ちでいっぱいです。シドは最期の最期で、あの喋ることなんて不可能だった彼が、待ち続けていた彼女に、愛してる、と小声ながらも言葉にしたそうです。シドにとっては限りなく狭く地獄のような世界だったと思います。それでもそのことを聞いた時、あの子に私たちがずっと語りかけていたことは全て聞こえていたと確信しましたし、みなさんの励ましの声だけで生きていたとしても幸せだったんじゃないか、と思ってしまいます。数時間後──シドは、灰と骨という姿になってしまい、そしたらもう二度とこの子の体には触れることができなくなります。だから最後に、みなさんそれぞれの想いを込めて、シドの体に触れてあげてください。十八年と六ヶ月、息継ぎもしないで全速力で生きてきたシドに。お願いします──。言葉がうまくまとまらず申しわけございませんが、本日は誠にありがとうございました。
<了>
| 2006年03月30日(木) |
アカイヌクモリ ―――サジ――― |
ヒトミから連絡がきたのは、俺がマンション三階の足場を道具片手に歩いている時だった。 「……シドが死んだの」 俺は二階で指示を出していた親方に、例の奴が今死んだって連絡が入ったんですけど、と睨みを利かせた。親方にはシドの全てを話していた。今年で五七になるこのオッサンは、口が悪くてリョーキより厳ついけど、本気でいい人だった。 「ォメーの持ち場は俺がやっとくから、さっさと行け!事故るんじゃねえぞ」 親方に頭を下げて俺はシドの元へ直行した。 家の前は近づいてはいけないような妙な雰囲気が漂っている。足を踏み出すことを躊躇させるような──。そして、土と埃で汚れた足を払いリビングのドアを開けると、マユミさん、シノブさん、カオリさん、シンジ、リョーキ、ヒロト、そしてヒトミが何かを囲うように座って俺を見た。そう、その中には顔を白い布で覆われ、胸の前で両手を組まれたシドが眠っていた。呼吸をしないシドが──。 「仕事抜けてきたの?」 「はい。シドのことは親方に話してたんで……」 「そう……。まだ一時間も経ってないの。体も温かいから、見て触ってあげて」 マユミさんにそう促されて、俺はシドの顔にかかっている布をゆっくり横に滑らせた。昨日は本当に苦しそうだった。でも、今はほんの少しだけ笑っているように見える。体も生温かい……。 しばらく見つめていると、隣に座るシンジが跪いて泣き出した。シドの死をまだ現実として見ることができない俺は、シンジのように泣くことができない。多分、リョーキもチビも一緒なんだろう。 シンジの嗚咽を聞きながら、無言のシドを見ていると、背後からマユミさんに、ちょっとリビングから出て、と肩を叩かれた。俺だけ──? 「あんた最後に来たから、シドの最期を言わなきゃと思って。ちょっと信じられないことが起きたんだ」 ──そんなこと、信じる方が難しいかもしれない。シドが喋った、なんて──。でもヒトミがこんな時に嘘をつくとは思えない。あいつは待っていたんだ、ずーっと。最期まで信じて待ち続けていたシドの気持ちを考えると、急激に熱いものが込み上げてきた。あいつがヒトミを思う気持ちは俺たちが想像していた域を遥かに超えていた。 シドが死んだのは十五時五三分。それから二時間もすると葬儀屋と焼香をしに来る近所の人たちで家の中はごった返した。 「泣いてる暇もないよ……」 そう溜息を吐くマユミさんの気持ちは本当によくわかる。葬儀屋の説明を聞きながら焼香に見えた人がお悔やみを言う度に深々とお礼。これじゃ、泣くどころか一息吐くこともできないだろう。 カオリさんとヒトミは二人で訪問者へのお茶出しをしていた。俺たち四人も手伝おうとしたけど、やたら動いても邪魔になるだけだ、というヒロトの言葉に全員が頷き、シドの傍にいることにした。 夜、ようやく落ちつき静かになったところでヒトミと話すことができた。 「久ぶりだな」 「うん。元気だった?」 「ああ、まあまあだな。……逝っちまったな、とうとう。でもよかったよ、あいつ。最期に会えたんだから。マユミさんから聞いたぜ」 「うん……。愛してるって、すごく小さな声だったけど、そう言ってくれたの」 「はぁ〜、シド──。マジでいい奴だったよな。ヒトミ今更かもしれねえけど、何で今まで来てやんなかったんだよ?」 「──ごめん。それは、シドにちゃんと話した。だからそのことは二人だけの秘密ってわけじゃないけど、胸の中で抑えておきたいの。私がシドの所に行くまで……」 「そうか……わかった。──それよりリョウコ、告別式まで間に合うか?明後日だけど」 「ギリギリかな。シンちゃんの話では、明日の深夜に空港につくようなこと言ってたけど」 「どうにか、骨になる前に見てほしいよな」 「うん……」 「お前、リョウコから連絡が入ったのか?シドが危ねえっていう……」 「そうじゃないの。リョウコとは手紙のやりとりだけだったから……」 「それじゃ──偶然なのか?」 「……」 「ああ、悪い。無理に聞こうってわけじゃない。まあ、シド本人が知ってんなら……。──で、明日後こっちを出るわけだったんだろ?どうすんだ」 「四九日までいるつもり。──情じゃないよ。ただ……」 「わかってる。そうしてやれよ」 三月の夜風は肌をきるように冷たい。けど、シドはこの寒さが大好きだった。今まであいつの好きだという季節が俺には理解できなかったけど、これから何だか好きになれそうな気がする。この凍えるような風が堪らないと感じられた時、シドという男を今よりもっとかけがえのない人間に思うことができるような──。
翌日、十八時からの通夜を前にシドを柩へ移す儀式が始まった。全員が一睡もしていない中、一人目を閉じ眠り続けているシドの体中をアルコールで拭き、柩の中へ金や奴が大切にしていた物を入れている時だった。 「そろそろ始めよう……」 シンジの呼びかけに俺たち四人は用意してきた物を出した。 「学蘭ありますよね、こいつの」 ヒロトがシドに目を落として言った。 「ああ、ここに。一緒に入れようと思ってたんだ」 シノブさんが学蘭をヒロトに手渡した。そして、第一ボタンを残して下の四つを裏ボタンが割れないように注意してとり外した。背後からは誰かのすすり泣く声が聞こえてきた。俺たちは自分がつけていた第二ボタンをシドの学蘭にとりつけた。もしもの時があったら──そう四人で中学を卒業する時決めたことだった。俺とシンジは卒業式の日、第二ボタンだけはとられないように伸びてくる手から必死に防いでいた。 「こいつのボタン……俺たちがもらってもいいですか?」 リョーキは必死に嗚咽を抑えている。 「大切に持っててくれ──」 シノブさんは柩に肘を立てて目頭を押さえた。仰向けに眠るシドの体に学蘭をかけて、もう二度と目覚めることも柩から出ることもない男を全員で見下ろしていると、そこへ誰かの手が伸びた。 「これも、持っていってもらう……」 ヒトミがセーラー服のタイを握りしめていた。俺もみんなもその行動に目を逸らすことなくずっと見続けている。組まれた両手に触れながら学蘭のポケットの中へ、ヒトミはゆっくりタイを押し入れた。そして──シドの頬に涙を溢しながら唇を寄せた。 「ヒトミちゃん……シドが大切にしていた物、何か持っていく?」 「……」 ヒトミにはマユミさんの声が届いていない。多分、ヒトミは短い時間だったけど、シドと共に過ごしたという現実があるから、それだけでほかにはもう何もいらないんだろう。それは今ここにいる誰もが感じていることだと思う。 通夜の参列者は思いのほか多かった。近所住民を始め、小中学校の担任が数名、タメの奴ら、シノブさんの会社の人、カオリさんの施設の人など……。そして、通夜が終わって四人で一服していた時、 「シドが吸ってた煙草ってラッキーだよね?」 マユミさんは小銭を突き出して忙しなく言った。 「そうですけど」 「柩に入れるの忘れてた。私ちょっと手が空かないから、悪いけど買ってきてくれないかな?」 「いいっすよ」 「二箱でいいや。オッケー?」 「わかりました。すぐ行ってきます」 「ありがとう。頼んだ」 早速靴を履き、玄関を開けた途端、目の前に懐かしい顔が浮かんでいた。 「サジくん……だよね?」 「──あっどうも……お久しぶりです」 「これ……どういうこと?」 「えーっと……ここじゃなんなんで、とりあえず出ましょう」 俺は煙草の自販機がある所まで、シドの事故から昨日の死までを触り程度に説明した。彼女は細身のパンツにスウェットパーカーというラフな服装だったけど、抜群のスタイルからモデルと歩いているような錯覚にさせられた。 「そんなことがあったんだ……。たまたま散歩してて、何気なく電柱が目に入ったら通夜の案内がかかってて──びっくりした」 「卒業して何してたんですか?高校は行ってないってシドからは聞いてましたけど……」 「フラフラしてた。今は飲み屋で働いてる。それよりシドは、関係が終わってから私のこと何も言ってなかった?」 「──特に」 「そうなんだ……。�狢感箸泙任隆愀賢瓩覆鵑童世錣覆�ゃよかった。ちょっと後悔してる。実を言うとずっと頭から離れない存在だったんだ。今でもそう。だからショック。顔には出さないけど──。初めての男だから余計かな?」 どう答えていいかわからなかったし面倒だったから、俺は自販機から煙草が落ちる音でどうにかごまかした。少なくともシドはあの関係を割りきってたと思う。そうじゃなかったら──。 「線香、上げてがないんですか?」 「何だろう?そんな気分になれない。だから代わりにこれを──」 ユリナさんはパンツのポケットからラッキーを出して火をつけた。そして、一口だけ吸ってそれを俺に手渡した。 「──じゃ、私行くから。それにしてもあんた相変らずかっこいいね」 ユリナさんは俺の頬を二度叩くと、そのまま夜道へ消えていった。彼女から受けとった煙草が全て灰になるまで、俺は何故かその場に立ち尽くした。手に握りしめた二箱のラッキーに目を落とし、シドと出会ってから交わした数えきれないほどの他愛のない言葉を思い出しながら。
| 2006年03月29日(水) |
アカイヌクモリ ―――ヒトミ――― |
シドの鼓動が停まった。私の腕の中で……。何も考えることができない。 �牋Δ靴討襪次▲劵肇澂瓠 � シドはほんの数秒前、確かにそう言った。小さくかすれていたけど……あれは紛れもなく彼の声だった。私の頭にはその言葉だけが止むことなく、延々と流れるように響いている。喋ることなんて不可能だった彼が最期の最期で──。それも私なんかに。何ひとつ力になれなかったこの私に……。シドは私を待ち続けてくれた。そう思った途端、涙が止めどなく溢れてきた。そして、彼の乾燥した唇に私はしばらく潤いを与え続けた。もう一度言って。もう一度目を開けて。そう祈りながら──。 溢れ出る涙を拭き、嗚咽を抑えながらお母さんにシドの死を伝えるため、リビングを出た。私の足音を聞きつけたのか、お母さんは、もう帰っちゃうの?と寂しそうな顔をした。お母さんは四年前にここを訪れた時と全く変わらず、むしろ綺麗になっている気がする。この状況で、そんなことを考えるなんて不謹慎かと思うけど……。 私がインターホンを鳴らした時、お母さんは疲労感に溢れた顔をして出てきた。帰って!そう言われるものだと思い下を向いていたら、 「久ぶりね。遅い!って言いたいけど、シドは当然、私もずっと待ってたよ。ありがとう。でももう時間がないの。早く会ってあげて」 そう言ってくれた。けど、嬉しいという気持ち以上に申しわけない気持ちでいっぱいだった。そして──彼は変わり果てていた。四年前とは比べものにならないくらい。みんなから言われ続けていた�犂饑廰瓩箸いΩ斥佞蓮△發Α帖痛召瓩覆い發里世隼廚辰討靴泙辰拭�
「どうかしたの?」 「シドが……たった今息を引きとりました──」 私は声が震えないように喉に力を入れて言った。お母さんは静かに頷くとリビングへ向かった。そして、シドのあらゆる場所の脈をとった。 「主治医のシラギと二人に連絡してくるから、傍にいてあげて……」 「はい……」 お母さんは涙を流すことなく、無理矢理だったけど笑顔を作ると、シドの髪や顔に触れ、お疲れさん、そう告げてリビングを出た。その間、私はもう一度シドを抱きしめキスをした。お母さんが戻ってきたのも気づかぬまま──。 点滴の管を抜くのはシラギ先生がシドの死亡を確認してからということを聞かされ、とりあえず目だけを閉じさせて、私とお母さんは膝を抱えて先生の到着を待った。──言わなければいけない、私はそう思い、シドが言葉を発したことをお母さんに告げた。すると、 「ヒトミちゃん、人間に飼われている動物の最期って聞いたことある?」 と自分の膝一点を見つめたまま訊いてきた。 「動物の最期ですか?いえ、聞いたことないですけど……」 「全部が全部ってわけじゃないのよ。けどね、犬にしろ猫にしろ、その動物が自分の中で主って決めてる人間には最期を看とってほしいって気持ちが強いらしいのね。だからどんなに死にそうでも、限界を超えてても、主に自分の生きている最期の姿を一目見てもらってそれから息を引きとる動物って多いらしいの。別にシドが動物的ってわけじゃないけど、待ってたんだよ、絶対。自分の一番大切な人を。じゃなかったらこんな身体で、愛してる、なんて言えるはずがないよ」 「──すいません」 「やだ、ちょっと謝らないでよー。──でも悔しいよね。毎日毎日看てきたのに何で私に言わないんだろ?この罰当たり!」 お母さんはシドに微笑みながらそう投げつけた。 「実を言うと私、明日後こっちを出ようと思ってたんです」 「旅館のこと?」 「はい……。その直前に来るなんて、最低な女ですよね、本当に……」 「正直、そんなことないよ、なんて言えないけど、シドのことを思うと、自ずと感謝の気持ちが湧いてくるよ。だからそんなに自分を責めないで」 私は何も言えなかった。そして、お互い違う想いでシドを見つめていると、外から車のドアが閉まる音が聞こえた。
「ご臨終です」 シドの死亡確認がされて間もなく、彼の二十年後を見ているようなお父さんと、お母さんによく似たお姉さんがほぼ同時に帰宅してきた。お父さんはシラギ先生に会釈をし、シドを見て体を震わせながらそっと手のひらで涙を拭いた。お姉さんは泣き叫びながらシドに抱きついた。三人に頭を下げたけど気づかれず、何も言えずに立ち尽くしている私をお母さんは三人に紹介してくれた。 「待ってたんだな……」 お父さんはそう言うとシドの頭を強く擦って歯を食い縛った。それを見たお姉さんはまた激しく泣いた。お母さんはただ黙ってそれを見ていた。 「家族だけの時間を作ってあげよう」 シラギ先生はリビングを出る時、私の耳元でそう言った。私は頷いて、四人に連絡をしてきます、とお母さんに告げてから外へ出た。シラギ先生は白髪交じりの頭を撫でて、 「私は一旦、病院へ戻ります……」 と頭を下げて車を走らせた。そして、私が�爛汽賢瓩髪任圭个気譴新搬咾留嫋修鮓�た時、家の中からお父さんでもお姉さんでもない慟哭が聞こえた。
| 2006年03月28日(火) |
アカイヌクモリ ―――�将機檻押宗� |
静かだ……。天気もいい。雲ひとつないという感じだ。今日は昨日と比べ嘘のように耳鳴りがおとなしくしている。そのせいか、北風、木々が揺れ動く音、鳥のさえずり、家の前を通る人の話し声、車の騒音がよく聞こえる。この静粛が続けば続くほど、僕は見えない心地いい力によってどこへともなく吸い込まれていきそうになる。辿りつく先はあの世なのか、それとも──。わからない。 今、家には僕と母親しかいない。親父とカオリは仕事へ、仲間は体と心を休めるために一旦帰宅した。──サジは多分仕事に行ってると思うけど。それと、リョウコからの返事も結局なかった。 突然、背後から母親が無言で抱きしめてきた。その弾みで僕と母親の姿がぼやけながらも正面に置かれている全身鏡に映った。 もう何年も前に、僕はテレビで末期癌を患った一人の老人のドキュメンタリー番組を見たことがあった。その人は六十過ぎの爺さんで、腰の痛みを訴え検査を受けた時には手のつけようがない状態だった。そして、癌宣告から死ぬまでのおよそ三ヶ月間で体重は二十キロ以上も激減した。放射線治療、モルヒネ、あやゆる抗癌剤投与の副作用だ。けど、当時の僕はその爺さんの枝のように細くなりつつある腕や体の衰弱よりも、日を追うごとに削げ痩けていく顔の方が衝撃的だった。骨に薄っぺらい皮が辛うじて貼りついているだけ、というような……。痛みから解放される三日前には、目の周りが深くえぐられたようにくぼみ、紫に変色していた。年をとってこんな風にはなりたくないと恐怖すら感じた。けど今、鏡に映っている自分はどうだ。あの爺さんなんてもんじゃない。正直、自分でも見るに耐えない。体に関しては衰弱しながらもなんとか洋服でカモフラージュしているけど、顔はマスクを被る以外隠しようがない。頬はスプーンで何度もほじられたような痩け方をしていて、頬骨は以前にも増して出っ張っているように見える。血色も悪い。何も知らない人が僕を見たら、間違いなく死体だと思うはずだ。瞼もここ何年かでかなり垂れ下がった。もしかしたら、視界が晴れないのは突然現れた霧のせいだけじゃないかもしれない。 「シド……もし辛いんだったら、もう無理しなくてもいいよ。楽になっていいよ……。私にはわかるんだ。あんたがヒトミちゃんに会わずに死ねないって思ってるのが。でも、もう苦しまないで……」 �狠里辰討燭里�よ……�� 奇跡なんて言葉は、もう何の意味も持たない。悲しそうな母親の表情と言葉からはその気持ちが読みとれた。──すぐにでもあの世に逝くことはできるだろう。ここ三日前くらいからそんな気持ちが僕の心を侵食している。言いすぎかもしれないけど、その気になれば十秒足らずで魂にだってなれる。ヒトミを信じる心を振り払うことさえできれば──。 彼女との�猜未讚瓩箸いΔ發里亘夕�身が何よりも理解している。けど、その気持ちを捨てきれないのだ。身体が苦しくても、楽になりたいという気持ちが強くなっても──。時々、瞼が突然下りてそのまま気を失うことがある──何の前触れもなく。そして、数時間後に必ず何事もなかったかのように目が覚める。執着というものがあるから、どんなに苦しくてもこの世に戻ってきてしまうのだ。彼女の記憶が僕の中から消えていれば、もうとっくに焼かれ骨になっていたかもしれない。そんなギリギリの状態の中を今、僕は生きている。時折、ヒトミという幻覚を見ながら──。 �燹帖帖���
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……部屋がうねるように回っている。天井も、テレビも、テーブルも。揺らいで視点が定まらない。鏡には僕と背中を向けた母親がいる。──また意識が飛んだようだ。そして、また戻って来たんだ。 大きく口を開けて母親が何かを叫んでいる。──耳鳴り。聞こえない。激しく僕の頭を両手で揺らし、頬にビンタを打っている。……狂乱?……殺意? いや、そうではないみたいだ。何かが起きている。それにしても、まるで音のない映画を見ているようだ。母親は激しくジェスチャーをしては僕の頭を揺らし、顔を叩く。 �牴燭世茵帖帖��� 顔をギリギリまで寄せてきた。そしてビンタを一発──。耳鳴りは両耳から抜けていった。 「──いい!?この時間だけは何があっても絶対に目を閉じちゃだめだよ!それと……絶対に死ぬんじゃないよ!後悔だけはしないで──約束……。やっと思いが通じたね。ずっと信じてたんでしょ?本当によかった──」 母親は僕の額にそっとキスをした。そして、ありがとう、と小さく言ってリビングを出た。 �爐△蠅�とう�瓠△修琉嫐�が僕にはわからない。けど、あの時のように気持ちをめかし込む気にもならない。僕の身体はそれほど年をとった。何も望めない身体だ。それでも、これは紛れもない現実。視界も暗い、耳鳴りも遠くの方から戻ってきた、苦しさも増している。けど、この緊張感は何だろう?心臓どころか全身が張り裂けそうだ。もう一度だけ、その言葉をどんなに繰り返してきたかわからない。地球上が静まり返っているような静けさの中、リビングのドアが開いた。背後から彼女の視線を微かに感じる。──それと、不思議なことに自分の唇の震えも感じる。僕は──シドの身体はこの瞬間に全てを注いでいるようだ。 「シド……!」 開いたままのドアの前で震える彼女の──ヒトミの僕を呼ぶ声。寝息のように小さな声だ。早く顔を見たい、もっと声を聞きたい、あの時のように抱きしめてほしい、そしてもう一度──。そんな自分の焦り、欲張りように気づいた時、背後から肩を包み込むように抱きしめられた。白くて小さな手が鏡には映し出されている。これが……僕が待ち続けていたぬくもり……。彼女にしかできない、僕にしか感じることのできない内側のぬくもり。 「ごめんなさい……!」 僕は何も答えることができない。今リビングで僕を抱きしめているのがヒトミだという実感がないのだ。四年というぽっかりと空いた長い時間がそうさせているのだろう。 彼女が僕の肩に回していた腕を放し、正面で屈みやっと目と目があった。大人っぽくなりつつも、四年前と全く変わることのない大きな目。今にも引き込まれそうになるのは当時のままだ。整った鼻も、弧を描く口も、艶のある髪も、その全てが僕の知っているヒトミだ。軽く塗られた化粧が美しさをより際立たせている。彼女は衰弱した僕から目を逸らすことなくしっかりと見つめている。僕も見られることの恥らいを捨てて彼女を見つめる。そして、痩けた頬に手を伸ばしヒトミは言った。 「会いたかった……」 僕の頭には瞬時に熱いものが溢れ出てきた。 �爐犬磴△匹Δ靴董帖帖��� 彼女はそのまま黙って着ていた黒のダッフルコートを脱いだ。細い首には十字架にかけられたキリストのネックレスが胸の辺りで揺れている。 ヒトミは僕の手を握りそのまま床へ座ると、静かに目を閉じた。四年という空白を今必死に思い返し埋め込んでいるのかもしれない。だから僕もできる限り気持ちを落ちつかせて掘り起こそうとした。けど甦ってくるのは、彼女ともう一度会えることを信じ待ち続けて生きてきたこと、それだけだった。彼女との空白の時間。それは僕にとってただ待つだけで何の動きもないものだった。 「私──」 ヒトミが空白の四年間を埋めようと決心したのか、 �犹筬� そう声を発した瞬間だった。軽い耳鳴りのせいで彼女の声がまるでこだました山びこのように軽く、深い海の中で��Dear�瓩�ら始まる手紙を読んでいるかのように、それは透明感のある声に聞こえた。
�犹筺帖津焼�してきて教室入ってシドを初めて見た瞬間、後ろから背中を思いっきり押されたみたいに倒れそうになったの。シドは頬杖をついて全然私なんか見てなかったけど……。奇抜な子って印象だった。今まで見たことないっていう──。どんどん惹かれていった。気づいた時には勝手にシドの体に手が触れてたり、隣にいたり。本当は気づいてたんでしょ?私の気持ち……。でもシドにはユリナさんがいて。辛かった──。ちゃんとつき合ってるんならしょうがないって、多少の諦めみたいなものは持つことができたと思うの。今、あの時の自分をね、目を閉じて思い浮かべると、嫉妬の中で生きてた気がする。だから告白された時はすごく嬉しかった。知ってる?私、図書室から教室戻って、授業中、ずっと嬉しくて泣いてたんだよ。嗚咽も何もなかったけど、涙が止まらなかった。それでそのこと帰り道に話そうと思ってたら、みんなとさっさと帰っちゃって。二人の記念日だよ。もーリョウコに、どういう神経してるんだろうって、ちょっと当たっちゃったよ。でもね、そういうことで怒れるのって幸せだと思った。だってシドが彼になってくれなかったらそんな感情も持てなかったもの……。正直ね、私、すごく肉体(からだ)のこととかの考えが固くて古臭いんだけど……シドだけには抱かれたいと思ってた。学校でも、休みの日のデートでも、顔にはがんばって出さないようにしてたけど、体は湯気が出るくらい熱くなってた。不思議だね、十三、四でもあんな風になるなんて。シドにはハグとかキスよりももっと求めてほしかった。すごく大切にしてくれて愛されてるって実感してたけど、一線を越えたかったんだよ……。私はシドじゃなきゃだめ。だからまだ誰にも許してないの。肉体はもちろん、あの日以来唇も。この四年間で私のことを好きになってくれた人もいたんだ。追いかけたいと思った人もいた。でも……だめだった。シドの顔が浮かんだ瞬間、そんなことを思ってる自分が嫌になった。──シド、四年前にここへ来た時、私が言ったこと、まだ覚えてる?また来るから──ってそういったこと。今、何を言っても信じてもらえないかもしれないけど、あの言葉は決してその場しのぎで言ったんじゃないよ。本当に一緒にいたいって、力になりたいって、そういう気持ちだった。自分はシドの傍にいなくちゃいけない。シドと一緒に戦わなくちゃいけない。けどもうひとつね、もし私がずっと傍にいたとしてもシドの身体が元通りにならなかったら──。自分の人生を犠牲にしてシドの傍にいるべきなのかって。彼女なら当然かもしれないけど、私は悩んだ。ずーっと考えてた。中途半端な気持ちでシドに接していたらそのうち、愛情っていうものが消えて、情でしか見れなくなるんじゃないかって……。でも会いたい気持ちは変わらなかった。シドがどんなに衰弱しても、たとえ体が腐乱したとしても。会いたくて会いたくて、おかしくなりそうになって気づいたら家の前に来てたことは何度もあった。でも最後の一歩がどうしても踏み出せなかったの。愛情でシドを見れなくなるかもしれない自分が恐かった。みんなはそんな私に優しくしてくれたけど、薄情な女って、どこかでそう思ってたよ、きっと……。リョウコだってそういう目で見てたと思う。──シドの余命を聞かされた時、ショックだったけど、決めたの。自分の中で何の偽り、情もなく純粋にシドを愛してるって誓うことができたら会いに行こうって。──それが今日だなんて……。胸張って、自信を持つのに四年もかかるなんて──。バカでしょ?私。愛とか情とか、自分でややこしくして苦しんで。失礼だよね。シドの四年を、二人の四年を私がめちゃくちゃにした。──シドの隣で共に生きる人生をとるか、自分の夢をとるか、それが私の選択肢だった。そして、結果的に私はシドを捨てて自分の夢をとった。正直、自分を犠牲にしてまでシドの傍にいることは、私にはできない……。私には私の人生があるから。シドのことは誰よりも愛してる。それは今でも変わらない。でも、愛より大切なのは現実だと、私は思うの。これから旅館を継ぐために前に住んでた所に戻って、そこで一から勉強しながら生きてくつもり……。こっちにはもう二度と戻ってこないかもしれない。出発は──明後日の早朝。もう会えなくなっちゃうけど、これだけは言っておきたいの。中学生の恋愛なんて儚いっていわれるけど、私はそんな風には思わなかったし、思えなかった。それは一緒にいるだけで運命的なものを感じることができたから。シドにはいろんなことを教わった。シドに会わなければ知ることができなかったこともいっぱいあった。間違いなくこれからシド以上、男の人を好きになることはない。これは誓える。たとえこれから先、大切な人ができてもね。──あなたに会えてよかった。さよならは言わない。だって、シドはいつでも私の傍にいてくれるし、目を閉じてもずっと抱きしめてくれるから。学蘭着て煙草をくわえたシドが笑ってくれるから──��
