てくてくミーハー道場

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2009年03月20日(金) 『カゴツルベ』(青山劇場)

うーん、これはぼくが悪いわー。



頭が固いぼくが悪い。





主演・安田章大ですが、決してジャニーズ演劇(なんてジャンルがあるのでしょうか?)ではなかった。

が、終始「ちがうなー」と思わずにはいられなかった。



タイトルでもうお分かりのように、基になったお話は、歌舞伎の『籠釣瓶花街酔醒』(通称「籠釣瓶」)です。

人気狂言なので、よく上演されます。観る度に(その時の役者の演技の違いにもよるのだが)新しい点を発見できる(深い意味で)複雑な話で、ぼくも大好きな演目の一つです。

その思い入れが強過ぎたのだろうか。本来なら「原作とは違う」ストーリー展開を若い(のよ、ぼくから見れば(^^ゞ)劇作家(毛利亘宏氏)が華麗に展開すれば、「血気(と才能)を感じ」て感心するべきなのだが、今回はむしろ「ものがたりの捉え方が(ぼくと)違う」点ばっかりが気になって、どうにもダメだった。



一番ダメだった点は、「分かりやすい悪役」(兵庫屋お辰&九重夫婦)が出てきてしまったところ。

二回目を言ってしまうが、ぼくは『籠釣瓶』というお話の、「誰が悪かったのか、何度観てもわからない(観るごとに、その印象が変わる)」という複雑なところが好きで、それは原作者のお手柄というよりは、何度も上演してるうちに、その時々の事情(道徳観の移り変わりとか、身も蓋もないところでは役者同士の上下関係とか)によって、演出が煮詰まってきてるせいでそうなってるのだと思う。

何度も上演してるうちに“その時の観客の感性”にジャストミートしていくってところが歌舞伎の素晴らしいところでもあり、しょうもないところでもある。この狂言も、それの典型だとぼくは思っていつも観ている。

そういう特異な演劇と比べちゃいけないのかも知れないが、今回観させてもらった『カゴツルベ』は、結局そういうところが演出家一人の解釈によって明快になりすぎていた。

毛利氏の解釈と、ぼくが『籠釣瓶』に対して魅力だと思っているところ(ここにこだわるところが、ぼくの頭の固さなんだろうと思う)が合わなかったというだけのことなのだ。



もう一つ、上記に関連するところではあるのだが、描かれている風俗の不正確さも、どうもダメだった。

そもそもぼくは、「歌舞伎」と銘打ってあっても、野田演出や渡辺演出、串田演出(いや、演出にはそんなに文句言わないの。衣裳に違和感を感じちゃうの。いつも)にも違和感を感じるぐらいのガンコ者だから、「こぉの、菊吉じじぃめ」と一蹴していただいてもいいのだが、今回も、衣裳の色合いのきつさに(主人公は絹問屋の若旦那なのに、なんでその本人が、あんな化繊みたいな安っぽい着物着てんの?!)、どうしてもなじめなかった。

それと、ものがたりの舞台がほぼ90パー吉原なのに、その舞台の基盤になっている吉原の制度や風俗が嘘だらけってのも、かなり気になった。

いや、花魁の髪型のデザインなんかは、あんくらい斬新でも面白いしかわいい(役者が若い女の子たちなので、むしろ歌舞伎みたいに「本物」のデザインにすると、全く似合わなくて逆に違和感が出る)し、ところどころミュージカルみたいな歌が入ったり(楽曲のレベルも演者の歌唱力も今イチだったが)ダンスが入ったり(こっちは逆に、ジャニーズなり(笑)、元ジェンヌなり、ミュージカル女優なりでレベル高し/笑)なんてところは、逆に良いと思った。

だが、ストーリーの土台となる「制度に関する嘘」は、お話から真実味をどんどん削いでしまうので、いただけないと思う。

一番「ありえへん」(←こら、ヤスのファンに媚びるな!)事例は、客が刀を預けないで堂々と見世に上がっちゃうところ(それどころか、座敷で刀抜いちゃってる(これは斬るためじゃなくて、刀身に自分の顔を映しているのだが)のに、大騒ぎにならないって・・・)

原作では、次郎左衛門が籠釣瓶を座敷に持ち込むときは非常に厳重に隠し持っている(まー、あの程度では普通バレるんじゃないかと思われるが、一応「隠し持つ」という気持ちが重要)

それぐらい吉原というところは、「刃物の持ち込み」に厳しかったのだ。当たり前である。そもそも岡場所ってところは、「男と女」の駆け引きに金が絡んでくる、この世で一番「ごたごた」が起こりやすい場所なのだ。つまりこの世で一番「用心」しなきゃならない場所なんだから。

