てくてくミーハー道場

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2009年03月21日(土) 『ロミオとジュリエット』(東京グローブ座)

いやはや、先入観はホントにいかん。と思い知った連休中日。

これがあるから劇場通いはやめらんねー\(^^)/

嬉しい誤算(?)でした。





正直、わかるでしょ? ほとんど期待してなかったです(なのに、何故行った? と問われると、「内緒の事情です」と言うほかない)

ジャニ舞台、という先入観(昨日も言ったな、同じこと)

それだけではなく、脚本が、テレビドラマの人(彼女が書いたドラマは正直あんまり視たことがない。映画版の『電車男』ぐらい)という先入観。こっちの方が大きかったな。

ところが、それが逆に全てをいい方に変えてしまった。

そうか。そういう手があったか。心から感心しました。

歌舞伎とシェイクスピアに対するぼく自身のこだわりの違いもあるのかもしれないが、あれだけ大幅に原作と違うセリフを繰り出されても、その大胆さに舌を巻くことはあっても、「違う!」と苦虫を噛み潰す気にはなれなかった。

その理由の第一は、彼女(金子ありさ)が、主人公たちをいかにもイマドキのチャラい若者風に描いていても、原作の芯を全く失うことなく、描いていた点にある。

それどころか、何度かこの作品をいろんなアレンジ(正統派の演出で観たことは、逆に少ない。ヒガシ版ぐらいか)で観た中で、いつも最後にちょっとだけひっかかる点──なんでロミオは、“あそこ”でもうちょっと落ち着かないのか(\(−−;)コラ)──が、今回は「あーなるほど」とキレイにクリアになっていた点にも嬉しいショックを受けた。

ロミオって、もともとそういうおっちょこちょいなのである。(えぇ〜っ?!)

最初の方で、ロミオが街の女の子たちとチャラチャラしてるシーンを作ったことにより(もちろん原作にはそんな場面はない)、ロミオがどういう性格か、注意力はある方なのか(笑)をきちんと見せていた。



シェイクスピアは、歴史的にも世界的にも「劇聖」と称される戯作者だが、意外と細かいところがテキトーな作品も少なくない。ご都合主義なところもたくさんある。

こっち(観客)は、そんなところも「昔の偉い作家が書いたお芝居なんだから、変だと思っても言わないでおこう」という殊勝な考えで観ることが多い(出た。ておどる的決めつけ)

この『ロミオとジュリエット』も、原文には変なところやくどいところがいっぱいあって、時間的な流れもおかしいなってところも随所にある。

古今東西の才能ある演出家たちは、そういうところと闘っていくつかの名上演を果たしてきた。

逆に、その矛盾点にそのまま負けてしまって「シェイクスピアって、わけわかんないし退屈」という汚名を、かの劇聖に着せてきた力不足の人たちもいる。

そういうこともあるので、ぼくはシェイクスピア作品を観る時に、変なところやムリのあるところは省いたり入れ替えたりしてあっても、それが原作の精神をレイプしてるのでなければ、全然問題ないと思っている。

今回も、主要な登場人物以外(モンタギュー一派、キャピュレット一派の荒くれ者(?)たちがほとんどいなくて、モンタギュー側はロミオとマーキューシオ、ベンヴォーリオだけ。キャピュレット側はなんとティボルトだけ)をほとんど省いてあって、そういうのが必要な場面は、何役も演じるコロスの皆さん(これがみんな上手い! 祝着!)にやらせたりしていたところは面白いと思った(これは演出の吉川徹先生のお力かもしれない)

それどころか、ロミオの母親が彼を産んですぐ死んだ設定にしたり、ティボルトが、ジュリエットを好きな設定にしたりと、ある意味むちゃくちゃな「独自の解釈」もあったのだが、その一つ一つがトンデモ設定ではなく、その背景が本人たちの行動にちゃんと意味をなすように作り替えられていたことにも感心した。