ヒトミは絞り出すように泣きながら僕を抱きしめた。彼女のぬくもりが僕の鼓動を静かに溶かしていく。苦しくはない。ただ、気が抜けていくのがわかる。まるで身体の細胞ひとつひとつが天に昇っていくかのように──。鏡に映る姿はもう見えない。見えるのは一面を覆い尽くす真っ黒な霧だけ。 �爛劵肇漾△海梁圓疎海韻浸�間が無駄だとは思わないし、お前がむちゃくちゃにしたとも思っていない。それは今、お前のぬくもりが実感させてくれている。俺は誓ったんだ……。ヒトミを信じる、必ず来るからこの椅子の上で待ち続けるって。それと、ヒトミに全てを捧げるって──�� あの頃と変わらない彼女の髪に染み込んだ甘いシャンプーの香りが、利かないはずの僕の鼻をくすぐる。今、僕の頭の中ではセーラー服姿のヒトミが右手を伸ばして離れ離れになっていた左手を待っている。僕は駆け足でその手をとった。 �猯∪擇蕕譴燭辰討いΦせ�ちで、本気で忘れようと思った時もあった。お前を恨んだことも。でも、もういい。今こうして会えたことでお前の気持ちを知ることができた。後悔はしていない。四年間も俺のことを考えててくれたんだからな。──だからお前も悔やむな。俺はヒトミの全てを受け入れるから��
愛してるぜ、ヒトミ
彼女の頭が微かに揺れた。そして、今まで以上に僕をきつく抱きしめた。心の中で燻り続けていた言葉をやっと今、彼女の前で彼女自身に伝えることができた。もうこれで、本当の意味で何の悔いもない。 ──来るべき時がきた。
何躊躇してんだよ……。さっさと連れていけ。
| 2006年03月27日(月) |
アカイヌクモリ ―――�将機檻院宗� |
日に日に視界が暗くなりつつある。体も鉛のように重い。そう感じるのは当然感覚が戻ったわけではない。けどわかるのだ。脳が、呼吸が、細胞が──僕の身体の全てが苦しがっている。多分、婆ちゃんの所へ行ったことが悪影響を及ぼし、残り少ない体力をほとんど吸い尽くしていった。舗装の整わない道で長時間揺れ動く車、日常とは大きく異なる生活リズム……。 親父は急激に衰弱した僕を見て、自らが祖父母に会わせようと言い出したことを目頭を押さえて悔やんだ。 「やっぱり安静にしとけばよかったんだ。ただ車に乗って遠出するだけでも、こいつには相当な負担がかかることを何で俺はもっと考えてやれなかったんだ……!」 「お父さんだけの責任じゃないって……」 「そうだよ。私があの夜、絶対に嫌だって言ってればこういう状況にもならなかったかもしれないんだから。自分だけのせいだと思わないで」 母親とカオリの言葉に親父は大きく首を振り、受け入れようとしなかった。 これから親父は僕を絶対安静にさせ、家から一歩も出さなくする気だ。そうなればもう、外の空気を吸うことも、風に当たることもなくなる。誰の言うことも聞き入れまい。家族四人で婆ちゃんの所へ行くこともほぼ不可能に近いだろう。けど、この状況だからこそ今、一筋縄の親父にはもっと考えてほしい。僕に数えきれないほどの影響、考えを植え込ませた親父なら僕、母親、カオリが頷くようなことを閃かせることができるはずだ。親父一人じゃだめなら家族で。それでもだめなら、あの時みたいに四人を呼んで──。 �狄読磧�俺はそろそろ死ぬぜ。だから今すぐにでも行こう、家族全員で──。婆ちゃんは信じて待ってんだ。死んでからじゃどうにもならねえだろ?だからその前に──�� 言葉を心の中で発することさえ辛くなっている。親父とカオリはこの状況に飲まれて頭のキレが悪くなっている。そんな二人の目を覚ますかのように、母親は厳しい顔をして受話器をとり上げた。
「親として、シドくんのためを思ってしたことならば、その気持ちはきっとこの子に伝わっているはずです。──ですが、医者としてはもちろん人としても……シドくんの身体に大きな負担をかけ、少ない中での寿命を更に縮めた──ということは、あなたたちお二人の選択は誤っていたというしかありません。この衰弱はもう限界を超えています。呼吸も明らかに整っていない。三十分後、一時間後、十二時間後──二四時間後……いつ最悪な結末がくるかはわかりません。──シドくん、私の……力のなさをどうか許してほしい。──君自身、この五年余りの時間、十分に生きたかい?悔いはないかい?」 シラギは屈みこんで僕の肩に手を置いた。その後ろでは、選択を誤ったと非難された二人とその娘、駆けつけた四人が心配そうな目を向けている。 �牴�いがないはずがない。ただ……苦しいんです。あんたの顔もよく見えない。こんなに苦しいんだったら、思い残していることがあっても早く楽になりたい。けど、どうしてもヒトミに会わずに逝くことはできないんです……!�� ──母親とサジが何か話している。耳鳴りのせいで二人の会話が途ぎれる。 「────ちゃんは?」 「最近──んま連絡と──な──よ」 「私、シドのことを────ま──ったんだけど、それ──ないから、自宅に──んだけど、誰も────の」 「携帯────繋が────多分、前に────に──」 「────こと?」 耳鳴りがやんだ。 「──あいつは卒業したら家を継ぐんです。──ここから出て行くんです。もしかしたら今、下見っていうか、そういうので向こうに行ってると思います。シドにはどうしても言えませんでした。すいません……」 サジの気遣い、どうでもいい。ヒトミは僕を捨てた。別れの時がきた──。 「……ガセ?」 「まさか……こんな時に。リョウコには言ってたらしくて。俺はシンジから」 「シンちゃん──」 シンジは涙で濡れた顔を母親に向けた。 「ヒトミちゃんはいつこっちを出るの?」 「いや……正確な日はちょっとわからないですけど、そろそろだと……。リョウコと連絡とりましょうか?すぐに返事ってわけにはいかないですけど」 「お願い」 シンジは携帯電話で早々とメールを打ちリョウコへ送った。 「とりあえず返事を待ちましょう」 「ありがとう。シンちゃん、それにリョーキくんも引越しの準備は平気なの?」 「入学まであと一ヶ月もあるし、引越しなんていつでもできるから。ギリギリまでこっちにいますよ……」 リョーキが静かにそう言うと、シンジも、僕も同じです、と頷いた。 そうだ、すっかり忘れていた。この春からシンジとリョーキは地方の大学へ行くんだった。 �爐�前らともお別れか……��
仲間とシラギが集まってしばらく経った頃から、ヒロトとシラギが頻りに何かを話し込んでいる。互いに頷いたり、頭を傾げたり、額を叩きながら悩むような仕草をして──。ヒロトはきっと法律では認められていない『安楽死』にさせるか、不可能に近いけど、ヒトミと連絡がとれるまで延命させようと、シラギに自分の考えを伝えているのではないか?多分チビは今、僕の心と身体を天秤にかけている。シラギはドクターとして間違いなく一日でも一時間でも長く生きさせようとすることだろう。けどヒロトは僕の心も身体も誰より知ろうとしていたし、事実知っていた。──もし、話の内容がそうならば、きっと答えは出せないだろう。少なくとも、僕が生きているうちは。
今、三袋目の点滴が僕の体内に流し込まれた。何かありましたらすぐに連絡を、と言い残しシラギは夕方病院に戻ったけど、仲間は夜になっても帰ることなく僕の傍にい続けている。シンジの携帯電話にリョウコからの返事はまだない。 ふと、サジが懐かしい独特な歩き方で僕に歩み寄ってきた。──けど、立ち止まったまま何も言い出さない。 �爐匹Δ�したか……?�� 「──お前、本当に死ぬのかよ?」 �爐蕕靴い福F�時は未定だけど�� サジはしばらく黙って僕を見ていた。中学の頃を思い出しているのか、時々髪を掻き上げては天井に顔を向けている。 「……俺は、ずっと思ってた。お前は中一の時、シノブさんに家族の話を聞かされてから本当の自分を探し当てたって。ある意味あの年にシドって人間は生まれたんだと思う。たかが中一っていうガキのうちにそれができたお前を俺は誇りに思うし、仮にこれから骨になったとしても、バカみてえにみじけえけど、それ以上に価値ある人生だったろうって……。わりぃ、言葉が続かねえ……」 サジはそう告げると仲間の所へは戻らず、煙草をくわえて外へ出た。春の訪れを徐々に感じさせる三月の空の下へ──。 サジの言葉は僕の抱き続けていたことでもあった。シドという本来の姿を生み出したのは、確実にあの土曜の夜だ。家族それぞれの傷を知って何かが音を立てて弾けた。そして、親父が去って一人リビングにとり残されながら、きっと無意識のうちに、何かを変えたい、自分を知りたい、殻を脱ぎたい、そんな気持ちに駆り立てられたのだろう。──人生が変わってしまったことに悔いはない。むしろ今更って感じだ。けど、根本的に人生を変えたあの日が僕の本当の誕生日だと思いたい。名医シラギの計算に狂いがなければ、�犁�年五歳�瓠�サジも思うように、哀れましいほど短い生涯だけど、本来の姿で生きることができた。だから、命に期限がつけられたことに悔いはない。それは、一〇〇年、一二〇年、どんなに長く生きたとしても、誰もが本当の自分自身を探すことができるとは限らないのだから。
どうしてだろう?
婆ちゃんと別れすぐ眠りに落ちて、目が覚めた帰宅直後から視界全体に薄くやや暗めの霧がかかっている。それに、超音波のような延々と続く耳鳴り。体の内側からドロドロのヘドロが外へ浸り出てくるような気分の悪さ。こんな症状は今までにない。
──今、改めて感じる。腹の底から笑っちゃうくらい。 俺は生き延びることはできない。死は確実に加速を増して近づいている。 恐いなんて感じない。 恐いもんか。
ただ……頼むから早く来てくれ。 もう、時間がない。
| 2006年03月25日(土) |
アカイヌクモリ ―――�勝檻機宗� |
シワいっぱいの婆ちゃんの顔が困惑している。ぼちぼち行ってみようか?と言った母親の言葉のせいだ。帰っとくれ!そう怒鳴られてから早三時間が母親の携帯電話の液晶では経とうとしている。 「もう行っちゃうのかい?でも、帰るまでの時間を考えたら仕方ないねぇ。私の体に自由が利くうちにまた来てもらえるかい?」 婆ちゃんは今にも泣きそうな声で母親の手をとった。 「ええ、必ず来ます。今度は四人で」 「よかった──。その日を楽しみにしてるよ」 「今日は……本当に来てよかったです。──会えてよかった」 母親は力ない婆ちゃんの肩を静かに抱いた。これで──もう婆ちゃんに会うことはないだろう。母親は、明日にでも、というような勢いだけど、親父がすんなり、お袋に会いたい、と言えばあと一回は望みがあるだろう。けど、やっぱ俺……恐い、なんて気色悪い柄違いのことを言って渋った時には、僕は瞬く間にあの世逝きだ。とりあえず今はこう言っておこう。 �倏未舛磴鵑泙燭福�元気で。……さよなら�� 車が走り出すと、サイドミラーには寂しそうに手を振る婆ちゃんが暗さも手伝って、一気に静粛した夜に飲み込まれていった。ひとつの大きなイベントだったにしても、終わってしまえばこんなもの。心で切なさを紛らわすためにそうぼやいていながらも、どうにも解消できない。家を出て八時間、会って過ごした時間はたった三時間だったけど、こんなに切ないものなら会わない方がよかったかもしれない。 「はぁぁ〜。もう初めはどうなることかと思ったけど、あっという間だったね。でもよかった、ちゃんと話のできる人で。親に会いに行けって言われた時は、本気でそんなこと言ってんのかよババアって言いそうになったけど……。冗談です。その状況を誰よりもわかってる人だから、言われて当然だったよ。シドは、どうだった?」 母親の口の悪さはかなりの問題があるけど、いつでも僕を落ちつかせてくれる。 �犧�、この年だからよかった。もしガキの頃に会ってたら、あのトゲみてえな目がトラウマになってたかもな�� 「ちなみに私は、ちょっと人相悪いけど可愛いお婆ちゃんだと思った。──それより、これからまた何時間もかけて帰るんだね。夜だからもっとかかるかも。まあ、のんびり帰りましょうよ」 �爐修Δ靴泙靴腓Ν� 行きも帰りもベックかよ!母親とカーステレオに僕は嫌悪感を抱き始めていた。そして、迷いに迷ってやっとのことで探し当てた供養塔つきのトンネルを勢いよく通り抜けた直後、疲労からか、僕の思考回路は何の前触れもなしに真っ暗な夜空へ消えた。 夢を見ていた。何の夢かはわからない。ただ、分離した場面のポイントだけは薄らと憶えている。固体の塩素が沈んでいるペイントの剥げたプール、そのプールに飛び込み奇声と大きな水しぶきを上げる数人の若者、夜空には満天の星が輝いていた。──この夢は現実にあったことだ。いつ?僕は記憶を遡る。プール……奇声……学生時代……星の輝く夜──ついた。中学二年のゴールデンウィーク、『こどもの日』。その日は初夏の陽気でTシャツ一枚でも汗を掻くほど暑かった。ということで、僕ら五人は記念すべき日を学校のプールで祝った。そこには全てがあった。笑顔、五人が大声で笑えるネタ、酒、煙草、心地いい風、星……。ずぶ濡れになった五人は何故かその日、ジメジメしたカビ臭い女子更衣室で眠りに落ちた。 「おっ、目が覚めたみたいね」 水面に浮かんで見上げた星空と、フロントガラスから見える星空が重なった。眩しい……。横から眩い光が入ってくる。 「そろそろ市街地に入るよ。こんな時間でも結構いろんな店が開いてんのね。あっ、ちなみに今、午前二時半過ぎ。休みとらないできちゃった。あんたはよく寝てたけど。点滴もオムツも替えておいたから、大丈夫よ」 �爐修蠅磴匹Δ皚� 見慣れた風景が目に映った瞬間、たとえようのない安心感でマンホールに落ちるように一気に気が抜けた。家を出る時、リゾート気分だとリラックスしていたけど、心のどこかで祖父母に(爺ちゃんはいなかったけど)会うということと、久々に遠出することで緊張していたのだろう。 �爐弔い伸� 「お疲れさーん!つきましたぜ。さっ、布団敷いてさっさと寝るぞ。──あれ、リビングの電気がついてる。起きててくれてんのかな?」 母親は真夜中ということもあって、僕を降ろすと静かにドアを閉めてこそこそと玄関へ向かった。 「ただいまー」 「おう、やっと帰ってきたか。遅かったなー」 親父は風呂上りのようで、パジャマ姿にバスタオルを頭にかけている。 「もーすごい遠かったー」 「だろうな。で、会えたのか」 「うん、会えたことは会えたんだけど、ちょっと疲れすぎて今はもうだめ……。話す気力もない。悪いけどシドを寝かせる準備、全部してくれないかな?」 「ああ、わかった。風呂は?」 「起きたら入る。カオリは?」 「ちょっと前に寝た。俺とカオリも結局行ってきたんだ、お前の実家。とりあえず起きて落ちついたら話そう。──ご苦労さん。おやすみ」 「うん。──シノブ、待っててくれてありがとう」 僕がベッドに横になったのは四時近かった。帰りの車中ではほとんど寝ていたから、そうは眠ることはできないだろう、と思っていたけど、相当な疲労があったらしい。婆ちゃんの姿を思い浮かべているうちにいつの間にか睡魔に手を引かれ、逆さになった真っ暗な夜空に吸い込まれていった。
母親の起床は午後十六時過ぎ。こんなに寝たのは久ぶりだー、と上機嫌に大きなあくびをしてリビングへ現われた。昨日の疲れは完全に抜けたようだ。 風呂に入り、軽食をとり、残っていた家事を済ませて、ようやく話ができる状態になったのは十九時を回ってからだった。とりあえず母親は、インターホンを押してから婆ちゃんと別れたまでの経緯を事細かに親父に話した。
「親父……」 爺ちゃんが死んでいたという現実にうなだれている親父に、母親は慰めるように優しく言葉をかけた。 「今シノブが落ち込んでいろんなことを考え込んでる前にしなくちゃいけないこと。それはあの家に行ってお母さんとちゃんと会って、話して、お父さんの眠っているお墓に私たち三人を連れて花を供えることだと思うよ。もう時間は戻せないけど、溝を埋めるにはそれしか残ってないって。お母さんもそれを望んでるから。シノブが帰ってくるのを首長くして待ってるよ。ずっとそうやってくれてるんだから、早く行ってあげないと──」 親父は僕をじっと見つめて、そうだな、と吐息のように小さく言った。 「そういうことなら、早く行かなきゃだね、私も行きたい。緑がある所大好きだし。お婆ちゃんにも会いたいし」 カオリが親父の沈んだ心を引き揚げるように微笑んだ。 「何もねえぞ」 「ほんっとに何もないの。酷いよー、私初め樹海かと思ったもん!」 「ちょっと言いすぎじゃねえか……」 さすがにショックだったらしい。親父はまたうなだれた。 「嘘だよ、嘘!へこむんだったらその前に、私の実家、行ってきたんでしょ?その話してよ」 親父とカオリの顔が一瞬硬直した。僕も母親もそれを見逃さなかった。そして、二人を交互に見ながら母親は言葉をじっと待っている。 「マユミ……」 親父は母親のプレッシャーに十秒も耐えられなかった。 「行ったことは行ったんだけど……実はな、お前の親父──」 躊躇した親父に母親は促すこともせず、黙って次の言葉を待っている。その目は鋭い。 「……」 親父は口を開いたまま言葉を発することができない。 「シノブ、早く言ってよ。大丈夫、大体の予測はついてるし、覚悟もできてるから」 母親は口元が落ちつかないのか、煙草を吸う代わりに指で下唇を弄んでいる。 「お前が家を出て二年後に死んだらしい。丁度カオリが生まれた年だ。相当な酒飲みだったみたいだな。大分肝臓がやられてたらしい」 「そう……」 母親の指の動きが止まった。 「それとな、家にも誰も住んでなかったから傷んでたらしくて、とり壊されてた。今はただの空地になってる。一応、近所の人でお前のこと知ってた人がいたから、その人から聞いてカオリと墓参りはしておいた……」 「ありがとう。私も近々お墓に行ってみる。家の址も見たいし──」 母親はひとつ溜息を吐き、天井を見上げながら続けた。 「ねえ、今日悪いけど、私リビングでシドと二人だけで寝たい。今まで父親のこと、思い出したくもなかったけど、今日は昔のことを思い出したい気分なの……」 「なら俺がリビングで寝るから、寝室使えよ」 「ううん、いいの。一日で一番長くいる部屋でいろんなこと、思い出したいの。よくわかんないけど、わかって……」 この夜、母親は真っ暗なリビングでウイスキーを片手に叫ぶように泣き続けた。光がないために表情を窺うことはできなかったけど、僕の頭にはあの余命宣告を受けた時の顔が浮かんだ。──思い出したくもないほど気嫌いしていても、それがトラウマになってしまったとしても、実の親を亡くすということは、どんなに恨んでいても悲しみのどん底に突き落とされるということが母親の止めどなく溢れていたであろう、涙が物語っていた。それと、深く刻まれてしまった過去の心の痛みを一生解消することができなくなった切なさも──。そして、激しい嗚咽と時折抱きしめられるせいか、僕はなかなか眠りにつくことができなかった。
| 2006年03月24日(金) |
アカイヌクモリ ―――�勝檻粥宗� |
母親はゆっくりと時間をかけて偽りなく、婆ちゃんに全てを話した。家を出た後の親父のこと、自分のこと、親父と出会った時のこと、カオリのこと、僕のこと、あの事件から今に至るまでのこと……。 婆ちゃんは胸の辺りからセーターを引っ張り声を漏らさずに涙を拭いていた。その姿を見て母親は何も言わずにコートのポケットに入っていたハンカチを婆ちゃん──義母親にそっと手渡した。婆ちゃんは頷きながらそれを受けとると重々し気に口を開いた。 「あの子が……社会に出て、こんな綺麗な人を嫁にもらって、子宝を授かるなんて──。あの頃は想像もできなかった。何しろ手がつけられない悪たれで、私も主人も何不自由なく育ててきたつもりだったのに……。本音を言っちゃうとね、出てった時は気持ちが楽になったんだよ。そのうち帰ってくるだろうって、あのバカのことだからそうは行く場もないだろうって思いながらねぇ。でも、あの子はいつになっても帰ってこなかった。心配はしたけど、多少の恨みもあって、ああいうバカは苦労を知った方がいいと思ってさがそうともしなかった。そんな気でいて、気づいたら何年も経っててねえ、その時にはもうどっかで生きてればいいって、そうにしか思えなくなってたよ。寂しいことだけどねぇ。──いいかい、シノブがどんなに悪たれだったとしても、あの子のことは一日でも忘れたことはないよ。それだけはわかってちょうだいな。どんな親でも子供を心から恨む親はいない。あんた、マユミさんて言ったっけねぇ?」 「──はい」 「私の娘になるんだねぇ……。それじゃあ、母親としてひとつ言わせてもらうよ。──親に会いに行きなさい。それで私にちゃんと話したみたいに親にもそうしなさい。きっとあんたのことを待ってるよ。──ここに来たのはこの子のためだったんだろぅ?この子があんたたち親子の関係を必ず修復してくれるよ。この子だってそれを望んでるよ」 �爐匹Δ�な……�� 「……でも、私は……やっぱり恐いんです」 母親は駄々を捏ねるガキのように俯いた。そんな母親の手を婆ちゃんは力強く握った。 「大丈夫よ。あんたにはシノブがついてるんだから。それに、産まれて間もない娘をあの子と会うまで一人で育ててきたんだろぅ?辛かったろうに……。あんたは強い女だよ。だから大丈夫」 「お義母さん……。ありがとう」 「それより、カオリっていう娘さんの顔も見たかったよ。あんた似かい?この子は私が最後に見た当時のシノブにそっくりだけど……」 「ええ、娘とはよく似てるって言われます」 「じゃあ、豪くベッピンさんだねえ。今度連れて来ておくれよ」 「シノブも一緒に──ですか?」 「もちろん。あの子が帰りたいって言うならねぇ。私は構わないよ。この手で力いっぱい抱きしめるようなまねは一〇〇万積まれてもしないけど……」 「ヘヘッ、シノブと同じこと言ってますよ。あいつも、向こうが会いたいって言ったらって」 「あの子は元気かい?」 「元気すぎるくらい元気です」 「あのガキも、もう今年で三九になるんだねぇ」 「──あのぉ、気になってたんですけど、旦那さんは家にいらっしゃらないんですか?」 「ああ、ごめんなさい。言い忘れてたっけ?主人はねぇ、六年前に死んだんですよ」 会話が弾んできた時に突然の訃報。気分が一気に沈んだ。母親もどうすればいいか、戸惑いながら言葉を選んでいる。そんな母親に婆ちゃんは笑顔を見せながら淡々と言った。 「心筋梗塞だった。苦しまずに逝ったから……それだけでも幸せだったんじゃないかなと、私は思うんだけどねぇ。今日は無理だけど、シノブと娘さんと四人で来る時は墓参りでもしていってちょうだいな」 「はい、必ず。失礼ですけど、おいくつだったんですか?」 「えー、六五だったかねぇ。短いっていったら短いかもしれないけど、あの人は懸命に生きてたから……。あっ、ごめんねシドくん。放っておいたわけじゃないんだよ」 �倏未気鵝�俺は置物じゃねえぞ�� 「何か話しかけてあげてください。返事も反応もないけど、聞こえてますから」 母親は僕を婆ちゃんに近づけた。婆ちゃんは哀れんだように凝視している。そして、トゲに触れるように僕の髪を触った。 「──髪はいつもこうにしてるのかい?」 「はい。髪を逆立てるのがこの子のスタイルなんで。それはシドがこうなってから家族が受け継いでずっと続けています」 「そう……。障害者なんて呼び方したらこの子に怒られるかもしれないけど、ずいぶん強い目をしてる子だねぇ。──シドくん、精いっぱい生きなさい。そして、いろんなものを信じて。こんな細々しい体だけど、あなたには心があるんだから」 婆ちゃんは僕の頬に手を添えてそう言った。いろんなもの──。言葉通りいろんな意味が込められているのだろうけど今の僕には、仲間、家族の幸せ、奇跡、ヒトミ……。そのくらいしか思い浮かばない。あっ、あと、親不孝者のシノブ・マユミとその親の修復──十分か……? �燹帖弔修譴砲靴討癲△匹Δ靴銅�分以上に人の幸せをこんなに望むようになってしまったのだろう。身体以上に最近は、心までも軟弱になっていきやがる�� 「……お儀母さん、もし迷惑じゃなければ、お線香を上げさせて頂きたいのですが。よろしいですか?」 母親は体を前屈みにして遠慮がちにいった。婆ちゃんは力なく手を、パンッと叩き微笑んだ。 「そうだねぇ、せっかく遠くから来てくれたんだし。きっと主人も喜ぶよ。こんな綺麗なお嫁さんに拝まれるんだから。──仏壇はすぐそこの部屋にあるから行っておいで。この子は私が見てるから」 婆ちゃんは階段の隣のふすまを指さしてそう言った。 「じゃあ、ちょっとお邪魔しますね。──行ってくる。待っててね」 仏壇の部屋に母親が消えてから、婆ちゃんは僕の手を握りずっとニコニコしている。目つきが悪いせいか、ちょっと薄気味悪くもある。不意に、金剛力士像と並んでいても違和感がないかもしれない、と考えてしまった。ちょっと失礼だろうか……。 「本当にシノブとよく似てる。まるであの子がここにいるみたいだよ。……想像もつかないねぇ、あの子がどんな大人でどんな親なのか」 �爛�キの殻から抜けきれない大人だけど、味のある男だよ�� 「──同じ思いをさせたくない。あの子は十七でこの家を出てって、帰ることも連絡をよこすこともなかった。それは、私の中では死んだも同然だった。けどあの子は私の知らないところで嫁をもらい親になった。……その子供は十八にして命の時間が迫っている。これじゃあ繰り返しだよ。──あんたシノブのために生きてあげてよ!あの子に私以上の辛い思いをさせたくないんだよ!だから……。ごめんねぇ、私がこんな騒ぎをしても何も変わりゃしない──」 婆ちゃんはまた泣いた。そして、階段の陰には動かない母親がいた。
| 2006年03月23日(木) |
アカイヌクモリ ―――�勝檻魁宗� |