こういうところでもう、ぼくはダメだと思った。

これから起こるドラマの全てが荒唐無稽になってしまうことを確信した。

観ていくと、「荒唐無稽上等」な作劇であったことがわかるのだが(次郎左衛門が、肌身離さず籠釣瓶を持ってないといけないストーリーだから。あれはライナスの毛布なので)、ぼくは元来「一番大きな嘘を人に信じさせるためには、細かいところでは絶対に嘘をついちゃいけない」という詐欺師の定法は、演劇にもそのまま当てはまると思っている(演劇は「合法的詐欺」だから←コラ)

「ここはウソでもいい」「この点に関してはウソをついてはいかん」というラインが、演出家とぼくとの間で食い違っていたのだろう(これは、他の演出家でもたまにあるので、もちろんいつでもぼくの方が正しいとかいうつもりはない)



さらに、花魁言葉の中途半端さ。

若い女優が覚えきれなかったなんて理由はさすがにないだろう。脚本家がちゃんと書けなかったのだと思う。もしくは、ちゃんと書く気がなかったか。

でも、八ツ橋の愛想尽かし(ってほどそもそも長いセリフではなかったが)は、木で鼻をくくったような花魁言葉だからこそ迫力があり、残酷さが増すのだ。

一番大事と言っても過言ではないのでありんす(←お前こそ中途半端!)

うーん、「権勢を誇った吉原一の花魁」を、「歌舞伎町No.1のキャバ嬢」ぐらいにしか思ってないのだろうか。

それこそ“格”が全然違うんだけど。

そう。「吉原」が「歌舞伎町」にしか見えなかったのも、何だかなー、と思った原因だったのだろう。

もちろんぼくも現実を知らずして当時の「吉原」をいたずらに「夢みたいにきれいだったんだろうなー」なんて思ってはいない。

だいたい、電気のなかった時代である(?)。いかな「不夜城」とはいえ、夜の吉原なんて、今の歌舞伎町どころか、国道沿いのコンビニほどの明るささえなかったであろう(ちょ、ちょっと・・・/汗)

そういうことじゃない!(自分ツッコミ)

歌舞伎町っぽいっていうのは、ぼくらが今の歌舞伎町を見て感じる「夜中までも賑やかでどこもかしこもデンキがついてるけれども、いかにもヤ○ザで淫靡な空気が充満している、物騒で下品な街」(歌舞伎町をクリーンな繁華街に盛り立てようとしている新宿区商工会の皆さん、すみません/汗)みたいにしか見えなかった、という意味である。

いかにも吉原自体、「政府公認売春街」だったのであるから淫靡なのは当然なのだが、それは内部を知るようになって初めて感じることであって、当時、夜が暗いのが当たり前だった時代に、初めて「江戸」を見たイナカの人の目に映った「吉原」の、圧倒されるような“非現実さ”が、舞台上に再現されていなかった、とぼくは言いたいのだ。

次郎左衛門が初めて八ツ橋を視た時に、「こんなキレイな人と、お金出せばSEXできるんだ・・・」なんて思ったみたいに観客に思わせちゃ(いや、そんなこと思ったのはアンタだけでしょうが)ダメなんすよ。

ただひたすら、「こんなキレイな人、初めて見た・・・」と思っただけにとどめないと。

つまり、八ツ橋の登場シーンは、「こんな美女が、こんなに着飾っていても、しょせん売春婦」と思わせるような背景(美術)では、台なしなのだ(のっけに吉原を「淫売の巣窟で〜す!」みたいに描き過ぎ)。これは『近松心中物語』ではないのだ(あっ、コラ/汗)。『カゴツルベ』なのだ。その違い、分かりますか?(←こんな説明じゃ、わかんないだろ)

きっと『近松心中物語』に出てくる梅川のような女郎と、八ツ橋のような花魁との“違い”を、毛利氏は知らなかったんじゃないだろうか。

それか確信的に「同じだろ」と思っていたか。

それっていかにも「人間は平等である」と信じて疑わない現代人の感性だよね(いや、ぼくだって基本的にはそう思ってる現代人ですよ?)

