てくてくミーハー道場

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2009年03月22日(日) 『マルグリット』(日生劇場)

歌舞伎、歌舞伎、歌舞伎、ジャニ、ジャニときて、てくてく連チャン6Daysの締めは、輸入ミュージカル(ホリプロ制作)となりました。



主演は、一昨年のクリスマスイブに宝塚を卒業した(当時の)マイ・モースト・フェイバリット・ジェンヌ、春野寿美礼嬢(いや、もう“嬢”というお歳でも・・・っと、ごほっ、ごほごほ・・・☆\(−−;)こりゃっ!)

退団後初の「女優」のお仕事になりますが、去年、青山劇場のコンサートで半“女”半“男”の歌声は聴かせてもらってます。

だがしかし今回の役どころは、オペラで言うところの『椿姫』──かといってソプラノなのかどうか、とかの事前知識は相変わらず全く仕入れずに、無心で臨みました。

無心で観ての感想です。



うん、男役トップさんの退団後第一作って、みんなこんなものだ(←毒?!)

あのね、やはり「歌」というものをナメちゃいけない(いや、誰もナメてないと思う)

まだ女性としての肉体が成熟する前に(なぜいやらしい書き方をする?)皆さん歌劇団に入団されて、男役の方は、それまでの少女らしい細い澄んだ声を(そうでない人もいるが←いつものことながら一言余計です!)低く、太く、つぶしてつぶして幾星霜。十何年もそういう訓練をして、テノールの音域で唄い続けた挙げ句にお退めになるわけ。

それが、一年かそこらで、ソプラノになれるわけがない。



そりゃあおさは“歌の人”であった。

誰でも(?)知っている。

だが、「歌のトップさん」というのは、退団後第一作では意外とみなさん「見えない小石につまづく」というのも侮れない事実なのである。

主に、あれ? 高音が今イチ? という小石である。

でもご安心召され(何様?)

男役だった期間の半分も経てば(もちろん、その間人並み以上にボイトレをすればこその話だが)、もともと唄える人なんですもの、驚異の歌唱力が復活するものです。

そういう上級生たちがたくさん実在しますので、何の心配もしていません。

(娘役だった人の場合は、そもそもずっと高い声で唄ってきてるので、男役よりもずっとスムーズに現世(?)に帰ってこられる)



ただ、客席を占めるほとんどのお客さんが「おささんファン」であろうとも、高いお金をとる一般興行に変わりはないのだから、「トップさんのリハビリ公演」であっては困る訳だ(なんだか、すごい毒ですね今日は)(_ _ )女優・春野さんの今後に期待するが故なんですよ(本心)

残りの「作品を観にきた人」「他の出演者がお目当ての人」からすると、「主役の女優さん、ずいぶんほっそい裏声ですこと」という手厳しい感想を抱いたのではないか、と恐縮せざるを得ない出来ではあった。

実際、寡聞にして知らなかったが、主役のマルグリットのキーは、思っていたよりも相当高かった。

ファルセットを使えば充分に出るキーではあったのだが、「出ている」だけで、その声に酔えるほどの余裕の歌唱ではなかった。

ミスキャストだったのかもしれない。これほどキーの高い役じゃなくても、妙齢の(なーんか、棘があるなあ・・・)女性が主人公のミュージカルはたくさんあるしね。

でも、本邦初演作で主演ができたのは、やはり「元宝塚のトップさん」ならではの栄誉なのだから、一介のファンに過ぎないぼくが文句を言ってはいけないのもわかってる。

最初に高いハードルを越える機会があったことも、今後のおさにとってはむしろ良いことなのだと思うし。




と、おさファンの繰り言はここまで。


実は、繰り言を言いたくなるのも当然であって、作品自体(事前の煽り文句の割りには)あんまり傑作と言いがたいと思った。

劇中のマルグリットの「持ち歌」である「チャイナ・ドール」は美しい曲だが、ミシェル・ルグランと言えば思い出す大名作『シェルブールの雨傘』ほどの盛り上がりはない。他の曲も、一回しか観ないぼくのような観客にとっては、はなはだ印象の弱い曲ばかりである(ただし、『レ・ミゼラブル』や『エリザベート』とかの大傑作に比べてのことなので、話半分で聞いてください)

舞台面は、時代背景的に仕方ないのだが、常に暗いし(でも、ぼくは暗いのはむしろ好きなんですがね)

しかしそれよりも、何つっても一番感じたのは「内容、浅くない?」ってことだった。

作詞と脚本が、あの『レ・ミゼ』や『ミス・サイゴン』のコンビだというのに(でもまあ、『サイゴン』は、脚本自体はそんなに名作じゃない、という評価が多いが)、何だこの薄っぺらさは。