いや、ティボルトのくだりは、正直ちょっと疑問だったのだが、まあいいでしょう。腹が立つほどでもなかったし。

※後日わかったことなのだが、金子氏は下の方に書いてあるフランス版ミュージカルをご存じだったようで、そのミュージカルの中でティボルトがジュリエットを好きだっていう設定をパ(略)らしいなどうも。※

ティボルト(ハセジュン、ちょっと見ないうちにびっくりするほど美形になっていた!・・・ジャニーズに入りたては確かに美少年だったが、ちょっと育ったら十人並みになってた気がしたのだが・・・。斗真といい、侮れんなージャニーズ←?)が、ロミオと争って死ぬとき、わざと自分から刺されたのは、この「ジュリエットのことが好きだった」という設定とリンクしてくるのだが、この点はぼくにはちょっと余計に思えた。

ただ、このシーンの殺陣の作り方が面白かったのと、演じている役者の持ってる雰囲気もあってか、正統『ロミオとジュリエット』というよりも、『ウエストサイドストーリー』のトニーとベルナルドのシーンが再現されているような、ある種面白い効果を生んだと思う。

とくればリフなのだが(笑)、そのマーキューシオ(翔央は毎週テレビで顔を見てるので、特に「育ったなあ」とかいう感慨はないのだが、実際に見ると、なんと顔がでかいこと!(あっ・・・言った/汗)舞台人に向いてて、いいと思うよ/笑)の生い立ちも複雑に作り変えられていて、金子ありさという人の作劇の姿勢というものを面白く感じた。

本当はマーキューシオが「モンタギューも、キャピュレットも、滅んでしまえ! 畜生!」と両家を罵倒しながら死ぬのだが、それがティボルトに置き換えられていたのも、この辺と矛盾しないようになっている。

登場人物を単なる「ストーリーを動かす駒」としてではなく、一人ひとりにバックボーンを持たせる細やかさが、この人の基本姿勢なのかも知れない。今までほとんど視ていなかったが、今後ちょっと注目したい作家である。

ただ、「ちょっとやり過ぎではないか?」と思ったところも、ないではない。

ロミオがマンチュアに追放されてからの生活は、原作には特に描かれていない(たいして重要ではないとシェイクスピアは判断したから。ぼくもそう思う)のだが、今回金子氏は、ロミオが貴族を捨てて貧乏暮らしをしてるという設定にした。

ロミオは運送屋のアルバイトをして(ホントだよ!)せっせと金を稼いでいるのである。

これには驚いた。現代人(ことに、上田のファンであろう若い娘さんたち)のリアル思考に訴えるためだったのかもしれない。

この辺は要ったのか? 正直疑問に思う。

舞台が突然、14世紀のイタリアから、21世紀の日本になっちゃったからである。

要ったのかなあ? ここだけがどうも引っかかった。

現代人にも分かる、等身大の若者として描きたかったという気持ちは汲めるんだけど・・・。


ついでに(?)これは演出に対するちょっとした疑問だが、ラストシーンであの有名な映画のテーマ曲(ニーノ・ロータのやつ)を流したのは、ヒキョーではないだろうか。あれでは、ぼくなんかの世代は条件反射の犬のごとく泣いてしまうのだから(T_T)←いやなの?

だって、できるなら、脚本の力で泣かせてほしかったのだもん。



さて、キャピュレット側に話が移るが(ロミオについての詳細は、主役なのでまた最後に/笑)、まず、乳母をすごく若くして「ばあや」というより「姐や」にしていた。これには深い理由付けは感じなかったのだが、なにしろ演じたのが超絶実力派の入江加奈子なので(ソロ唄がなかったのが、残念無念)、出てくるたびにうっしっしと喜びながら観ました。

それとジュリエットの母親、初めてお顔を見た気がしたのだが、パンフレットで名前を確認してびっくり!