ゴツゴツの地面を踏みつける母親の足音が鳴るごとに、正面に建つ親父の実家が大きくなっていく。遠見の時とこれといって特に変化はないにせよ、この家の中に自分の祖父母がいる、そう思うだけで心臓を鷲掴みにされているようだ。だだっ広い平地にそのまま、ドスッと建てられているこの家に、庭というものは存在しない。いや、玄関を出れば一面庭という言い方もできる。車はなく、古びたオンボロ自転車が二台、無造作に横たわっている。そして、結晶模様のようなガラスでできたスライド式の玄関には、意外なことにインターホンが備えつけられている。周囲の藁の家に似た民家と比べたら、この家は豪邸といってもいいだろう。 「それじゃ……押そうか」 母親が僕の前へ一歩出た。そして、よしっ、と腹を決めるとインターホンに向けて人さし指を立てた。 「ピーンポーン────って言ったら押すんだよ」 �爐弔泙鵑佑┐茵∩瓩�しろ�� 「真面目にね、真面目に……」 ────ピーンポーン。 もう後戻りはできない。母親は直立したまま全く動かない。ただ、握りしめた拳だけが微かに震えている。 三十秒以上経っても中から物音ひとつ聞こえてこない。出かけているのか?それとも──。 「ごめんくださーい!」 母親は玄関に鍵がかかっていないことを確認すると、大きな声で呼びかけた。すると、 「はいはい……。何でしょうか?大きな声で」 右手の階段から軋む音と共に掠れ声の女がゆっくりと下りてきた。この老人が親父の母親、つまり僕の婆ちゃんなのだろうか?容姿は初老という感じで、網目の粗いセーターにモンペのような紺のズボン。背は低くて体の均等が悪く、白髪交じりで下顎には大きなほくろがある。探るだけ探って唯一親父に似てるといえば、眼光が強い所だ。あとはひとつもない。ということは僕にも似ていない。 「あの……突然で申しわけないのですが、シノブさんのお母様でしょうか?」 機械オペレーターが喋っているように母親の喋りは不自然にハキハキしていた。 「……えっ?──は、はい。え、な、何なんですか?あの子がどうか──。それより、あ、あなたは一体……?」 不審者を見ているような目から、シノブという名前を聞いて顔色ががらっと変わった。今にも目玉が飛び出てきそうだ。後退るような体勢になった婆ちゃんは、ただ口と目を大きく開けているだけでしばらく止まっていた。 「挨拶が遅くなりすぎたことを心からお詫びしたい限りです。──はじめまして、私はシノブの妻のマユミと申します。そしてこの子は彼との間にできたシドです、十八になります。五年前、ある事件に巻き込まれ、全身麻痺という身体になってしまいました」 母親が一度言葉をきった途端、婆ちゃんは目を泳がせ駆け出すように靴も履かないまま母親を力いっぱい両手で玄関から押し出した。そして、怒鳴るように言った。 「帰っとくれ──!あの子は……シノブはもう私の中にはいないんだから──!」 親父は死んだものとされていた。考えれば考えるほど悲しい。けど、母親はそんな感情に浸ろうとするどころか、婆ちゃんに負けじと玄関が閉まらぬよう片足を伸ばして言った。 「ものすごい時間をかけて来たんです!勝手かもしれませんがこのままじゃ帰れません!私のことはどうでもいいんです。ただこの子を──あなたの孫になるこの子のことをもっと見てあげてください!この子には──シドには時間がないんです!」 �爛轡匹砲六�間がないんだ!�瓠0貂鯑�の晩の親父のように母親の言葉には力が入っていた。 ふと、婆ちゃんの玄関を閉めようとする手が止まり、ゆっくりと僕の顔に視線を当ててきた。そして──、 「あなたシノブの妻だって、本当なのかい……?。頭の中がゴチャゴチャでわけがわからないよ。年寄りにわかるようにちゃんと説明しておくれ。それと、足を外しぃ。もう閉めたりしないよ」 「あ、はい。ありとうございます。──それじゃあ、話します」
| 2006年03月22日(水) |
アカイヌクモリ ―――�勝檻押宗� |
「樹海かよ、ここは?」 トンネルを抜けた母親の第一声は、そんな無礼極まりない言葉だった。紛れて僕も心でぼやく。 �犢餠�越えたかも!?�� いくつもの山々に囲まれ、薄い月明かりに照らされているようなこの不思議の国はある意味長閑で、またある意味堕落していた。舗装されていない荒れ放題の道にびっしり敷かれている枯れ木や枯れ草。車の両端には延々と立ち並ぶ木々とそびえ立つ岩壁が僕らの侵入を阻んでいるのか、ものすごい圧力を感じる。 しばらく変化のない景色が続いていた時だった。遠くの方に公共施設のような建物と江戸時代の藁でできた家を思わせる数えるほどしかない民家、それと広大な田畑が姿を現した。 「家はあるけど……どう考えても人が住んでいけるような環境じゃないよね。野生動物以外は生きていけないよ。だってスーパー、コンビニどころか、自販機だって倒れてて使えないじゃん。どうなってんの、ほんとに。……シノブ、早めに出てきてよかったかもね」 母親は離島指令が出たにもかかわらず、島に残っている人間を捜索するような目で車をのんびり走らせながら辺りを見回している。確かに、人が生活していると思う方が難しかった。仮に、火災や土砂崩れが起きたとしても、迅速な対応をとることはできないのでは──。 数件の民家と比べればだんとつにまともな家の二十メートルくらい手前で車が停まった。平地に面した二階家。屋根はエンジ色で壁は長年の土や埃のせいか、顔をしかめたくなるほど汚れている。 「ねえシド……」 エンジンが静かに唸っている中、母親が手のひらサイズの地図を広げながら言った。 「シノブの実家はさ、うちからこんなにも遠かったけど、私の実家はね、今まで遠い遠いって言い続けてきたでしょ?でも、本当は隣町なんだ……」 母親は地図を折ってから僕の手を握った。 「やっぱり家出て清々しながらも、帰りたいって、どっかでそういう気持ちがあったのかな。いつでも帰れる距離にいて、その安心感みたいのにすがってたのかもね。それがシノブとの唯一の違いかな。あいつは本当に居場所なかったみたいだから。──どうして今まで嘘を突き通してきたか──。あんたとカオリが会いたがるからよ。小さい時なら特にね。でも私はあんな奴に可愛い子供を抱かせたくなかったし、見せたくもなかった。……わからない。もしかしたら、ただ単に自分が父親に会うことを恐れていただけなのかも。今はちょっと後悔してる。自分のことだけであんたたちの気持ちを考えもしなかったから。いつも大事な話の時、謝ってばっかりだけど──ごめんね」 母親の手が僕の頬に添えられた。とても切なそうに──。母親が今までずっと隠し続けてきたことに、怒りなんてものは湧いてこなかったけど、それ以上に、隠し続けていることでもいつかは言わなければならない日が必ずくるということを知った。それは同じ人間でも僕にはできないことだけど……。 「とりあえずお疲れさん。無事到着したみたいね。正面の二階家がシノブの実家だよ。言わなくてももう気づいてるか……。すぐ行こう。何時に帰れるかわかんなくなっちゃうから。でもその前に──一服させてー!」 運転席のドアを背凭れにして母親は、大自然の風に当たりながら煙を立たせ心を落ちつかせている。 �犁鐓貊蠅�なくなった�� 親父はそれしか言わなかったけど、実際十七年間ここでどんなことを思いながら過ごし、またどんな思いで出て行ったのだろう。少なくとも僕がこの環境で生まれ育ったのならば、海外へ出ようという前に、国内の大都市に出ようという気持ちになるというか、させられるだろう。この口がどうにか開くものなら訊いてみたいものだ──。 「行くぜ!シド」 助手席のドアが開いた。母親は不安と緊張で気持ちが押し潰されないように無理して気合を入れているように見える。これからどんな展開になるのか。ガチガチに震えながら車椅子の子を押す母親。その車椅子に乗り、言葉を発せずにただ正面を見つめている僕──障害者シド。何も知らずにいつもと変わらぬ日常を過ごしているだろう、親父の両親──。 これから起こること全て、僕には楽しみに思えて仕方がない。
| 2006年03月21日(火) |
アカイヌクモリ ―――�勝檻院宗� |
「座れよ!」 一昨日の夜、親父の怒鳴り声で目を覚ました。 「離して、もう寝るんだから。それにシドだって会いたいなんて思ってないよ。──いいじゃない。シノブは自分の実家だけにシドを連れて行けば。私には構わなくていいからさ」 状況を把握するのにそれほど時間はかからなかった。親父は僕の寿命が迫っていることをこれまで以上に強く感じて、母親に僕を互いの実家に連れて行き祖父母に会わせないか、という話を持ちかけた。けど、母親はそれを断固として反対という状況だと僕は悟った。──それにしても、親父が母親を怒鳴りつけたのは珍しいというより、僕が知る限りでは初めてだった。 「お前はシドのことなんか全然考えてねえ。テメーのことだけだ」 「仮にもしそうだとしたら介護なんてしないし、その前にシドと一緒に頸動脈でも切って死んでるわよ。私が幼い頃からあの家を出るまで、父親からどんなことをされてきたか、シドがお腹にできる前に話したよね?シドが会いたいって思ってたって……私は絶対に会わせる気なんかない!」 「好きにしろ。俺はシドを連れてお前の親父に会いに行く」 「ふざけないで……。勝手なことばっかり言わないでよ!」 「シドには時間がないんた!」 「わかってるよそんなこと!わかってるけど……考えたくないよ。あと少しでタイムリミットだなんて。シドは私たちの大切な子だよ。その子が私たちよりも先に――。あの子がいなくなったら私は生きていけない。シノブとカオリだけじゃ生きていけない。私は三人がいて初めて動けるの。電池じゃないけど、一人でもいなくなるとだめなの……」 二人は夫婦というよりも、互いのことを何ひとつわかりあえずに言い争う恋人同士のようだった。これから事態はどう転ぶのか、この時はまだわからなかったけど、肝心の僕は祖父母どうこうより遠出をしてみたいという気持ちが強く、心は早くもリゾート気分に近いものがあった。──けど、二人の声が激しく飛び交っているのにカオリが止めに入ってこないのはおかしい。お人好しで繊細気な顔をしているわりに、こんな状況の中でも熟睡できるカオリが僕には酷く鬼に思えた。 二人の間に重い空気が流れているのが、僕には目に見えるようにわかった。そして──沈黙はしばらく続いた。
「……わかった。怒鳴ったりして悪かった」 やっぱり先に折れたのは親父だった。 ──沈黙。 「ねえ、考えてたんだけど、こうしない?今度の日曜に私はシドを連れてシノブの実家へ行く。シノブは私の実家に行ってあいつにシドに会いたいか訊くの。私との関係と、家族の今の状況を一通り説明してから。もし会う気があるって言ったら、来週にでも連れて行こう。私はちょっと無理かもしれないけど」 「マユミ……苦しみから抜け出せるチャンスかもしれないんだぞ」 「今はだめ。シノブの気持ちは嬉しいけど、今はシドのことだけに……。逃げてるわけじゃないから。それだけはわかって──」 妙な沈黙。 「──日曜は明後日か。地図を書いておく。わかりづらい道は明日にでも説明するから。それより、カオリは連れて行かないのか?」 「あの小娘は変な気を遣うからね。行かないって言いそうだけど、明日訊いてみるよ。……ねえ、ちょっとさ、やっぱみんなで行かない?もう緊張してきた」 「……俺はいいって。今更行っても、だろ。これはシドのためだから。向こうが俺に会いたいって言ったらその後にでも行けばいいし」 「別に無理に私の実家に行かなくたっていいよ。それはシノブに任せるけど。でも、もし行くんだったらカオリも連れて行って。あの子にとってはあいつがどんな人間だろうとお爺ちゃんになる人間だから……」 結局カオリは家に残った。 「お父さんを一人にしたらかわいそう」 という、わかるようなわからないような理由で。親父は母親の実家を訪ねようかどうか、一晩中考えても決められていないようだった。 「優柔不断は嫌われるぞ〜。──じゃ、行ってきまーす!」 人事同然の母親に親父は苦笑いで、カオリは大きく手を振って見送った。
| 2006年03月20日(月) |
アカイヌクモリ ―――�宗檻魁宗� |
余命宣告を受けたあの日を最後に、母親の涙を見ることはなかった。むしろ笑顔を絶やすことなく、 「あんたに悔いを残してほしくないってことは、イコール私たちも悔いを絶対に残しちゃいけないってことなの。だから、時間は限られちゃうかもしれないけど、できるだけいろんなものを見て、感じて、考えよう」 と言い続けた。そしてある日、虐待を受け続けた幼児期から思春期、家を出てからの娼婦時代と──耳を塞ぎたくなるような悲しく耐え難かった過去を唐突に僕に聞かせた。 「……虐待なんて言葉知らなかったから、私はいつもいじめられてるって、そう思ってたの。それが幼稚園年中の五歳の時。私の記憶はその頃からずっと残ってる。──よく殴られてた。素手はもちろん、プラスチックでできた棒とかゴミ箱で。私は大声で、やめてやめて!って泣いてるのに、あいつは笑いながら私を殴り続けた。いつも酒ばっかり飲んでて、酷い時にはひもで首を絞められたり、一升瓶を体の上で叩き割られたり、やかんのお湯をかけられたりした。それが小学生くらいまでかな。先生も気づいていながら助けてくれなかった。近所の人も……。もう痣とか傷なんて気にならなくなってた。私の人生なんてこんなもんなんだって、そう自分自身に思い込ませてたんだ。物心ついた時から母親はいなくてそれが普通だったけど、あいつから暴力を受ける度に、お母さん早く帰ってきてって、心の中で叫ぶんだけど──顔がわかんないからさ、そう思う分逆に悲しくなっちゃうんだよね。中学に入って成長期がきて、体が大きくなってきたら急に優しくなってさ、事もあろうに実の娘の体を求めてきたわ。夜這いなんて当たり前だった。全裸にされたこともあったけど、辛うじて膜だけはどうにか──。毎日が地獄だった。中学を出れば私は自由になれる、だから卒業するまで逃げなかった。今思えば逃げることなんて中学生でもできたのにね。ただ、パターン的にはその後保護されて、家に戻されて、あいつの餌食になる。──中学卒業と同時に家を出て娼婦になったのは正解だったかもしれない。…………ごめん、ちょっと気持ち悪くなってきちゃった。虐待されてた頃のことは…………この年になっても堪える──ね。思い出しただけで吐き気がする──」 母親は口元を押さえながら立ち上がると、トイレに駆け込んだ。それからキッチンで口をゆすぐと、すっきりしたー、と深呼吸をしながら戻ってきた。 �爛�ウンセリング受けろよ。病気じゃねえか�� 心配だった。私生活に影響はないにしても、確実に母親の心は�猊秧討�らの虐待�瓩箸いι造鉾箸気譴討い襦� �狎簑亶圓韻茲吻� 強要する僕の気持ちに嘲笑うような表情を見せた後、母親は話を続けた。 「当時、娼婦は娼婦でも街娼って呼ばれてた女は風俗街に入ることはできなかったの。私がその一人。何故だかわかる?風俗嬢に�爐椶辰燭�り�甅狄佑龍發困襪鬚箸蠅笋�って�瓩辰得佞疥�てられたからよ。当時の街娼は風俗で働く奴がかわいそうになるくらいの金額で交渉していたの。そのくらい質もテクニックも店の女とは比べものにならなかったんだ。街娼は、風俗街の入り口でこれから店に入ろうって気満々の男に声をかけて落とすの。もちろん街娼のよさを知ってる奴ならそっちから声をかけてくるけどね。でも、街娼をしている女は深刻な悩みを抱えてる奴が多かった。借金漬け、子供を産んですぐに男に逃げられたり、直接か間接か知らないけど、殺しの手助けをして逃げ回ってた奴がいたりね。私も、初めは大変だったんだよ。中学出てすぐ街娼になって、男もそれなりに寄ってきて、金もそれなりにあって、思ってた以上に順調だった。でも、周りの目はそうはいかなかった。別に仲間意識みたいなものはなかったけど、大体同じポイントでみんなカモを待ってるからほとんどが顔見知りで多少の会話もするような仲だったの。年は十代から三、四十代までで二、三十人いたかな。私はそのほとんどを敵に回すことになった。ガキのくせしてって僻まれてさ、金を巻き上げられたり、ヒールで顔を蹴られたり、酷い時には、そいつらの仲間の病気持ちに抱かされたこともあった。──仕組まれたの。私を街娼からだけじゃなくて女としても使いものにならなくするために──。まあ、そういう経験をしていくうちにね、汚れてるけどどうやったら男から金を吊り上げられるか、生み出すことができるようになってたんだ。そういう世界で生きていくにはね。 私は顧客とまではいかないけど、顔馴染みの奴は寝る度に金を上げていった。当然離れていく奴もいたけど、すがりついて離れないのもいた。そんな汚れた毎日の中でカオリの父親に出会ったの。一目惚れだった。劇団員でさ、渋くて優しくて、彼に会って初めて大人の男臭さが好きになった。私、自分から言ったんだ、あなたの子がほしいって。それからカオリができたのと同時に籍を入れて──。やっと辛かった過去を忘れることができると思うくらい幸せだった。でもね、カオリが産まれてから半年くらいしてかな、稽古が忙しいことを理由に家に寄りつかなくなったの。三日置きだったのが一週間、一週間が三週間、三週間が一ヶ月、一ヶ月が──もう待てなかった。行く場所もお金もなくてやむを得ず私はまた体を売った。街娼にはもう戻りたくなかったからちゃんとした合法の所に。カオリは本当にかわいそうだった。今でもあの頃のことを思い出すと胸が痛くなる。夜泣きしたって誰もあやしてくれる人がいなかったんだからね。──だから、その後シノブに会えたことは私にとっても、多分カオリにとってもすごく大きかった。店から連れ出された時、こいつは頭が狂ってるんじゃないかって、拉致か人質、最悪殺されるとも思った。でもそれがスリリングで体験したことないくらい楽しくて、気づいたら大声で笑いたいのを堪えてダッシュしてたんだ。それで人気のない所についたら、惚れた、だよ。こいつは筋金入りのバカだって改めて認識した。でもね、心のどっかで私はシノブみたいなバカを待っていたと思うんだ。あいつ自身はまずいことをしたって顔してたけど、本当にかっこよかった。それは今でも変わらないけどね。あんたの子だったら絶対に男がいいって、私は毎日落ちつけって言われるくらいはしゃいでたの。多分文句たらたらながらも溺愛するって思ってた。実際、本当にそうなっちゃったけどね。カオリの話しに戻るけど、本当にいい子に育ってくれてよかった。──あの子は多分、どこかで私みたいには絶対なりたくないって思ってるんだろうね。だからいっぱい勉強してある程度将来性のある高校に入ったんだね。あの子の父親も能無しだったから、相当努力したんだね。まあ、親としては早くいい男に巡り会ってもらいたいものよ。あの子はまだつき合うはおろか、あっちの経験もなさそうだし。それだけが心配――大きなお世話かな?」 �爛�オリの心配よりも、少しは自分の心配したらどうなんだよ�� 母親が明るいというか能天気な性格なのは、過去にあった出来事がそうさせたのだと僕は思う。孤独という痛みに耐え続け、自分はどう生きていけばいいのか、どう生きるべきなのか、そう突き詰めた結果、辿りついたのが�爛泪罐澂瓩箸いΦせ�ちから年をとらずに前だけを見続ける女だった。いや、もしかしたら今の母親は本当のマユミではないかもしれない。自分でも気づかずに、ただ演技をしているだけなのかもしれない。そして──その皮が何らかの拍子で剥がれてしまった時、母親──マユミは自己嫌悪して家族、自らにかかわる全ての人間を捨て、新しい自分を探し求めることになり得なくはない。そうなったら親父は、カオリは、僕は──考えたくもない。だから……一生寄り添っていく親父には、たとえボロ雑巾になったとしても母親を守ってもらいたい。心の裏側が破裂した時、自分の二度はできない行動によって運命が変わった女がどうなるか、親父も気づいているはずだ。 マユミが本当は弱い人間だということを──。
| 2006年03月19日(日) |
アカイヌクモリ ―――�宗檻押宗� |
──家族。そこだけにスポットを当てることによって、この植物人間という四年間で胸が詰まるような思いで感じることがある。それは、僕という人間が家族からこの上なく愛されていたということだ。 母親は僕の顔にアクネクリームを塗りながら言った。 「私は出かける時以外ほとんど化粧しないから、その分あんたの美容に回すよ。何でそこまでするんだよって思う?……愛してるからだよ、ただそれだけ。大人ぶってたくせに、あんたは本当に世話を焼かせるんだから。でも、可愛い奴だから許しちゃう。……私たち家族はさ、シラギの言った五年ていう現実を受け止めて、ある程度の覚悟はできちゃってるけど、いい?奇跡を諦めたわけじゃないからね。だから、がんばるんだよ」 介護をされていることの感謝を忘れたことは一度としてない。けど、その気持ちを心の中だけで告げることしかできない。声に出して、ありがとう、とそれすらも言えないことが何よりも辛い。そして、そんな言葉は何度でも言えたあの頃を思うと、心を閉ざしたい、目を背けたい、という気持ちを僕は抑えきることができず、もがき苦しんでいる。 中学を卒業してから、僕はあの世への手土産として家族からいろんな場所へ連れて行ってもらい、また、いろんなことを聞かされた。 親父は話以上に、休みとなれば僕を外へ連れ出した。場所は動物園から国宝級の大きな橋、ストリートミュージシャンが多く集まる公園、海、映画館……。中でも映画は僕が障害者ということで場所によってはただで見ることができた。親父はそれをいいことに上映している映画という映画はジャンルを問わずに観賞した。そそられることなんてまず有り得ないおかしなアニメまで……。けど、映画を観ることでさまざまな価値観に触れ、何かと考えさせられた。もし、正常な身体のままだったら映画から何かを得るようなことはなかっただろう。 唯一、親父が連れて行った場所で僕が心を奪われ、その雰囲気に圧倒された所があった。──僕の親、つまりシノブとマユミが運命的に出会った風俗街だ。
ある土曜の真夜中だった。夢の中にいた僕を、 「今日は一週間で一番客の入りが多い日で、今頃人がごった返してるだろうな。──行くぞ」 という問答無用の身勝手な発言で、親父は僕を二人に気づかれないよう外へ連れ出した。 「今のうち星を見とけ。あそこに入ったら多分見えねえと思うから」 �爐帖爾�クソ親父!星とかそんなことよりどこ連れてく気だよ!?またあのきたねえ山か?そんなことしたら今度は全治十日じゃ済まねえぞ!�� 僕の必死の抵抗も空しく、親父は何かを待ち望んでいるような顔をちらりと見せ、夜道へ向けて車を走らせた。
「やばい。緊張してきた」 隣でその声が聞こえた時、車は市街地と風俗街の境界まで来ていた。 「そんじゃ、ぼちぼち説明を始めるか」 静かに唸るエンジンを止めて親父は続けた。 「この先は見ての通り風俗街だ。今日は週末だから欲望をぶら下げたヤローが腐るほどいるぜ」 親父の言葉通り、目が眩むほどのいかがわしさを漂わせる入口付近には、どこか晴れ晴れしている奴、もじもじと戸惑っているような奴、光沢がかかったスーツをビシッと決めた明らかに欲望とは無関係と思える形相をした男たちがいた。 「今からお前をあん中に連れて行く。見てほしいんだ。俺とマユミが出会った場所を。シドがこの世に生まれてくるきっかけになった場所を──」 親父はそのふたつを言ってから僕を車から降ろし、風俗街へ向けて一歩一歩ゆっくりと進んだ。�狠襪般襪�逆転した世界�瓠�そこに入った途端時間の感覚が麻痺した。真っ暗なはずの空は、おびただしいネオンによってその時間を支配する静粛の力を失いかけているようだった。背後で懐かしがり何かを言っている親父の声も、客引きや雑踏している男たちの声で掻き消されていた。初めて足を踏み入れた風俗街。その場で、今の感想を一言、と問われたら、 「めまいがしそうです」 としか返せなかっただろう。中学二年にして一人ここへ足を入れ、おまけに女まで作ってしまったサジの肝の据わりように改めて僕は驚かされた。 入口からびっしり詰まったあらゆる名前のキャバクラや風俗店はどこも溢れるほどの人だかりができていて、ただでさえ狭い一本道を僕と親父はまるで蛇行運転をするように進んだ。時々雑音に紛れながら、助けを呼ぶような悲鳴、脅しをかけるような怒号、男か女かわからない奇声が聞こえてきた。かつてサジが言っていた、�犧戮は�地で、死んじまうってくらいボコられてる奴がいたり、ヤッてる奴らがいたり、死んでるか寝てるのかわからない奴がいた�瓠△箸いο叩� そういった路地はいくつも目にしたけど、近づくことは火のついた爆弾を抱えることよりも危険だと思った。完全にカオス化しているこの世界の雰囲気に圧倒されていた僕の耳元で、親父は声を弾ませながら言った。 「大丈夫か?ちょっと俺は楽しくなってきたぞ。──この一本道はな、突き当りがないって言われてんだ。このまま直進して壁にぶつかるか、大通りに出るか、そのどっちかだと思うんだけど、奥に何があるのかは誰も知らない。ただ、俺が昔通い詰めてる奴から聞いた話では、奥まで行ったら二度と帰ってこれねえっていうんだ。ここは密売も偽造も、時には殺人もあらゆる犯罪をやってるとこだから、それを少しでも踏み込んじゃった奴は……オジャン!そういうことだと思う。随分昔のことだけど、ここを知り尽くしてるマユミでさえ怖くて足が出せなかったって言ってたからな。相当すげー世界なんだな」 �爐世辰燭蕕海鵑覆箸穫△譴突茲鵑犬磴諭爾茵�早く帰らせろ!�� 身体が麻痺しているお蔭で震えも血の気が引くこともなかったけど、ピストルで頭を二、三発撃ち抜かれているような感覚だった。いや、いつ撃ち抜かれてもおかしくなかったかもしれない。違う意味で死と隣り合わせだった。 歩いた距離も時間もこの世界には必要ないのか、全く頭が働かなかった。かなり進んだ気がしたけど、人の行き来は絶えることなくむしろ増えていた。 この辺だった気がするんだけどなー、と親父は足を止め独り言をいいながら辺りを見回し、思い出の店を探していた。そして、その足がそれ以上前に進むことはなかった。親父の声は感動のあまり微かに震えていた。 「……ここだ、間違いねえ。シド、あったぞ。店の名前は明らかに変わってるけど、ここがマユミと出会った所だ。小さいけどよく見てくれ」 感動的──。そう思った瞬間、腹の底から笑いが込み上げてきた。 『必殺イカせ人』 ライトアップされたその大きな看板の前では、数人のポン引きが�爛ぅ�せ人�瓩隆蕕般樵阿肇好蝓璽汽ぅ此�必殺技を記したプラカードを抱えて客引きをしていた。その中では�爐�美沙�瓩箸い�女がずば抜けて綺麗だった。ちなみに必殺技は──騎乗位。 「いろいろ思い出したよ。あの頃のこと──」 親父は黄昏るようにしみじみそう言っていたけど、僕の頭の中では二人の思い出の場所どうこうより、お美沙ちゃんが騎乗位で腰を振る姿がいつまでも頭の上に浮かんでいた。
カオリは高校を卒業後、我が家に進学させるほど金銭的な余裕がないことを悟り、奨学金というこそくな手を使って二年制の看護学校に入った。その後は僕のような障害者と呼ばれる人間が暮らす施設に介護士として週に四日勤めている。残りの三日間は、お母さんの負担を少しでも減らすため、だそうだ。できのいい母親思いの優しい娘、と近所からはやたらと好感を持たれていたけど、そんなできのいい娘でも誰にも言わずに何年も抱え込んでいた苦悩があった。