原作『椿姫』なんでしょ?(ただ『椿姫』も、オペラが有名だけど、話の内容自体は・・・どうだろ? ぼくはオペラは観たことないし、小説もちゃんと読んでないけど、国内制作のストレートプレイは観たことがある。主演は大地真央様でありました(*´-`) )

いえ、ストーリーはなかなかドラマチックではあったのだが、登場人物の行動とそれに至る心理が、なんか「適当っぽい」というと言い過ぎだが、出てくる人がみんな、考えが浅くて萎えた。

元人気歌手とはいえ、四十のおばさん(こ、こらっ)に、いくら昔ぽーっとなってたからと言って、今さら付き合いたいと思う若僧も、ちょいとスゴイと思うし(そのおばさんの、人間として、大人としての魅力、「さすがだ」とひれ伏すほどの品格を示すエピソードがちょっとでもあれば納得できるのに、出会ったその日に、爆撃の恐怖に乗じてキスしたくらいで、なんであんなのぼせ上がるんだ? 「吊り橋効果」ってやつ?)

そんな、大して思慮深くもなさそうなビンボくさい若僧にのめり込んでいくおばさんもおばさんで(「私の素顔の部分を、唯一まっすぐ見てくれるヒト」なんていう、中年女が若い男によく抱きがちな幻想に取り憑かれたのでしょうか)

二人で「危険な不倫(マルグリットはオットーの「奥さん」ではないんだが)ゲーム」にハマってやめられないだけにしか見えない、スキだらけの密会(見張られてるのが明らかな男の部屋に、ラブレターなんか残すな!)をだらだらと続け、案の定ばれて。

確か『椿姫』では二人は駆け落ちするのだが、女はのめのめ家に戻ってあっさり軟禁されて。嘘の三行半に若僧は怒りまくるだけで、女を命がけで連れ戻しにも行かない(この行動力のなさ)

『椿姫』でも、手紙で嘘のあいそづかしをするんだっけか。現代人の感覚なのか、「手紙なんて、いくらだって嘘書けるじゃん。何で信じるの?」と思っちゃうんだよな。普通そういう手紙もらったら、血相変えて会いに行かない?

ダンナ(いや、オットではない、オットー\(−−;)今そういうダジャレは要らん!)はいかにも類型的なドイツ人で、堅くて、面白みがなくて、いかにも享楽的な情婦にナメられてる。でも、金も権力もあるから、それで女をつなぎ止めようとしていて、明らかにそれは逆効果なのに。



批判の的が役者に飛んでしまうが、オットー役の寺脇“相棒”康文さん(←何だその余計なミドルネームは)、なぜ「ミュージカル」なんかに出ようと思ったの? 地球ゴージャスとはシマが違うんですぜ?(こらっ)

歌えないのは覚悟してたし、ずっこけるほど酷い歌唱ではなかったのだけど、オットーって、ナンバーはそんなに多くない代わりに、彼が歌う曲は、そのシーンシーンですごい重要な意味を持つ曲ばかり。普通に「歌える」レベルを超えて「セリフのように歌う」ことのできるレベルの俳優さんじゃないと、この役はやっちゃいけないって思った。

ビジュアル的には、ハンサムだし長身だし軍服も似合ってかっこいいのに、唸ってるみたいなソロを聴かせられて・・・こっちが唸りたくなりました(×_×)

地芝居は大丈夫かと思ったんだけど、ミュージカルではよくある「さんざん怒ったかと思ったら、急に態度を変えていやらしく女を責める」みたいなシーンがオットーにはございまして、その振り切れっぷりが今ひとつ。

こういう役は山路和弘がめっさ上手いのだ、彼にやらせろ! と悔しかったのだが、彼には身長的な難点が(−−;)また都合の悪いことは隠す〜

芝居、歌、身長全てを考慮したら、鈴木綜馬さんが最適と言うておどるデータが出ましたが、叶わないものだろうか・・・。東宝ミュージカルじゃないから、ダメ?(−−;)こらっまた



閑話休題。

おや、こうやって悪口をたらたら書いてきて気づいたのだが、マルグリットの周囲のフランス人たち(代表・ジョルジュ)が、なんであんなに狡い人たちに描かれているのか(オットーが死んで貧乏になったマルグリットを、ジョルジュがあまりにもストレートに罵倒するので、ぼくは鼻白んでしまった。日本的感性なら、あのシーンではジョルジュはあくまでも慇懃無礼にマルグリットを追い出すところだと思う。あんな風に「君の時代は終わったんだよ! メスブタさん!」みたいなことは言わない)、制作者側の真意が見えてきた気がする。

彼らは、マルグリットが羽振りのいい時は、腹ん中では「敵方のドイツ人に取り入って、甘い汁吸ってる売国奴、淫売女め」と思いつつ、自分たちはその淫売にたかる寄生虫。でも、売国奴なんだから、たかったっていいよね。と思ってたんだな。