栄之丞のキャラ設定も、やたら年齢が上すぎる理由がいまいち分かんない(西岡徳(←文字化けするので常用漢字にします)馬、今回の役はいまいち「?」だった。まあ、確かに上手いんだけど)

彼が死ぬところはメロドラマみたいな浅い展開(と、ぼくは思った)ですごくしらけたのだが、場内で何人ものお嬢さんたちが洟をすすっていた。・・・そうか、原作知らないと(決めつけ)、こういうところで泣けるのか。

そうなのよね・・・どうにも、人間描写が「浅い」と感じたのよね。

次郎左衛門の狂気も、原作から感じる得体の知れない恐ろしさより、無差別大量殺人なんかに対して我々が「きっとそういうことなんだ」という理由付けをして納得してしまう「それらしい」要因──主人公のコンプレックス──に落ち着いてしまっている。

それは別に間違ってはいないのだが、それを答えにするには単純すぎやしないか、と長年生きてくると思ってしまう(まあ「コンプレックス」ってのは「複雑な」って意味なんだけど)

顔は醜いけど、心はきれいな純朴な男が、その劣等感のせいもあって、大人の世界であっさりと騙されました。金もどんどんむしり取られ、身上を失いました。失うものは何もなくなりました。そして、そんな目に遭わせた人を一人残らず殺しました。殺人は犯罪だけど、主人公の気持ち、わかるなあ。

・・・『籠釣瓶』って、そんな話じゃないっすよ!(もうそれぐらいにしといたら?)



顔は醜いけど、それに対して劣等感はあるけど、心は別に純朴ではない、いい年をした金持ちの男が、別に全財産を失うほどトチ狂いはしないで、余裕をもっていい気持ちで女郎を囲おうとしたら、吉原のしきたりを無視した女郎に、満座の中で恥をかかされました。数ヶ月後、男は女郎を始め吉原で大勢人を斬り殺しました。当の女郎はともかく、どうして、何人もの罪のない人を男は殺さなきゃならなかったのか。わからん、どうしてもわからん。

そういう、不可解な、だからこそ恐ろしい話なんで、長年上演されてきたんだとぼくは思うのだ(江戸時代らしい「因縁話」が基礎にあるから、現代人から見るとつじつまが合わないんだよね)



話がどんどん逸れていってる(つうか、まとまらなくなってる)感じだが、役者連中はみんな真面目に(真面目すぎるくらい)取り組んでいたし、目を覆うほど下手な人は、そんなにいなかった。

(ほんと言うと、八ツ橋役の藤澤恵麻には全く感心できなかった(見た目が子供っぽく、吉原一の花魁としての風格がまるでない、歌が下手、芝居はそんなに下手ではないが、感心するほど上手くもない)のだが、それはぼく自身の「八ツ橋」という役に対する期待のハードルが高過ぎたからだと思い、ガマンします)

ひたすら、脚本に感心しなかっただけですので。

「それじゃ意外性がなくてつまんない」と言われると思うが、ジャニーズの若い役者が演じるなら、佐野次郎左衛門なんかよりも、やっぱり『女殺油地獄』の与兵衛の方がぴったしだろう。意外性がなさすぎるが。

ついでに言うと、与兵衛を演じるのに一番ぴったしなジャニッ子は、ぼくの独断ですが雰囲気と演技力では錦戸亮(^^ゞ ビジュアルなら横山裕(≧∇≦)と宣言しておきます(いずれにしても、大阪弁ネイティブが大条件です)

派手な立ち回りするなら『伊勢音頭』の福岡貢なんかもいいけど、大量殺人に至る背景が、現代人には伝わりにくいかも(お家再興とかお家の重宝とか絡んでくるからね)

といった感じでした。





いや、最後の最後にあれだけど、ヤスはずいぶんしっかり演じてましたよ。

風ぽん(風間俊介)とのコンビも、しっくりしてたし。

風ぽんは例によって熱演系ではあったけど、芝居のうるささはなく、きれいな脇役ぶりでありました。

芝居全体の中ではさほど主筋ではなかったのだけど、この二人が上方目指して旅するシーンを、二人だけのジャニーズダンス(笑)で運んでいくところがあって、ここが正直全編中一番面白かった。

役者の持っている特性を怖じずに見せる、といった点では毛利氏はいい演出家だと思う。

まさえちゃん(舞風りら)は、一幕と二幕では全然違う人に見えた。これは彼女のせいではなく、ぼくが一幕では舞風りらだと判らずに観ていたせいだ。視力がひじょーに落ちているのもあるが、声で分からなかったのは何故なんだろうなあ?

二幕の冒頭ですあま(変な名前だ。おそらく「八ツ橋」をお菓子の名前だと思って、同じようにお菓子の名前をつけたんだろう。「桃山」もそうだ)が位が上がって花魁として踊るシーンがあるのだが、ここの扇さばきの上手さはさすがだった。





以上、例によって前後不覚(←意味不明)な感想でした。


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