「シド……ちょっといい?」 仕事から帰り夕食を食べ終えたカオリは小声でそう言うと、僕を自分の部屋へ入れた。 「今のうちにいろいろ話しておきたいの。聞いて……」 僕の身体に関しては誰よりもナーバスになっていたカオリも、いつ訪れてもおかしくはない弟の死をここ三年余りでしっかりと受け止められるようになっていた。 「──父親が違うって話と、お母さんが体売ってたことを聞かされたのは中学一年の時で、もう八年が経とうとしてるわ。実を言うとね、私は父親が違うことよりもお母さんのことの方がショックだった。──お母さんのことは大好きだってことを前提として話すよ。自分の過去の話を私にしていたお母さんは、体売ってたことを後悔してないってより、全然恥じらいもなしに話してたの。そんなお母さんを見ててね、汚いって思った。同じ女として軽蔑もした。こんな人が親なら生まれてこなければよかったとも思った。それは笑顔で一緒に生活していながらもずっと変わらなかったんだ。シドが中学に入ってキスマーク首につけて帰ってきた時もお母さん、全然怒らなかったでしょ。それも私には考えられなかった。普通じゃないし、恥ずかしかった。まあ、それはお父さんにも同じことが言えるけど……。でもね、何年もかかってやっとわかったの。その捻くれてた考えを変えることができたの。もしお母さんが娼婦をしていなかったら、私は存在しないし、私自身がこれまでいろんなことから与えられた幸せも感じることができなかった。それに、シドにもお父さんにも会えなかった──。私は一日に一回でも笑うことができれば、それは生きててよかったんだって、生まれてきてよかったんだって、そう思うようにしてるの。私、どこかでシドのことを姉弟ながら羨ましく感じてた気がする。友だちと大声で騒いだり、顔に傷作って帰ってきたり、お母さんともお父さんとも言いたい放題言ったり。私はそういうことしたいと思ってもできなかったから……どっかで意地っ張りになってたのかなー。素直じゃなくなってたのかも。だから、これからはもっとオープンに生きてみるよ。シドを見習って。──それともうひとつ。実の父親には、正直会いたいんだ。でもそれは、父親って見方じゃなくてお母さんを捨てた男っていう目で。どんな人なのか、どういう生き方をしてる人なのか、最近その思いが強くなってきてるんだよね。私が聞かないからかもしれないけど、お母さんからは自分より一四歳年上の人としか聞いてないんだ。……五三歳。憶えてるのかな?お母さんのことはともかく、憶えてないよね、私の顔なんて……。もしかしたら存在すら──」 人を傷つけることも知らないこんないい奴に、どうしてこれほど惨い人生を歩かせたのだろう。神なんて言葉を使いたくないけど、もしカオリの運命を決めたのがそいつならば僕は胸倉を掴んで何度もぶん殴ってやりたいと思った。 カオリは限りなく純粋だ。恋愛経験もろくにないだろう。僕には、 「自分のせいで私の自由を奪ったとか、そういうこと絶対に考えないでね。シドの介護と私の恋愛、遊びは別なんだから。関係ないんだから、ね」 と言っていたけど、関係がないなんて有り得ない。カオリは一番楽しむべき時期──輝ける時間を僕の介護で打ち消されたのだから。四年もの月日を──。僕のせいでカオリの大切な人生の歯車を狂わせてしまった。ただでさえ人よりも重い運命に圧しかかられていたのに。それを、気にしないで、なんて言えるカオリの気持ちが僕にはわからなかった。あんたのせいで、あんたがいなければ、そういう言葉をどうしてこれまで一言も口にしなかったのだろう。カオリはこの四年間、我慢と犠牲という言葉を自分に言い聞かせて生きてきたのだろうか。そう思うと僕は……。──人の幸せをこれほど願うことはない。姉貴──カオリには誰よりも幸せになってもらいたい。たった一人の弟として心からそう願う。
| 2006年03月18日(土) |
アカイヌクモリ ―――�宗檻院宗� |
「もう三年が経つのか……。楽しかったよな、こん時。やっぱ可愛いなーマユミは。──あいつらももう卒業か。早いもんですな、シドさん」 フォトアルバムを捲る音が僕の耳を引っ掻いた。サジは中学卒業式の日に撮った写真を懐かしそうに薄らと笑みを零しながら眺めていた。 ──もう三年。いや、僕にとってはまだ三年かもしれない。余命宣告を受けてから四年が過ぎたけど、まだ生きている。会うべき女は未だ姿を見せない。いっそこのまま会わずに死んでしまいたい、そうも思った。この三年間望んでいることは、もう一度彼女に……ヒトミに会うことだけ。ほとんど諦めていながらも、諦めてはいけない、必ず来る、という気持ちがぽっかり空いた僕の心の穴を埋めていく──ほんの一瞬だけ。首の皮一枚で彼女にすがりつく想いがそうさせているのだ。ずっとそんな生活。自分自身にも嫌気がさすし、できればさっさと頭の上にわっかをつけてほしいと思うけど、人間の身体は僕が想像していた以上にしぶとい。初めて見た時誰もがショックを受けたあの頃から、僕の身体は一段どころか三段も四段も衰弱した。四年前が生ける屍ならば、今は緑を失った枯れ草だ。踏みつければ跡形もなくなるような──。 九八年の末頃からいい加減な捜査の挙句、犯人の手がかりが掴めない警察は、 「これだけ年月が経ってしまうと──捜査は困難を要します」 と諦めに近い言葉を家族に吐いた。それでも立場上の決め台詞だけは欠かさなかった。 「地道な捜査の積み重ねは必ず犯人逮捕へと繋がります。ですから今後もご協力を」 家族も既に捜査員には愛想尽きていて、何の期待もしていなかった。信じているのは僕の生命力、シラギの医学的能力、そして奇跡だけだった。 そんな僕の命の鍵を握っていると言ってもいい主治医のシラギは、四年前と変わらず僕の脳で起きた謎の原因を追究し続けている。四年前とこれといって状況は何も変わらない。いや、変わること自体がここ何年ものキーワードとなっている�犂饑廰瓩覆里�もしれない。シラギは、どうして僕のために──と思うほど自分の持っている全ての医療技術を注いでくれた。それは形だけではなく、優しさや熱意で伝わるものだった。疲れやストレスは当然あるのに、顔色ひとつ変えずにシドという一人の人間の命を救おうとしていた。けど、そんなシラギに僕は伝えたい。 �爐△鵑燭�俺を助けようと使っているエネルギーは、もう奇跡を祈ることだけに使ってください。それは決してシラギという名医の可能性を信じていないわけじゃないんです。ただ、俺にかけてる多くの時間をもっと助かる見込みのある人間に使ってほしいんです。あんたの誠意とか責任感みたいなものはもう十分すぎるほど伝わってるし、俺自身あんたには感謝と敬意の気持ちしかありません。仮に俺のせいでほかの人間が犠牲になってるようなことがあったとするならば、それはちょっと耐え難いものがあります�� 三年という月日は年齢を重ねさせるだけではなく、それ以上に人の心を大きく変える。もちろんそれは人それぞれだけど……。ただ痩せ細っていくだけで特に何の変化もない僕をとり残して、新しい道をきり開いた彼らは変わった。 元から持っていた特有の雰囲気というか、威圧感はそのままだったけど個々に表情は引きしまり、シンジはより端整に、リョーキは早くも威厳という言葉が似合うようになり、ヒロトは相変らずチビで無愛想だったけど、ほかの連中に沿うようにそれなりに大人っぽくなった。けど、誰よりも変わったのはサジだ。一人社会人ということもあってか、ほかの三人にはない落ちつきがあった。中学時代は誰よりもはしゃいでいたというのに。 朝だるい、暑い、寒い、くたばる……。毎日のようにそんな愚痴を零していたサジだったけど、卒業して間もなく家族からも離れ、大工として働き始めた。また、通い妻は当然のことながら片指だけでは収まらないという。
「俺には解体新書を説く以上の頭が必要になる。要は玄白を超えなきゃいけねえってことだ。お前を助けるためにはな。今、まともな職に就いたら本を開く時間も削られちまう。だから卒業したらそれなりに稼げて、休みも十分にとれるちょっと危ねえ仕事につくつもりだ。それが何なのかは、お前が元の身体になった時か、仏になった時に教えてやるよ」 ヒロトは諦めていなかった。どんな方法で医学の勉強をしているのか、それは誰もが謎で首を傾げていることだったけど、あの、助けることができないかもしれない、と言った言葉が嘘だったかのようにチビは自信に満ち溢れている。僕は再生不能に近い身体と共に�犂饑廰瓠,茲蠅呂曚鵑両�し現実性のあるヒロトの可能性に六パーセントくらい賭けている。
�狆�来この国を背負っていく人間になりたくないか?�� 興味がない、断る。この一言でリョーキは校長の誘いを軽々と蹴った。そして、大気汚染研究のために地方の大学進学を決めた。学力の違いは歴然だったものの、中二の五月まで同じ勉強をしていた奴が自分とは全く縁のない世界へ入り込んでいくことを僕は不思議に思った。どんなことを研究するのか、リョーキは、 「シドに話してもレベルが高すぎて意味が理解できねえと思う。とりあえずお前にはどんな性能のいい空気清浄機よりも身体に優しくて新鮮な空気を吸わせてやるよ」 と言った。嫌味と優しさを込めたリョーキ特有の言葉が、出会った頃と変わらぬことで僕を安心させた。そして、相棒のシンジは教員免許を取得するためにリョーキと同じく地方の大学へ進学することを選んだ。場所はヒトミが生まれ育った所よりももっと遠い海沿いだと言う。 「中学で担任を持ってそいつらの中で一人でもシドとかサジみたいな人間になってくれる奴がいたら嬉しいな」 というのは表向きで、 「リョウコは英語であいつは文学だろ。将来翻訳の仕事を一緒にしようかってナメた話をしていた記憶がある」 とリョーキから聞かされた。ちなみに、二人はつき合って一年と七ヶ月目で初めてひとつになった。このことはリョウコ本人が恥ずかしがりやの彼氏に変わって伝えにきた。しかも、あの女は何の恥じらいもなしに、痛すぎ!太すぎ!早濡(はや)すぎ!と騒ぐだけ騒いで帰っていった。英検二級を一発合格したのは素晴らしいとしか言いようがないけど、ほかをとったら�狠埆��瓩箸いΩ斥佞靴�思い当たらない。ちなみにその痴女は、只今念願の留学中で姉妹校のあるイギリスのブライトンという見知らぬ地へ行っている。滞在期間は一年間で帰国予定は三ヵ月後の五月。それから三年に進級して一般とは一年遅れで卒業ということらしい。リョウコと遠距離になることをシンジは、 「月に一回の手紙、週に二回の電話。単純に、あいつからの便箋が十二冊俺の手元にきた時には会えるってことだろ?一年って考えると長くて苦しいけど、十二冊って考えればどうってことない。声は聞けるんだし。でもあいつが戻ってくる頃は、俺こっちにいねえからなー。そう考えるとしばらくは遠距離だな。シド……俺ちょっと選択間違ったかな?本当はすっげえ寂しくて一緒にいたいけど、将来のことを考えると今はそういう時期なのかなって、いつもお互いそれで片づけちゃうんだけどさ」 と複雑な心境ながらもちょっと奇麗事に近いことを言っていた。
いつか彼女は高校を出たら、次期女将として旅館で働く、と言っていた。──そして、徐々にその時が近づくに連れ、僕はある不安に駆り立てられている。もし親との話し合いの中で、彼女が元からあった地方の旅館を継ぐことに決まっているとして、卒業と同時に戻るということになったとしたら、その時は確実に別れというものが僕に突きつけられる。──時間がない。そんなことは自分が一番よくわかっている。けど、今まで余命宣告を聞いても来ないということは、仮にこっちを発つとしても前日・当日関係なく、彼女は僕の前には現われない、そんな気がする。 ……ヒトミの中では、二人の──僕との別れは既に終わっているのかもしれない。だからあのキスはやっぱり最後のキスだった。──だめだ。最近はそのことに考えを巡らせていると、一時的な結論を出す前に頭が狂ってしまうほどの疲労感に襲われる。ということは寿命が迫っているのかもしれない。だったら早く会わなければ……。 結局のところ、もう考えるまでもなかった。僕の中では彼女が去っていったあの日から既に結論は出ている。 『もう一度ヒトミに会いたい』それだけだ。
| 2006年03月17日(金) |
シドとマユミ ―――2――― |
一体いくつのトンネルを潜り抜けただろうか。コンビニを出てから二時間近くが過ぎようとしている今でも、目的地である親父の実家は形すら現してくれない。僕と母親は、複雑で車一台がやっと通れるくらいの山道を彷徨い続けている。 ひたすら道に沿ってそびえているゴツゴツの岩肌には、広範囲でコケが生えていたり、高い場所には名も知らぬ花が人間に採られないようにと、精いっぱい身を隠すようにひっそりと咲いている。 オーディオのデジタル時計に視線が向けられた。 ��15:06�瓠� 太陽の機嫌が一番いい時だというのに、山道にはほんの僅かしか光が入ってこない。高い岩壁と生い茂る木々で遮られているのだ。 ──一時間五二分──。 隣で母親がそう呟くのと同時に、静かに車が停まった。 「あー全くわからん!シノブのスケコマシが地図書くのへたっぴだからこんなことになるんだよ。本当なら今頃シノブパパ・ママと一杯やってるとこなのにー。とりあえずちょっと電話してみよう」 後部座席のバッグから携帯電話をとり出すと、母親は液晶を見て舌打ちをした。 「やっぱ電波ないか……。あっ、でも──」 忙しなく窓ガラスを開けると、携帯電話を外に出して揺さぶり再び液晶に目をやった。 「おっ!ギリギリだね。よし」 受話器の音量がやたらと大きく、コール音が僕の耳まで届いてくる。そして、五回目のコールが鳴りかけた時、どしたー?という雑音交じりの親父の声が聞こえた。 「迷った。てゆーかさ、地図もうちょっとわかりやすく書けなかったの?」 「何言ってんだよ。昨日書きながら説明したら、わかったって言ってただろ。で、今どの辺なんだ?」 「どの辺も何も山道入ってから二時間も出られないんだよ。何か昼間なのに薄暗いしさ。地図通りに行ってると思ってたのに……」 「トンネルは?供養塔が立ってる──」 「トンネルはいくつも通ってるけど、供養塔なんてひとつもなかったよ」 「今いる場所から何か見えるか?何でもいいよ」 「ちょっと待って。今外に出るから」 身震いをしながら携帯電話を片手に、四方八方首を見渡して母親は懸命に何か目印になるものを探している。 「──あったー、あったよトンネル!」 さすがに外からでは親父の声は届かない。 「まだ家にいるの?────そう……。──────えっ、緊張?──うん。家出てからしばらくしてたけど、道に迷って和らいだってよりきれちゃった。──とりあえず、供養塔がなかったらまた電話するよ。あっ、あとカオリをよろしく……。──────はい、じゃあね」 運転席に戻ると、母親は携帯電話をバッグにしまい再び車を走らせた。 「シド見える?あの薄ら見えるトンネル。あそこの入り口に供養塔がなかったら大ピンチだよ。はるばる来た意味なくなっちゃうかも──」 その心配はないようだ。不気味な雰囲気を漂わせるトンネルの入り口手前には……多分キクだろう。不自然に置かれている大きな石の下に供えられている。母親は、ふぅー、と息を漏らしながら黒く大きな口を開けるトンネルへ時速五十キロで突入した。
──世の中は変わった。ポケベルから携帯電話。メール、インターネット……。言葉は知っているけど使い方は全くわからない。もし、身体があの頃のままだったら、僕もこの時代の流れに沿っていくことができただろうか?クローン、食中毒問題、香港返還、ジャンニ・ベルサーチ射殺、少年犯罪、警察の不祥事、リストラ……。これからの日本、世界──僕には無関係だ。
| 2006年03月16日(木) |
アカイヌクモリ ―――�次檻押宗� |
三月十二日、僕は二度と着ることはないと思っていた学蘭を身にまとい、家族と共に卒業式を終えて帰ってくる仲間を冬晴れの青々とした空の下で待っていた。 余命宣告を受けてから一年以上が過ぎ、僕の体は他人にはお見せできないほど衰弱していた。もう柩に入ってもいい頃だろうと思ってしまうほどに──。そんな僕を仲間は訪れる度に、 「彫が深くなったな。前よりいい男だ」 などと言って退屈な日々の時間を潰してくれた。 ぽっかりと浮かんだいくつもの雲は、分裂していく大陸のようで、東へ向かってのんびりと流れていた。そんな雲を眺めているうちに、卒業という舞台に立つことができない切なさを僕は感じずにはいられなかった。ただの紙切れ一枚をもらうだけの、起立、礼、着席を繰り返すくだらない儀式──。だとしても、仲間と──ヒトミと立っていたかった。 もう式は終わったのか、今頃後輩の作るむさ苦しい花道でサジとシンジはボタン争奪の標的になっているのか──。僕がそんな想いに耽ていると、突然カオリが軽蔑したような口調で言った。 「──何、この変な歌?ねえ、聞こえない?」 確かに意識をそっちに向けた途端、少し離れた所から馴染みのないメロディーが聞こえてきた。 「ちょっと待って──」 母親が耳を済ましながら続けた。 「これってあの�爛丱��瓩寮爾犬磴覆ぁ�」 馴染みのないメロディーは演歌にアレンジされた校歌だった。おまけに曲の節目には必ず�爐△鱈瓩�つけられていた。歌っているのはもちろんサジだ。その傍で、大声を上げて笑うシンジがサジのテンションを更に上げていた。親父もシンジに釣られてツボに入ったらしく、体を後ろに反りながら顔を真っ赤にさせて笑った。 「わーが・ぼぉ〜・こぉ〜・おぉ〜」 そうしめ括って姿を現したサジの学蘭には、ボタンがひとつもついていなかった。──シンジも。 「おかえり。あんたの歌、なかなかよかったよ。もう歌わなくていいけど。それよりすごいね!ボタン──」 母親は拍手をしながら四人を迎えた。 「柿みてえに捥ぎとられましたよ。シンジはもう少しで学蘭まで脱がされそうになって……。まあ、この二人には縁のない話だけど」 サジは卒業証書の入った上等な白い筒でリョーキとヒロトを指した。 「前全開だと寒いしな、この時期ボタンなんて普通誰にも渡さねえ。なあ、ヒロト」 「常識」 全てのボタンが綺麗に残っている二人は、サジとシンジを敬遠するように小声で話し込んだ。 「──しかもノッポなんか、シンジに対抗心燃やしてんだか何だか知らねえけど、残った袖ボタンひとつ、途中の排水溝に捨てたんだぜ。情けねえよな……」 ヒロトの暴露にサジは慌ただしく話題を変えた。 「このチビ……!──えっと、あのぉー、卒業証書、誰が読む?全員で読んでもうるせえから……じゃあ、声のいいリョーキにしよう。頼んだ」 リョーキは無言でまるまった紙を広げると僕の前に立ち、肺活量のありそうな太い声で読み上げた。 「卒業証書。�爛轡�・ヴィシャス�瓠�昭和五六年九月二日生まれ。中学校の全課程を終了したことを証する。平成九年三月三一日。友人代表、リョーキ。──第二二〇六号」 周りでは拍手が湧いていた。リョーキは再び卒業証書をまるめて筒に戻すと、僕の太腿の上に置きながら、おめでとう、と小さく言った。僕は心の中で軽く一礼した。 「シドごめんな。ヒトミに、行くか?って誘ったんだけど、顔が晴れなかったからさ……」 サジは僕の肩に両手を添えながら溜息を吐いた。 �爐いい鵑澄5い砲垢襪福帖牒瓠� 「しょうがないよ。あの子だってすごく辛いと思う……。自分の彼がこうなっちゃった現実から立ち直るにはすごく時間がかかると思うし、もしかしたらずっと……。それよりさ、天気もいいし、これから記念写真撮ろうよ」 母親の呼びかけに、この後二時間以上もの間、笑い声とシャッターをきる音は絶えなかった。フィルム四本分に収められた家族、仲間の表情は、その時間がどれほど素晴らしかったのかを反映していた。
�猖佑魄呂狠膣岫甅狆亟蕕離�オリと無表情な僕�甅猴墜訐�みのシンジとリョーキ�甅爛汽犬北詰�矢理抱っこされてキレるヒロト�甅牴搬沖甅猊┐鯤�えて煙草を吸うヒロト�甅猜貎討力咾鬚箸辰特イす腓�親父とサジ。当の本人はカメラ目線で困惑�甅犒櫃里覆に佑肇轡鵐賢甅狄心蕕撚燭�を話し合っている親父とヒロト�甅猜貎討肇�オリを両腕で抱え上げるリョーキ�甅猖佑縫蹇璽侫 爾瞭�いを嗅がせるサジ�甅爛螢腑Ε海梁紊錣蠅縫汽犬鯤�きしめるシンジ�甅狒仍劼把未襪噺世つイ詈貎討肇�オリのアップ�甅牴个里弔い娠豼陲鯔佑忙�たせて語りかけているサジ�甅牴晋里�赤面しているカオリとシンジ�甅爛汽犬肇螢隋璽�の通知表�甅猗韻鯊�ねながらカオリを誘惑するサジ�甅狡未蠅垢�りの一年坊に撮ってもらった集合写真�瓠�ビビッていたのか、彼の撮った写真は全て歪んでいた。などなど……。
一〇〇枚以上に及ぶスナップ写真の一枚一枚は、たとえ僕が息絶えたとしても、胸の中に刻まれた�狒農欧蕕靴�一時�瓩�永遠に魂として生き続けるだろう。──これから僕よりも遥かに長く生きることができる家族、仲間にとってもそうであってほしい。 こうして、自らの誤った選択によって人生を変えることとなってしまった僕の中学校生活が終わった。
| 2006年03月15日(水) |
アカイヌクモリ ―――�次檻院宗� |
余命宣告を受けた翌日から、四人は検問と近所への聞き込みを始めた。�狎簑个吠瓩泙┐討澆擦泙広瓠△伴�信に満ち溢れてサジは断言したけど、世間は十四のガキがすんなりと犯人像を掴めるほど甘くはなかった。ましてあのオッサンを捕まえることなど……。そして、検問開始九日目の明け方に恐れていたことが起こってしまった。 一月の真っ暗な空が深みを帯びたグレーへ変わる頃になると、睡魔と疲労でブレイカーを落とされた電気みたいに言葉も動きもなくなるんだ、と僕は仲間から聞かされていた。車の通りもなくなり、空の色を見てからいつものように引き上げようとした時だった。 激しいエンジン音と共に車高をギリギリまで下げたセダンが猛スピードで四人へ向けて走ってきた。そして、放っておいて帰りたいという気持ちがありながらも義務的に四人は道を塞いで車を停めた。 「轢き殺されてえのかテメーら!」 二十歳前後の男に激しく怒鳴り散らされても逆上する気力も残っていなかった四人は、検問をしているということと、その理由を告げて協力を求めた。すごく眠そうな声で……。 「大変だな。でも俺も眠いんだ。ガキのくだらねえ夜遊びにはつき合う気はねえ……。道をどけろ!」 全員が深い溜息を吐いて、どうしようか?と考えていた時だった。 「仲間の命がかかってんだよ!ふざけてんじゃねえぞこのヤロー!」 男の胸倉を掴んで眠気が覚めるほど感情の籠もった怒号を上げたのは──シンジだった。男は窓枠から腰が出るほど引っ張られ、三人は呆然とその様子を見ていた──。 �牋貊屬世辰燭鵑澄帖牒瓮汽犬呂修Ω世辰拭� �牋豕い砲い蹐鵑焚擦�して、それから先は記憶が飛んでる……�瓮轡鵐犬麓鵑魴垢欧襪个�りだった。 タイヤが空回りし擦れる甲高い音と、唸るようなエンジン音が零下の空気を揺らした瞬間、シンジの体が宙を泳ぐように仲間の元から離れていった。アスファルトに足をつけたまま──。叫び声も何もなかった。ただシンジの体が踊る人形のように三人には見えた。 三〇メートルほど引きずられ、シンジの体は地面に叩きつけられるように解放された。男の乗った車は遠くでブレーキランプを光らせていたけど、三人は全く動かないシンジにこれ以上にないダッシュで駆け寄った。この時には眠気も疲労も頭にはなかった。苦しそうに顔をしかめているシンジの足下に三人は恐る恐る目を向けると、キャンバススニーカーは激しい摩擦によって破られ、甲の骨が肉眼で見えてしまうほど痛めつけられていた。シンジの足は誰もが目を背けたくなるほど酷いものだった。そして、サジが怒りで目を泳がせながら遠くのブレーキランプを睨みつけていると、車がさっきまでとは違うおかしな唸り声を上げながら磁力に引きつけられるように四人の元へ引き返してきた。それから男はゆっくりとドアを開けた。 「す、すまん。──おい、だ、大丈夫か?でもお前らがあんな……」 「わざわざ戻って車から降りるなんてずいぶんとまあ、良心的じゃねえか。轢き逃げ犯らしからぬ行動だ。でもな……もうおせえよ」 サジは半開きのドアの前に唖然と立ち尽くしている男の顎を掴み、そのまま鳩尾に一発拳を入れるとリョーキとヒロトを無言で手招きした。この一発で、男はようやく自分の立たされている状況を把握したらしく、息のできない苦しさの表情は恐怖一色へと変わったという。 男が選択した�犲屬�ら降りる�瓩箸い�行動はひき逃げをしてしまったにしろ選んではいけないものだった。おとなしく警察に出頭した方が利口だったかもしれない。けど無理もない。シンジとは違い平和主義者とはほど遠い三人がどういう人間か、この後自分にどういう仕打ちをしてくるのか、男は知るよしもなかったのだから。もしかしたら十四歳という年齢に多少なりとも無防備な気持ちがあったのかもしれない。 三人は一斉に男を囲みながら力任せに殴りかかった。まるで僕をやった犯人への怒りをぶつけているかのように。男の体がフラフラになりアスフャルトに何度も倒れ込みそうになっても、そうはさせぬと三人は制裁を加え続けた。胆汁を垂らす腫れあがった男の顔からは脂汗、鮮血がとめどなく流れていた。そして、肝臓に的を絞っていたリョーキが締めの一発を浴びせようと腰を入れた時だった。 「……よせ!」 苦しそうに横たわるシンジが擦り剥けた顔を上げた。 「もうやめろ……。それ以上やったらそいつ死ぬぞ。──今だってほとんど意識が……!。それに俺たちだって……これから──」 「おい、喋れるか?」 サジは一瞬シンジに目を落としてから男の胸倉を掴んで揺すった。──反応がない。 「運転はできるか?」 ──微かに頷く。 「なら、さっさと消えろ……」 男は何も言わずに倒れ込むように運転席に座ると、目も開けられないほどのダメージの中、法定速度を遥かに下回り蛇行しながら、弱々しい唸り声を上げる車と共に消えていった。 結局シンジは両足合わせて十三針も縫う大ケガを負った。医者から原因を執拗に追究されながらもうまくきり抜けた。そして、驚くべきことにまともに歩くこともできないはずの足を引きずりながら何事もなかったように翌日から検問に立った。しばらくおとなしくしてろ、という仲間の声や、もう警察に任せて、と泣き叫ぶ恋人リョウコの声を押しきって──。 けど、そんなシンジを始め仲間の気持ちに神(信憑性はないし信じないけど)は微笑もうともしなかった。 四人が懸命になればなるほど、検問も聴取も困難になっていき、それが原因で湧き上がる焦りや苛立ちから、言い争いが日を追うごとに激しくなっていた。時には僕の前でとっ組み合いになったこともあった。四人は口にはしなかったものの、改めて事件の手がかりがないことを痛感し、頭を抱え込む毎日を過ごしていた。 そんなある日、僕の前にどことなく元気のない様子で現われたヒロトはこんなことを言った。 「俺の医学知識が、お前の身体の衰弱に追いつけねえんだ。追いつこうと思えば思うほど空回りして距離が広がっていく。──俺は、お前を助けることができないかもしれない……。だからその時は、俺を道連れにするなり好きなようにしてくれ」 帰り際、ヒロトは玄関で何度も激しい咳払いをした。──それが、僕には嗚咽交じりに聞こえて仕方がなかった。 そんなヒロトの困惑した様子をただ黙って見ているうちに、僕自身、オッサンが捕まるも、事件が迷宮入りするも、もうどうでもいいと思い始めていた。不可能に限りなく近いことでもなんとしても捕まえるという仲間の気持ち、執念……それだけで十分だった。僕はまたひとつ、仲間から生きるべきことの意味を教えてもらった気がする。また、その仲間がどれほど僕にとってかけがえのないものかということも──。そして、何の手がかりも得られないまま無情にも時は過ぎ、四人は受験生という名の下で戸惑いながらも、自らの道をきり開いていた。 秀才のシンジとリョーキは、お互い別の高校を選んだ。各中学のトップクラスが、寝る間も惜しんで猛勉強し、やっと入れるような名門と呼ばれる所に。ヒロトは、あの懐かしき思い出の第三高校へ。 「あいつらは学生っていう世界でテメーのやるべきことをこれから見つけるって。そんで俺は、あいつらにはまだ見ることのできない社会っていう世界で金を稼ぎながら、俺にしかできない飯の種を探す」 サジは僕の前で学生生活を終え、三人よりも一足早く社会人として生きていくことを告げた。 三年になってから、英語に携わった仕事をしたい、と言っていたリョウコは、姉妹校がイギリスにある、留学志願者には持ってこいの高校が決まっていた。またシンジとの関係は、多少のデートと多少のキス、時には激しい言い合いとよく意味のわからない報告だったけど順調のようだった。 そして、ヒトミは市内の女子高へ進学することが仲間の口から伝えられた。僕の余命を聞いた時、彼女は一瞬にして表情がなくなり、定まらぬ視点でうなだれながらリョウコの肩に顔を埋めて静かに泣いたという。精神状態が安定を保っていた時に告げられた�猴礁伸瓩箸いΩ斥佞如▲劵肇澆郎討嘶犠�態に陥ってしまい、それを毎日目の当たりにしていた仲間とリョウコは、もうどうすることもできない、と申しわけなさそうに言った。──けどそれは僕にとって、ヒトミに対するどんな同情の言葉よりも求めていた言葉だったのかもしえない。 確かにヒトミのことを忘れる日はない。不安、心配もつきものだ。足音が聞こえれば何より先に浮かんでくるのは当然彼女の顔だ。それ以外何もない──愛してるから。だからこそ僕は全ての選択肢をヒトミに委ねることにした。たとえ鬱になったとしても会うべき時がくれば必ず彼女は僕の前に現われる。──仮に、世界中の人間が束になって僕と会うことを説得したとしても、ヒトミの気持ちを揺るがすことはできないに違いない。僕は息絶える寸前まで、この椅子の上でヒトミを信じて、影もぬくもりもないけど小さくて白いあの柔らかい手をしっかりと握り締めながら�爐修了��瓩鯊圓疎海韻茲Δ隼廚Α�
| 2006年03月14日(火) |
アカイヌクモリ ―――�察檻掘宗� |
仕切り直された会合はリラックスしたものになっていた。初めに淹れられたコーヒーには重苦しい空気からか、誰一人として口をつけようとはしなかったけど、淹れ直されてからはそれをすする音と煙草の煙が静粛だった客間の空気を変えていた。 「──あのぉ、シドのために……こうしたいとか、たとえばどっかに連れて行ってあげたいとか、そういうこと、何でもいいからもしあったら言って」 小さな声でカオリは四人にそう言った。そして、しばらく考えてからキリッとした目を僕とカオリに向けてサジが答えた。 「俺たちがシドにしてあげることは……元気だった頃と──今でも中身は元気だと思うんですけど──同じ接し方をすることです.同情とか病人扱いは絶対にごめんだと思うんで、こいつは。それと、どうにか犯人を捕まえることですね。身体も俺たちがやってどうにか治るもんならしてやりたいですけど、現実的に考えても無理なことなんで、身体の原因解明と回復の方は医者に託して、俺たちはさっきマユミさんが言ったように奇跡っていうのを信じようと思います」 「ねえサジ──」 テーブルに頬杖をついて母親は言った。 「あんたの犯人を捕まえたいっって気持ちはわかるけど、シド以外、誰も犯人の顔を見てないのよ。警察だって全く足どりが掴めないんだし……」 「見てますよ、絶対に──」 サジは確固たる自信を顔に浮かべながら続けた。 「──事件直後、救急車が到着するまで、家の前にはかなりのヤジウマがいたらしいですね?」 母親は無言で頷いた。僕の隣では親父とカオリも身を乗り出して聞き入っていた。 「そのほとんどはこの近所の住民で、当然警察も事情聴取に出たと思うんです。でも、それから全員を勝手口の前に集めて一人一人シドをどこから見てたのかっていう検証をやってないんじゃないんですか?」 「……そういえば、やってねえな。調査の報告は毎回のようにしてくるけど、それはなかったな」 親父は首を傾げながらそう答えた。 「警察は自分たちが足どりを掴めないから、そこまで動こうっていう頭が回らないんです。いい加減だと思いませんか?だからそれを俺たちでやろうと思うんです。──市内の連続空巣で、この家は九件目のターゲットになりました。でも思わぬ事態でもしかしたら殺人罪もプラスされるかもしれない……。犯人は絶対にヤジウマの中に紛れてシドが生きているかどうかを見に戻ってきたと思います。少し話がそれますけど、放火魔のほとんどは自分の火をつけた建物が燃えているのを見に戻ってくるって、テレビで評論家が言ってました。もちろん断言はできませんよ。──それと、検問も一緒にやるつもりです。もうずいぶん経っちゃいましたけど、この辺でまだうろついてる可能性が全くないとは言えません。とりあえず家の前と、もう一本奥の道を。時間は日づけが変わるちょっと前から明け方までって考えてます。ただ、検問に限っては一ヶ月できり上げようと──。多分、続けていくうちに一台も通らなくなると思うんで。──警察はプライバシーとか人権で、ある程度食い込んでアリバイのない奴ならそれ以上は入っていきません。でも俺たちは警察じゃないんで、そんなことは関係なしでやります。これは四人でずっと考えてたことなんです。もう少し練ろうかと思ってたんですけど、今日の話を聞いてもう考えてる時間はないなって……。絶対に捕まえてみせます」 「なかなか読みの鋭いガキだな。──俺は?」 親父は煙草に火をつけた。サジはその動作を目で追いながら答えた。 「シドの傍にいてあげてください」 「……わかった。でもいいか、くれぐれも方向性を間違えねえようにな。それと、必要な時はいつでも──」 サジは口を固く結んで頷いた。 「何か素人のやる臭い芝居みたいだけど……」 母親が親父とサジを交互に見ながら続けた。 「みんなありがとう。本当に気をつけてね、頼んだよ。──それとさ、ヒトミちゃんにも今日のことを……ね。また鬱になったりしちゃうかもしれないけど……」 「伝えておきます。あいつのことは俺たちとリョウコでなんとか。──だから心配すんなよ、シド」
�爐△◆⇒蠅鵑世将�
| 2006年03月13日(月) |
アカイヌクモリ ―――�察檻供宗� |
「医者とはこれからどういうことをして──」
しばらくの沈黙の後、唐突に口を開いてきたのは意外にも�爛船哭瓩世辰拭J貎討魯劵蹈箸量笋い�けに驚いた表情をしながら答えた。 「──あっ、ああ、とりあえずシドの身体に有効的な治療方法が見つかり次第、それで延命するって方向だけど……」 「そうですか……」 ヒロトが軽く数回頷いた後、またしばらくの沈黙が続いた。この間、全員の視線は何かを言いたそうなヒロトに注がれていた。そして、 「何か言いたいことがあれば──」 と母親が顔を覗き込ませた時、いつもと変わらぬ無愛想な口調でヒロトは言った。 「……すげえ失礼なんですけど、延命っていう考えは外した方がいいと思います」 全員の目が一瞬にして、理解できない、という批判的な眼差しに変わった。 「ふざけんなテメー!どーゆーつもりだよ!?」 サジは声を張り上げてヒロトの胸倉を掴んだ。そこへすかさず向かいに座っていたリョーキが身を乗り出した。 「サジ落ちつけ。──ヒロトも、どういうことだか説明してくれよ。そんなの誰も納得しねえ。何か……根拠があるんだろ?」 ヒロトは耳を澄まさなければ聞きとれないくらい小さな声で、ある、と呟くと自分の胸倉で握り拳をつくっているサジの手を振り払い、僕の目を一度見てから口を開いた。 「俺は……これから五年なら五年、シドのためにできること……してあげられることは、テメーの気持ちを殺してでもシドの気持ちを優先することだと思う。こいつが延命を望んでいるか、そう考えると俺は知り合って二年も経ってねえけど、望んでるって考えることはできねえ。奇跡に賭けてるってことはあるかもしれねえけど……。俺の知ってるシドは今、この点滴で命を繋がれてるって時点でプライドがズタズタだと思う。だからこれから延命とかになればこいつに繋がれる管はもっと多くなるかもしれねえ。元通りの身体になるんならそれに越したことはねえよ。でも、ただの延命ってだけで考えた時、そうなってまでシドは生きることを望んでると思うか?もちろん生きてほしいっていう気持ちは俺にだってある。でも俺たちは、その気持ち以上にシドの気持ちを考えて、シドの立場に自分たちを置き換えることをしなければいけねえんだよ。──テメーらシドのことよく知ってんだろ?だったらもっと考えてやんなきゃよ。これから先のことなんて何が起こるかわからねえし、何を掴めばいいのかもさっぱりわからねえ。ただ……俺がシドだったら、こんな状況で延命は望まねえだろうな」 全員のそれまで怒りに満ちていた目が弱々しく、何も言い返すことができない、無知だった、という目になっていた。 僕にはこの時、ヒロトが仲間ではなく全てを見透かしている宇宙人のように見えた。 �爐匹Δ靴討�前はそこまで俺の気持ちを悟ることができる?お前は何者なんだ……?�� ヒロトは、誰でもねえよ、というような無愛想な表情で何事もなかったように、ただ正面を見つめていた。 「──ヒロトくんの言ってることは、シドの命は今やってることにこの子自身の体力が持つまでってこと?」 母親はうなだれるように額に手を当てながら訊いた。 「そうです。でもそれは、シドの立場を俺なりに考えてのことです」 ヒロトは母親に顔を向けずに正面を見つめたまま答えた。そして、しばらく間を空けて、 「……ごめん。悪いけど今、その考えは呑むことができない。もちろん、シドの気持ちになるってことは大切なことだと思うけど。この子は私の子だし──」 母親はまだ何か言いたそうだったけどヒロトはそれを遮った。 「わかってます。仮に俺がこいつと兄弟だったら、絶対にこんな見捨てるようなことは言えないだろうし……」 沈黙になりそうな状況の中、ヒロトの言葉に声を張り上げ激怒していたサジが目を瞑り静かに口を開いた。 「……悪かった。もし俺がシドだったらとっくに狂ってるだろうな……。お前の言う通りこれからは、こいつの立たされてる状況を考えて、立場を変換させながらいくよ。──そうするべきだ」
【シドの立場に自分を置き換えて】 というひとつの考えが出された時、独り言のように何かブツブツ言っている声が聞こえた。それは──僕の余命を聞いてからサジが怒鳴り、ヒロトが喋っている間もずっとうなだれていたシンジの声だった。 「シンジ……どうした?」 隣に座るリョーキが覗き込んで肩を叩くと、その声はボリュームの摘みを回した時のようにどんどん大きくなっていった。 「……は、五年。──さない。殺す……。シドは、もう……。シドは……!殺してやる……。ぶっ殺してやる──!」 激しい怒号が部屋全体に響き渡った瞬間、顔を真っ赤にしたシンジは大粒の涙を流しながら立ち上がった。その勢いで座っていた椅子は、背後の壁に引きつけられるようにぶつかった。仲間の三人は、それまで見たこともないシンジの姿にただ唖然としていた。また、家族三人も体を硬直させながらその姿を黙って見ているだけだった。 ──シンジの表情からは、理性というものが全く感じられなかった。僕が余命宣告を受けたことによる悲しみと、シルエットすら見ることができない犯人への怒りで……彼は発狂した。嗚咽が漏れる中、再び唸るような怒号を上げたシンジは体を扉へ向けると部屋を出ようとしたのか、獲物を捕らえようとする肉食獣のように素早く足を踏み出した。──その時、ドスッという鈍い衝突音がして、僕は部屋が大きく揺れたような気がした。──まさにそれは一瞬のことだった。シンジが足を踏み出した時、隣にいたリョーキが暴走する相棒の腰に両腕を巻きつけて床に倒れ込んだのだ。その隙に親父は、硬直して動くことができない母親とカオリの腕をとり二人を壁際へ非難させた。そして、ヒロトは僕の隣にまるでボディガードのように立ち、サジは揉み合う二人を黙って見つめていた。 暴れ狂うシンジを、リョーキは歯を食い縛って必死に押さえ込みをかけていた。 「離せー!アァァーッ!!離せって言ってんだよ!俺が殺すんだ!ぶっ殺してやるんだ──!!」 そう叫ぶシンジの体は、力いっぱいに押さえ込むリョーキの腕から今にも擦り抜けそうだった。 自分をコントロールできなくなったシンジの力は、僕の想像を遥かに超えていた。大男リョーキでさえも止めることのできないシンジの発狂は、恐ろしいとしか言いようがなかった。そして、自分一人の力ではどうにもならないことに気づいたのか、リョーキは顎を上げ、首筋に太い静脈を浮き上がらせながら、 「サジ──!」 と珍しく大声を上げた。リョーキのSOSでそれまで黙って見ていたサジは滑り込むように素早く、シンジの体を力いっぱい床に押しつけた。 「シンジ落ちつけ──!おい!」 顔を真っ赤にしながら大声で呼びかけたサジの声も、シンジには届かなかった。二人がかりで押さえつける体は、驚くことに床からの隙間を広げていた。 収拾不可能、そう思った時だった。サジは腹を決めたようにきつく目を閉じると、シンジの頬へ力いっぱい手を振りきった。そして、サジの手とシンジの頬が接触した途端、部屋には再び静粛が戻った。 サジのビンタはそれまでに聞いたことがないくらいすごい音がした。風船に針を刺した時のような音だった。鼓膜が破れたのではと心配したほどだ。けど、そのビンタはシンジを正気にさせるには最良の手段だったのかもしれない。嗚咽交じりで震えながら横たわるシンジの両端で、サジとリョーキは仰向けになり全力疾走で走り終えた時のように激しく息をきらせていた。三人の体からは薄らと湯気が立ち昇っているように僕には見えた。そんな呼吸することもままならない状態の中、サジは苦しそうに深呼吸をしながら言った。 「──ふ、ふざけんなこのヤロー……。いつも冷静な奴だと思ってたら、こういうことだったのかよ……。押さえつけるこっちの身にもなりやがれ、バカ!──でも、お前の気持ちはさ、よくわかるよ。俺だってお前みたいに発狂して、大声出して暴れてえよ。それはリョーキだってヒロトだって同じだ。けどよ、そんなことしたって無駄だし、何にもならねえんだよ。シドだって喜ぶはずがねえ……。そうだろ?だから今は、自分の感情よりもシドの気持ちを考えろ。こいつが何を望んでいるのか……。わかったらさっさと立て」 サジはそう言いながら立ち上がるとシンジに手をさし伸べた。──数十秒間目を閉じた後、小さく頷いたシンジはゆっくり起き上がると素直にサジの手に掴まった。 「発作……か?」 ヒロトがシンジに歩み寄ってボソッと言った。涙で頬を濡らしているシンジは震える声を絞り出すように返した。 「……ガキにはわかんねえよ」 「何だこのヤ──」 「テメーらいい加減にしねえか……!」 リョーキは立ち上がりながら呆れたように二人を睨んだ。そして──、 「すいませんでした。本当に申しわけないです……」 シンジは壁際にいる僕ら家族に深々と頭を下げた。その姿は謙虚で礼儀正しいいつものシンジだった。 「いいんだ。むしろシドをそこまで想ってくれて……。お前ら四人に会えたことは、こいつにとってすごく幸せなことだと思う。もちろん、俺たち家族もな」 親父はシンジの学蘭のヨレを叩きながらそう言った。 僕は仲間に感謝という言葉以外、何も思い浮かばなかった。この余命宣告という贈り物を通じて、仲間の僕に対する強い思いを改めて感じることができた。
| 2006年03月12日(日) |
アカイヌクモリ ―――�察檻機宗� |
帰宅すると、カオリが慌ただしい様子で僕と母親を出迎えた。 「どこ行ってたの?帰ったら車ないし、鍵も閉まってたから──」 「話があるんだけど、シノブに帰ってくるようにこれから連絡入れるから。あいつが帰ってくるまで悪いけど話しかけないで」 カオリは戸惑った表情で首を縦に振ってから、僕に怪訝そうな眼差しを送ってきた。そして母親は、 「──シドのことで大事な話があるの。だから早く帰ってきて」 と落ち込みを隠すような声で親父にそう告げると、クシャクシャの顔を隠すようにソファーへ倒れ込んだ。
親父は頭を抱え込んだまま目を強く閉じていた。また、重大な会議から抜け出し直帰してきたせいか、ネクタイはだらしなくほどけていた。カオリは母親の腕にしがみつき、肩を震わせながら泣いた。 「──予感はしていた。そういう話じゃないのかって。実をいうと俺も気にはかけてたんだ。その、体重が減り続けてるっていうことに……」 親父はリビングをうろつきながら言った。そして、腕にしっかりしがみついているカオリの背中を宥めるように軽く叩きながら母親は口を開いた。その口調と表情は、ちょっと前まで僕に抱きつき泣き崩れていたとは思えないほどしっかりしていた。 「とりあえず、シドがこういう状況に立たされたことは事実。これから限られた時間で私たちがこの子に何をしてあげられるか、真剣に考えなくちゃいけないと思うの。でもそれには私たち家族だけじゃなくて、あの四人の考えっていうか、力も必要じゃない?この子の人生はあの子たちなしじゃ成立しないから。だから今からみんなをここに集めて話し合おうと思うんだけど……」 「俺は構わないけど、連絡はつくのか?」 「多分ね」 カオリの腕をゆっくりと解いて母親は受話器をとった。 およそ三十分後、インターホンの音と共に、こんばんはー、という能天気なサジの声がリビングを一周した──。
親父と母親が四人を出迎え軽い挨拶を済ませると、リビングの隣にある客間へ通した。 客間には淡い琥珀色の光を浴びた長方形のダイニングテーブルが陣どるように置かれていて、その周りには七脚の椅子が従うように立っていた。 みんなの顔を見られるようにと、全長およそ二メートルあるテーブルの、幅八十センチ足らずの端にカオリは僕を座らせ、一緒に四人が入ってくるのを待った。なんとか発作のような号泣が治まったカオリだったけど、目は真っ赤で嗚咽の余韻からか時々体を震わせていた。 「──あっカオリさん、こんばんは」 サジを筆頭に、シンジ、ヒロト、リョーキもカオリに頭を下げながら入ってきた。 「……こんばんは、急でごめんね。でも、来てくれてよかった……。ありがとね。あっ、どこでもいいから座って──」 カオリは真っ赤な目を背けながら震えそうな声をなんとか絞り出した。四人はそれぞれ僕に首や肩を二回、ポンポン、と叩く挨拶をしてから椅子に腰を下ろした。 僕の右隣にカオリが座り、左隣は空席になっていた。そして、向かって右側手前からシンジとリョーキが、左からはひとつ空けてヒロトとサジが椅子を埋めた。 カオリはシンジが傍に来たことでそれまで喋ることもままならなかったはずが、何故か笑顔で話しかけていた。 「今までみんな一緒にいたの?」 「──えっ?あ、はい。今日はたまたまみんなでサジの家にいて。そしたらマユミさんから連絡がきて──」 「だからみんな制服なんだ」 「はい。でも、な──」 「マジで悪いなー、急に呼んだりしちゃって」 カオリとシンジの対話は、親父の登場でキャッチボールもろくにできないまましめ括られてしまった。親父は点滴の量を見ながら僕の隣に腰を下ろし、四人の顔を見回しながら言った。 「四人は明日、普通に学校あるんだろ?あんま遅くなりすぎたら──」 「学校のことは気にしないでください。起きられたら行って、無理なら寝てればいいだけのことなんで」 サジが髪を束ねながら続けた。 「……それより、シドのことで話し合うことって──?」 「ああ。マユミが来てからでいいか?今コーヒー淹れてるから。飲めるか、コーヒーは?」 �狢臂翩廚任広瓩隼与佑呂泙个蕕謀�えた。するとサジが突然、隣に座るヒロトの頭を掴みながら絡んだ。 「えっ?ヒロトお前コーヒーなんて飲めねーだろ?無理すんなって。シノブさん、こいつにはココアお願いします、ココア」 「テメー、うるせえぞ……」 ヒロトは鋭い目でサジを睨んだけど、その一声で重苦しく感じていた部屋の空気が少し軽くなった気がした。 「うるさいぞサジ。あんたの声筒抜け」 マグカップの載ったトレンチを持って入ってきた母親は、それをテーブルの上で全員にさし出してから残る空席に腰を下ろした。 「──まず、急な連絡にもかかわらず来てくれて本当にありがとう。正直、四人が揃って集まれるとは思ってなかったから──。それじゃ、早速だけど話を始めるね」 仲間の鋭い視線が母親に注がれた。親父とカオリは、二度もそんな話を聞きたくない、といった感じで俯いた。 「今日の昼だったんだけど、シドと私は主治医のシラギに、重大な話があるって呼び出されたの。珍しいことなんだ。点滴の受け渡しと定期健診の時以外は、こっちから連絡することはあっても、向こうからはほとんどないから──。その時にね、言われたの。──シドの命は二十歳まで持つことは極めて難しいって。原因は、この子の体重が点滴をしているのにもかかわらず、減っていることにあるんだって……。このままいくとシラギの計算上、五年後には二十キロを割っていてシドの身体が耐えきれなくなるらし──」 「そんなのガセじゃないんですか?」 サジが母親の言葉を遮った。 「……サジ、言葉を慎んで。それに、まだ話は終わりじゃないの。最後まで聞いて」 「すいません……」 母親はサジを見て二度頷いてから続けた。 「──シラギは一日でも早く原因解明をして打開策を立てるって。それと、シドの周りの人間、つまり私たちは�犂饑廰瓩辰討いΔ發里鮨�じて祈り続けてくださいって言われたわ。それも大事な治療のひとつだって。──だから、これから限られた時間の中で私たち家族とみんながシドにしてあげられることは何かを、一緒に考えてもらいたくて今日は呼んだんだ」 四人の顔色が変わった──。シンジは目頭を押さえながら歯を食い縛っていた。リョーキは鋭い眼光で正面を見つめ、ヒロトは僕の顔を腕組をしながら瞬きなしで見続けていた。�爐�前の身体は俺が治してやる�瓠△修Ω世辰討い織劵蹈箸砲海陵礁神觜陲呂匹Ρ任辰燭里�。僕は、どうなんだよチビ?と問いかけながら考えていた。そのヒロトの隣でサジは、両手を頭の後ろで組み、天井を見つめたまま金縛りにあっているかのように全く動かなかった。また、僕の隣ではカオリが再び鼻をすすって泣き始めていた。部屋の空気は誰一人として自分の思いをきり出すことができないほど、重苦しいものとなっていた。
| 2006年03月11日(土) |
アカイヌクモリ ―――�察檻粥宗� |
話を聞き終えた後も、店を出る時も、シラギを駐車場から見送る時も、母親は一度も言葉を発しなかった。ただ喪服を着た時のように静かに頭を下げるだけだった。そしてカフェを出た時、時刻は十六時を回り空は黒い雲に蔽われているせいか、薄暗くなっていた。また、帰宅ラッシュと重なってしまったために、車は渋滞にはまってなかなか進まなかった。 車に乗り込んでからも相変らず母親は無言で、おまけにカーステレオの音もきられてしまい、車中は完全な無音状態だった。そのせいか、外からのエンジン音やクラクション、街全体が奏でる騒音がやたらと僕の耳を刺激していた。
大きな交差点をいくつか通過し、ようやくスムーズに流れてきたと思った時だった。突然車が左ウインカーを点滅させながら、ガードレールに向かってスピードを緩めた。そして、ガードレールすれすれで停まると、その点滅はハザードランプに変わった。フロントガラスからは、邪魔だ!と言わんばかりに何台もの車が追い越してはチリのように小さくなり、やがて消えていく光景が続いた。 静粛に包まれた車中。僕の右目ギリギリの視界に映る母親は、俯き、太腿に両手を添えたまま全く動かなかった。そして、激しくクラクションを鳴らしていく車にも意識を傾けることはなかった。そんな時、母親が突然僕の肩を両手で掴み上半身を自分の座る運転席に向かせた。それから、あの身体のことを躊躇いながら話した時のような上目遣いで顔を近づけてきた。──視線を逸らさない母親に異変が起きたのはこの時だった。 呼吸困難に陥ったように肩は小刻みに揺れ、茶色のふたつの目からは不規則に小さな粒が零れ落ちた。──信じられなかった。歪みきっている表情をしたその女を、僕は母親だと思うことがしばらくできなかった。 辛い過去を背負っているということもありながら、それまで涙を見せるどころか、弱音すら吐いたことがなかった母親。けどこの時は、とても小さくて弱々しく見えた。強いと思い続けていた人間が崩れていく姿を見た時に抱くいたたまれなさは計り知れないほど大きなもので、それが自分と血の繋がった人間ならば尚更なのかもしれない。 そして、僕の肩を掴み直視したまま嗚咽交じりの声で母親は言った。 「シド……大きくなったね──」 �爐笋瓩蹐茵帖帖A瓩�、帰って飯の支度を──�� 母親が涙を流したという現実を、僕は受け入れたくなかった。また、通り過ぎていく車や歩行者はこの�猗↓瓩涼罎瞭鷽佑鬚匹鵑別椶埜�ていたのだろう? 母親は僕と自分のシートベルトを外し、手の甲で涙を一度拭きとった後、その濡れた手を今度は僕の痩けた頬に添え、続けた。 「……お願い。シド、お願いだから絶対に死なないで!ね、約束して。この身体のままでもいいから……!もう何も望まないから……。私、シドがいなきゃ生きていけない!だからお願い……生きて──!」 僕は母親の腕の中に包まれた。すごくいろいろな感情が込められている気がした。怒り、悔しさ、悲しさ──。また、僕の耳元でやむことなく一段と激しくなる嗚咽は、それまでどれほど母親が多くの感情を押し殺して僕に接していたのかを物語っていた。 「ごめんね……。私今まで勉強教えてあげたり、何か話を聞かせてあげたりだとか、そういう母親らしいことを何ひとつしてあげられなかったけど、本当に愛してたよ……。生意気言いながら成長していくシドを見てるのが毎日楽しくてしょうがなかった。私の生きがいだった。──ねえ、こんなことされるのうっとうしい?そう思ってるんなら言って……。あの頃みたいに。触んじゃねーよバカ!って。言って引っ叩かせてよ──!」 ……僕にはもう、そんなことを思う気力もなかった。何故ならこの時、僕には母親が母親ではなく�爛泪罐澂瓩箸いΠ貎佑僚�に見えていたからだ。 「もう少しだけ泣かせて……。そしたら帰ろ」 僕とマユミはそれから星が数を増やし始める頃まで、オレンジ色のよっつのランプで輝く�猗↓瓩涼罎如△修譴泙農犬�てきた日々には存在しなかった妙な時間を過ごした──。