でも、彼女が浮ついた不倫ゲームの果てに落ちぶれると(本人がどう思ってたかは別として、実はマルグリットは、その敵国ドイツ人将校をレジスタンスに暗殺させる手引きをした、ある意味フランスの英雄なんだがなー)、もう「吸える汁」がなくなったからとして、手のひらを返す。

そして、過去の罪(ドイツ人の愛人だった)を糾弾、リンチする。

そういう、当時(パリ解放後)の、狡猾で日和見主義の、いささか感心しない方面のフランス人たちの姿を、描きたかったのではないだろうか(占領されていた可哀相なフランス側にも、ズルいやつはいたんだ、っていう主張。作詞・脚本コンビは二人ともフランス人なのに、なんか偉いかも←単純思考)

単に、マルグリットを悲劇のヒロインにするために、最後に彼女を死なせる小道具としてのリンチではなく。

さすがだ。(いつものように、勝手に納得)



前日に、純粋に「愛」に突っ走る瑞々しい十代カップルの芝居を観てきたせいか(笑)、四十女と若僧の一時の気の迷い(待て)に、ついつい拒否反応を示してしまった未熟なわたくしですが(な〜んか、ひねくれてるな)、そう考えれば、マルグリットの「気の迷い」も、回り回って祖国のためになったってことか?

ただ、今だからこうやって脚本を深読みして様々にぶっとんだ解釈をしていられるので、観ている最中は、やはり「登場人物のみんなぁ。もう少し他人を思いやったり、世の中のことを考えたりしようよ・・・」と萎えてしょうがなかった。

ということは、言いたくはないが、やはり役者の表現力が、ちいと不足していたのかもしれない。

おさや寺脇さんに、もっと役を深く表現できるよう頑張ってほしかったのもあるが、他の人たちだってそうだ。



アルマン役の田代万里生くん。うたぢからは出演者の中で一番と言っていいと思う。

ただ、やはりオペラ(本業)とミュージカルは、親と子のような関係ではあるが、だからこそ違う点もいっぱいあるわけで。ミュージカル役者が「セリフを歌う」ようには歌えていなかった(でも、素質は満点だから、今後もミュージカルに出るとしたら、すごい楽しみ)

あと、ピアノが上手いのにはびっくりだった。

お父さんがテノール歌手でお母さんがピアノの先生という、いわゆるサラブレッドなのだった。

それにしてもアルマン、ソロ曲の多さはマルグリット以上なので、実はこっちが主役なんじゃないかと。

だからこそ、ソロ曲は「上手に歌う」こと以上に「セリフのように歌う」ことが大事だよ、と、遠くからエールを送るのだった。

アルマン自身が、あんまりよく脚本に描かれていないせいなのか、田代くんが「描かれている以上の人物造形」ができなかったのか、今イチ感情移入できない“主役”ではあった。

『レミゼ』のマリウスなんかも、あのジェットコースター・ミュージカル(笑)では、いささか人間性の浅いトンデモキャラクターなんだが、曲の良さと歴代のマリウスさんたちの積み重ねのおかげで、とっても魅力的な役になっているのだから、アルマンも今後どんどん「いい役」になるのかとは思うんだけどね。



逆に、よく描かれていて「役得」と言っては言い過ぎかも知れないが、アルマンの姉・アネットとその恋人・ルシアン、そしてバンド仲間のピエロが秀逸。

アネット(飯野めぐみ)とルシアン(tekkan)がパーティの帰り道で歌う曲がすごくキレイなハモりで、二人とも上手いし、是非もう一度聴きたいと思った。そして、ピエロは歌の聴かせどころはないのだが、芝居しがいのある役で、これまた山崎裕太が上手かった。この三人は、役どころも良かったが、役者も良かったです。



あーなんだか、またもや無駄に長くなってしまったので、この辺で終わりますが。

何度か観たら、さらに色々発見があって、浅いと思った脚本にも、見抜けなかった深さがあるのかもしれないが、今回の上演中はもう行けそうもない。

でも、もし再演があったら、また行くと思う(同じキャストであっても、別のキャストであっても)

同じキャストで再演になったら、役者の役の掘り下げも深くなるであろう(←何で偉そうなの?)

そしたらまた観たいと思うし。

ただ、(舞台はフランスじゃないが)同じ時代同じ状況(ナチス政権下)のミュージカルで、ぼくはあんまり好きじゃないが(また一言余計)『キャバレー』の方が、やはり何かと名作な気がする。

登場人物(主役とその恋人ばっかじゃなく、周囲の人たち)の描き方も深いと思うし。

音楽的にも(うわっ、それ言っちゃうか・・・)


さて、今月のてくてくはあと1本(ぼくにしては少ないな)

仕事も増えてきたので、また数々のてくてくが放置されるかもしれませんが、気長にお付き合いくだされば幸いです(保険をかけるな!)


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