ミュージカル界ではその名を知らぬものはない岡崎亮子先生であった!(現役の女優さんとは知らず、失礼致しました)

そしてジュリエットの父親(梅津義孝さん。時々拝見する)、彼が娘ジュリエットと大公の甥であるパリスとの縁談に複雑な心境であったことを今回は見せたのが、これまた面白かった。なんだかやっぱり金子ありさという人は、連ドラの脚本家らしいところが多分に見える。

実際には、ロミジュリにおいてジュリエットの親父の苦悩なんていらんのじゃないかな(コラ)とか思ってしまうわけだが、今回、この親父が「お前が男の子(跡取り)じゃなくても、オレは喜んだ」「お前を幸せにする(偉い人と結婚させる)ことだけが、オレの何よりの願いなんだ」「そのために、どんないけ好かない連中とも本心を隠して付き合ってきたんだ」と胸中を吐露するところで、唯一、ぼくは泣いてしまった。

そういう父親の「愛」が娘を殺してしまうことにも気づかない愚かさに、泣けた。

親って、本当に、ありがたく、そのありがたさが時に最高の重圧になる。

人間て、せつないな(T△T)←泣くとこ、普通の人と違いませんかね?

その父親の言葉を聞いて、ジュリエットはパリスとの結婚を承諾すると、嘘の約束をする(ロレンスのところに行くためでもあるのだが)

ジュリエットが、単に一途にロミオ、ロミオと言ってるだけの単細胞な娘ではなく、親を安心させるための嘘までを、たった一人の男を愛したために覚えてしまった──この脚本の深さに、ぼくは心底感動したのです。

ストーリの順番を無視してしまうが、このジュリエットの人物造形も、なかなか良い。

通常ロミジュリを観ててジュリエットに対して抱く感想は、「早熟だ」(なにしろ13歳だもんな。ただし、14世紀の13歳ですからな。その点は考慮しないと)「なんか、性格がよく分からない」(あんまり自分というものがない感じ。行動は時に大胆だが)て感じなのだが、今回のジュリエットは、最初はすごく引っ込み思案の女の子なんだけど、ロミオに恋した以降、どんどん強い女の子に変わっていく感じがすごく上手く描かれている。

原作では「この物語の発端ですから、細かいところは気にせず納得してください」的な(こらこら)、ロミオと初対面でいきなり恋しちゃうシーンも、自分に自信の持てないジュリエットが、ロミオのどんなところに惹かれて短時間のうちに恋してしまうか、また、ロミオが、それまでロザラインロザライン言ってたのに(苦笑)、ジュリエットに会って、なんでいきなり好きになっちゃうのかも、ちゃんと描けていた。

この辺、女性脚本家のなせる技なのかもしれない。



さて皆さんお待ちかね(笑)ロミオでございますが、さっきもちょこっと書いたように、まーそもそもロミオは「王子様」でも「貴公子」でもない。

ぼくもまだシェイクスピアをちゃんと読んだり観たりする前は、大昔のヨーロッパの貴族の息子さんなので、品行方正な男子をイメージしていたのだが、初めてロミジュリを観た時(改変モノではなくて、ほぼちゃんとしたやつは、『子供のためのシェイクスピア』だったかも。場所もまさにこの東京グローブ座で、演出は花組芝居の加納幸和さんだった)に、意外とアクティブな悪ガキであることを知った。

今回は、それにプラス、女好きでチャラい性格(そして、マーキューシオほど乱暴者ではない)

パンフレットを読むと、これは金子ありさが上田竜也のソロコンを観た時に抱いたイメージが元になってるそうだ(笑)

「チャラい」ってのはかつん全員のパブリックイメージではあるが(こっ、こら)、特に上田は「ギャル顔」なのも、そう思われる要因の一つだろう。

テレビで、常に斜に構えててしゃべらない(というより、かつんではしゃべる担当の人が別にいるからしゃべれないだけなのだが)せいで、「気取ってる」ととられる場合もある。

ホストっぽい、とか(笑)片ピアスだし(−−;)

その、いけ好かないイメージを(こ、こらこら!)どうやって払拭させ、観客に「主役の人」としてアピールするか、スタッフはその点に大変心を砕いたのではないか。

・・・と書いてきて、ふと思ったのだが、待てよ。今回観に来るのはほとんど上田のファンなんじゃないか? ぼくみたいに(略)なのは少数派のはず。

じゃあ別に、イメージ戦略なんか、必要じゃないんじゃん(身も蓋もないことを、言わないでください!)