| 2006年03月10日(金) |
アカイヌクモリ ―――�察檻魁宗� |
「……それでは、コーヒーもきたことですし、そろそろ話を始めましょうか」 一度体勢を整えてからシラギは続けた。 「その前に、いくつかお聞きしたいことがあるので、質問に対してできるだけ詳しくお答えください。大切なことなので」 母親は太くしっかりした声で、はい、と返事をした。──この時、氷の入った淡いブルーのグラスを持つ母親の手が、細かく震えているのを僕は見た。 「……まず、一日四パックの点滴投与は欠かさずされていますか?」 「──ええ。平日の朝と日中は私がやって、夕方というか夜から深夜にかけて、また、休日、祝日なんかの時は夫と娘が共同でやってます」 「薬品の製品ナンバーは毎回確認することをお願いしてますが、ちゃんと一致していますか?」 「もちろんです。ケースだけじゃなく、パックのナンバーも全て確認しています」 「指定されている薬品以外のものを一度でも投与したことはありますか?」 「全くもってございません」 母親の口調には焦りと不安からか、微かに怒りの感情が表れていた。それでもシラギは全く動じることなく緩やかな口調で続けた。 「点滴針は確実に静脈へ入っていますか?」 「それは週に一度の薬品受け渡しの際に必ず先生自身が確認していることですけど……。針の場所を替えた時も同様ですよね?」 「……そうでしたね。すいません。それでは、夜中に無理矢理起こしたりするような不摂生な生活をさせていませんか?」 「私が知っている限りでは、以前夫がストレスから起こった軽いノイローゼで、この子を夜中まで外出させてしまったことがありました。十二月に入ってからだったので体が冷えきってしまっていたために心配しましたけど、それ以外は特に」 「そうですか……。わかりました。では最後です。そのノイローゼの原因となったストレスで、あなたを含む家族のどなたかがシドくんに手を挙げるようなこと、又は身体に負担がかかるようなことをした憶えはありますか?家族以外の人間でも構いません」 「考えたこともありません。それに、そんな人間を家には入れません」 母親はそう答えるとコーヒーを少しだけすすった。そして、身を乗り出すようにシラギへ疑問を投げかけた。 「……あのぉ、先生、それで話っていうのは何なんですか?私の答えたことと、先生の重大な話との繋がりは一体何ですか?」 息が上がりそうなくらい困惑している母親に対しドクターという立場からか、シラギは冷静だった。 「……今日のあなたの様子を見る限りでは、これから私の話すことは全て耳から流れてしまうでしょう。ですから、無駄な言葉は省いて伝えなくてはならないことだけをお話しします。細かいことは後日改めてということに、理解していただけるでしょうか?」 「──私なら大丈夫ですけど……。はい、それでいいです」 シラギの読みは当たっていた。母親は怯えきっていた。微かに震えているだけだったグラスを持つ手は、気づくと中の氷が音を立てながら不器用に泳ぐほど激しくなっていたのだ。シラギは数回大きな溜息を吐いた後、手に持っていたコーヒーカップをテーブルに置き、それから話し始めた。 「シドくんの体重が月に一度の定期健診の度に減っているのは、あなたもご存知のことだと思います」 「──えっ、でもそれは……」 「はい。初診の五月から六月までの一ヶ月間は減ってもおかしくはないんです。というよりも、日常生活の中で使っていた筋肉を全く使わなくなるわけですから、当然のことなんです。しかしですね、ある程度減ってしまうとその後は低迷というか、点滴の栄養だけでどうにか0地点とまではいかないものの、近い状態を保てるようになるんですよ。相当したカロリーを供給しているのですから。それが、シドくんに限っては減り続ける一方なんです。初めの一ヶ月のことはもう忘れましょう。問題はその後なんです。しっかり聞いてくださいね。一般的な生活が送れる人間が減る量としては──当然アップダウンがあるので問題のない数字なのですが、これがシドくんのような患者さんのケースですとかなり深刻なんです。仮に、過去三ヶ月の減り具合がほぼ同じ量ですので、これが五年間継続したらどうなるのか……私なりに推測してみました。あくまでも計算というものだけですけど……。その結果、おそらく五年後のこの時期にシドくんの体重は二十キロを割っていると考えられるんです。身長一七七センチの体がその体重に耐えられることは、私個人的にも医学的な目から見ても不可能といえるでしょう。私もさまざまな方向から考えました。先程訊いたいくつかの質問も、何か原因があってのことだと信じたかったからです。その気持ちを捨てきれなかったからなんです。シドくんの脳の中で起こったことは未だに解明できません。きっと私を含むドクターと呼ばれる全ての人間の手でも、現在のどんな最先端技術でも触れることのできない未知の何かがシドくんの脳のメカニズムを蝕んでいるのだと思います。簡潔的に、いくら栄養を供給してもそれを脳が栄養だと認識できずに不要と指令し、排泄に至るということだと考えています。もちろん、全て流れてしまうわけではないですけど……。これからシドくんの身体に変化が起こるのかどうかということは見当がつきませんが、私の出した結論で、もしこのまま状況が変わらずに体重が減り続けるとしたら、おそらく二十歳まで生きることは極めて難しいでしょう──」 不思議と絶望感はなかった。むしろ心のどこかでずっと待ち望んでいた言葉だったのかもしれない。何の光も見えない生活。考えれば考えるほど現実逃避したくなるような身体──。 �爐笋辰箸海龍貭砲碧萋�からおさらばできる�� 重苦し気にシラギが告げた余命宣告を僕は何度も頭の中で繰り返した。──丁度この時だった。それまで氷が音を立てるほど震えていた母親の手がピタリと止まった。また、その手からは力どころか気力も、魂までもが抜けきってしまっているように見えた。母親にはこの後のシラギの声が届いていたのだろうか……。 「──原因不明ということを逃げ道にしていると思われたくないですし、そんなこと考えてもいませんけど、本当に困難なことなんです。今回のシドくんのようなケースは、二十年以上ドクターをやっていますが過去に例がありません。今私が言ったのは最悪な場合を想定してのことなので、その辺の理解の方を……お願いいたします」 母親は僅かな間も置かずに身を乗り出した。 「先生の言葉の意味が私には理解できません。シドのために全力を尽くして原因解明をしてくれるとおっしゃってたじゃないですか。それなのに……どうして余命宣告なんですか!」 母親はガタガタに震える声を張り上げた。僕は背後から客のOL二人組とウエーターが、何事だ?という視線を注いでいる気配を感じた。それまでグラスを持っていた手は、まるでシラギにすがるようにテーブルの上で半開きのまま硬直していた。──こんな母親を見るのは生まれて初めてだった。 「お言葉ですが、私の医療技術は世界の最先端には到底及びません。それでも先程も言ったように、その世界最先端技術でさえシドくんの今の状況を明確にすることは極めて困難だということなんです。よって私にできることは、今この状況で年をとるとその後はどうなってしまい、それをどう阻止するかを検討し、より効果的な方法で実行することなんです。──すなわち延命です。一日でも長く生きてもらうために」 「それで……シドは?」 搾り出すような母親の弱々しい声に、シラギは俯き額を押さえながら言った。 「……申しわけございません。残念ですが現状では打つ手がこれといってありません。ですが何かをきっかけに打開策は必ず見えてくるはずです。現段階では、それに賭けるしかありません」 「延命なんて……そんなのシドはもう元通りになる見込みがないと言っているようなものじゃないですか!元の身体に……シドに、この子に奇跡は起こらないのでしょうか?」 ダウン寸前の母親に、話術をかけるようにシラギは語りかけた。 「気をしっかり持ってください。それに、考えてみてください。排泄器官が生きていなければシドくんはここにはいないんですよ。そうじゃなくても、ここにいること自体が──。あなたのそう言いたい気持ちは痛いほどよくわかります。それでもね……奇跡というのは起こるはずのないことが起こることをいうのだと思うんです。それは明日にでも突如として起こるかもしれませんし、待ち続けても一生起こらないことかもしれません。それが奇跡というものなのです。それでも断定はできませんが、信じて祈り続けてください。そうすることも大切な治療のひとつだと思いますので。私もドクターという立場ですが、原因追及をしながら祈り続けます。主治医である私がそんな信憑性のないものにすがるようなことを言うのは情けないことですけど……。それとシドくん。君の目は何かを伝えたがっているように僕には見えるんだ。君が目を開いた日からずっとね。それによって君の強い気持ちというか……魂を感じることができた。だからあえて今日はここに同席させたんだ。君の目、拳、魂を思い浮かべて直接伝えようと決めたんだよ。きっと君は全てを受け止められる。その中で何かを生む。それは自分だけの力ではないかもしれないけど、何かを見つけてくれることを僕は信じているから。いいかい、全く望ましいものではないけど、これから五年という時間がある。これが長いも短いも感じるのはシドくん、君の気持ち次第だよ。その考え方でこれからの君の五年は大きく変わるよ。──五年をどう生きるか。君は五年という間に何を自分自身の中で見つけることができるか。──家族、友人に心ごと託すのもひとつの選択肢かもしれない。君をとり巻く人の熱い気持ちには僕自身、心を打たれたことが何度もあったから。きっと君の気持ちを理解してくれる──」 �爐修鵑覆海箸浪兇�一番実感しています。でも、精神面のこととか、そういうことはなしにして、現実的に俺はあんたに何とかしてもらわなければならないんです。こんな生活はもううんざりだと、毎日思っています。でも……それでも俺だってできることなら元の身体になってこの先何十年も生き続けたいんです。それを望むには……それを願うにはあんたにすがって何とかしてもらうしかないんです�� 僕は胸中をシラギに訴えた。 「──最後に、君にとって僕との出会いは最悪の状況の中だったに違いない。それでも僕は、君の主治医になれたことを誇りに思う。君のような男に出会えたことを──。そして、君を全力で支えている家族にも」 シラギは体を前屈みにして母親に言った。その口調はそれまでにないはっきりとしたものだった。 「あなた、それに旦那さん、娘さんのシドくんをどうにかしたいという強い思いに、私は心から感銘を受けました。ドクターとしても人間としてもあなたたちにはずいぶんと救われた気がします。──すいません。伝えなくてはならないことだけだと言っていたのに、長くなってしまいましたね。──時間はまだ十分にあります。シドくんのためにお互い全力を尽くしましょう。この子にとって何が一番ベストなのか、また、何を望んでいるのか……。それと、一日も早く犯人が捕まることを祈っています」
| 2006年03月09日(木) |
アカイヌクモリ ―――�察檻押宗� |
僕と母親が市街地の小さなカフェについたのは、一月九日の十五時過ぎだった。この日は正午前まで晴天だったものの、その後急激に雲行きが怪しくなっていったのをよく憶えている。 ここへ到着するおよそ四時間前、僕と家事を一段落させた母親はリビングでテレビをつけたまま互いに物思いに耽ていた。当然僕は、ヒトミの気持ちを悟ろうとすることに精を注いでいた。 すると、電話の呼び出し音がリビング中を金きり声のように響かせた。母親は、うるせー!と一喝してソファーから腰を上げた。そして受話器を耳元に当てた瞬間、表情が微妙に硬くなりかしこまったような口調で、時々電話機に向かって頭を下げていた。 会話は三分にも満たない短い時間だったけど、母親は受話器を戻した後鼻で深い溜息を二度吐きそれから煙草に火をつけると、しかめっ面をしながら時計に目をやり言った。 「ねえシド……十四時になったらデートに行こう」
カフェが建っている周囲にはこれといって何もなかった。通りの激しい道から一本外れた静かな住宅街にひっそりと佇んでいる感じだ。ログハウスのような造りで僕は一目で、リニューアルをする必要がある、と思った。顧客は地域住民と店に深く馴染みのある人間くらいだろうと、妄想にしろ勝手に経営困難にさせていると、 「えーっと、今日は大事な人に重大な話があると言われてここへ来ました。その大事な人とは──?会ってからのお楽しみでーす」 母親はここにつくまで電話の内容を一切口にしなかった。それでも、あの溜息にしかめっ面──。�狢膸�な人�瓩�誰なのかは大体見当がついていた。それは……僕にとっても大事な人だからだろうか。いや、もしかしたら……。
薄暗い店内に入ると、オレンジ色の照明を浴びた古い木製のカウンターが目に飛び込んできた。そして、車椅子が左に向きを変えると、テーブル席がよっつ並べられていた。 「いらっしゃいませ。お二人様ですか?」 髭を伸ばし、渋い雰囲気を漂わせた中年の男がエプロンで手を拭きながら言い寄ってきた。 「いえ、待ち合わせなんですが──」 母親が僕の真横で腕時計を見ながら言った。 「あちらの方(かた)で──?」 男が手のひらをテーブル席の奥に向けた。 母親は首を伸ばして確認してから、そうです、と男に会釈をして僕を押し、突き当りのテーブル席で止まり、 「遅れました。すいません」 と頭を下げた。そして、 「──あっ、いや、とんでもない。私も今来たばかりなんですよ」 落ちついた様子でシステム手帳を閉じるとシラギは僕と母親に向けて笑顔を見せた。 僕の思惑通り、母親の言った�狢膸�な人�瓩箸鷲堽兪蠎蠅任發覆韻譴仭杏廚任發覆ぁ⊆膽0紊離轡薀�だった。このオッサンにはもう何度も会って見慣れていたけど、僕はその度に、�爐海涼砲倭農欧蕕靴�ジェントルマンだ�瓠△隼廚辰拭K佑�親父以外の中年男をリスペクトするのはシラギだけだった。四十代半ば、白髪交じりでうねり癖のある髪に、浅黒く彫りの深い顔。少年のような何かに飢えているギラついた目。そして、どんなことでも冷静且つ親身に接する献身的な態度。シラギはそんな、ドクターと呼ばれるに相応しい人間だ。この日はがっちりした体型に合ったダークグレーのスーツを着ていた。
「コーヒーふたつ」 シラギはウエーターにそう告げると、今度は向かい合っている僕に身を乗り出して言った。 「明けましておめでとう。気分はどうだい?」 �爐泙◆△椶舛椶舛任広� 僕の言葉がシラギに通じることがないにしても、このオッサンには忠実でいよう、と思う気持ちは会う度に強くなっていた。そして、隣に座る母親は絡まっている点滴の管を直しながらシラギに訊いた。 「ここにはよく来られるんですか?」 シラギは僕と母親を交互に見ながら答えた。 「そうですね。ここは私が今の病院に入った時からあったんです。……ですからもう、通い続けて二十年以上になりますね。今はもう亡くなってしまいましたけど、ここのマスターに若い頃いろいろ相談に乗ってもらいました。──多分、この店の造りと照明でしょう、私をそそらせているのは──心が休まる。客の入りも激しくないから余計ですかね。それが何年経っても変わらないから、いつまでも来ることができるのだと思います」 「──素敵ですね。それで、あの、電話でおっしゃっていた重大な話って──」 「コーヒーがきてからでもよろしいですか?時間が押しているとかでなければ……」 「あっ、はい。大丈夫です」 店内は僕ら以外の唯一の客である二人組のOLの微かな話し声と、洒落たジャズだけが響いていた。そして、コーヒーが運ばれてくるまでの間、シラギは僕の顔をじっと見て母親に、シドくんはどんな少年なんですか?と訊いた。母親は少し考えてから口を開いた。──不思議な答え方だった。 「バカな子ですけど、年のわりには何かといろいろ考えてる子ですよ」 シラギも母親も、僕を過去形にすることがなかった。それは意識的にではなく、もちろん現実逃避して狂っているわけでもなく、本当に自然と言っているようだった。 二人がこの店自慢の挽きたてコーヒーの一口目をすすった時、それまで躊躇いがちだったシラギの口から、重大な話の第一声が静かに吐き出された。
| 2006年03月08日(水) |
アカイヌクモリ ―――�察檻院宗� |
ヒトミが去ってからの一週間は気持ちが異様なほど晴れ晴れしていた。変わり果てた僕の姿を目の当たりにしても、好きだと言ってくれた。これからも一緒にいられる。苦痛で嫌気がさすような生活だけど、あいつの顔を見られるのなら──なんとかやっていける。 それでも、一週間、二週間が過ぎても僕の前には現われない。どうして──? あの突然のキスと、�爐泙人茲襪�ら。だからがんばろうね……�瓠△修Ω世辰燭△慮斥佞砲蓮△曚�に何か別の意味が込められていたのか?……別れ。もしかしたらヒトミはそれを伝えに来たのかもしれない。だとしたらあのキスは?わからない……。本当に終わってしまったのか。もう二度と会うことはできないのか。僕にはもうヒトミを諦める選択肢しか残っていないのか。そう思えば思うほど気持ちは不安一色に変わり、やがてそれは悲しみと怒りに形を変えていく。裏切られたという気持ちと、どうすることもできない自分への怒り──。そんなヒトミへの不信感が募り始めていた頃、僕の前進しない憂鬱な気持ちとは対照的に周囲ではそれなりにいろいろなことが起こっていた。──ひとつは僕の命を左右させることだったけど。 ある休日の夕暮れ時だった。突然、散歩してくる、と親父はマイナス気温に近い風が吹き荒れる外へ僕を連れ出した。夕食に遅れないように帰ってきてよ、という母親の声に返事もせずに。──明らかに親父はいつもと違っていた。気力というか、目に力が入ってなかったし、足どりものんびりというよりただ当てもなく放浪しているようだった。口から出る言葉も、風が強い、寒い、のどちらかで、楽しい散歩とはほど遠いものがあった。 相変らず、行き交う人や車の中の人は僕を物珍しそうに見ていた。もうほとんどの車が窓を閉めきっていて、暖房をつけなくては過ごせない季節に入っていることを改めて感じた。そんな寒さ知らずの贅沢者はこう思うに違いない。�爐海鵑淵�ソ寒い日にも外の空気を吸わせなきゃいけないのか。押してる男もいい迷惑だろうな�瓠� ふと気づくと、見たこともない道を進んでいた。時間も結構経っていただろう。民家は途絶え、デコボコの砂利道の上には落ち葉の絨毯が敷かれ、僕の視界は進む度に上下に揺れた。そして、徐々に狭まっていくその道を更に進むと急な坂道が待っていた。親父は何の躊躇もなしにその坂をグイグイ登り、林道化していく道も無言で進み続けた。息を荒げながら──。 �爐�い、何考えてんだよ。どこまで行く気だ?�� 僕がそう問い質した時には、太陽は完全に沈み真っ暗になっていた。 枝やツルが行く手を阻む、人一人がやっと通れるような道というか、木々の間を抜けきった時、ようやく親父が足を止めた。 「……ここは、隣町との境界だ。廃れてるだろ?」 廃れてる──。そんな言葉では済まない所だ。背の高い木々によって太陽が出ていたとしても多分真夜中と変わらず、乱暴に生い茂った草、足の踏み場もないほど散らばった枯れ木、ゴミ、無造作に置き捨てられ錆びついた看板や標識。薄気味悪くて、この世の果てのように僕には映った。とても僕の住んでいる市の中にあるとは思えなかった。 親父は僕の前で大木に凭れながら煙草をくわえ、何か考え込んでいるようだった。そもそも、どうして親父はこんな所へ僕を連れてきたのか、そんな疑問と多少の恐怖感を抱き始めた時、言葉を詰まらせながら親父は言った。 「シド、ここにお前を置いてってもいいか?俺な……もう、辛いんだ。あいつが──マユミが過剰のストレスの中で無理して平気な顔をして、裏でやつれてる姿を見るのが……。いつも隣で眠ってるあいつを見て、狂っちゃわねえかとか、過労死しちゃんじゃねえかって。そう思うと──」 �犇犬辰討鵑里録読磴世蹇�なすりつけるみてえなだせえ言いわけすんな。けど、俺も母親のことは心配なんだ。──わかった、行けよ�� この時期、この場所なら三日あれば確実に逝けるだろう。点滴も一袋じゃそうは持たない。これから懸命に生きていこう、と思ったけどこんな身体だし、周りのことを考えるとそれがいいのかもしれない。僕は何故か潔かった。親父もそれを読みとったのか、息を飲むように後退りし、闇に紛れながらどんどん姿を小さくさせていった。 それから二、三分後、親父は正気をとり戻し、とんでもないことをしたという表情をしてダッシュで戻ってきた。 「ごめんな!ごめんなシド──!」 そう早口に何度も頭を下げた。こうして死を少し覚悟した僕の二、三分のちょっとした冒険は終わった。 �猖萋�ストレスの中で生きてるからな。狂って殺意が芽生えるのも無理はねえよ。まあ……気にすんな�� 帰宅したのは二三時過ぎ。心配した面持ちで出迎えた母親に、親父は自分の仕出かしたことを話した。もちろん誰のせいでもなく、全て自分が悪いということを強調して──。 黙って話を聞き終えた母親は無表情で、 「今後一切、そういう必要のない気遣いはしないように。うざったいから……」 と呆れたように言い放った後、鉄拳制裁によって親父に全治十日に及ぶケガを負わせた。
ほかには、サジが誘われるがままに身を委ねた女からカンジダ症をもらったり、学校ではつけ上がっていた一部の連中を、いつもなら無関心なはずのリョーキが病院送りにしてしまったりと、いろいろあった。 そしてもうひとつ大きな出来事といえば、赤面症のシンジが自らリョウコに告白したことだった。 初雪が降ろうかというクリスマス間近、一人で訪れたシンジは浮かない表情で僕に、リョウコが好きだと告げた。正確にはあのドライブの日を境にリョウコを意識し始め、惹かれてしまったということだ。それでも、ヒトミにつきっきりのリョウコの姿を見ると躊躇してしまう、というなかなか一歩が踏み出せなかったシンジだったけど、この時盗み聞きをしていた母親の、�爛螢腑Ε海舛磴鵑鮖戮┐討△欧蕕譴襪里魯轡鵑舛磴鵑世韻覆鵑世茘瓠△魴茲畭羯譴箸垢覿�制的な説得でふっきれたというか、うまく乗せられてしまい、結果三日後にリョウコと共に僕の前に恋人同士という形で現われた。また母親の言葉は、シンジがあの事件のショックから完全に立ち直るきっかけにもなった。
シンジに寄り添うように俯きながら、およそ七ヶ月ぶりに見るリョウコはショートだった髪が肩についていて、以前とは見違えたように女っぽく、大人っぽくなっていた。そして、向かい合うように座る僕を自分の知る男だと認めたくないのか、 「シド……?」 そう何度も呼びかけた。シンジは後退りそうな彼女の背中をゆっくりと押しながら僕との距離を縮めさせた。怯えるようなリョウコの目と、魂の抜けきったような僕の目が重なった瞬間、両手で口元を押さえて腰を抜かしたようにリョウコは泣いた。そして、足下が覚束ず崩れそうになった時、シンジはしっかり左腕でリョウコを支えながら言った。 「下なんて向くな。辛いかもしれないけど……ちゃんと見てやれ」 彼氏の腕から離れたリョウコは、しばらく床に座り込んで泣き続けた。その間、僕に目を向けてくれることもなかった……。けど、シンジが四、五本目の煙草に火をつける頃になると嗚咽もやみ、座り込んだまま僕の目をしっかり見つめ、あの事件から自分はどういう気持ちを抱いたか。それによって自分はどう変わったかなど、少し自らのことを話して気持ちを落ちつかせた後、僕の一番気になっていたヒトミのことを話し始めた。 「──正直、シドが求めてるほど話せないかもしれない。元気は元気だよ。ちゃんと学校に来て、授業も受けて、給食も食べてるから。周りの子たちとも喋れるようになってきてるし。でもね、シドのことをこっちから持ちかけることが未だにできないの……。いけないってわけじゃないんだよ。ただ……そうしたことでヒトミがまたおかしくなっちゃうのが恐いの──。だからそれだけはわかって。……あっ、そういえば、へへ、来たんでしょ?これはヒトミから話してくれたんだよ。で、どうだったの?ヒトミとのキスは──。やっぱそれまでしてたキスとは一味違かった?」 その時のことを思い出していた。けどそれをすぐに打ち消した。あれから一ヶ月以上が経ったこの時には切ないという感情しか抱けず、それによって生まれる悲しさ、不信感に耐えられる自信が僕にはなかった。 「──すごく嬉しかったって、そう言ってた。でも、恐いって……。頭がパンクしそうになるって……。今でもね、時々泣きながらシドの名前を繰り返して抱きついてくるんだよ……。ヒトミはシドのこと大好きなのに、どうしてここに来れないのか、私は本人じゃないから心の中まではわからないけど、絶対に来るから──。ただ今は、躊躇しているだけ……。だから信じてあげて、彼女のこと。──シドなら大丈夫だよね。ヒトミの気持ち、わかってあげられるよね。私も、あの子を傷つけないようにしながらがんばってみる。だから、シドも負けちゃだめだよ──」 リョウコの言葉に嘘はないにしても、僕はヒトミを信じて待つべきなのか、それとも別れたんだと自分に言い聞かせ、振り返ることをやめて生きていくべきなのか、わからなかった。現実的に見てどっちも辛いことだったけど、後々気づいたこととしては、日づけや天気が変わるように僕の気持ちもそのつど変わるということだった。無意識の中で待っていたり、それとは逆に来るわけがないと開き直ったり、時には落ち込んだり──。 けど�牋Δ径海韻覘瓩箸いΦせ�ちだけは変わらなかった。というよりも変わるはずがない。これだけは曲げてはいけないこと。そう自分で思い込み言い聞かせることが一番の安定剤なのかもしれない。
シンジとリョウコが訪れた日から間もなく、世界中がクリスマスというくだらないイベントで賑わった。そして、警察が犯人像を描けることも、僕の身体に変化が起こることも、ヒトミが訪れることもないまま、年が明けた。 一九九五年は、僕の中でひとつの人生が終わり、ひとつの人生が生まれた年でもあった。全く望んではいなかったけど──。 迎えた一九九六年、�爛魯奪圈璽縫紂璽ぅ筺辞瓩隆心遒寮爾蓮∨佑砲箸辰萄討喊靴燭紛斌未魴泙┐襪海箸悗侶拆發箸覆辰拭�
| 2006年03月07日(火) |
シドの回想 ―――4――― |
何か……静かだね
本読む所だからな
で、どうしたの?これからお昼休みは一緒に読書でもしませんかっていう 話?
