| 2021年04月19日(月) |
コンボルブルスをプランターハンガーに設置してからというもの、リビングから眺めるベランダの風景が微妙に変わった。強い風が吹くたび、コンボルブルスが大きく揺れるのがちゃんと分かる。それはまるで風とお喋りしてるかのようなじゃれ合い具合で、眺めていてほっとする。 ホワイトクリスマスは今年は大きな蕾を幾つもつけてくれた。私はそれだけで嬉しい。あの、北側の10階の部屋で暮らしていた頃に挿し木して育てた一株。一度枯れかけたこの樹。生きていてくれるだけで嬉しいのに、この姿。ありがたいことだ。ビオラたちは陽光に向かって両手を広げているかのよう。だから毎日プランターの向きを変えてやらないと、大きく撓んでしまう。今朝もせっせと私は向きを変える。アメリカンブルーも元気だ。ラベンダーが花を咲かせ出して、これも去年枯れかけた子たちだからなおさら嬉しい。
自分ひとりの時間は大事ですか、と訊かれた。だからとても大事だと応えた。本当にそう。自分ひとりに帰る時間がなければ、私はきっと窒息してしまう。誰にもやさしくなれなくなってしまう。 それは家族がいる今も同じだ。これほど親しい近しいひとたちがそばにいる、それはそれで幸せな光景だろう。でもだからこそ、息詰まるし、苛々もする。 自分ひとりに戻る時間。それは、心に余白を生んでくれる。心の余白は、日常でささくれた心を宥めてくれる。再生させてくれる。だから私には、この、ひとりに戻る時間、帰る時間が必須になる。
たとえば今この時間がそうだ。午前4時。家人も息子も起きて来る前の、僅かな時間。窓の外は夜闇が横たわる。でもきっとあと半時間もしないうちに地平線の辺りが緩み始める。私はだから、じっとそれを待つ。 誰にでも朝は等しく来る、という言葉に対し、いやいつまで待っても朝が来ないひともいるんだ、という言葉を読んだ。だから声を上げていかないと、と。 それはそれですごく分かる。私にとっても終わらない夜が越え難い夜が幾つもあった。これでもかってほどあった。でも、だからこそ、それは自分で越えるしかない。 終わらない終われない、と嘆いているだけでは、本当に終わることはできないし越えることもできない。それは強者の立場の言葉だ、と揶揄されるかもしれない。それも承知の上で、私はそれでも、「誰にも等しく朝は来る」と言いたい。 朝は、当たり前に来るものなんかじゃあない。夜を越えて、越えようともがいて、足掻いて、じっと耐えて、そうしてようやく届く代物だ。だからこそ。 朝は、誰にも等しく来る。それを信じ、もがき、耐えた者に、等しく朝は、来る。
名古屋からやってきた友人と、僅かな時間だけれどお茶をする。仕事で静岡まで来たので、と彼女は言うけれど、静岡からここまでだって結構な距離だ。それでも「会いたかった」と笑う彼女は、とても眩しい笑顔をしていた。僅かな数時間を、一分も無駄にすまいと、ふたりしてあれもこれも思いついたことを次々投げ合う。そうしているうちに、午後8時はあっという間に来てしまう。名残惜しい気持ちを笑顔に変えて、私たちは笑い合って別れる。 縁とは実に不思議なものだ。私の手の中に今ある縁はすべて、ひとからひとへ、伝い伝わってやってきたものばかり。それを省みると、ただただ、ありがたいとしか言葉が浮かばない。私も、そうやって、縁というバトンを次に伝えてゆけるような人間であれたらな、と思う。 |
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