ともあれ、上田のロミオは、まず、チャラいには違いないのだが、何より「ひねくれていない」のが一番の美点だった。

これはロミオの人物造形であるとともに、上田本人が(これは、ジュリエットの小林涼子にも言える)演技者として変にスレてなくて、自分の力で役をモノにしてやろうなんておかしな力みがなく、演出家に「こういうのがロミオなんだよ」「これがジュリエットだよ」と教えられたとおりに、素直に演じていた(ように見えた)からだと思う。

ほんに、実に、この一点だけで、ぼくは嬉しかった。

褒めてオトすいつものパターンで申し訳ないが、正直主役の二人(+マーキューシオ)には、演技の実力なんかない。学芸会に毛の生えたような芝居っぷりである(脚本家が、セリフを彼らの等身大の現代語に翻案してくれたからこそ、ちゃんとしゃべれていたのは明白である。いや、それでも時々ロレたり、がなりすぎて聴き取れないところさえあった。それでもぼくは満足した)

なのに、今回の作品、本当に感動させてもらった。

何故か。

主演の二人が、まさに「ピュア」だったからである。

「ピュア」なんて単語、こうやって書くのも恥ずかしいのだが、今回主演した二人の何が魅力だったと言って、この「ピュアさ」ほど感動したものはなかった。

願わくば、今回の成果に慢心せず、今後演劇に携わっていくつもりがあるのなら、この素直さを忘れず(そうしたって、知らんうちにちょっとずつ失っていってしまうもの──それが無垢というものだから)に芸道に邁進していただきたい。

かように願うものであります。(終わり?)





そんなわけで、予想してたはるか上行く出来の『ロミオとジュリエット』であり、これはひょっとしたら伝説の舞台になるのではないか(おそらくだが、同じメンバーで再演したとしても、今回と同じ感動は味わえない気がする。さっきも書いたとおり、主役二人の「ピュアさ」がその鍵を握っているからである)とも思った。

(ぼくにとっての正統派ロミジュリ決定版“藤原竜也×鈴木杏”バージョンとは、まず脚本そのものが違うので、今回比べることはいたしませんでした)

いやはや、ほんと先入観は抱くものではない。(最初に戻る/嘘)



ところで、『ロミオとジュリエット』といえば、最近(つっても初演は2001年なのだが)フランスでミュージカル化された作品があって、ぼくはむろんちゃんと観たことはないんですが、その中の何曲かを、去年大阪の梅田芸術劇場で聴かせてもらいました。

舞踏会シーンの曲のかっこよさにびっくり仰天した覚えがあります。

日本でもやってくんないかな(来日公演でもいいのだが)と思ってるんだけど、来ませんねえ・・・。不況だし、しょうがないか(?)

この中の曲(確か、ルカス・ペルマンが当日唄ったと思う)を、フィギュアスケート女子のエレーナ・ソコロワが2005-2006年と2006-2007年のシーズンで使っていたそうなんだけど、実は覚えてないっす(^^ゞ

フィギュアの選手はミュージカルの曲を使うことが多い(ドラマチックが曲が多いからね)から、スポーツ観戦が全然好きじゃないぼくも、フィギュアだけはよく観てるんですが(新体操と並んで、ダンス観賞みたいなノリ)

まあいいや。要するに、ロミジュリは(シェイクスピアは、かな)人気あるなあってことです(?)

以上、蛇足な豆知識でした。


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