そんなんじゃねえよ。……まあ、あんま回りくどい言い方してもしょうが ねえから、ズバッと言うぞ
う、うん。ズバッと、男らしくね
──俺の女になってくれ えっ?
聞きとれなかったんならもう一回言うけど
お願い……
俺とさ、つき合ってくれねえか?
──本気?だってユリナさんは?
ふっきれたから今ここで話してんだろ
……そんな簡単にあの人のこと忘れられるの?引きずってないの?
もう何でもねえよ
そう……。こんな所で告白されるなんて思ってなかった。──すごく嬉し い
でもやっぱ……調子よすぎだよな?
そんなことないよ。でもね……ちょっと遅いぞ�爛轡鼻Ε凜�シャス��
……悪い
これからよろしくね。あんま今と状況変わらなそうだけど
そんな気がするな
ねえ、もう少しここで話してから教室に戻らない? この時間をもっと大切 にしたいから……
もちろん、そのつもりだけど──
| 2006年03月06日(月) |
アカイヌクモリ ―――�此檻供宗� |
しっかしよくメシ食った後すぐに廊下走ったり、あんなにはしゃげんな。 考えらんねえ
試しに交ざってくれば
バカ言ってんじゃねえよ。今あんなに動いたら間違いなくリバースだ。顔 にかけるぜ
汚い!──あっ、ちょっとこんなとこで煙草吸わないでよ
くわえてるだけ
片手にライター持ってるでしょ!火までついてるじゃない。──ねえ、外 に行かない?
外?
うん、散歩したい
ちょっと面倒くせえかも。煙草吸っていい?
外!ならね
……いいんだ?
今日は天気がいいね。すっごく気持ちいい
煙草がうまい
そんなことばっかり。──そういえばさ、三時限目だったかな、サジが教 室を出てしばらく戻ってこなかったんだけど、何かあったのかな?
ああ、トミナガに呼び出し喰らった
シドも?
そう、五人
え、何で?
第三高校のヤローと揉めた話、したよな。それが学校にまで回ってきて状 況を説明しろって感じで。まあ、どうってことなかったけど
先生に変なことしてないよね?
……ちょっと脅したくらいっす
バカ!やめなさいそういうことするの
申しわけない
罰として、今日は一緒に帰りません
ずいぶんと軽い罰だな
もう!でも悪いけど今日は本当に帰れないの。リョウコの相談に乗らなき ゃいけないから。学校終わったらそのまま二人で帰るね
そっか、わかった
ごめんね。──それで、シンちゃんにはもう話した?
いや、まだなんだ。なかなか二人になる時がなくてさ もし無理そうだったら電話でもいいよ
それはだめだな。あいつの赤面する顔が見たいから。それだけが楽しみだ からよ
悪趣味だね
「──あの日はリョウコの家に行くからって、下校の時もシドにバイバイもしないで帰っちゃったんだよね……。ごめんなさい──!まさかこんなことになるなんて、あの会話が最後になるなんて考えてもいなかったから──。ずっと……ずっと続くと思ってた。明日になればまたシドと一緒にいられる、週末にはどこで何をしようかって話もできるって──」 �牴兇世辰董帖弔修Δ世茘� 僕らはそこらにいる、どこでもイチャつき一センチすら離れられないようなアホカップルではなかった。一日�牾惺鮫瓩箸いζ韻厳�物の中にいて、一度も話さないどころか顔を合わせなくたって寂しいとは全く感じなかった。心には常に留めてあったからどこにいても、しばらく会えなくても特に気落ちすることもなかった。けど、こんなことになるのだったら常に腕が触れる距離でいればよかった……と僕は俯き涙を零すヒトミを見ながら後悔の念を抱いていた。 「次の日の朝、シドのお母さんから連絡が入った時、私……ショックで頭の中が真っ白になって倒れちゃったんだ。それから四日間はベッドから起き上がることもできなかった。食べ物もほとんど喉を通らなかったし。二十日間くらいかな……ずっと寝込んでて誰とも会う気がしなかった。これは悪い夢なんだって自分にそう言い聞かせてたから、そこに入ってこようとする人は親でも友達でも拒絶した──。自分でも何でそこまでする必要があるんだろうって思った。あのリョウコにさえ──。それから、やっと学校に行けるようになったけど正直、行ってもいい状態じゃなかった。教室に入った途端に吐き気がしたり、酷い時は校門に入る前でそういう症状が出た時もあったんだ……。もうどうにもならなかった。立ち直らなくちゃいけないって思ってても涙が止まらないし、身体が私の気持ちを拒むの──。どうしたらいいのかわからなかった。もしかしたらこのまま、自分の意識が手の届かない所へ行っちゃうんじゃないかって──。そんな時でもね、ずっと傍にいてくれたのがリョウコだった。急に泣き出したりしちゃう私をなだめてくれたの。ほとんど毎日だったから……本当はすごく嫌だったと思うんだ。でも、本当に優しくしてくれた。リョウコは──サジとかみんなもそうだけど、ずっと私を支えてくれてたんだよ……。そのおかげでなんとか普通の生活ができるようになってきたんだけど……でも、やっぱりだめなの……!シドがいないと私は何もできないの。シド……ねえ、どうしてそんなに遠くを見てるの?そんな方に、私はいないよ……」 僕は……生まれて初めて心の底から慟哭した。体が震えることも、涙腺が緩むこともなかったけど──。この時以上に気持ちが伝わらない、伝えることができないことが辛いと思ったことは一度としてない。 「本当はね、誰よりも早くシドに会いに来たかった──。サジはシドのお母さんから、来てもいいっていう連絡が入った後すぐ私に言ったの。『明日からシドに会えるぜ。……無理にとは言わない。ただ、シドが待っているのはお前なんだから』って──。すごく迷った。恐かったから……。私の知っているシドじゃなくなってたらって考えると、恐くて動けないくらい全身の震えが止まらなかった。でも乗り越えなくちゃいけない。私はシドの女だから──」 ヒトミは立ち上がり、目線を外さずに太ももに添えてある僕の手を握った。そして、自分の胸までそっと持っていった。ヒトミの心臓がドキドキしていたのかどうかはわからない。でも、目は真っ赤に充血して頬や小鼻は涙で濡れていた。 「好き……好きだよ。今まで一度も口にしたことがなかったけど……大好き。でもちょっと遅いかな?……ねえ、シドは次のデート、何をしようと思ってたの──?」 �爬; �?�� ヒトミの唇が僕の唇に重なるまでの時間は、瞬きも許されないほど一瞬のことだった。気づいた時にはキメ細かな肌と、閉じた瞼から流れる涙が映っていた。あまりにも突然のことで、僕は微かに聞こえるヒトミの細い息遣いを耳にしながら気を落ちつかせようとしていた。ヒトミは瞼を閉じたまま時々、嗚咽により体を震わせていた。 僕とヒトミがキスをしていたのは時間にしてどれくらいだっただろう。五分、十分、いや、それ以上かもしれない。そんな時間の感覚を忘れてしまうほど、唇を重ね合っている間は�牘扮鶚瓩謀�しかった──。何も考えることができない、考える必要のない別世界だった。唯一�牋Ν瓩箸いΔ發里世韻�存在していた気がする。 「──また来るから。だからがんばろうね……」 ヒトミは唇を離すと僕を抱きしめた。──あの時、僕がしてあげたかったように、両手いっぱいに。そして、好き、と耳元で囁いた。 抱きしめられている感触はなかったけど、その重圧は心が張り裂けるほど強く感じた。 ゆっくりと扉に向かうヒトミは、歩を進めながらも僕をずっと見つめていた。その目は毎晩のように夢に出てきたあの同情や哀れんだ目ではなかった。何かを誓うような目だった。それから、扉の前で立ち止まったヒトミは照れたような微笑を正面の僕に送った後、静かに扉を閉めた──。どんどん小さくなっていく足音を聞きながら、この音が再び僕にに向かってくる日は本当に訪れるのだろうか、と少し不安な気持ちを抱いていた。それでも�爛�ス�瓩箸いβ�りものの余韻に僕は完全に心を奪われていた。 ヒトミの変わらぬ気持ちを僕は真っすぐに受け止めた。ヒトミがいてくれればがんばれる、何とかやっていける……。 けど、この日を最後にヒトミは僕の前から姿を消した。
| 2006年03月05日(日) |
アカイヌクモリ ―――�此檻機宗� |
十一月初頭の空は晴天が続いたものの、頻繁に雲の隙間から僕ら人間の感情を弄び楽しんでいるかのように太陽が見え隠れをしていた。窓から見える隣の家のモミジも紅葉を迎えようとしていて、秋という季節を感じずにはいられなかった。早いもので、僕が戻ってきてからもう二ヶ月が経過していた。そして、季節が変わっていくように僕の心にもそれまでにない変化が起こり始めていた。とても大きな変化が──。 あの日、ヒロトが言った言葉によって僕の気持ちは一変した。�犹爐砲燭き瓩箸いΥ蕎陲靴�なかった状態から、�狄匹�ても、周りでどんなことがあろうとも生きていかなければいけない�瓠△箸い�執着心のようなものを持つようになっていた。家族、仲間、ヒトミも?──が僕のことを想って流した涙。それは�狎犬�ろ�瓩箸いΔ海箸鮨爾�植えつけてくれた。それによって拒み続けたことを悔やみ、何もできないけど僕にとって�狎犬�よう�瓩箸いΦせ�ちを持つことは、周りの人間へ恩返しをするという意味合いでもあった。そして、奇跡が起こることを信じて──。とはいうものの、全身麻痺が地獄と同じものだという現実は全く変わることはなく何度も、�狒瓩�死なねえかな�瓠△隼廚辰討い拭�それでも、家族の会話や以前の噛み合いをとり戻しつつある四人と共に笑うことができるようになっていた。面会がスタートした十月八日から単独で訪れることがほとんどだった四人も不思議なことに、僕の心が変化していくのと沿うように次第にまとまって来るようになり、ぎこちなさも日を追うに連れて消えていった。──シンジを除いては。 激痩せしていた体と血色の悪かった顔も元に戻りだし、笑顔を見せたり、自分から話題をきり出したりしていたけど、どこか不自然であの事件からシンジは完全に立ち直っていない気がした。それは僕だけでなくほかの三人も感じているようだった。その証拠として、シンジの口からはリョウコの話が一切出なかった。彼自身、それは何よりも大事なことだと一番わかっていたと思うけど……。三人も気遣ってリョウコのことに関しては意識的に避けているように見えた。また四人を見ることで、気だるく、まともに行く気もしなかった学校へ偽りなく心から行きたいという気持ちになったり、堅苦しかった学蘭にも無理矢理でもどうにか袖を通したかった。そんな繰り返しの毎日で息苦しく感じていた生活が、どんなことよりも大切でかけがえのないものだと、こんな身体になってから知ることになるとは──皮肉以外の何ものでもなかった。
植物人間として懸命に生きよう、そう思う気持ちの中で唯一膨脹していく膿のように抜けきれないでいたのは──五月二九日以降、一度も僕の前に姿を見せない�猯�人�瓮劵肇澆里海箸世辰拭� ずっと気になってはいたものの、それ以上に絶望感からヒトミのことよりも死ぬことを優先的に考えていた。それが、気持ちが一変したことによって彼女を思う時間は起きている間だけにはとどまらず、ほぼ毎日夢の中にまで現われた。夢だとわかっていてもそれは現実以上に現実味を帯びていて、二人で過ごした日々や話したこと全てがひとつの塊のように凝縮されていた。そんな夢の中で僕はいつも嗄れるほど大きな声を出して、手を伸ばせば触れることができるくらい近くにいるヒトミへ叫ぼうとする。その叫び声は、悔やんでいることを懸命に全身で伝えようとしていた──。
一月の骨の髄まで凍りつきそうな真夜中だった。僕は突然の電話でヒトミに呼び出され、彼女の家の前にある外灯の下でユリナとの関係を絶つように激しく強要された。僕は……ユリナとセックスをしたいがためにそれを拒んだ。ヒトミの僕を愛する気持ちに──限りなく純粋に愛してくれている心に気づいていながら──。何故あの時、僕は�狄喚瓩任呂覆��狷�体�瓩鯀�んでしまったのだろう。心がひとつになることなどないと初めからわかっていたのに。どうでもいいとすら思っていたのに──。数時間後、僕とヒトミはすさまじい睡魔に襲われて明け方まで吹雪くような寒さの中で眠ってしまい凍死寸前だった。その時もヒトミの腕は僕の体に回されていたけど──僕は、抱きしめてあげることもできなかった。それどころか、体に回す腕を何度もはね退けるように外した。そんなことをされたヒトミはどんなに傷ついただろう。……本当は力いっぱい抱きしめてあげたかった。優しい言葉もかけてあげたかった。けど、くだらないプライドのせいでそれを拒んでしまった。──この気持ちを自らの言葉で伝えることもできない、これはどんなに悔やんでも一生悔やみきれないだろう。また、その後つき合うことになっても、この時のことを一度も口に出せずにこんな身体になってしまったことも──。 そんな後悔という名の舞台でしかない夢の中で僕がいくら声を張り上げようとしても、口いっぱいに何かを詰め込まれたように言葉を封じられ、体は現実と同様、型にはめられたように一歩も動くことができない。声を発することも身動きをとることもできずに、強張った顔をして目の前のヒトミを見ていると、彼女は同情というか、哀れんだような目をしたままどんどん遠退いて行き、姿も見えなくなってしまう。その途端、僕は全てが終わってしまったという失望感に押し潰されそうになる。ヒトミはもう二度と僕の前には現われないだろう。あの夜のことを謝れなかった──。せめて�牋Δ靴討い覘瓩箸いΩ斥佞世韻任眦舛┐燭ぁ�いや、伝えるべきだった。僕は後悔からくるいたたまれなさで全身が震えだし涙する。それでも動くことができない……。 こんな夢が毎日のように続き、その度に思った──。ヒトミは今、どんな表情をして何を考えているのだろう。身体は平気なのか。僕のことを想ってくれる気持ちはまだあるのか。まさか、新しい男を見つけて──。クラスメイトのサジは、僕が自宅療養になって面会ができるようになったことを伝えてくれたのか。 �爛劵肇漾�会いたい……�� 「シド──!」 突然目の前に現われた母親は、顔を硬直させて無言のまま僕を車椅子に移して部屋へ向かった。ヒトミに想いを寄せることに全神経を注いでいたせいか、インターホンの音はまるっきり耳には届いてこなかった。 「シド、よかったね──。何か、私の方が緊張してきちゃった……。来たよ」 その言葉は僕を�犂遒哭瓩箸いΔ修譴泙任砲蝋佑┐蕕譴覆�った感情にさせた──が、当然それだけではなかった。ヒトミが来るということは、変わってしまった姿を見られる恐怖心。言葉を発せられない、気持ちを伝えられない焦燥感。それと、彼女の僕への愛情が僕自身によって奪われてしまうかも──という絶望感と隣り合わせだったからだ。……ただ、 �犧�はそんなこと考えてる場合じゃねえ。やっと会えるんだ……。それに、今日が二人にとって最期の日になるかもしれない�� ぼくは考えたくもないそんなことを思いながら扉に背を向けてヒトミが入ってくるのを待った。そして、何もできないにもかかわらず、髪はちゃんと立っているのか。顔にゴミはついていないだろうか。鏡を見ておくべきだった、と考え込んでしまい、おかしいほどに自分が動揺していることを改めて実感した。 五分、十分、正確な時間はわからなかったけど、世界を動かしている�猊鱈瓩鳳瑤�ぶら下がっているのではないか、と思ってしまうくらい待ち遠しく時が止まっていた。 �爛劵肇澆枠發慮�こうでノブを回せずに立ちすくんでいるのか。それならどうにか俺が──�� 動かぬ体を気持ちのまま動かそうとした時、ギギッという音と同時に扉がゆっくりと開いた。その床が軋むような音はホラー映画のワンシーンを思わせた。 扉が開いてからしばらく経っても歩み寄って来る気配はなく、僕にはヒトミが扉の前で呆然と立ち尽くしているビジョンが浮かんだ。それから一歩、また一歩とスローモーションのように背後から近づいてくるのが直視しているようにわかった。けど、本当に迫ってきているのはヒトミなのか、僕は疑いの気持ちを捨てきれずにいた。そのくらい実感がなかった。こういう状態になってからヒトミと会うということの──。それは距離が縮まるに連れて増大していた。 「久しぶり──」 その言葉が僕に投げかけられた時、車椅子に座る体がゆっくり一八〇度回転した。そして、普通なら扉を捉えるはずのふたつの目は別のものを捉えていた。──セーラー服とその中心に垂れ下がる白色のタイ。……ヒトミだ。彼女の手は僕の肩にかけられていた。体が回転してからしばらく経ったけど、二人の体勢は全く変わることはなかった。 それから僕とヒトミの目がまるで合わせ鏡のように重なった時、僕のあらゆる感情を揺さぶる空間はアイスピックのように鋭利なものでメッタ刺しにされた。 ヒトミは目に涙を溜めたまま精いっぱい、笑顔を作ろうとしていた──。 肩まで伸びた仄かに明るい艶のある細い髪。引き込まれそうな大きな目。自分ではあまり好きではないと言っていたけど僕は大好きだった整った鼻。いつでも笑顔を絶やさず弧を描いていた唇と、その端にくっきりと出るえくぼ。この時も微かながら薄らと出ていた。僕はヒトミの顔のパーツひとつひとつをとって確かめるように彼女に見入っていた。五月二九日からこの日まで一度も見ることがなかったヒトミの顔は、サジの言う通りげっそりと痩せてしまい表情も暗かった。けど──ヒトミには変わらない。 目が合った瞬間から潤みを増していたヒトミの涙は、目を強く閉じた途端に止めどなく滴り落ちた。そして──僕の名前を繰り返し叫びながら泣き崩れた。 ヒトミはしばらく顔を上げることができずにいた。僕の耳に届くのは、それまで聞いたことのなかった彼女の悲鳴に似た泣き声だけだった。僕はそんな目の前に跪く�猯�人�瓮劵肇澆了僂鮓�て声をかけるどころか、何もしてあげられない自分を心から情けなく思った。自らが選択してしまった誤った生き方。それによって流される僕をとり巻く多くの人の涙。その中でも、最愛の人の涙をただ黙って見ているほど辛いことはない。何もしてあげられないのなら尚更だ。僕は動くはずもない体だとわかっていながらもそのいたたまれなさで、初めて自分の置かれている状況を母親から聞いた時のように激しく、目に見えない鎖を外そうとした。 �牾阿譴襪錣韻佑─帖帖�そんなことはわかってる。でも、外さなきゃいけねえんだ!外さなきゃヒトミは──�� もう一生ここへは姿を見せなくなる、そう思った時、泣き崩れていたヒトミはしゃくり上げながら口を開いた。震えながら小さな声で──とても小さな声で……。 「……起きて。起きて学校に行こ。二人でリョウコとシンちゃん、早くつき合わせてあげようよ。それから……私も峠に連れて行って。──お願い。もう嫉妬したり、わがまま言ったりしないから……ね、だから起きてよ。シド……どうして何も言ってくれないの?何か言って……。嫌だよ、こんなの嫌だよ──!どうして?どうしてこんなことに……。会いたかったよ、シド──。私ね、あの日から未だに一歩も動くことができないの。──覚えてる?最後に喋った時……二人で学校の周り散歩した時のこと……」 �爬;)困譴襪錣院△佑┐世蹲�
| 2006年03月04日(土) |
シドの回想 ―――3――― |
こんな時間にどうしたんだよ。つーかお前、日づけ変わるまで起きてらんねえって前に言ってよな。電話とってびっくりしたよ。で、話って何だ?
そんなに急かさないでよ。起きてるはずもない時間に起きてるってことは……どういうことなのかシドにはわかる?
……わかんねえ
眠れないくらい考え込んでることがあるの……!
だからそれは何だよって訊いてんだろ。それより外灯の下にでも移動しねえか?いくらコンパクトな十字路って言っても、ど真ん中じゃ車が来た時轢かれるぜ
うん……
暗くてわかんなかったけど、そんなに落ち込むようなことなのか?顔がそう言ってるけど……
──ユリナさんとは、今の関係……ずっと続くの?
あいつが卒業するまでな
何それ?
何って、それがユリナと俺の契約だから
そんなのやめなよ!遊ばれてるだけじゃない!
そんなこと最初っから知ってるよ。でも、俺は別にそれでもいいと思ってるから全然構わない
私がよくない!そんなの、絶対許さない……。つき合えないんだよ?
そんなのまだわかんねえよ。一月だろ?あと二ヶ月もある。まともに告白したらオッケー出るかもしれねえぜ
あの人がそんなシドの感情なんかに左右されるとでも思ってるの?
少なくても、ユリナのことはヒトミ以上にわかってるつもりだぜ、俺は
そんな言い方しないで。辛いんだよ、私……。シドが毎日のようにユリナさんと一緒に帰ってるとこを見るのも。その後何をしてるのかを考えるのも……
そんなこと言われてもさ、俺──
私の気持ちも考えて……私の気持ちにも気づいて……
──おい、腕を退けてくれ。……俺は今、ユリナのことしか考えられない。遊ばれようが何をされようが、そんなことは承知してる。ユリナがどういう女なのかもわかってる。──だから離れてくれ
じゃあせめて……せめてあと少しだけこのままでいさせて。そのくらいの時間、私にもちょうだい。……あと、今この時間、凍えちゃうくらい寒いし私はすごく惨めな気持ちだけど、二人でこういう時間を過ごしたこと、絶対に忘れないでね。シドはすぐ忘れそうだから
……凍死しても知らねえぞ。──もう勝手にしてくれ
| 2006年03月03日(金) |
アカイヌクモリ ―――�此檻粥宗� |
ヒロトが訪れたのは、セイゴが戯言をぬかした日からおよそ二週間が経とうとしていた時だった。その間、サジ、リョーキ、シンジは一緒ではなく、単独で顔を出した。サジはあの時の涙が嘘のように喋り通し、リョーキは学校であったことなど必要なことだけを伝えてあとは黙っていた。そして、シンジは相変らず下を向いたまま僕の目を見てくれることはなかった。
この日、カオリは在学している高校の創立記念日で休みだったため、僕の介護を母親に代わって全てやっていた。その母親は、カオリがいることをいいことに二度寝、三度寝という有様だった。 十七時から始まる連続ドラの再放送をカオリと見ていると、玄関から鳴り響く人をバカにしたような間抜けなインターホンが喚きだした。疲労のせいか、重い腰を上げるように玄関に向かってリビングを出たカオリだったけど、ほんの数秒で何故か青白い顔をしながら戻ってきた。 「ヒ、ヒロトくんが……来てる。恐い、睨まれたよ……」 �犲採蕕世福�あいつは元からそういう顔だ�� 「どうしよう……。いいよね、上げても?」 カオリはそう言うと、困惑した表情で再び玄関へ向かった。この直後、ヒロトの人相の悪さに圧倒されてしまったカオリは、母親から再度忠告されていたことを忘れていた。それは、 「シドの訪問に誰か来たら、家に入れる前に必ずあいつを部屋まで移動させるんだよ。シドの前だけでしかできない話もあると思うから」
カオリとヒロトは一緒にリビングに入ってきた。それまでにないパターンだったけど、ヒロトは僕の姿を見ても全く動揺していなかった。また、冷酷という言葉すらをも超えてしまいそうな冷ややかな表情は相変らずだった。そんなヒロトの威圧感から逃れるようにカオリはテーブルに置いてあった私物をそそくさと手にとり、 「ご、ごゆっくり」 と足早に自分の部屋へ向かった。ヒロトは無言で軽く頭を下げたけど、カオリはそんな動作を見る余裕もなかっただろう。
「おい、葬式はまだか?」 �爬;,佞兇韻討鵑里�?テメー……�� そのあまりにも心無いヒロトの第一声に、僕の気持ちは瞬く間に怒りへと変わった。その気持ちを煽るように、ヒロトは煙草に火をつけながらリビングを徘徊し始めた。僕はそんな様子を見ていて不意にヒロトが何を考えているのかを悟ることができた。 �爐海い弔浪兇鮹膣屬世隼廚辰童�てねえ。植物人間っていう目だけだ。学校にいる間中、医学書を積み上げて読んでいるのも、ただ偶然に親しくしていた奴が植物人間になってそれに興味を持っただけだ。何てふざけたヤローだ……!�� しばらくしてヒロトは煙草を消し、徘徊をやめて僕の目の前に立った。そして、二、三分、目を逸らさずに見続けた後、頭、首、点滴がささっている鎖骨付近、それから全身をまるで重病患者を診る医師のように凝視した。 �爐笋辰僂蠅海い弔蓮▲謄瓠爾龍縮K椣未世韻任海海僕茲燭鵑澄�ふざけやがって……!こんなヤローはもう仲間でも何でもねえ�� 、そう思いかけた時、ヒロトは僕の目元に手を当てて視界を遮った。真っ暗になった視界の隅から入ってくる微かな光が、ヒロトの深く食い込んでいる手相を浮き上がらせていた。そして、いつもの無感情な口調で聞きとれないほど小さな声で言った。 「やっと俺より低くなったな、いいことだ。……お前をやった奴は、俺とあいつらでどうにかする。それと──俺は、医学用語も人間の身体の内側がどういう仕組みになってんのかも全然知らねえ。それでも……お前の身体は……俺が治してやる。──根拠も何もねえけど。だからそれまで、何があってもぜってー死ぬんじゃねえぞ」 ヒロトはゆっくり手を放した。僕の目には学蘭の第三、第四ボタンが映っている。 �狄∧�人間�瓩箸い�新しい人種に生まれ変わったような扱いを、僕は僕をとり巻く全ての人間からされてきた気がする。もちろん自分自身もそうだった。そしていつしか�牴椎柔��瓩箸いΔ發里鮨瓦涼罎�ら消し去ってしまった。身体が元通りになる可能性を──。たとえ、それが限りなく無に等しいとしても。ヒロトはそれをいつもと変わらぬ憎たらしい無感情な口調で甦らせてくれた。僕は、ヒロトと絶縁まで考えていた自分に心から嫌気がさした。そして──ヒロトの言った言葉を、僕は一生忘れない。根拠がなくても──ヒロトならきっと何かすごいことをやらかしてくれるに違いない。たとえ身体が元に戻らなくても、誰にもできないようなことを──。 「じゃあな」 ヒロトがいたのは、十分も満たない短い時間だった。それでもこの十分は意識が戻ってから僕に圧しかかった地獄のような苦痛を埋めてくれるには十分すぎるといってよかった。 ヒロトの小さくも大きい背中を、僕は姿が見えなくなった後も追い続けていた──。
| 2006年03月02日(木) |
アカイヌクモリ ―――�此檻魁宗� |
三人が訪れた週の最終日、リビングにいた僕に親父は困惑した表情を向けた。 「なあ、見たことねえ奴が、お前に会いたいって来てるんだけど……」 「四人の誰かじゃなくて?」 母親が口を挿んだ。 「いや、四人だったら俺にもわかるから。セイゴっていえばわかるって言われた」 「えー、セイゴなんて聞いたことないよ。カオリ知ってる?」 「何で私が知ってんのよ」 ──知らなくて当然だ。セイゴは一年の初期に僕ら五人とつるみ始め、期間限定商品のように僅か数ヶ月で去っていったのだから──。 中学へ入学してすぐに、サジ、シンジ、リョーキ、ヒロトと交友が深まり徐々に腹を割って話をし始めていた頃、気づくと必ず輪の中に入っている奴がいた。ルックスも普通、特にこれといって光るものもなかったけど、セイゴは五人にはない優しさを持っていた。──どんな優しさだったか、そんなことはもう覚えていないけど、セイゴという男は好奇心をそそらせるようなスパイスが全くない奴だった。争いがありそうな時は勃発する前に必ず逃げて、何でも正当化しようとした。それだけならまだしも、僕らと気の合う話が何もなかった。そんな仲ですらセイゴは僕らと一緒にいたがっていた。僕らも、そこまでしていたいのなら無理に外すことはない、と言って仲間として見ていた──が、サジがセラダを仕留めた直後から、ピタッと話しかけてこないどころか、近づかなくなった。そして、仲間も変えていた。僕らはそんなセイゴを引き止めることはもちろんのこと、責め立てることもしなかった。セイゴは僕らに対する三年の報復が恐くて離れていったのだ。それは仲間の誰もがわかってた。いずれはセイゴの方から離れていくということも──。 そんなセイゴが、一年以上も口を利かなかった僕の所へ何故訪れたのか? �牋豈�友達だったから、なんて理由じゃねえだろうな。もしそうなら虫のいいヤローだ。俺は会いたくもねえ�� この日は、休みだった親父がリビングから部屋へ僕を移動させた。 「同じクラスの奴?せっかく来てくれたんだから、とりあえず会ってやれよ」 そう言って親父が部屋を出た後、セイゴは顔を下に向けて目をキョロキョロさせながら歩み寄り、僕のすぐ隣りで立ち止まった。黒と赤のアーガイル柄のセーターにチノパンという姿で。 「ひ、久ぶり……」 この時点で嫌でも耳に入ってくるセイゴの声に、僕の苛立ちはピークに達していた。そんな僕の気持ちを全く無視して、思い出話をするような口調で語りかけてきた。 「何か……とんでもないことに、なっちゃったな……。一年の二学期以来だよ、シドに話しかけるのも、こんなに傍に寄るのも。──本当は、行くか行かないかすごく迷ってたんだ。それでリョーキと俺、同じクラスじゃん。だからあいつに、俺は行ってもいいのかな?って訊いたんだ。そしたらあいつ、『そんなのテメーの意思で決めろ、俺に振るな』って言われちゃったよ……。俺さ、お前らといると自分も周りから、恐いとかヤバイとかって注目されるんじゃないかって思ってた。だから相手にされなくてもくっついてたんだ。──でもさ、ついていけねえよ……。いつ誰に殺られてもおかしくない状況で、俺は毎日ビクビクしながら学校に行ってた……。おまけに周りの奴からは避けられて、話しかけても偏見の目で見られて……。その時、クラスの奴らだけには見放されたくないって思って──友達を変えた……」 �狒瓩�帰れよ。誰もそんなくだらねえ話、聞きたくねえんだよ�� 立ちすくんでいるセイゴに、今度は気持ちが伝わった。セイゴは扉に顔を向けて溜息をひとつ吐いた。 「ごめんな。こんな話しても何の意味もないよな……。でも俺、今日ここに来てよかった気がする。シドは気分悪いかもしれないけど……。それじゃあ、お大事にな」 何の意味も持たない訪問が終わった。セイゴとは全くといっていいほど思い出がないせいか、奴が帰った後僕の頭に居座ったのは、ちょっと前まで聞いていた声ではなく、リビングから聞こえてくるテレビの音だった。
「お前の友達にしては、珍しく普通の奴だったな」 親父が部屋へ入ってきた。 「お前は──ちょっと飛ばしすぎたかもな。平凡に生きるってことは、本当に難しいんだ。一度外れるとなかなか戻れない。俺もそうだったから……。でもお前の生き方、好きだったぞ。俺が望んでいた──なって欲しかったガキそのものだった。自由気まま、んー……好き勝手っていうのか」 �猜針泙平誉賢瓩箸いΠ嫐�がこの時初めて理解できた気がする。それがどれほど難しいことかも──。あの卒業式前日、トラックの荷台でユリナが言った、�猖淇佑�歩くようなレールの上になんて絶対に乗っちゃだめだよ�瓠△箸いΩ斥奸�あれはそんなに難しいことではなく、考え方を変えたり努力をすればどうにかなることではないのかと僕は思った。──その気持ちは今でも変わることはない。 親父の言葉が痛烈に僕の心に突き刺さったのと同時に、平凡というか、安全な道を選んだセイゴが僕には妬ましく見えた。
| 2006年03月01日(水) |
アカイヌクモリ ―――�此檻押宗� |
翌日、僕は二四時間前にシンジの流した涙と、リョーキのあの厳つさの中にあった、人の身体を気遣う意外性を空想の世界であったことのように思い浮かべていた。二人に自分の貧弱な姿を硬直されるほど見られたことで、僕の精神状態は最悪だった。シンジのように跪いて泣きじゃくりたかった。揺れ動いていた�狎犬�るべきか�瓩箸いΦせ�ちと�犹爐砲燭き瓩箸いΦせ�ちは最早、選択する気力をもなくすまでにすさんでいた。 �爐發γ�も来てほしくない。来たところで誰一人、俺を人間として見てくれはしない。──同情して、泣いて、最後に励ましの言葉をかけられても、それは苦痛な一日に上乗せされる苦痛に過ぎない。だったら何も望まない。どんな言葉も聞き入れずにひたすら死を望み続ける──�� 誰に語るわけでもなくそんな言葉を走らせていると、この日初めてのインターホンがリビングを響かせた。その時リビングを離れていた母親は、鳴り響くインターホンに、はーい、と返事をしながら玄関へ向かった。そして、前日と同じように壁一枚挿んだ籠もり気味な会話が聞こえてきた。 「おっ、久ぶ──ちょっと、歩き煙草やめなさいよー。近所の奴らにばれるとうるさいんだから」 母親の喋り方から、訪れたのはサジだ。 「どうでもいいっすよ……」 �爐笋辰僂修Δ性� 「人事だねー」 「シドに会わせてください」 「今リビングにいるの。部屋に移動させるから、ちょっとここで待ってて」 もう誰も来てほしくない、そう思っていたものの、サジが訪れたことでその気持ちは一八〇度ひっくり返りそうだった。 母親に押されながら部屋へ向かっている時、僕は入学式の答辞で誰かが読み上げた�犂�待と不安�瓩箸いΦせ�ちそのものになっていた。──数分後に僕の前に姿を現すサジ。そのサジがどういう接し方をしてくるのか?寂しい、悲しいという感情がないあの男のことだ、以前と全く変わりなく貶すように接してくるだろう。でも、もしかしたらその逆でシンジ以上に感情的で僕を見た途端、抱きついて号泣するかもしれない。そんな姿を見てしまったら、僕はサジ以上のショックを受けるだろう。想像もつかないし、想像もしたくない……。 そんな想いを巡らせていると、母親が僕の顔をじっと見つめて何かを伝えようとしていた。その目は、サジが部屋に入って、僕の姿を見て、部屋を後にする頃にはどんな状態になっているのかを知っているかのような目だった。その姿をしっかり目に焼きつけとけ、とでも言いたいような……。
扉に背を向けた状態で、僕はサジが入ってくるのを腹に力を入れる気持ちで待っていた。そして、扉が開くと何の躊躇もなく、ふらつきながら歩み寄ってくる気配を感じた。 「久ぶりだな。──何だ、思ってたより元気そうじゃねえか、目もイッてねえし。ただ、痩せたな……」 サジは背後から僕の肩を叩き、変わらぬ健康的で綺麗な顔を覗き込ませた。その様は、前日訪れた二人とは正反対だった。話し方や接し方、何ひとつ以前と変わりない。そして、ぽっかりと空いた時間の溝を埋めるかのように淡々と話し始めた。 「昨日、ケツ穴兄弟が来たんだってな。今朝リョーキが言ってたよ。んで、何か話しによると二人して全然喋んなかったらしいじゃねえか。シンジなんてここにいる時間、ほとんど泣きっぱなしだったんだろ?あいつは感情移入が激しいからな。まあ、いいか。それでな、昨日リョーキが話そうとしたけど話せなかったことを今から俺が話すからさ──」 そういうとサジは、部屋の中央にいる僕を押して、窓際のベッドの傍まで移動させた。そして、自分はベッドを背凭れにして床に座り込み、煙草に火をつけた。 「あれ、もしかして、禁煙になった!なんてことはねえよな?窓開けるから勘弁しろよ」 サジは驚くというか、恐いくらい平然としていた。自分の仲間が植物人間になってもそうしていられる精神的強さは、同じ喧嘩の強いシンジやリョーキとは比較にならないほどだった。 「えーと、まず──じゃあ、時間の流れに沿って話を進めるか。──おっとその前に俺、アヤと別れたんだ。結構前なんだけど。やっぱヤりたがりは体質に合わねえよ。まあ、そんなことどうでもいい。──とりあえず俺とあいつら、それにヒトミがシドの連絡を受けたのが五月三十日の朝だった。峠から戻って三時間経ってなかったと思う。眠さもあったけど、話の内容がデカすぎて初めはマユミさんの言ってる意味がわからなかった。でも、そのうち徐々に把握してきて、パニック状態のまま病院に向かった。ついた時にはもう三人はいてさ、その時、意識不明だって聞かされた。何だかな……急すぎて、しかも近すぎる奴だったから実感が全然なかった。ただ、呆然だった。──シノブさんとカオリさんが号泣してるのを見て、シンジがもらい泣きしやがってよ、俺が肩を抱く役に回されたんだぜ。──まあ、それからずっと面会を拒否されてて、一昨日やっと来てもいいっていう連絡が入ったってわけだ」 サジはそこで一旦話を止めて煙草を消し、それから俯きながら再び口を開いた。 「学校中、しばらくお前の話題で持ちきりだった。あることねえことが飛び交って、仲間割れして俺らの誰かがやったとか、酔っ払って車に轢かれたとか、目をつけられてたチームにボコられたとか……。そんなのばっかりだった。俺もあえてそういうこと口にしてる奴ら絡んだりしなかったけど、ひでえもんだったよ。──それより、シンジのことだけど、昨日見ただろ?あの痩せ方はどう考えても普通じゃねえ。あいつ、お前が病院に運ばれてから鬱みてえになっちまってよ、空手も勉強も何も手がついてねえ。今あいつに何言ったとしても無駄なんだ、頭に入らねえからな。リョウコのことだって、あの日から何も進展がねえ。どうにかしてやりてえけどな……。ヒロトもヒロトで何考えてるかわかんねえし。あいつの机の上には、いつも医学書らしいもんが山積みに載ってて学校にいる間は時間関係なくして読み漁ってんだ。頭のわりい分際で何やろうってんだかな。俺が聞いても、うるせえ失せろ、の一言だ。つくづくあのチビのことがわかんねえよ」 サジと同様、僕にもヒロトのやろうとしていることがわからなかった。僕の身体を治そうとしている、なんてことはまずないと思った。ヒロトにはそんな良心的な感情は存在しない。 「それにしてもよ、最近、声を出して笑うってことがまるっきりなくなったよ。あの日が嘘みてえだ。俺もあいつらもなんとなくぎこちねえし……。高原学校もさ、気づいた頃には終わってたよ。結局、俺もあいつらも行かなかった。ヒトミもリョウコもな……。おいシド──」 サジの声が詰まるように震えかかっていた。 「テメー……ゲロくせーぞ。いつまでそんなセンスのねえ芝居してんだよ、くだらねえ……。何とか言えよ。ブン殴られてえのか……?これ抜くぞ……!」 僕の鎖骨付近の動脈に挿さっている点滴管を、サジは真っ赤な顔をしながら力いっぱい握った。その顔は、こいつは本気で引き抜くつもりだ、と思わせるほどの形相だった。僕はすがるような気持ちでサジに伝えた。 �猗瓦韻茵帖帖�さっさと抜いてくれ。つれえんだよ、この生活……。俺は、この生活リズムに慣れるのなんてまっぴらごめんなんだ!だから早く抜いてくれ……頼む�� 力で震えていたサジの手が、管からゆっくり離れていった。誰よりもわかり合えていたこの男にさえ、僕の気持ちは伝わらなかった──。管を引き抜こうと力んでいた手は、胡坐をかいている足元にゆっくり移動した。そして──サジの上半身が吹雪の中にいるように、小刻みに震え出していた。 「──ねえよ。抜けねえよ、俺には……。抜けっていうお前の気持ちは何となく伝わってくるけど……俺にはできねえ。ヒトミは……あいつはどうすんだよ──!」 サジが俯いていた顔を僕に向かって上げた瞬間、その何人もの女を虜にさせたふたつの目から、ひとつ、またひとつと涙が零れた。零れ始めた涙は止めどなく流れて、それはほんの一瞬にして粒から豪雨へと変わった。それでもサジは声を上げることも嗚咽することもなく、ただ口元を震わせるだけだった。僕は自分の目を疑うと同時に、目の前で崩れたサジの涙に引きずり込まれた。 これが──�猯泙箸鰐輝錣涼豊瓩世函⊇于颪辰討�らずっと思っていたサジのスタイルが、僕自身によって崩されていった瞬間だった。ただ……綺麗な涙だった──。十四歳が流す涙とは思えないほど──。 「……あいつはさ、あの日から二十日以上、学校休んで……登校しだしてもしばらく教室に入ってこれなかったんだ……。保健室とか、生徒指導室なんかで体調を見ながら授業受けて──。教室に戻ってきても、いきなり泣き出したりして、まる一日いるってことがなかった。体調も最悪だったと思う。メシもすぐ吐いたりしてさ、そのせいで──激痩せだよ……。初めのうちは声を──」 サジは泣きながら喋り続けていたけど、僕は突然自分がどこにいるのか、どういう状態に置かれているのかが全くわからなくなってしまった。そして、無意識のうちに心の真ん中にあるヒトミと過ごした思い出が溢れるくらい詰まっている、無数の引き出しの中のひとつにゆっくりと手をかけた──。
なあ、この四月っていう暑くも寒くもねえ時季を必要だと思ったことはあ るか?
うーん……正直ないかな。何か中途半端じゃない?桜好きじゃないし だよな。俺はジメジメした梅雨と、二月のあの普通じゃねえ寒さがあれば いいかな
へー、シド梅雨好きなんだ
ああ。梅雨は夏がくることを感じさせて、二月は春を感じさせる時季だと 思う。春も夏も別に好きじゃねえけど、その季節がくる予感がする間は好 きだな
その考え──共感するよ、梅雨だけね。二月の寒さはちょっとごめんだけ ど、梅雨のジメジメ感は堪らないよね。お母さんは、洗濯物が乾かないっ てブツブツ文句言ってるけど
浴衣の替えがなくなるからか?
へへ、その心配はないみたいよ。ビックリするくらいいっぱいあるから。 ──ねえ、桜は好き?ちなみにさっきも言ったけど私は嫌い
俺は別に何とも思わねえな。ただ、散るのが少し早すぎると思うけど
好きな花とかある?
……特に好きって花はねえけど。そうだな、ヒナギクかな
ヒナギク?似合わないねー。何で?
わかんねえ、理由は特に。──多分、昔から常に玄関に活けられてたから かな。まあ、安いし、寿命が長くて匂いがいいだろ。あいつらには柄に合 わねえって言われるけど……
へー、ヒナギクねえ……。私はカスミソウ。花束の中にほんの少しだけ入 れても際立つから。それに周りの花まで綺麗に見せる。まるで私
……そろそろ、帰りますか?
ちょっと!何とか言いなさいよ。……いいもん、別に。それよりさ、ちょ っと部屋に寄っていってもいい?
汚れてるぞ
いつもでしょ
「──リョウコがいたから……あいつがいたからヒトミは何とかやってこれたんだと思う。やつれ気味だけど、今でもヒトミが何かをする時にはつきっきりだ。私もシドの所に行きたいって言ってたけど、ヒトミが落ちつくまでは傍にいなくちゃいけないからって。話じゃ、登校拒否してた時、あいつはリョウコですら会おうとしなかったらしいぜ……。わかるか?あいつにとってお前は……そのくれえ大切な存在だったんだ。──ごめんな……俺が誘わなかったら、俺があの時泊まるって言ってれば──」 僕が気づいた時、サジの言葉はそれ以上続くことはなかった。代わりに、それまで堪えていた嗚咽が言葉を遮っていた。確かにサジの言う通りかもしれない。あの日ドライブに行かずに風呂に入っていればこんなことにはならなかっただろう。行っていても、あの場面にサジがいたらオッサンは確実に袋叩きにされ御用になっていたに違いない。ただ、あの日は楽しかった。シンジにもリョウコのことを伝えることができたし。その後、二人に何の展開もないにしても……。もし断っていたら、行ってしまった以上に後悔したのではないだろうか?まさか、それはないか……。
サジが落ちつきをとり戻した頃、窓から見える空には僅かながらの星が光っていた。サジは涙に濡れた顔で口元を吊り上げた。 「俺の涙を見られるのはかなり運がいいぜ。なんせ、物心ついた頃から泣いた覚えがねえからな。──とりあえず、警察は当てにするな。お前をやった奴は俺とあいつらで何が何でも捕まえてやる。それと、ヒトミは必ず来る。だから信じて待ってろ。……じゃあな」 サジは僕の肩を二回叩いて部屋から出て行った。 僕は、サジが管を抜かずにヒトミの状況を話したことに後味の悪い思いをしていた。ヒトミの辛い状況を知った上でこれから生きていかなければいけないのか、そう考えると今まで以上に気が重くなった。抜いてくれれば、辛くてもそれを抱えたまま逝くことができたのに──。 サジが帰った後、母親がリビングへ僕を移動させている時、こんなことを言った。 「ああいう男に限って内面は結構脆いんだよ。ほとんどの奴がわかってないと思うけど、あいつの今日みたいな一面。シドは知ってたのかな?帰り際リビングに顔見せたんだけど、私はいつものサジより今日の方が好きだな。�狠豊瓩辰憧兇犬�した。──シドは、いい友達と出会ったね」 サジが来て部屋に移された時、後ろ向きで座らされた意味がこの時ようやく理解できた。母親はこの日、サジが泣き崩れることを知っていたのだ。僕はそんな母親の鋭さと、サジの流した涙を頭の中でパズルのように繋ぎ合わせながらこの日は眠りに落ちた。
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